- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D

No.2380 社会・コミュニティ 『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く』 長谷川敏彦・鎌田東二著(集英社)
2025.02.13
『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く』長谷川敏彦・鎌田東二著(集英社)を読みました。「医療と宗教のパラダイムシフト」というサブタイトルがついています。共著者の長谷川氏は、大阪大学医学部医学進学課程卒業、米国で外科専門医の研修を受けています。ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程卒業。アメリカのニューエイジ・サイエンスを日本に紹介。1986年に旧厚生省に入省し「がん政策」「寝たきり老人ゼロ作戦」を立案。国立医療・病院管理研究所医療政策研究部長、国立保健医療科学院政策科学部長として「健康日本21」「医療計画」「医療安全」等に関与。日本医科大学医療管理学主任教授を経て、2014年に未来医療研究機構を設立。その後、過去40年間の日本の医療制度改革の歴史分析を英語で出版、日本医師会公衆衛生委員会にて健康の新定義(2018年)、健康格差の答申(2020年)に参与。共著者の鎌田氏は、1951年、徳島県生まれ。専門は宗教学・哲学。上智大学大学院実践宗教学研究科・グリーフケア研究所特任教授等を経て、京都大学名誉教授。天理大学客員教授。京都伝統文化の森推進協議会会長。主著に『神界のフィールドワーク』『翁童論』『南方熊楠と宮沢賢治』『悲嘆とケアの神話論』ほか。神道ソングライターとして、『この星の光に魅かれて』(2001)、『なんまいだー節』(2003)、『絶体絶命』(2022)等をリリース。石笛・横笛・法螺貝などの演奏についてはCDブック『元始音霊 縄文の響き』(2001)などがあります。
本書の帯
本書の帯には、「日本の総人口は数十年後に1億人を割り、50歳未満が40%にまで減少し、多死時代を迎える21世紀医療のコアは人工遷移とケアサイクルを支援できる医療システムになる。宗教文化に基づいた自然倫理と自然生態美意識こそが日本が果たす役割だ」「医療と宗教の両泰斗が提唱する最新未来モデル!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「今後の医療のゴールは、……ADL「日常生活動作能」とQOL「生活の質」を高めていくところにあって、新たなゴールへ向けてケアもシステムも変わっていかなくてはいけない……新たな体系をつくれるとしたら日本、および韓国、中国という東アジアの国しかありえない。……というのも、日本では介護保険・医療保険のデータベースが充実していて、そこにAIを使えば、新しいADLの方向を予測することができるからだ。――長谷川」「長谷川さんが言う。医療全体を俯瞰するための新しい医療システムへの転換を図るには、そうした意識転換を図る新たな宗教のフレームがゼタイに必要になってくる。そうすると、宗教自身もまた、地球全体の中から見通す視点を持たなければならない。そのためには、各宗教同士がそれぞれの信仰の立場を互いに認め合いながらも、その宗教がどういう成り立ちをしているかについて共通理解をつくっていく必要がある。――鎌田」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
まえがき 「異聞ミロク伝」鎌田東二
第一部
出会いは心斎橋のロック・ミュージカル
アメリカでの留学生活
ハーバード大学で当代一流の学者の授業に潜入する
ニューエイジ・サイエンスとヒッピー・ムーブメント
公衆衛生学と医療人類学
医療行政官になる
医療システムの実態
第二部
デビュー作『水神傳說』を神社に奉納
祖母からの教え
オオクニヌシ・ファミリーの系譜
「オニ」のオントロジー
第三部
医療システム改革と医療政策研究
阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件
東日本大震災とスピリチュアルケア
地域医療の革新
人口遷移とケアサイクル
多死時代における医療のあり方
能登半島地震からの警鐘
医療と宗教のパラダイムシフト
付:鎌田東二作 歌謡詩劇
「ロックンロール神話考Ⅱ 2024 末法篇」
あとがき 長谷川敏彦
第一部「出会いは心斎橋のロック・ミュージカル」では、1970年に「ロックンロール神話考」なるミュージカルを発表した鎌田氏が、当時隆盛をきわめていた全共闘について、「全共闘運動の何が問題かというと、現状の社会構造を批判して変革しようというのは、意味があることだと思うけれど、人間が変わらない限り社会は変わらない。では、人間を変えるのは何かというと、人間の根底を支えている思考、イマジネーションとアクション、行動を変えるしかない。そして、それらがどこから来るかというと、神話から来る、というのが私の思想だった。つまり、今もそうですが、思考や行動の根源は神話にあると思い込んでいるので、そこから考え直そう、アクションし直そうじゃないかというのが、われわれの『ロックンロール神話考』でした。で、まずは、日本のイザナギ、イザナミの『国生み・子生み』神話を捉え直そうというのが、『ロックンロール神話考」となった』と語っています。
また、鎌田氏は「ぼくは文学少年で小説好き、文字でしか芸術的感動は表現できないと、映画は娯楽にすぎないと見下していました。ところがATG配給のオムニバス映画『二十歳の恋』で後に若死にしたズビグニエフ・チブルスキー主演、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド篇を見て驚愕。映像でここまで人の内面を描写できるのかと。ほかにフランス篇のフランソワ・トリュフォーも良かったけど、日本の石原慎太郎は全然ダメだったなあ。それからはATGにのめり込みました。アラン・レネ、フェデリコ・フェリーニ、イングマール・ベルイマン、ロマン・ポランスキーと次々入れ込んだのです」と述懐しています。
「ハーバード大学で当代一流の学者の授業に潜入する」では、現代の日本社会の行方を憂いている長谷川氏が、「日本も今度ばかりは真面目・真剣になる必要があります。人類未踏の超少子超高齢デジタル社会に先頭を切って挑戦するわけですから。今度は日本が人類のための実験国家です。トイレに行くときも、ご飯を食べるときも刻一刻これまでの人類が経験したことのない社会を、日本国民は一人ひとり実践研究していることになるのです。研究実験国家、国民総研究者、私たちは世界にそう宣言して、世界の協力や共同研究をお願いする必要があるのではないでしょうか。ワクワクしますね。ご存命なら今、マキューン教授の意見を聞いてみたい気はします」と述べています。
「ニューエイジ・サイエンスとヒッピー・ムーブメント」では、鎌田氏は「私自身は身心変容技法の研究をずっとやってきたわけですが、医学、医療においても、先ほど出てきたトランスパーソナルな領域に薬草とかドラッグがどう関わるのかというのは、民俗医療の立場からすれば非常に重要な問題になる。たとえば、カルロス・カスタネダの『呪術師と私――ドン・ファンの教え』の原著The Teachings of Don Juanは1968年の出版で、日本では浅間山荘事件の起こった1972年に翻訳が出て、私も買ってすぐに読んだ」と述べています。
今では、ヤキ・インディアンのドン・ファンと呼ばれる呪術師は実在しなくて、その聴き取り、インタビューやフィールドワークの経験と記録はフィクションだとされていますが、当時は、「参与観察」とか、「潜入調査」とかが大流行でもありました。鎌田氏は、「その先駆けで、多大な刺激と影響を世界中の若手人類学者や宗教学者、社会学者や芸術家に与えたと思います。中沢新一や島田裕巳などもその一人だった。そして、アマゾンやペルーの奥地に潜入して、アヤワスカなどの薬草を摂取して、身心変容や意識変容の体験をする若者も少なからずいて、今に至るも影響力を残していますね。ともあれ、そこで再注目され始めた伝統的な医療にもいろいろなやり方があり、そこに瞑想みたいなものが絡まってくると宗教儀礼も関わってくる」と述べています。
1950年代西海岸で、少数だがもっとも敏感な詩人たちによって、「ビートニク」という西洋文明に対する対抗文化運動が始まりました。それは東海岸のジャズ音楽や前衛芸術運動とも呼応し、西海岸に移動しました。リーダーの大半はのちに禅かチベット密教の仏教徒になっています。1960年代ベビーブーマーが思春期に達すると、今度は大衆としての対抗文化、「ヒッピー運動」がカリフォルニアの大学生を中心に、サンフランシスコの下宿先ヘイト・アシュベリー街で爆発。このときはロック音楽と麻薬を随伴していました。そして背景には前述の1968年革命の若者の実存的な問いがありました。そしてそれが1970年代には「ニューエイジ運動」として、医療・科学・農業・心理学・芸術・宗教・環境運動そしてビジネスと社会の各セグメントに拡大したのです。アップルのスティーブン・ジョブズCEOはその産業界での申し子でした。
鎌田氏はニューエージ・サイエンスの一大拠点であったカリフォルニアのエサレン研究所にも言及し、「エサレン研究所を、マズローの人間性心理学推進のために設立した、マイケル・マーフィー氏とはスキャンダルにまみれていた最中のサンフランシスコ禅センターのリチャード・ベイカー老師とともに自宅でお会いしました。ちなみにマーフィー氏は映画の『エデンの東』で、ジェームズ・ディーンが演じた孤独な若者キャルのモデルで、当時民間外交を進めており、ソ連邦の崩壊が近いことを何度も繰り返し語っていました。インテグラル理論で有名なケン・ウィルバー氏とは、サンフランシスコ・ベイブリッジの近くの高級住宅地、トランスパーソナル心理学者フランシス・ヴォーン氏の自宅で一緒にお会いした。写真の印象より温和な物腰で意外でした」と述べます。
「公衆衛生学と医療人類学」の冒頭は、鎌田氏の「宗教は激しく揺れ動きますが、世界情勢に大きな影響を与えると同時に、闇や負や暴力の側面もはっきりと見せつけましたね。今なおそうです」という発言で始まります。鎌田氏によれば、そもそも、公衆衛生という学問自体がメタサイエンスであり、特に定量的な生物統計――バイオ・スタティスティック――とかエピデミオロジー(疫学)などでの分析を基本に、その他にマネジメント・サイエンス、経営学なども使うわけですが、さらに社会学や人類学や心理学などのアプローチも用いる。つまり、個人を治すのではなく集団全体としての健康を高めていくというのが公衆衛生学の体系なのだといいます。鎌田氏は、「ですから、公衆衛生に関する議論の中に人類学や社会学の話もしばしば出てきた。必要であれば何でも使います」と述べます。
のちの世界救世教の岡田茂吉は、1935年から手かざし療法(浄霊)を始め、真光教や神慈秀明会などはそれを継承して今に至っています。鎌田氏は、「ぼくのフィールド研究や世界の現状を俯瞰してみると興味深いことが分かります。シャーマニズム・変性意識・催眠は、おそらく人類の誕生以来用いられてきたもっとも古くもっとも長い治療法ですが、今日もいまだに用いられていることです。これらの療法が有効かどうかの評価は大変コントラバーシャル(議論の的)です。カトリックや治療法の開発者は、有効でいくつかの奇蹟的成果があったと主張する一方、1970年代より盛んになったEBM信奉者は科学的根拠を欠くと言い、元ステージマジシャンであったジェームス・ランディは1987年の著書『信仰治療者(The Faith Healers)』の中でほとんどは自分が使っていたマジックのトリックで説明できるといっています」と述べています。
「医療行政官になる」では、以下の対話が展開されます。
鎌田 1965年にエリザベス・キューブラー゠ロスは、シカゴ大学の病院でシカゴ大学の神学校の大学院生たちとともに「死とその過程」に関するセミナーを始めて、それを後に、『死ぬ瞬間』(1969年)という本にまとめる。病いと宣告されて死にゆく人が持つ心の機序を、「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」という五つの心理的過程を経るとした。
長谷川 あれはかなりアメリカ的なプロセスだとは思いますけどね。
鎌田 でも、そういう転換が1960年代末のシカゴで起こった。そして、その頃からスピリチュアルケアの領域への転換が起こってくるので、そういう意味で、シカゴは重要な役割を負っている。
長谷川 シカゴは、政治的にもきわめて活動が活発なところでした。特に左派系とか、皮肉なことにその反対派の新自由主義とか、宗教学ではエリアーデとか。そうそう、なんといってもブルースの中心地。南部から逃げ出した黒人奴隷が鉄道で行きつく先がシカゴだったんですね。
第二部「デビュー作『水神傳說』を神社に奉納」では、自由闊達な活動を続けていた若き日の鎌田氏に対して強烈な批判が出たことが明かされます。1985年の5月頃、國學院大學及び神社本庁の部課長以上の100名前後宛てに怪文書が撒かれたそうです。その怪文書には3つのことが書かれていた。1つは、鎌田東二は共産党第五列(スパイ)である。2つめは、鎌田東二の思想と研究は國學院大學の思想とはまったく異なる、異教的・異端的なものである。そして3つめが、鎌田東二に天誅を下して國學院から追放せよ、というものでした。鎌田氏は、「私は1983年から國學院大學の非常勤講師をしていて、倫理学、日本倫理思想史、別科の倫理学の3科目を担当していたんですよ。だから、國學院大學から追放せよというのは、非常勤の仕事も全部辞めさせろという圧力でもあった」と述べています。
日本にはかなり古い時代から神仏習合的なものの考え方がベーシックにありました。そもそも日本の神様は唯一神ではなく、いろいろな神様が自在に合体したり、分離したりする。そういうものを日本人はとりあえず「神」と呼んできました。あるいはそういう神々が多種多様にあるといってもいいとして、鎌田氏は「これはおそらく縄文時代以前の旧石器時代からそう変わらないだろう。そういう神々についての『神神習合』感覚や思想がベースにあって、日本人の神話的思考やさまざまな習俗的な儀礼などをつくり上げてきた。それがやがて律令体制になって、天皇という権威と権力の機構ができるわけですが、神に対する根本の構造は変わらずに、ずっと今日まで来ている――それが私の根本認識です」と述べます。
たとえ中世において古代の律令制が崩れたとはいえ、武家政権になっても、武家そのものが令外の官として征夷大将軍という天皇から称号をもらっているから、体制そのものの構造は基本的に変わっていません。それを正統に位置づける古文書として『古事記』や『日本書紀』が8世紀初頭に出来上がっていました。鎌田氏は、「こうした構造が日本の宗教の表の部分をつくり上げてきて、戦後、國學院大學、神社本庁、あるいは神道宗教学会などがそれを支えてきたという制度的実態があった。しかし、その実態の内実を仔細に吟味すれば、私のような考え方はかなり古い時代からあることが分かります。つまり、神仏習合以前に神神習合があった、と。インドの神々であろうが朝鮮の神であろうが、いろいろな神が寄り集まって複合神をつくり、あるいはそれを解体して別のものにしたりするという、かなり自由自在な習合的な思考が出来上がっていた、と」と述べるのでした。
「オオクニヌシ・ファミリーの系譜」では、大本教の聖典である『大本神諭』の中の明治37年旧2月10日付けの「神諭」に、「元伊勢のうぶのお水で、世界の泥を澄ますのであるから、水は元伊勢、火は出雲、水と火とで世界には、きびしきことがあるよって、世界の人民の身魂の洗濯いたさんと、きびしきことがはじまるぞよ」とあることが紹介されます。つまり、元伊勢の「水晶のお水」と、出雲の「消えずの火」という昔より汚されたことのない水と火とによって、乱れ果てた世を建て替え立て直す大浄化の「ひな型」となったのが、「元伊勢の水の御用」と「出雲の火の御用」だったわけであるとして、鎌田氏は「そういう国つ神系ファミリーの系譜が私の中で課題としてあって、1975年に出雲大社と綾部の大本のみろく殿に参拝した。二つの聖地で龍笛を吹き、私はこれから出雲の神々の系譜、国つ神の神々の系譜の神道を研究していきますという誓いを立てたんです」と述べています。
鎌田氏によれば、要するに、天皇家を中心にしたファミリーと、オオクニヌシを中心にしたファミリーという二つのファミリーがあることが重要であるといいます。縄文と弥生、あるいは鎌倉と京のように、2つあることが持つ両義性、両面性、相互補完性、こういうものの中に日本文化のダイナミズムがあると指摘し、鎌田氏は「そのワン・オブ・ゼムとして神神習合や神仏習合があり、そこに民間信仰も接着剤としてくっついている。そして、それは同時に古代の医療、民間医療、ケアの文化、それら全部につながっていて、そういうものをこれから先の未来においてもどこかで活かすことができるはずだという確信があった。『翁童論』ではその辺の思想的整理と解釈をしていったわけです」と述べます。
「『オニ』のオントロジー」では、鎌田氏にとって「オニ(鬼)」とは「排除された者」だといいます。たとえば、オオクニヌシも排除されたというか引退するわけです。国譲りをして、幽世の神として引退して「神事」や「幽斎」をつかさどることになる。大本の出口なお、出口王仁三郎が顕わした「艮の金神」は鬼門の神だから鬼神でもある。それで、大本の節分祭では「鬼は外」ではなく「鬼は内」という。鎌田氏は、「天河神社の秘められた特殊神事は『鬼の宿』といって、鬼を迎える民間の大嘗祭みたいな不思議な祭りです。鬼を先祖として迎えて、宮司が祭主として務めることのできる資格認定の場にもなり、毎年行なわれる代替わりのような、とても神秘的で不思議な儀式です。天河でも節分祭のときに『鬼は外』ではなく『鬼は内』と、年男が神社の拝殿の上から声高らかに大声で唱えながら豆まきをします。しかも、宮司は役行者に従う前鬼・後鬼の前鬼の子孫だといわれ、辨財天の少し上に上がったところに鬼の岩屋がある」と述べます。
オニについてはいくつかの側面から語ることができまるとして、鎌田氏は「1つは、とにかく巨大であるということ。子どもの頃に見たのは、天井を貫くほどの巨大さで、それがこちらを見つめている。角があったかどうかははっきりしないのですが、『オニ』というしかない怖さでした。もっといえば、オニと宏大なる宇宙とが私の中で1つに結びついている。この感覚が私の『オニのオントロジー(存在論)』なんだということが最近分かりました。つまり、『オニ』は、私にとって『幽世』『幽冥界』や宇宙への導き手であり、案内者でした。民俗学的な表象としては、小松和彦さんがいうような妖怪としてのオニがありますが、私が体感したあの恐ろしさというのは、そこには収まらない」と述べます。
諸星大二郎の『暗黒神話』の世界が、鎌田氏が感じたオニに近いといいます。あの漫画は、縄文時代からの日本人の神の系譜を、スサノオ神話や諏訪神話などさまざまな神話を題材にして独自の異界ワールドを描いたものです。面白いのは、馬頭観音が暗黒ブラックホールみたいに描かれたり、その背景には宇宙があることで、鎌田氏は「あ、自分が感じていたオニは、諸星が描く『暗黒神話』の世界に非常に近いな」と思ったそうです。ヤマトタケルの生まれ変わりの主人公の武少年が諏訪や大分の八幡さんや日本の聖地霊場をめぐった末に、最後に、インドの最高神ブラフマンに選ばれた「アートマン」になるという、日本神話とインド神話と『2001年宇宙の旅』のスターチャイルドが合体したような神秘SF漫画です。この『2001年宇宙の旅』も、鎌田氏にとっては、もう1つのオニ神話であり、「暗黒神話」でした。
これは魂の領域があるかないかということとも関連するそうですが、たとえば「あの世」「天国」というものに対して、自分なりの回答や確かさ、納得がいかないと死んでも死に切れないという思いを持つ人は必ずいると指摘し、鎌田氏は「そういう本当に存在するかどうか分からないものについて、神話や宗教がこういうふうに語っているという見本、モデルを提示することが手がかりになるのは間違いない。その存在を信じて生きている人がいるし、それによって成り立つ儀式もある。カトリックの典礼にしても神道の祭りにしても、そういうことを前提にして何百年も何千年も続いている」と述べています。
この積み重ねによるリアリティは半端ではないものがあります。それは同時に、コミュニティの人たちの共有の文化でもありますから、コミュニティのインターケア、相互ケアを支えてもいます。そうした神話的思考や物語的思考を演劇的空間で展開していけば、信じる信じないのレベルではなくて、新たなセラピーになるのではないかという気がしているとして、鎌田氏は「演劇も一種のセラピーですから」と述べます。そして、「自由であることは、患者のQOLを大切にするために絶対的に必要なプロセスであり、最後まで手放せないものの1つだと思います」と述べるのでした。
第三部「阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件」では、麻原彰晃がまだオウム神仙の会をやっていた頃、彼を「精神世界フォーラム」の一員として参加してもらうかどうかという議論になって、鎌田氏は、彼らとは方向は違うのではないかと反対したそうです。そして結果的に彼は「精神世界フォーラム」にはかかわりませんでした。鎌田氏は、「私自身はその直後ぐらいに、魔の体験をしたのですが、それについてはすでにいくつかのところで書いたり公表したりしているので、詳しくは言いませんが、その7、8年後、1995年3月20日、私の「44」歳の誕生日に地下鉄サリン事件が起こった。そうしたことを振り返ってみると、符合というか暗合みたいなものが結構あったことに気がつきます。私が天河大辨財天社に最初に参拝したのは1984年4月4日、つまり『4・4・4』のゾロ目の日で、地下鉄サリン事件が起こったのは44歳の誕生日――このメッセージに対して、どうしても応えなければいけないと思った」と述べます。
「東日本大震災とスピリチュアルケア」では、「心のケア」という言葉が出てきたのは、阪神・淡路大震災のときで、京都大学の河合隼雄氏の臨床心理学の流れと神戸大学の中井久夫氏の精神医学の流れ、この2つが大きな軸になっていたと紹介されます。2003年には、厚労省が高齢社会にあっては、「重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される」仕組みが必要だということで、「地域包括ケアシステム」を提唱するなど、徐々にケアの領域が社会問題として取り上げられるようになってきました。そうした中で、「日本スピリチュアルケア学会」が設立されたのです。
2000年代に入って、死生学、終末期医療、地域包括ケアというものが一挙に表に出てきて、ケアという問題に社会全体で取り組んでいかなければならないという流れになってきました。そして、2011年の東日本大震災では、津波による多くの身元不明者が出現した。その遺体をそのまま放置しているわけにいかないので、共同埋葬なり共同葬儀をしなくてはなりません。そのときに、公共空間において共同の宗教的ケアができる宗教者が必要だということで「臨床宗教師」という新たな日本型チャプレン――チャプレンとは、主に欧米の病院などで宗教的ケアを行なう神父や牧師のこと――ができてきたのです。
「臨床宗教師」について、鎌田氏は「仏教でいえば、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、浄土真宗本願寺派、大谷派とか、それぞれ独自の教団の所属の中で、それぞれの流儀にのっとって葬礼を行なっていたのだけれども、どの宗派か分からない人たちのために、教団・宗派を超えて、共有できる普遍性を持った形の宗教的ケアとか傾聴とかスピリチュアルケアをやっていこうという形で出てきたのが臨床宗教師です。英語でinterfaith chaplaincyというのですが、キーワードは“インターフェイス”です。それぞれの宗教には独自の信念、教義があるけれど、そうした立場を超えて、お互いにインター、つまり相互浸透し理解し合っていく」と述べています。
「地域医療の革新」では、日本にはかつて約8万の神社と約7万5千のお寺があったし、いまも実際にあるという鎌田氏の指摘に対して、長谷川氏が「開業医の数、つまり一般診療所数は20年前ごろから次第に増えて2020年には10万カ所にのぼっていますが、かつてはほぼ一定で7、8万カ所でした。7万とか8万というのはマジックナンバーで、かつての日本には酒蔵がそのくらいの数あった。人口の多寡にかかわらず、人が歩いていける距離には必ず酒蔵があった。生酒だったので飲む人が直接買いに行ける範囲に造り酒屋が必要だったのです」と述べています。
それに対して、鎌田氏は「「いまコンビニの店舗数が6万弱ということですから、日本列島内の中でコミュニティを営んでいく上で、5万〜8万というのは1つの重要な数値になるわけですね」「新たな日本列島改造計画というものを考えるとすると、地方コミュニティを維持するためには、文化的・歴史的資源としての有用なリソースとして神社と寺をうまく活用しなければいけない。郵便局やコンビニというライフラインをつないでいくための重要な拠点があるけれど、それに加えて、神社やお寺を地域で公共化する形をどうつくっていくかということも大事だと思います」と述べるのでした。
「人口遷移とケアサイクル」では、1960年代のアメリアの西海岸には、ヨーロッパや東アジアから多くの人が集まっていたことが紹介されます。時代的にも、大きな文化の転換があり、必然的にみんな自らの世界観、ライフスタイルを変えて行かざるをえませんでした。長谷川氏は、「そうした流れに一番敏感だったのが詩人、具体的にいえばギンズバーグらのビートニクの詩人です。いわば彼らが預言者となり、それに若者が追随していく。それがいわゆるヒッピームーブメントになっていくわけです。その若者たちも、70年代末から80年代になると、それぞれが社会の各分野――科学、農業、医学、心理学、経営学等々――に入っていく。その人たちがビートニクの詩人が予感し、ヒッピームーブメントで体得した世界観を各分野で展開していく」と述べます。その1つの大きな文化潮流がニューエイジでした。長谷川氏は、「だから、ニューエイジというのは割と俯瞰的なんです」と述べます。
医療はシステムなので、まずは需要に対応できるような新しい医療システムをつくっていかなければなりません。その場合、医療だけではなく、具体的に一人ひとりのケアの問題まで落とし込まないといけないというのが医療の実際ですあると指摘し、長谷川氏は「その『目標』に向けて、具体的に『どういうケア』をすべきか、それを支える『技術の体系』、『専門家の育成』、それを運営する『組織と制度』、さらにはそのための『基礎医学や基礎科学』をどうすべきか……それらすべてをワンセットにつくる必要がある。むろんそのためにはそれを支える『生命観』、『身体観』、『世界観』をきちっとつくらなければならない。こうした土台まで含めた問題を世界に提起できるのは、日本しかないとぼくは確信しています」と述べています。
さらに、長谷川氏は「戦争中はデータがないので正確には分かりませんが、今後日本史上かつてないような数の人間が死んでいくわけです。毎年170万人というのは今の熊本県の人口とほぼ同じ。毎年、熊本県の全人口とほぼ同じ数の人が亡くなっていく。それが今後50年間続いていく。ですから、死ぬということはごく普通の現象で、個人個人にとって寂しいし辛いけれど、非日常なものからごく普通の日常的なものへ変わっていく」と述べています。「多死時代における医療のあり方」では、これまで近代の医学というのは異常な死との戦いだったとして、長谷川氏は「病院は戦場であり、病院で亡くなると『申し訳ありません、薬石効なく亡くなられました』ということになる。一方、家で亡くなると『頑張りましたね、大往生されてよかったですね』と言える。だから、場所自体の持っている構造も転換しなきゃならない。そのためには、“普通死”を支える方法が必要です」と述べます。
学生たちが学ぶ医療のメニューには異常死しか載っていないそうです。そうすると、その異常死をなんとかしようとさんざん時間と技術を駆使して抗おうとするのです、結局はご本人も家族も社会もアンハッピーになるという構造になっています。長谷川氏は、「もっと、死というものは普通であることを受け止めましょうと。医療界は押し売り産業なので、普通死をリストに入れないとクライアントは異常死を無理やり押し売りされる。もう1つ、周死期の提案です。死というのがいわゆる生物的な死でぴしっと終わるわけでなく、生物的死、心理的死、社会的死という3つの側面がある。たとえば生物的死の前から次第に体の一部が死んでいくわけなので、死はその前からすでに始まっているともいえるし、死んだ後には遺産相続とか葬式とかの社会的死も待っている。だから、幅広く死を捉える必要があるのではないか」と述べています。
長谷川氏によれば、日本に限らず世界中どこでも医学というのは、患者がやってきてから対応するという待ちの姿勢だといいます。しかしこれからは積極的に予防を講じる必要があります。一定の年齢を超すと複数の慢性基礎疾患があり、それが急速に悪化して治療、場合によっては入院を必要とし、治療が成功して安定しADLが改善すれば在宅に復帰できますが、また次の急性悪化を繰り返して死に至る経過をたどるというサイクルの実態があります。その際ケアのゴールの優先順位は、疾病の治癒よりADL改善となるとして、長谷川氏は「たとえば肺炎の治療は成功したが寝たきりになったのでは当事者、家族、専門家、保険者すべてを不幸にしてしまいます。ケアサイクルの概念を、当事者・家族・友人・地域医療者・病院医療者・介護者・地域の住民、つまり地域包括ケアの関係者が共有することにより最適のケアを選択して地域の資源を活用できるのです。つまり、ADLをきちっと測って、どういうふうに世話すれば、ADLが保たれ、かつQOLを上げることができるかという方向にケアは変わっていかなければならない」と述べます。
それに対して、鎌田氏は「大きい流れとして、今確実に多死時代を迎え、超少子・超高齢社会の未来ヴィジョンということでいえば、日本、韓国、そして中国という東アジアの3カ国が、ここ数十年の帰趨を体現してしまわざるをえない。こういう時代状況になったことはもう間違いない」と述べます。東アジアにおける老いと死を踏まえた社会構築、つまり、地域・コミュニティやグループのケアシステムやネットワークがどのように可能かが問われてきているわけです。鎌田氏が宗教の側からその問題を見ていくと、東アジアに共通している文化というのは、一番中心のマグマ的なところに、従来の宗教学の概念を借りれば、アニミズム、プレアニミズム、シャーマニズム、トーテミズムといった原始宗教的な段階があり、その上に道教、神道などの民間信仰や民族宗教が乗っかり、さらにその上に仏教、キリスト教、イスラームのような世界宗教が入ってくる、という大きい流れがあるといいます。
宗教自身もまた、地球全体の中から見通す視点を持たなければなりません。そのためには、各宗教同士がそれぞれの信仰の立場を互いに認め合いながらも、その宗教がどういう成り立ちをしているかについて共通理解をつくっていく必要があります。鎌田氏は、「共通理解はどういうふうにしてできるかというと、1つはメタ・レリジョンズ(meta-religions)。メタレベルの宗教の包括的な見方をつくらなくてはならない。それには、宇宙ステーションみたいなところ、あるいは月から地球を見るような形で、地球全体の宗教の営み、人類の営みを見る視点をつくること。もう1つは、クロス・レリジョンズ(cross-religions)。宗教と宗教との間に、交差していく――これは伝播的な交差もあれば、ユングが言うように元型的に、どのような宗教でもどこかに持っている構造みたいな、そういうクロス・レリジョンズもある」と述べます。
さらに、共に協力協調コラボするコ・レリジョンズ(co-religions)、また限定的な共通の核になるものがあるプロト・レリジョンズ(proto-religions)、それらすべてをひっくるめたインター・レリジョンズ(inter-religions)が再共有されなければならない。つまり、メタなインターフェイス・レリジョンの視点とネットワークが不可欠だというのです。「能登半島地震からの警鐘」では、鎌田氏は「これまでの近代医学はデカルトの心身二元論に基づく機械的身体観です。そのずっと先にはキリスト教的世界観があるかもしれません。どうも西洋近代の概念では時間感覚を欠く傾向にある。現在は過去の積み重ね、現在の身体理解には、時間の補助線を引く必要があります。その基本となる手法が進化生態医学です」と述べるのでした。
「医療と宗教のパラダイムシフト」では、京都大学元総長の松本紘氏はよく「学問とは真実を巡る人間関係である」と言っていたことが紹介されます。鎌田氏は、「たしかに、科学は一種のイデオロギーという側面があり、宗教に似た要素、巨大な信念体系という面を持っている。しかし、宗教そのものは、プロテスタントがそうであるように、社会全体の生活の中からは、特殊化されて政教分離か、信教の自由という方向に行ったので、相対化されたことは間違いない。欧米では伝統的なキリスト教の日曜礼拝に参加する人も非常に少なくなっている。日本でも、伝統的な寺請制度に支えられた檀家の『墓じまい』も猛スピードで進んでいる。このままでは、間違いなく、神社消滅、祭り消滅、寺院消滅、法事消滅になります。しかし、人間には超越的なものを含む根源的なものに向かう眼差しと希求がずっとあり、それはニューエイジの中にも生きているし、いわゆるスピリチュアルムーブメントや新霊性運動などの宗教教団という形を取らないものが一貫して存在している」と述べています。
鎌田氏によれば、俯瞰して国全体で考えると、優先すべきは明らかに「若者が生き生きと自己実現できる環境づくり」だそうです。でなければ、日本の未来はないといいます。そのためには、若者が高齢者を支えるのではなく、高齢者こそが若者を支える必要があります。事実、資産、人脈、経験は高齢者に集中しています。一方、経済の発展を担うのはスペンディングウェーブと呼ばれる15〜65歳人口で、同時に子育て人口であり、労働人口でもある。日本の戦後の高度経済成長の背景に、この年齢の人口の急増、すなわち“人口ボーナス”があると考えられています。
日本が大変貌を遂げるこれからの40年間、その人口は1995~2010年の間に生まれた、いわゆる「Z世代」にほかなりません。彼ら世代からがスマホネイティブで、したがって新しい時代の製品開発の中核人材です。世界のZ世代は、2024年の国連予測によると、19億人、人類の23%、すなわち4人に1人です。しかし日本では1800万人、人口の18%にすぎず、世界平均の3分の2、世界のZ世代の人口の1%にすぎない。この希少な人口こそが、日本復興戦略の鍵を握る貴重な資源となります。
対談の最後に、鎌田氏は「私は日本至上主義ではまったくありませんが、日本がもし役割を果たすことができるならば、神話・儀礼・聖地を持つ宗教文化に基づいた自然生態倫理と自然生態美意識だと思います。自然の大きい仕組みの中で、人間自身が道に沿いつつ生きることのできるような倫理性、生態智倫理が必要だと思います。生態智的美的倫理というのは、自然界の仕組みの整え方に沿っているのですが、もともと自然そのものがたとえようもなく美しいんです。比叡山に登ると、ある時間になると鳥がさえずるとか、風がぴゅーと吹くと木ずれの音が聞こえてくる。『古今和歌集』仮名序に言う「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」の状態です。こうした生態学的な相互にインターフェイス(Interface)し合う連鎖の中で、自然が持つ美しさがスポンテニアス(自然発生的)に立ち上がる。だから、人工的なものをつくればつくるほど美を阻害してしまう、ねじ曲げてしまうことになる」と述べるのでした。
「あとがき」で、長谷川氏は「本書のテーマは『“既にある未来”の予言』である。ここ数年の疫病の流行から戦争暗殺を経て、既に未来が現在に、現在は過去となった。全く異なる世界、近代後社会が到来した。近代の始まりは定義にもよるが、その成立時から没落がささやかれていた。二つの世界大戦を経て近代の最先端社会アメリカの西海岸で、3つの対抗文化運動、ビートニク・ヒッピー・ニューエイジの活動が西洋近代の終焉を予告した」と述べます。未来の3要素、まず「環境」では地政学リスクである戦争、地球構造から不可避の自然災害、誤った世界像からくる環境リスク。2つ目の要素「人口」では少子高齢化による人口遷移で、社会も人生も人生第3期・生産生殖後人口中心に遷移、価値観も役割無き役割に転換し、遊びも学びも仕事も皆それぞれが自分自身で考えねばならない1億総哲学者・宗教家(?)時代となります。同時に疾病と障磚が不可避の高齢者が激増します。地方で住民が消失する。3つ目の「技術」では想像を絶する革新が社会をひっくり返しつつあります。
「あとがき」の最後に、長谷川氏は「日本の既にある未来を考えるには、生存技術・世界仮説・人生設計といった総合的生き方の転換、いわば『生存転換』を踏まえることが必須となる。目標も重点が『産業から暮らし』に移行する。医療の例で示したように、狩猟採集社会・農耕社会・産業社会・情報社会では、それぞれ一人一人の暮らしは激変する。これからのクリティカルな20年間の転換を担うのは若者、Z世代に他ならない。Z世代はスマホネイティブ第1世代で人類の4人に1人をなす。江戸の蓄積された資産を掘り起こし近代の課題を解くカギを見つけ出し、高齢者、中年世代、そしてさらには子供たちも、それぞれの場でそれぞれが持つ情報・経験・資産を用いてネットワークチームとして、若者の光る資質を支援することが『失われた30年』の出口ではなかろうか。鎌田さんのこれまでの仕事、翁童論や鬼の研先の応用に期待したい」と述べるのでした。
『ウェルビーイング?』(オリーブの木)
本書を読んで、わたしは拙著『ウェルビーイング?』(オリーブの木)の内容を連想しました。医療と宗教にとっての共通キーワードとなる「ウェルビーイング」はニューエージ・ムーブメントから生まれてきました。わが社は「ウェルビーイング」が現在のように注目されるはるか前に、経営理念に取り入れていました。1986年の創立20周年には「Being!ウェルビーイング」というバッジを社員全員が付け、社内報の名前も「Well Being」でした。当時の社長であった父の先見の明には驚くばかりです。父は九州大学名誉教授の池見酉次郎先生(故人)と日本心身医学協会を設立し、日本における心身医学の啓蒙・普及に努めましたが、そのときのコンセプトが「ウェルビーイング」でした。父は國學院大學で学び、日本的ウェルビーイングを追求しました。『ウェルビーイング?』の帯には、父の國學院の後輩である鎌田東二先生の推薦の辞が記されています。