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No.2402 プロレス・格闘技・武道 『船木誠勝が語るプロレス・格闘技の強者たち』 船木誠勝著(竹書房)
2025.06.21
『船木誠勝が語るプロレス・格闘技の強者たち』船木誠勝著(竹書房)を読みました。デビューから40年、船木誠勝がこれまでにリングで対峙した強者たちの実像を語り尽くすファン注目の一冊です。興味深く読みました。
本書の帯
カバー表紙には、リング上で両手を挙げて勝ち名乗りを受ける著者の写真が使われ、帯には「最も凄かった選手、試合、技は…!」「蘇ったサムライ、40年間に及ぶ激闘の答え!」「猪木、前田からヒクソン、大仁田まで・・・闘った者だけがわかる真実!」と書かれています。カバー前そでには、「俺にはまだやり残したことがいっぱいある。こんなところでやめられねえよ! 明日から、また生きるぞ! 1996.09.07 TOKYO BAY NK HALL」とあります。
本書の帯の裏
カバー裏表紙は、新生UWF時代の試合で高田延彦を掌底攻めにしている著者の写真が使われ、帯の裏には「長きに渡る戦歴をここに刻む!」として、「最も怖くて、最もカッコいいプロレスラー・アントニオ猪木」、「大人だった武藤敬司と蝶野正洋、純粋だった橋本真也」「最も強烈だったプロレス技のひとつ・長州力のサソリ固め」「とにかく頑強で打たれ強い・前田日明」「痛いを通り越した破壊力! 高田延彦のローキック」「最大の闘いだったヒクソン・グレイシー戦」「最強の日本人プロレスラーは藤田和之」「随一の試合巧者だった秋山準」「試合中に骨折しても平然・・・大仁田厚の凄み」と書かれています。
アマゾンの内容紹介には、「新日本プロレス入門からUWF、藤原組を経て、完全実力主義を標榜するパンクラスを設立し、自らエースとして君臨。以降も50歳を超えた今でも現役レスラーとして活躍する船木誠勝。波乱に富んだ経歴を持ち、プロレス界と格闘技界をクロスオーバーして活躍してきた稀有な存在である船木誠勝が40年間に及ぶ格闘技生活を振り返り、これまでに戦ってきたリング上の強者たちを語るファン待望の一冊」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
プロローグ
第一章 新日本プロレス編
第二章 欧州武者旅行編
第三章 UWF編
第四章 パンクラス編
第五章 ヒクソンとの対決編
第六章 復活編
エピローグ
プロローグ「リングデビュー40周年を迎えて」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「刻の流れは早いもので、自分が東京ドームのリングでヒクソン・グイシーと闘ってから、四半世紀が過ぎようとしています。(もう、そんなに時間が過ぎたのか)実感が沸きません。ヒクソンと試合をしたのは2000(平成12)年、なのに僅か数年前のことのように感じるからです。もっと遡れば、新日本プロレスのリングでデビューしたのは1985(昭和60)年3月3日。そこから数えると40年以上が経過したことになります」
デビュー戦の相手は後藤達俊選手でした。当時15歳だった著者は緊張し、またリング上で何をすればよいのか迷いながら試合をし強烈なバックドロップを喰らい負けました。以降、1000試合以上をし、上がったリングもさまざまです。新日本プロレス、オーストリア、ドイツでのCWA、イギリスのオールスタープロモーション、UWF、藤原組、パンクラス、コロシアム2000。復帰後はK-1Dynamite!!、DREAM、全日本プロレス、WRESTLE-1、DRADITION、大日本プロレス、DRAGONGATE、超花火プロレス、DDT、プロレスリング・ノア、GLEAT、天龍プロジェクト、ストロングスタイルプロレス、道頓堀プロレス、闘宝伝承……等々。著者は、「思い起こせば、闘ったプロレスラー、格闘家は皆、個性の強い人たちばかり。またプロレスのスタイルも団体によって異なり、戸惑いを感じたこともありました」と述べるのでした。
第一章「新日本プロレス編」の「最も怖くて、最もカッコいいプロレスラー・アントニオ猪木」の冒頭を、著者は「一番カッコよかったプロレスラーは誰か? そう問われたならば、自分の答えは1つしかありません。“燃える闘魂”アントニオ猪木さんです」と書きだしています。いまから約40年前、著者が15歳の時に自分は新日本プロレスに入門しました。著者は、「その頃の先輩たちの多くは、猪木さんに憧れを抱きプロレスラーになったようです。でも自分の場合、そうではありませんでした。十代前半に憧れたレスラーは、ミル・マスカラス、そしてタイガーマスク。リング上で華やかな動きを披露する彼らの姿に魅了されたのです。生まれ育った青森で、最初にテレビで観たのは『全日本プロレス』でした」と書いています。
「猪木流・本当のボディシザース」では、猪木と著者がスパーリングをする機会は、ほとんどなかったそうですが、新日本プロレス時代に3回だけありました。猪木が亀になった状態からスパーリングは始まるのですが、なかなか体勢を返して攻めることができません。そのうちに著者が引っ繰り返されてボディシザースを決められてしまいます。著者は、「このボディシザースは強烈でした。猪木さんは膝から下が長く、その脚で胴体を絞めつけてきます。あれが本当のボディシザースなのだと思います。完全に胴体を締められてギブアップしたくなるような痛みを感じたものでした」と述べています。
「猪木さんはプロレスラーの域を超えたスター」では、猪木が著者の入門直後から目をかけて、敢えて厳しく指導してくれたことが紹介されます。猪木さんの三回忌、墓前で手を合わせた著者は「すみませんでした。そして、ありがとうございました」と心の中で言ったそうです。師弟ではなく、ひとりのプロレスファンとして見ても猪木さんは、とてつもなくカッコよかったそうで、著者は「控室で赤いロングガウンを羽織り、髪を櫛で整え、テーマ曲『イノキ・ボンバイエ』が流れる中、大声援を浴び颯爽とリングに向かいます。そして、コールされると同時にガウンをはだく。その仕草の1つ1つがスターの雰囲気を醸していました」と述べます。
「大人だった武藤敬司と蝶野正洋、純粋だった橋本真也」では、武藤敬司とは、著者が40歳でプロレス復帰して以降にタッグを組むことが多かったのですが、新日本プロレス前座時代には、ほとんど対戦していないといいます。憶えているのは2試合だけで、初めての対戦は、デビューから約1カ月後の『ヤングライオン杯争奪リーグ戦』(4月2日、石和小松パブリックホール大会)でした。著者は、「試合は8分ほどで終わりましたが、その間、自分はずっと遊ばれていました。柔道経験があり運動神経抜群の武藤さんと、15歳でまだカラダも出来上がっていない自分との実力差は歴然。武藤さんは会場を盛り上げるための試合運びも考えながら動きます。自分は、それについて行くのに必死でした。この試合でムーンサルト・プレスも喰らいました」と述べています。
蝶野正洋は、独特なスタイルを貫いていたそうです。著者は、「武藤さん、橋本さんはスピーディに動き、その中で互いに技を掛け合います。でも蝶野さんは『ドスン、ドスン。バタン、バタン』という感じのクラシカルなアメリカンプロレスのリズムを刻むのです。ディック・マードック、マスクド・スーパースターのようなタイプを目指していたように思います。新日本プロレスの道場では、藤原喜明さんが中心になって日々、セメント(真剣勝負)の練習が行われていましたが、蝶野さんはそこにはほとんど参加しませんでした」と述べます。「腰が痛いから」「首が痛いから」などの理由をつけて、セメントスパーを避けていたのです。それでも時々は、スパーリングをすることになりますが、蝶野はさすがで、「自ら相手に関節技を決めようとはしません。それでも持ち前の力の強さを存分に活かして関節を決められることはほとんどありませんでした」と述べます。
後の「闘魂三銃士」の中でも、橋本真也は少し違ったそうです。特別にハードな練習に取り組む感じではなかったのですが、強さへの憧憬、こだわりは人一倍あったように感じたとして、著者は「入門して間もない頃、橋本さんの実家から段ボール箱が道場に送られてきました。それを橋本さんは自分たちに見せます。極真カラテや猪木さんの試合のビデオテープが何本も入っていました。その時に橋本さんは言ったんです。『極真会館に入門して大山倍達先生の弟子になるか、新日本プロレスで猪木さんの弟子になるしかない。その2つしかないとずっと思っていた』と。プロレスが最強であると信じ、そこに強いこだわりを持っていることが感じられました」と述べるのでした。
「最も強烈だったプロレス技のひとつ・長州力のサソリ固め」では、著者は長州さんの動き、技は実にパワフルです。まずロープに振られてから喰らうエルボーパット。単なるヒジ打ちではなく回転で威力をつけてカラダごとぶつかってきます。吹っ飛ばされました。喩えるならアメリカンフットボールのぶちかましを喰らった感じです。それに長州さんは腰が強くて組み合っても簡単には投げることができません。体幹の強さを感じました。そして、サソリ固めもかけられました。めちゃくちゃ痛かったです。足のロックだけではなく全体重をかけて座り込まれるので重くて痛く、耐えるのに必死でした」と回想しています。著者は新日本プロレス時代に数多くの技を受けましたが、強烈だったものを3つ挙げるとしたら、「後藤達俊さんのバックドロップ」「橋本さんのニールキック」「長州さんのサソリ固め」だそうです。
第三章「UWF編」の「一方的に攻めまくったボブ・バックランド戦」では、新生UWFに参戦当時、著者は前田日明ではなく髙田延彦のことを強く意識していたそうです。髙田と直接闘うわけではありませんが、バックランドという同じ相手と試合をすることで内容が比較されます。ならばバックランドを圧倒して髙田さんに肩を並べたい、超えたいと考えていたのです。バックランド戦では、著者は打撃を多用してメチャクチャに攻めました。張り手で倒し、頭部も蹴り込みました。そして三角絞めに入ろうとしたところでバックランドが片腕で著者を持ち上げます。著者は、「ここはバックランドの見せ場で、本来ならその流れに付き合うところでしょう。しかし、あの時の自分はそれさえ無視しました。直後にトップロープからバックランドにドロップキックを見舞ったのです。UWFルールにより、これで反則負けとなり試合は終わりました」と述べています。
「前田日明と初対決」では、怪我で休養した後、鈴木実を相手に復帰戦を行った約3週間後、日本武道館大会ではメインエベントで、著者はついにUWFのエースである前田日明と対峙することになりました。前田とは、それまでにスパーリングも一度もしたことはなく、ここで初めて前田日明というプロレスラーを体感することになったのでした。著者がバックを取った時に、前田は「船木、見ろ。全然(観客が)湧いてないやないけ!」と囁くように言ったそうです。著者は、「その瞬間、我に返りました。スリリングな攻防を楽しんでいた自分とは、まったく異なることを前田さんは考えていたのです」と述べています。
つまり、前田は著者とではなく観客と勝負をしていたのです。確かに館内はシーンと静まっており、著者はショックを受けました。(自分だけが空回りしていたのか)そう思い、動揺し恥ずかしい気持ちにもなりました。著者は、「最終的にジャーマンスープレックスを喰らい、蹴られた後に片羽絞めを決められて試合は終わります。直後にリング上で前田さんから説教をされました。前田さんが言わんとしていることは分かります。的を射ているだけに悔しさが募りました」と述べます。
「優しい先輩だった髙田延彦」では、髙田との2度目の対決のとき、著者が遠慮なく攻めたことを紹介します。髙田は余裕を持って技を受けてくれていましたが10分過ぎにアクシデントが生じます。著者が見舞ったヒザ蹴りで髙田の右眼上をカット、出血が酷くレフェリーストップになったのです。勝ちはしましたが、山崎さんとの試合に続き後味の悪い結末になってしまいました。試合後に藤原喜明から、著者は「思いっきりやるのはいいが、相手に怪我をさせるのはプロじゃねえぞ!」と言われたそうです。その日の夜、著者は髙田に電話をして謝りました。髙田は明るい声で「いいよ、気にするな。格闘技みたいで良かったじゃん」と言ってくれたそうです。それを聴いた著者は、救われた気持ちになりました。
「虚しかったロベルト・デュラン戦」では、新生UWFが解散した後、藤原組に在籍した1991年と92年の2年間、著者は迷いながら闘っていた時期もありましたが、熱い想いで挑めた試合も多くあったそうです。そしてこの2年間で、プロレスラーとして強くありたいとの想いをさらに強く持つようになりました。藤原組のリングで、著者は初めて異種格闘技戦に挑みます。2度やりましたが、最初の相手は「石の拳」の異名を持つ伝説のボクサー、ロベルト・デュラン。1992年4月29日、東京体育館のリングでした。著者は、リングに上がった時、対角線上に立つデュランは腹部が出っ張った中年のおじさんにしか見えませんでした。開始のゴングが鳴った後も、動きはスローで自分にパンチが届きません。最初は強打を警戒していたのですが、1ラウンドの途中で勝利を確信、3ラウンド1分過ぎにアームロックを決めて試合を終えます。初めての異種格闘技戦で勝利したのに嬉しくありませんでした。むしろ、恥ずかしい気持ちにすらなりました。お客さんに手に汗握らせる激闘を見せられなかった――」と述べています。
「モーリス・スミスとの激闘」では、デュラン戦から半年後に2度目の異種格闘技戦を行ったことが紹介されます。この時は、さらに緊張したそうです。1992年10月4日、東京ドームでの「プロフェッショナルレスリング藤原組1周年記念大会」。相手は約2年前、UWF時代に闘うはずだったキックボクシング・ヘビー級最強の男、モーリス・スミスでした。結果は、引き分けでしたが大苦戦で、著者は「内容的には自分が負けていました。闘いながら、モーリスの身体能力の高さに驚かされたことを、よく憶えています。彼とは身長、体重ともに同じくらいでしたが、パンチを浴びダウンを喫し圧倒されました」と述べます。
第四章「パンクラス編」の「完全実力主義! パンクラスを旗揚げ」では、藤原組を退団しパンクラスを旗揚げした際に、まず最初に考えたのは団体の指針を完全実力主義にすることだったと明かします。パンクラスの旗揚げを前にして、もっとも思い悩んだのは試合の路線だそうで、著者は「何をやればファンに受け入れられる団体になるのかを必死に考えました。知名度で劣る自分たちが他団体と同じことをしていたなら、おそらくファンは振り向いてはくれませんそして導き出した結論が、プロレスをリアルファイト化させることでした。これは、それほど難しいことではありません。自分が新日本プロレス時代に「藤原教室」でやっていたスパーリングをそのままリングでやればいいのです。そこに打撃の攻防も加わりますから見栄えのある闘いもできるのではないかと考えました。攻撃のみのプロレスです。UWF時代に、自分は前田さんにその話をしたことがありました。その時に前田さんは言いました。『わかった。あと5年待ってくれ』と。UWFは、その5年を待たずして解散してしまいます。あの時の自分の思いを遂げたい気持ちもあったのです」と述べています。
「秒殺の連続…衝撃の旗揚げ戦」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「パンクラスは完全実力主義で行く。そのことを伝えた時に、大いに喜んでくれたのがシャムロックでした。米国サクラメントにあるシャムロックが主宰するジム、ライオンズ・デンを訪ねた際に近くのバーで、そのことを伝えました。するとシャムロックは、こう言いました。『素晴らしい。俺もそのスタイルでやりたい。でも本当にそれが可能なのか?』『やる!』と答えると、瞳を輝かせながら握手を求めてきました」と述べます。
「タイトルを争った思い出深き後輩・近藤有己」では、キング・オブ・パンクラシスととして君臨した若き王者・近藤有己に言及しています。1997年12月2日、横浜文化体育館大会で約7カ月ぶりに著者が挑戦者として近藤と闘います。3度目の対戦でしたが、この時は最初から全力で潰しにいきました。遊びはなしです。三角締めの体勢からアームロックを決め僅か140秒で勝利しました。その翌年になると、著者はヒクソン・グレイシーとの闘いを意識し始めます。その際、パンクラスにパンクラチオン・ルール(バーリ・トゥードに近い闘い)の試合を導入することになるのですが、そこに近藤は引き込みませんでした。著者は、「この時は突き放したわけではありません、近藤にはパンクラス本体を守って欲しいと思ったのです」と述べています。
「手の甲に『R』の文字! スポーツマンタイプのバス・ルッテン」では、1996年9月7日、著者は当時の王者王者ルッテンに東京ベイNKホール大会で挑んだのですが、この年のは絶好調だったそうです。前年12月から7連勝、ランキングを上げてタイトルマッチに辿り着いたのです。本当なら初代王座決定トーナメントでの優勝をファンから期待されていたのです。でも、著者はシャムロックに負けました。それから1年9カ月という長い期間を経ての王座挑戦。さすがに、ここでの負けは許されないと強く感じていたといいます。
このとき、著者はルッテンに勝つ自信があったそうです。勝つイメージも出来上がっていたのです。ところが結果はKO負け。作戦通りに試合を進めることができず、打ち合いをしてしまいルッテンの右掌底を喰らい何度もダウンを喫してしまいました。何度かタックルを仕掛けましたが、もうカラダに力が入りません。ついには何度目かに喰らった掌底で鼻も折られ、最後はレフェリーの廣戸聡一さんに抱えられるようにして試合を止められました。
試合後、著者は「引退します」と言おうかと思っていたそうです。その時でした。リングサイド近くの客席から「船木、やめないでくれ」という声が聞こえました。叫びではなく、か細い震えた声です。その時に我に返り、引退という言葉を発するのを思いとどまりました。そして「いま思っているのは(今日の試合に)悔いはないということです。だけど、俺にはまだやり残したことがいっぱいある。こんなところでやめられねえよ!」「明日から、また生きるぞ!」と叫んだのでした。
第五章「ヒクソンとの対決編」の「大会直前はナーバスな状況に」では、ヒクソン戦を前にした時期、頭の中にあるのは日々、ヒクソンのことだったそうです。当日、入場する際に着物姿で本身の日本刀を携えることを決めたという著者は、「その後には、こんなことも考えてしまいます。(リングに上がるなり、日本刀でヒクソンを斬りつけてやろうか)勿論そんなことが許されるはずはないのですが、精神的にそこまで追い詰められていました。プロレスも格闘技も興行です。ファンの方にいかに楽しんでもらえるか、そのことを自分もずっと考えてきました。でも、ヒクソン戦の時は違いました。(負けたら死だ、生き抜くためには絶対に勝たなければならない)それだけでした。プロレス、格闘技人生において、あれほどまでに切羽詰まった気持ちで試合までの日々を過ごしたことはありませんでした。それだけヒクソン戦は、特別な闘いだったのです」と述べています。
「最大の闘いだったヒクソン戦」では、著者は以下のように述べています。
「あれから約四半世紀が経ちます。振り返ってこう思います。ヒクソン・グレイシーは強かった。でも敗因は自分の経験の浅さ、未熟さにありました。余計なことを考え過ぎてしまっていたのです。興行を盛り上げなければいけない、大舞台に立った時には笑わないといけない、タオルを近藤に渡すべきかどうか……。ファイターとしては、もっとシンプルに闘いのことだけに集中すべきだったと思います。当時、ヒクソン41歳、自分は31歳。さまざまな意味においての経験の差が勝敗を決したのではないかと。敗れはしましたがヒクソンと闘ったこと自体を悔やんではいません。意を決してやったなら勝っても負けても後悔はない。でも恐れてやらなかったなら、そのことを一生後悔する。自分はそう思います。ヒクソン戦は自分にとって、最大の闘いでした」と述べるのでした。
第六章「復活編」の「スキマがない…桜庭和志は関節技の最高の使い手」では、2007年大晦日、京セラドーム大阪での「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で、著者が桜庭数志を相手に復帰戦を行ったことが紹介されます。TBSで全国に放映された大会でした。結果は負けました。著者は、「冷静さを保てていたわけではありません。7年のブランクで、自分の中でファイターとして必要な熱さが失われてしまっていたのです。試合中にも痛さを感じてしまいました。本来ならアドレナリンが出ていて打撃を受けても痛さなど感じないはずが、そうではありませんでした。(蹴られると、こんなに痛いんだ)(関節を決められると、こんなに痛いんだ)そんなことを思いながら闘っていました。気持ちがふわふわとした感じで何もできないまま、桜庭選手にチキンウィング・アームロックを決められて、アッサリと負けました。桜庭選手の関節技は実にタイトで、スキマのない仕掛け、決め方には驚かされました。藤原さんと似ている感じです。当時の総合格闘技において、桜庭選手は関節技の最高の使い手だったと思います」と述べています。
翌2008年4月、さいたまスーパーアリーナ「DREAM2」で田村潔司選手との試合が決まりました。著者は田村選手とはUWF時代に道場で幾度かスパーリングをしたことがあります。でも当時、田村はまだ新弟子で相手になりませんでした。それが時を経て強くなっており、ここでも著者は負けてしまいます。なのに「悔しい」ではなく妙に納得してしまっている自分がいたそうです。その後、同年9月「DREAM3」で、パンクラス時代の後輩、ミノワマン(美濃輪育久)と試合をし、この時はヒールホールドを決め秒殺勝利しました。でも喜びの感情が湧き上がってくることはなかったとして、著者は「パンクラス時代、そしてヒクソンと闘った時のような熱い気持ちを取り戻すことはできなかったのです。総合格闘技において自分は、ヒクソンに挑んだ試合で燃え尽きていたのだと思いました」と述べます。
「日本人レスラーで身体能力ナンバー1は武藤敬司」では、‟ミスター・プロレス”と呼ばれる武藤との対戦について、著者は「シャイニング・ウィザード、ドラゴンスクリュー、足四の字固め。この3つで展開を作り、ここぞの場面でムーンサルト・プレスを繰り出します。シンプルでありながら技の1つ1つに説得力を宿していました。この時、ムーンサルト・プレスも喰らいました。実に85年7月以来、約四半世紀ぶり。何も変わっていません、同じリズム、同じインパクトで自分に降ってきました。身体能力において、武藤さんが間違いなく日本人レスラー・トップです。ヘビー級のプロレスラーで、あそこまでバネを利かせた動きのできる選手はいません。だからこそ世界にも通用したのでしょう。この頃すでに武藤さんのカラダは怪我でボロボロだったと思います。それでも技のキレは以前と変わっていないと感じました。体力の衰えをカバーして余りあるプロレスセンスの持ち主、そして持久力も衰えていませんでした。試合は30分時間切れ引き分けに終わります。闘い終えて、何歳になっても『プロレスラー武藤敬司は天才だ』と実感しました」
「圧倒的なパワーと心の強さ!最強の日本人プロレスラーは藤田和之」では、著者は「最強の日本人プロレスラーは誰か? その答えは語る者によって異なると思いますが、自分の場合は藤田和之選手です。レスリング能力、パワーは日本人の中では圧倒的で、さらに心の強さも持ち合わせていました」と述べています。そんな藤田選手と著者は初めて手合わせをします。著者は、「お互いにフェイスガードとオープンフィンガーグローブを着用してグラウンドでの顔面打撃もありのフルスパーリングをしました。藤田選手が、いきなり得意のタックルを仕掛けてきます。それに合わせて自分は顔面にヒザ蹴りを見舞いました。きれいに入った感触があったのですが、藤田選手は動きを止めることなく突進してきます。そのまま吹っ飛ばされ、自分は倒されて上のポジションを許してしまいました」と述べています。
藤田和之について、著者は「とてつもないパワーと同時に、絶対にテイクダウンを奪うという強い意志がこもったタックル。こんなにも凄まじいタックルを見舞われたのは、この時が初めてでした」と述べます。藤田の強さを語る時、よくパワーが挙げられますが、著者は「その通りだと思います。日本人で藤田選手ほど屈強な外国人選手相手に互角以上に闘えた選手はいません。でも、それだけではなくメンタルの強さがありました。特に総合格闘技に挑む際には、準備期間中に心の浮き沈みが生じます。でも藤田選手は、それを一定に保つ強い心の持ち主でした。やると決めたらやり切ることに迷いがない男なのです。自分は藤田選手こそが、総合格闘技でのキャリア、フィジカル、メンタルにおいて最強の日本人プロレスラーだと思っています」と述べるのでした。
「マイクパフォーマンスでプロレス界に風穴を開けた大仁田厚と長州力」では、著者は「プロレスは生き物です。時代の欲求に応じて姿を変えていきます。その過程でマイクパフォーマンスの導入が、プロレスを大きく変化させたと自分は思っています。そのスタイルを確立させたのが大仁田さんと長州さんだったでしょう。馬場さん、猪木さんが培ってきた正統派のスタイルに二人が風穴を開けました。これに多くの若い選手たちが影響を受け現在に至っています」と述べています。
大仁田は、それまでに日本にはなかった「ハードコア」と呼ばれるデスマッチを導入しFMWを人気団体に導きました。大仁田はきっと「他団体と同じことをやったのでは埋もれてしまう。何か違うことをやらなければファンを振り向かせることはできない」と考えたのだろうと推測し、著者は「これは自分がパンクラスを旗揚げした時の想いと共通しています。他のUWF系団体と同じことをしたのでは、前田さん、髙田さん、藤原さんを相手に自分では勝負にならないと思いました。そこで完全実力主義を掲げ、実際に道場でやっていることをファンに見てもらうことにしたのです。FMWとパンクラスのスタイル、方向性は真逆ですが『他とは違うことをやる』という点では同じでした」と述べるのでした。本書は、船木誠勝という才能溢れるプロレスラー・格闘家から見た歴史の証言の書であり、非常に興味深く読みました。前田日明氏の次は、船木誠勝氏に会いたいです!