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2014.06.27
『一神教と国家』内田樹&中田考著(集英社新書)を読みました。
思想家にして武道家の内田氏とイスラーム学者である中田氏の対談本で、「イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」というサブタイトルがついています。帯には、固い表情の中田氏と歯を見せてニコリと笑う内田氏の対照的な写真が掲載され、「イスラーム学の第一人者と内田樹の一神教問答」「何が世界を動かしているのか?」と書かれています。
対照的な表情の対談者の2人
またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「『ユダヤ教、キリスト教、イスラームの神は同じ』『戒律を重んじるユダヤ教とイスラームのコミュニティは驚くほど似ている』『千年以上にわたって中東ではユダヤ教、キリスト教がイスラームのルールに則って共存してきた』。なのに、どうして近現代史において衝突が絶えないのか? 本書は、日本ではなじみが薄い一神教の基礎知識を思想家内田樹とイスラーム学者中田考がイスラームを主軸に解説。そして、イスラームと国民国家、アメリカ式のグローバリズムの間にある問題を浮き彫りにし、今後の展望を探る」
序 レヴィナシアン・ウチダ、ムスリム中田先生に出会う(内田樹)
第一章 イスラームとは何か?
第二章 一神教の風土
第三章 世俗主義が生んだ怪物
第四章 混迷の中東世界をどう読むか
第五章 カワユイ(^◇^)カリフ道
補遺 中東情勢を理解するための現代史(中田考)
跋 未だ想像もできないものへの憧憬(中田考)
序「レヴィナシアン・ウチダ、ムスリム中田先生に出会う」の冒頭に、内田氏は次のように書いています。
「イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士、『カワユイ(^◇^)金貨の伝道師』『皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道』家元・・・・・・。そんなユニークないろいろのニックネームを持つ中田考先生をわが凱風館(内田の学塾兼道場)にお迎えして、対談を行なうことになりました」
内田氏といえば、ブログの読者やツイッタ―のフォロワーが多いことで有名ですが、中田氏もその1人だったようです。それも、かなり熱心な内田氏の読者でした。内田氏は述べます。
「中田先生との『再会』はツイッター上でした。僕が政治的なことについて書くと、中田先生が『だからこそカリフ制!』というリプライでコメントをつけてくださるということが何度か繰り返されました。はて、中田先生が地上のすべての政治的矛盾を一気に解消すべく構想されているカリフ制とはいかなるものであろうか・・・・・・と興味が湧いてきました」
そんなとき、内田氏と光岡英稔氏の共著『荒天の武学』(集英社新書、2012年)の出版記念イベントが心斎橋の書店で開かれました。そこに中田先生が現れたそうで、久闊を叙して内田氏が集英社の担当編集者に中田氏を紹介すると、「中田先生との対談を本にしませんか」という魅力的なアイデアを提示してきたのだそうです。どうやら、集英社新書というのは、茂木健一郎と内田樹という二大「知」のスターの対談相手選びが編集者の大事な仕事のようですね。
こうして、両者の対談が実現したわけですが、中田氏が内田氏の合気道の道場である「凱風館」を初めて訪れたときは非常に緊張したのだそうです。それもそのはず、2人を多くの門人たちが囲んでいたからです。第一章「イスラームとは何か」には、そのときの様子が以下のように描かれています。
【内田】
今目の前にずらりと居流れおりますのが当館の門人たちであります。ハサン中田先生がおいでになるということを聞いて、これだけ集まりました。
【中田】
うん、あの、オーディエンスがいるとは(汗)。内田先生とサシでのトークかと思ってました。
【内田】
聞き手が多い方がお話しがいがあるかなーと思って。
【中田】
いや、私、現役の教師をやっていたころから講義がとてもヘタで。
【内田】
何をおっしゃいます。
【中田】
いやほんと。人前でしゃべるの苦手なのです。しかし、さいわい目が悪くてよく見えませんので、あまり気にせずしゃべらせていただくことにしましょう。
(『一神教と国家』p.26~27)
それにしても、サシでのトークかと思っていたら、多くの弟子たちに囲まれたというシチュエーションは、かの安生洋二がヒクソン・グレイシーに道場破りをかけたエピソードが思い起こされます。あのとき、ヒクソンの弟子たちは道場の床を踏み鳴らして安生を威圧しまくったそうですが、内田氏の門人たちは対談を清聴していたのでしょうか。それにしても、このシチュエーションならば、宿敵の橋下徹・大阪市長を招いても内田氏は勝てそうですね。かつて合気道道場を馬鹿にされた借りを、ここで返されてはいかが?
ところで、中田氏はイスラーム学者というだけでなく、カリフ制再建というはっきりした政治的目標を掲げて政治活動をしています。中田氏が家元を務めるという「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」ですが、内田氏が以下のように噛み砕いて説明しています。
「数百年前まで、北アフリカから東南アジアにかけての広大な地域にイスラームという1つの宗教を絆としてつながる共同体が存在しておりました。それが第一次世界大戦後、オスマントルコ帝国の解体に伴い、ヨーロッパ列強に蚕食され、小国が分立する状態になった。同時に、多くの国々が世俗化し、信仰のかたちも変容していきました。サウジアラビアやイランのように伝統をかたく守り続けている国もあり、トルコのように政教分離して、ヨーロッパ化を目ざしている国もあります。いずれにしても、かつて十何億のムスリムを結びつけていた宗教的な同胞感覚と、互助の精神は衰微してしまった。それを取り戻し、宗教を柱とした有機的な連帯をモロッコからインドネシアまでに広がるイスラーム世界に復活させよう・・・・・・というのが中田先生のカリフ制再興の構想なのであります」
2人の対談の中で、内田氏が「酒とか煙草の文化というのは限りある資源をみんなで分かち合う共生儀礼」という指摘が興味深かったです。内田氏は、以下のように述べています。
「まず隣の人についで、そしてつぎ返してもらうことでしかお酒は呑んじゃいけないよ、って。自分が欲しいものはまず他者に贈与して、他者から反対給付を受けるかたちで手に入れるというのは共同体の基本ルールだったと思うんですけどね。だから、僕は手酌するやつにはがみがみうるさいですよ。女の子には『手酌で呑むと縁遠くなるよ』って脅かすと効きますね」
さらに内田氏は、「共生儀礼」について述べています。
「昔は会社の応接室なんかへ行くと、まずお茶が出てきて、目の前に小箱と灰皿のセットがありましたね。蓋を開けると煙草がきれいに並んで入ってた。吸っても吸わなくても、まず茶と煙草が提供される。水気のものと煙系のものが供される。これはずいぶん太古的な共同体の立ち上げ儀礼の名残だったと思いますよ」
わたしは、煙草を吸いません。ですので、わが社の応接室にも煙草など置いていません。また、基本的に他人が近くで煙草を吸うのも苦手であります。やはり、副流煙というものが気になりますし。しかし、そんな軟弱なわたしを叱るように、内田氏は次のように述べます。
「『副流煙』って言葉が登場した時、僕はすごくいやな気分になったんですよ。あれは『お前の口から出た空気を俺に吸わせるな』っていうことでしょう。『お前の出す匂いを俺は嗅ぎたくない』ということでしょう。でも、本来共同体というのは、空気を共有するというものですよね。お互いの口臭や体臭を許容し合うということでしか成り立たない。禁煙ムーブメントって、極めて排他的な思想の表出だと僕は思いますね。禁煙運動を地方自治体レベルでやっている政治家って、おおかた新自由主義者ですから。わかるじゃないですか。自分のものは自分のもの、他人のものは他人のもの。誰かと資源を共有するのは絶対にいやだし、そもそも資源を分かち合うという発想がないんです」
なるほど、面白いですね。でも、それでもオイラは煙草が嫌いだなあ!(笑)
この対談、はっきり言って、内田氏ばかりがガンガン話しまくって、中田氏の口数が少ないです。もともと中田氏は内田氏の愛読者というこもあって、緊張していたのかもしれません。でも、イスラーム学者ですから、話題がイスラームのことになると饒舌になります。「ムスリムのユダヤ教、キリスト教観」では、中田氏は次のように述べています。
「あくまでイスラームから見た場合、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの関係は逆転します。イスラームこそが、アダム以来の預言者たちの宗教、オリジナルであり、キリスト教とはイエスの福音を直弟子の後に続く世代が誤って解釈することによって歪曲して創り上げた宗教、ユダヤ教とはモーセの律法をイスラエルの民たちが歪曲、改変を重ねたものをラビたちが集大成したものだということになるのです」
これに対して、内田氏が以下のような宗教観を述べています。
「どの宗教もそれぞれに『いいところ』がある。だから、そこをお互いに認め合う方が生産的じゃないかなと僕は思うんです。イスラームも、キリスト教も、ユダヤ教も、仏教も、それぞれの宗教がこの世界にもたらしてきた『よきもの』を数え上げて、それを皆で言祝ぐということでいいんじゃないですかね。楽観的に過ぎるようですけれど、僕は人間についてはできるだけそうしているんです」
この宗教に対する内田氏のスタンスは、わたしのそれと同じです。
第二章「一神教の風土」では、もっと突っ込んだ議論が展開されます。
【内田】
レヴィナス先生の極めて難解な哲学的な命題を、いささか乱暴なのを覚悟して、一言に尽くせば「成熟せよ」という命令文になると思うんです。そのことを熱く説いていた。哲学も信仰も成人にしか担うことができない。だから、何を措いても人間は身体的、時間的、歴史的な制約の中において幼児から成人へと成熟してゆかねばならない。そういう生物学的な時間に軸足を置いて構築された思想体系なのです。
【中田】
「成熟」がキーワードなのですね。
【内田】
ええ。彼の語っていることって、究極的にはまったく思弁的なものではないのです。一見極めて思弁的に思えるのは、問題があまりに生身の人間の身体性に即した話だからです。一神教とは、要するに寡婦、孤児、異邦人があなたの家の扉を叩いた時に、扉を開き、飢えた者には食べ物を与え、裸の人には着る物を与え、屋根のない人には一夜の宿を貸すことだ。これが信仰のアルファであり、オメガである。そう言うのです。
【中田】
イスラームの考え方に似ています。
(『一神教と国家』P.87~88)
また内田氏は、以下のようにも述べています。
「一神教が生まれた中近東のあの荒蕪の地においては、砂漠の彼方から、身にまとうものもなく、飢え渇いた旅人が倒れるように幕屋を訪れるということはある意味日常的な出来事だったと思うのです。寡婦、孤児、異邦人的な様態は決して例外的なものではなかった。それは『ひとごと』ではなく『わがこと』であった」
それに対して、中田氏も以下のように述べます。
「預言者ムハンマドにも、飢えて食べ物を求める者に食べ物を施す時、そこには神がいらっしゃる、という言葉があります。そういう具体的な身体感覚のようなものから、森羅万象は唯一の真の実在である神の顕現である、という高度に抽象的な存在一性論という哲学が生まれてきます」
第三章「世俗主義が生んだ怪物」では、グローバリゼーションの問題が取り上げられます。内田氏は、以下のように述べています。
「今、アメリカはイスラーム諸国に介入して、自分たちにとって好都合な政治体制を無理やりにそこに成立させようとしています。それと同時に、世界のフラット化を目ざしている。商品、資本、情報、人間がクロスボーダーで自由に行き交う開放的な市場で世界を覆い尽くそうとしている。みんなが同じ価値観を持ち、みんなが同じ言語を話し、みんなが同じ商品を欲望し、みんなが同じ食物を食べる。それがグローバリゼーションだとたぶん多くの人は思っているようですけれど、果たしてそうなのか。先ほど中田先生がおっしゃったように、まったく違う国、まったく違う風土文化で暮らしている人々が、同じモスクで同じ言葉で祈り、同胞意識でつながる。そちらの方がよほどグローバルな人間の生き方と言えるのではないか」
世界中がアメリカ的な単一の価値観に覆い尽くされるというのは、むしろ世界のローカル化である。この内田氏の発言に対して、中田氏は言います。
「領域国民国家システムが『リヴァイアサン』の偶像崇拝なら、資本主義、というかアメリカ流の拝金主義は「マモン(銭神)」崇拝です。アメリカ流のグローバリゼーションとは、実のところ、本当の意味でのボーダーレスな自由な世界を目ざすものではなく、マモンとリヴァイアサンの配偶神を拝む偶像崇拝に過ぎません」
非常に興味深く読んだのは「マネーvs金貨」の以下のくだりでした。
【中田】
世俗主義が生んだ最大の魔物、マモン(銭神)はお金だと私、思うんです。イスラームなり、ユダヤなり、カトリックなりが伝統的に持っていたグローバリズムは、宗教文化としてある普遍的な理念を擁していたと思うのですが、世俗主義に徹した今のアメリカ型のグローバリズムになんらかの理念があるのかと言ったら、ないのです。あるのは結局お金だけ。それだけなんです。今市場を暴走しているグローバルマネーと言われるもの。あれを見ていると拝金主義以外の何物でもないと思います。
【内田】
同感です。
【中田】
私、あのやり方、どうしても理解できないのですね。金金金って、そんなに金儲けしてどうするのと。そりゃ、ある程度は必要ですけれど、それ以上は持ってても仕方がないでしょう。ビル・ゲイツさんの資産は何兆円とか言われると、もう、意味わかんなくてですね。
【内田】
生身の人間が所有できる欲望の桁を超えてますからね。
【中田】
ねえ。でも、お金持ってるとなんか楽しいんでしょうね、あの人たちね、きっと。
【内田】
なんかワクワクするんでしょうか。
【中田】
充実感があるとか。で、私、その対抗馬になりうるかも知れないものとして、またイスラームの文化に期待するわけなんです。
(『一神教と国家』p.143~144)
内田氏は「お金は回すべし」というイスラームの貨幣観について述べます。
「要するに、貨幣というのは等価のものと交換する以外にはなんの使用価値もないものだ、
ただ物の交換を加速させるために作られた装置に過ぎない、ということをきっぱりと宣言しているわけですね。貨幣の本務は『ものをぐるぐる回すこと』なんだから、貨幣が滞留する理由を作るようなものはすべて排除する、と。利子をつけることによって滞留するくらいなら利子をつけない。紙幣にすることで退蔵されがちになるなら金貨を使え、と。合理的ですねえ」
さらに内田氏は、「『貯め込み』は止めなさい」というイスラームの文化について、かつての日本にも同じ考え方が存在したことを指摘します。
「昔は金を貯めることは賤しいという文化がありましたね。金は不浄なものだから、子供は金に触ってはならないというルールも僕の子供のころまではありました。お小遣いを増やしてくれとかいうことをぶつぶつ言うと『子供が金の話をするな!』と父親に一喝されたことがありますから。そういう、金の持つ『毒』に対する警戒心のようなものがあったような気がします。でも、今は金を欲しがって何が悪い、金を貯めて何が悪い、というような風潮ですね。金を貯め込むと身体に悪いという人類学的な知恵はさっぱり感じられませんね」
第五章「カワユイ(^◇^)カリフ道」では、対談が佳境に入って「今こそカリフ制」というふうに盛り上がっていくのですが、以下の対話が展開されます。
【内田】
イスラーム全体で石油資源を共有して、分かち合えばいいんですよね。それ、いい話ですね。合理的だと思います。そういう視点からも、かつてのイスラーム圏が持っていた連帯と相互扶助のシステムをもう一度賦活させたい、と。
【中田】
ええ。イスラームは一神教ですから、当然、神は宇宙にいます唯一の神であり、どこかの特定の国の神ではありません。すべてのムスリムは天と地の主であるところの1つの神による1つの法に従うことによってムスリムとして生きることができます。カリフ制を再興させることによって、その秩序ある生き方を甦らせたいわけなんです。
(『一神教と国家』p.212~213)
以上、イスラームというものの実態を理解する上において、本書はさまざまな知識や情報を与えてくれました。全体を通して、中田氏の口数が少なく、内田氏の発言時間が異様に長い印象も受けましたが、これはゲラ段階での加筆や編集のせいもあるように思いました。
最後に、わたしはかつて『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)という本を書きましたが、本書で展開される三大「一神教」の共通点や違いの話は非常になつかしかったです。