No.2403 プロレス・格闘技・武道 『高山善廣評伝 ノーフィアー』 鈴木健.txt著(ワニブックス)

2025.06.22

髙山善廣評伝 ノーフィアー』鈴木健.txt著(ワニブックス)を読みました。髙山善廣は、1966年9月19日、東京都墨田区生まれ。湘南で学生時代を過ごしました。20歳で第1次UWFの入門テストに合格するも、肩のケガで続かず。ライフセーバーとして働くが、夢を諦めきれずUWFインターナショナル(Uインター)に再入門し、1992年6月28日に金原弘光戦でデビュー。先輩や強豪外国人へ果敢に挑み、1995年10月9日に始まった新日本プロレスとの対抗戦で台頭。Uインター解散後はキングダムを経て、全日本プロレスに参戦。総帥・ジャイアント馬場から高い評価を得て、のちに正式に所属となります。プロレスリング・ノアの旗揚げに参戦後は、フリーランスとして総合格闘技のリングへ。2002年6月23日のPRIDE.21におけるドン・フライとの壮絶な死闘は今なお伝説として語り継がれます。その後も恵まれた体格とアグレッシブな闘いぶりで人気を博し、GHCヘビー級王座、IWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、さらにはGHCタッグ、IWGPタッグ、世界タッグとタッグタイトルまですべて獲得し、日本国内3大メジャー団体を完全制覇。‟プロレス界の帝王”の異名にふさわしい活躍を見せましたがDDTプロレスリングに参戦中の試合で頸髄完全損傷を負い、長期欠場へ。2024年9月3日の「TAKAYAMANIA EMPIREⅢ」でリングイン。鈴木みのるとの特別試合が組まれました。現在も完全復帰へ向けてリハビリに日々励んでいます。

本書の帯

本書のカバー表紙には、トップロープを跨いでリングインする髙山善廣選手の写真が使われ、帯には「UWFインターナショナル、キングダム、全日本プロレス、プロレスリング・ノア、PRIDE、新日本プロレス、DDT、TAKAYAMANIA EMPIRE」「レスラー、家族、関係者の証言から迫る――」「〝プロレス界の帝王〟 の偉大なる足跡」と書かれています。

本書の帯の裏

カバー前そでには、「プロレスは、ドラマや小説、映画などあらゆるエンターテインメントとされるジャンルでは描けぬ表現が、現実のものとなり得る」と書かれています。帯の裏には、「てめえが還ってくるまで俺はプロレスのリングでおまえのことをずっと待っているからな!」という鈴木みのるの言葉が記され、「石原真/今田健一朗/大森隆男/金澤克彦/金子健/金原弘光/川田利明/小橋建太/佐久間一彦/佐々木健介/鈴木みのる/高木三四郎/髙山奈津子/男色ディーノ/296/宮戸優光/和田良覚」といった取材協力者の名前が並んでいます。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき――
すべてのTAKAYAMANIAの皆様に」
第1章 帝王紀元前
第2章 UWFインターナショナル
第3章 全日本プロレス
第4章 プロレスリング・ノアから
PRIDEに進出
第5章 プロレス界の帝王として
第6章 TAKAYAMANIA

「あとがき」
「エンドロール それぞれのノーフィアー」

第1章「帝王紀元前」の「丙午生まれの普通とは違う何か」では、髙山善廣が1966年9月19日という丙午生まれであることを指摘し、出生率が低いのとは裏腹に、1966年生まれのプロレスラーは前後5年のスパンで見ると飛び抜けて多い。ザッとあげるとAKIRA(3月13日)、松永光弘(3月24日)、エル・サムライ(4月19日)、飯塚高史(8月2日)、佐々木健介(8月4日)、セッド・ジニアス(9月1日)、金本浩二(10月31日)小川良成(11月2日)、新崎人生(12月2日)、ウルティモ・ドラゴン(12月12日)、MEN’Sテイオー(12月16日)となる」と書かれています。

また、丙午とは関係ありませんが同い年の外国人選手としては、ビターゼ・タリエル(1月12日)、ゴールダスト(4月11日)、ヨコヅナ(10月2日)、リキシ(10月11日)、ジョン・ブラッドショー・レイフィールド(11月29日)、ゴールドバーグ(12月27日)といったところが該当することが紹介されます。さらに、「ジャイアント馬場唯一の異種格闘技戦の相手となったラジャ・ライオンも、月日は不明だが1966年生まれとされている(1965年説もあり)。翌1967年の早生まれで同級生となるのが、中西学(1月22日)と小橋建太(3月27日)だ。こうして見ると、90年代から現在にかけて日本のプロレスシーンをけん引した者たちが多い」と書かれています。

「プロレスの入り口はアントニオ猪木自伝」では、髙山とプロレスの距離を一気に縮めた一冊が『苦しみの中から立ち上がれ』という猪木語録であったことが紹介されます。帝王の心を初めて動かしたのは猪木の本だったのです。友達の中でも、特にプロレス好きな子が「面白いよ。読んでみてよ」と薦めた猪木の自伝は、テレビ以外から初めて得る情でした。そこには画面を通じ伝わってくるものとまったく違う世界があったとして、著者は「別世界の住人としか思えなかったプロレスラー。ところが自伝には力道山の元へ弟子入りした猪木がいかに苦労し、頑張って克服した上で強くなれたかが記されていた。そんな姿に、喘息で苦しみ腕立て伏せの1回もできずにいる自分を合わせた。この時、植えつけられた原体験はそのまま髙山の揺るぎなきプロレス観へとつながる。普通の人間でも努力すれば、強く変わることができる。それが髙山善廣にとっての“プロレス”となった」と述べています。

髙山少年は全日本中継も見ていましたが、猪木が躍動する新日本に傾倒しました。馬場は209cm、ジャンボ鶴田はレスリングのオリンピック代表、天龍源一郎は角界出身といずれもが特別な何かを持っているのに対し、藤波辰巳(現・辰爾)もタイガーマスクも飛び抜けて大きいわけではなく、アマチュア時代に何かを成し遂げたエリートとも違う。単純な言い方をすると「弱いやつも強くなれるのが新日本」というところに惹かれたのでした。実際、触発されるがまま腕立て伏せを始めてみると一度もできなかったのに、5回、10回とやれるようになっていったそうです。身をもって体の変化を味わう中で、いつしか髙山少年の意識の中に「プロレスラーになる」というおぼろげな夢が頭をもたげてきます。ましてや中学卒業時で190cmを超えていました。

「西の聖地でデビュー戦の『タカヤマ』コール」では、UWFインターナショナルで髙山の先輩だった宮戸優光の「Uインター時代、選手で一番チケットを売ったのが髙山だったんですよ、100枚単位で。それまで築いてきた人間関係が、そういうところに出る。そこはほかの選手とちょっと違うところでした。普通、デビュー数戦の新人のためにあれほどの応援団が来ることはないでしょう」という発言が紹介されます。また、高山が自分の勝利以上に嬉しかったのが、メインで髙田が見せた衝撃のKOシーンでした。崩れ落ちた北尾がロープに上体をかけたまま10カウントを聞いた直後、他の先輩たちとともにリング内へ駆け込みました。著者は、「199cmの北尾を攻略するべく、髙田はもっとも身長が近い髙山を相手に特訓を続けた。深夜、エアロビクスのスタジオを借りキックのコンビネーションを反復。仮想・北尾の顔面にグローブを構えさせ、そこへハイキックを入れる。その練習の成果が、これ以上ない形で表れたKO劇と言えた」と述べています。

「奈津子夫人と出逢った大阪の夜」では、1993年10月14日のUインターの大阪城ホール大会で、髙山はダン・スバーンと第3試合で対戦し5分5秒、リバース・バイパーホールドで敗れました(第1試合では山本が桜庭相手にデビュー)。著者は、「スーパー・ベイダーとリングネームを変えてUインターに参戦していたビッグバン・ベイダーや、オブライトと比べると中堅外国人的ポジションだったスバーンだが、2ヵ月後の12月16日(現地時間)、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)第4回大会に初参戦しオクタゴンの中でスープレックスを繰り出し決勝戦へ進出。ホイス・グレイシに敗れるも一夜にして総合格闘技界のスターの仲間入りを果たした。髙山はスバーンからダウン2、エスケープ2を奪っており、残りロストポイントでは上回った。その夜、市内の寿司店『鮨右衛門』で大会の打ち上げがおこなわれ、参加者のうちの1人がのちに妻となる奈津子だった」と述べます。

3ヵ月前にスタートさせた遠距離恋愛の彼女が、大きな地震に被災するという受難の幕開けを迎えた1995年、髙山はデビュー以来の快進撃を見せました。1・16武道館でバートン、2・18東京ベイNKホールでジェームス・ストーン(のちにWWEでヌンジオとして活躍)に連勝。4・20名古屋レインボーホールのダブルバウトでは田村にしとめられましたが、5・17大阪府立体育会館でダブルバウトながら金原からヒザ十字固めでギブアップを奪いました。そして髙田の「近い将来、引退します」宣言や田村とオブライトの不穏試合で荒れた6・18両国国技館では、山崎と初シングルバウト。そこで大金星をあげました(ジャーマン・スープレックス→飛びヒザ蹴りでレフェリーストップによるTKO勝ち)。あと1度のダウンで残りポイント0になるところまで追い込まれながらの逆転劇。デビューより数えて30戦目で“前髙山”の一角を崩すことに成功したのでした。

「新日本プロレスとの対抗戦」では、1995年10月9日の東京ドームでの新日本プロレスとUWFインターナショナルとの全面対抗戦で、高山が飯塚高史と対戦したことが取り上げられます。本書には、「開始のゴング前から右腕を天に向けて掲げながらニラみつけると、Uインターで見せるスタイルの合間にコーナー串刺しドロップキックのような従来のプロレス技もはさむ。終盤、裏投げを食らいフォールに来られたが、カウント2で肩を上げた。UWFにはないスリーカウントフォ―ルだが、髙山の体はちゃんと反応。Uのお株を奪うチキンウイング・フェースロックを極められたが、これを脱するとクルック・ヘッドシザース→腕ひしぎ十字固めと移行し、飯塚をタップさせた。キャリア3年ほどにもかかわらず、髙山の勝利を金星と受け取る空気はほぼ皆無。むしろ、歴史上初めて新日本を破ったUインター戦士にふさわしい存在感だった」と書かれています。

「プロレスラー人生を変えた川田利明戦」では、1996年8月17日に神宮球場で開催されたUインターの大会で、髙山が全日本プロレスからの刺客である川田利明と対戦したことが取り上げられます。本書には、「まだ見ぬプロレスの奥深さを体感したからか、髙山はデビューした頃にしか使っていなかったビッグブーツ(フロントキック)まで繰り出す。つまり、何も武器を持たず気持ちだけで向かっていった当時の動きが誘発されたのだ。それを受け切るとバックドロップで巨体を投げ捨て、キックをキャッチしてのラリアットで動きを止めた川田。本来ならば、得意技のパワーボムへいくところだろう。だが、浴びせたのはジャンピング・ハイキック4連発。3発目まではカウント2で肩を上げた髙山だが、最後は体固め……片エビ固めでないところに余力ゼロまで持っていかれた現実があった。試合タイムは8分29秒。にもかかわらず短く終わったという感はなかった。むしろ、10分弱の中に両者のアイデンティティーが凝縮された、極上の509秒間」と書かれています。

同年12月25日に博多スターレーンで開催されたUインターとしての最終試合で、髙山は髙田延彦と一騎打ちをします。ギリギリのところで、自身に多大なる影響を与えた髙田との一騎打ちを実現させたわけです。そして、本人の予感通り最初で最後の闘いとなりました。著者は、「川田戦を経験した髙山は、師を相手にしても物怖じするところがなく攻め込んでいった。だが、それを止めたのが髙田の鋭いロー。道場や合宿で、数え切れぬほどミットに受けたキックを体に刻んだ。最後は3年前の神宮球場でベイダーの右腕を担架送り(本当に腕だけ乗せて退場)にした腕ひしぎ十字固めで髙田がギブアップ勝ち。敗れた髙山は、道場の練習を終えた時のように座礼した」と述べました。

第3章「全日本プロレス」の「U系からの脱却……大森とのタッグ結成」では、1998年11月30日に宮城県スポーツセンターで開催された全日本プロレスの6人タッグで、ジャイアント馬場&本田多聞&泉田純組vs髙山善廣&大森隆男&垣原賢人組の一戦が取り上げられます。高山が生涯で唯一、馬場と対戦した試合です。著者は、「先発を買って出た髙山は、大胆にも馬場を指名。ニヤッと笑った御大の胸板に挨拶代わりの逆水平チョップを放ち、そのパートナ―にはビックブーツ……つまりは十六文キックや河津落としも繰り出した。これらの挑発行為に対し試合後、髙山が挨拶にいくと『よかったよ』と笑顔で評価してくれた。よく知られる話だが、馬場は髙山をかわいがった。オフ中、キャピタル東急ホテルへ呼び出し、食事をしながらアメリカ修行時代の話を聞かせた」と述べています。

馬場の思い出話は、プロレスマニアの髙山にとっては、おとぎ話のようにワクワクするものでした。それを物語の主人公から直接聞いているのですから。馬場は、髙山に向かって「昔なら、おまえをアメリカへいかせてやったんだけどなあ」と言いました。古きよき時代のテリトリー制は1984年、WWF(現・WWE)の全米侵攻により崩壊し、海を渡って武者修行へ出るシステムも形骸化していました。全日本の道場で練習してもいいんだぞと誘ったのも馬場でした。馬場との試合後、髙山は「もっと馬場さんの技を使ってやりたかった。今度はタッグを組んで一緒に十六文キックをやってみたいですね」と語りましたが、その夢は実現しませんでした。このシリーズ最終戦に出場したのを最後に、馬場は体調を崩しそのまま入院。年が明けた1999年1月31日に、61歳で天国へと旅立ったのです。

「小橋と繰り広げたそれまでと違う三冠戦」では、2000年5月26日の新潟市体育館で行われた三冠戦が取り上げられます。馬場の出身県である新潟県内において、三冠ヘビー級戦が開催されるのは初であり、3500人=超満員の観客が詰めかけました。同日同時刻には、東京ドームの「コロシアム2000」で船木誠勝vsヒクソン・グレイシーが行われる中、髙山はレフェリーチェック時にビッグブーツで小橋の顔面を蹴り上げる奇襲を仕掛けました。著者は、「公約通りの喧嘩ファイトに、序盤から小橋の表情が鬼神と化す。総合格闘技とは違う、プロレスならではの強さと凄さによる果たし合いは、それまで四天王と秋山に限られていた聖域とは一味も二味も違う重厚感にあふれた」と述べています。

また、右腕にヒザ蹴りをブチ込み、ラリアット封じを狙った髙山は15分過ぎにジャーマン・スープレックスをサク裂させると、20分になろうとしたところで両腕をロック。しかし、これは阻止された。腕をやられればやられるほど、ならばそれで決めてやろうとなるのが小橋という男でした。ベイダーばりの腕パンチで髙山の動きを鈍らせると、レフトハンド・ラリアットから右の剛腕を振るい196cmをなぎ倒しました。勝負タイムは21分20秒。著者は、「神宮と最初の武道館で川田から、馬場から、スタミナの差を指摘された男は、最高峰のベルトが懸かった一戦でそこまで闘うほどのタフガイになっていた」と述べます。

第4章「プロレスリングノアからPRIDEに進出」の「藤田和之が絶賛したPRIDE初陣」では、2001年5月27日に横浜アリーナで開催された「PRIDE.14」が取り上げられます。ここで第9試合のメインイベントで、髙山は藤田和之とMMAルールで闘いました。両者のコールが横浜アリーナを真っ二つに分ける中、藤田がタックルでテイクダウンを狙います。それを切った髙山は首相撲からヒザ蹴りを見舞います。前蹴りやダブル・リストロックを狙うなど、髙山の攻めはこれまでの過程で培ってきたものでした。中には、NOAHのリングで出している技もありました。

アマレス出身のレスリング・エリートである藤田に対し、格闘技の下地がないことを指摘されるたび髙山は反発しました。「俺のバックボーンはプロレスだ!」の言葉通りに闘ったのです。終盤にはマウントパンチの体勢に入られましたが、10分が終了。2ラウンドになると、両社はノーガードでパンチを打ち合いました。ただ、次第に藤田の打撃の方が顔面を捕えるようになり、髙山の顔は赤く染まっていきました。がぶりからテイクダウンさせた藤田はマウントを取ると、一気に肩固め。タップはしませんでしたが、意識が飛んでいたため島田裕二レフェリーが止め、2R2分18秒レフェリーストップで藤田が勝ちました。

「永田とのIWGP戦で年間最高試合賞」では、PRIDEに参戦した髙山はプロレスラーになってから培ってきたものでそういうスペシャリストたちと真っ向勝負していたことが指摘されます。それは、ハートが半端なく強くなければ不可能なことでした。藤田戦のあとにセーム・シュルト、ドン・フライ、(2002年の)大晦日のINOKI BOM-BA-YEではボブ・サップとやりました。ある関係者は、「全員が怪獣なんですよね。よくそこでビビらずに闘えるなと。髙山さんって、普段は穏やかでやさしい人じゃないですか。そういう性格で強い気持ちを持続するのってより大変なはずなんです」と語っています。

ノアに参戦した髙山がGHCタッグ王座を獲得した6日後の2001年12月23日、髙山はマリンメッセ福岡で開催されたPRIDE18に出場。初戦以上にNOAHのシリーズと並行する形となりましたが、ここで自ら希望したのがセーム・シュルト戦でした。極真、大道塾と空手で実績を重ね、パンクラスに参戦するや鈴木みのる、船木誠勝を破り、1999年11月28日には近藤有己から無差別級ベルトを奪取。藤田vs髙山戦の4ヵ月後にPRIDE初参戦を果たし、小路晃を1ラウンドでKO。11・3東京ドームでも佐竹雅昭を寄せつけませんでした。

通常、自分よりも大きい場合は身長差を殺すためグラウンドに誘うものだが、髙山は自分より16センチも高いシュルトと打撃で渡り合う気満々。とはいうものの、相手は空手出身で当て技の専門家である上、いざやってみたら想定以上にリーチの差があり、射的距離に入り込めません。著者は、「パンチを出すもほぼ当たらず、逆に頭蓋骨が割れたかと思うほどの拳をもらった。気がつけば、視界にはマット上のスポンサーのロゴマークが入っていた。いつの間にか左ストレートを食らいダウンし、そのままパウンドでTKOに追い込まれた」と述べています。

2003年5月2日に開催された新日本プロレスの東京ドーム大会では、髙山はIWGPヘビー級王者の永田裕志とタイトルマッチを行います。著者は、「蹴りというひとつの技の幅を広げられるのが、プロレスならではのジャンル性。ましてや、関節技よりも広いドームの隅々にまで迫力が届く。キックとパンチを融合した競技がキックボクシングならば、両者の闘いはさしずめ“キックレスリング”。もちろん互いの代表的な技であるバックドロップ・ホールドやジャーマン・スープレックスも出たが、勝負を決めたのも蹴りだった。永田が左右のハイキックを放つと、196cmが崩れ落ち、すかさず覆い被さってスリーカウント。その説得力は、総合の試合と比べてなんら見劣りしなかった。髙山のセコンドとしてともに入場してきた藤田が、激闘に触発され初防衛直後の永田をボディースラムで投げ、宣戦布告したほど(もとはケガで返上を余儀なくされたベルト)。そしてこの一戦は、その年のプロレス大賞年間最高試合賞に選ばれた」と述べています。

「伝説のドン・フライとの殴り合い」では、2002年6月23日の「PRIDE.21」で行われた髙山とドン・フライとの一戦が取り上げられます。第6試合で杉浦がダニエル・グレイシー相手にフルラウンド闘い抜き、1-2の判定で敗れたあと、エメリヤーエンコ・ヒョードルvsシュルト戦をはさみ最終試合へ。さいたまスーパーアリーナに詰めかけた2万2568人の大観衆は、両者のファイターとしての姿勢や戦前のコメントから激しい試合になることはある程度予想していたと思われました。ところが開始のゴングが鳴った時点で、それを遥かに上回る光景が、熱風のように客席へと到達します。いきなりお互いが首をつかみ合った状態となり、ノーガードのままオープンフィンガーグローブで殴り合ったのです。

この髙山とフライの殴り合いについて、著者は「相手の攻撃をいかに防ぐかが鉄則の格闘技にありながら、両者が見せたのはプロレスラー魂。みるみるうちに髙山の顔面が変形し、フライの顔も腫れていく」と書いています。その後、ヒザ蹴りを入れた髙山だがドクターチェックが入り中断。再開直後、反り投げを狙うもフライが防ぎマウントになるやパンチを連打。ここでレフェリーがストップしました。著者は、「総合格闘技の歴史の中で、指折りのドツキ合い。急きょ組まれた一戦が、PRIDE史上に残るベストバウトとなるのだから、物事は何がどう転ぶかわからない」と述べます。試合を終えた選手たちはリングサイドでこの試合を見ながら大拍手を送り、観客よりも大喜びしていたそうです。藤田も「あれがプロレスラーですよ!」と賞賛していました。

こうして髙山善廣版“世紀の一戦”は後世に語り継がれる試合となりましたが、おそらくもっとも影響を受けたと思われるのが鈴木みのるでした。その頃、鈴木はパンクラスにおける現役生活にピリオドを打ち、コーチとしての第2の人生を考え、8割方そういう生活にシフトしていました。そこで髙山vsフライ戦を見て「感動」し、すぐさま「俺は何をやってんだ? なんで終わりに向かってんだよ」となったのです。著者は、「頚椎ヘルニアを抱え、2ヵ月前のDEEPにおけるソラール戦も不本意な結果に終わるなど、鈴木は先が見えぬ日々を送っていた。髙山の試合は、同じプレイヤーの心を大きく揺さぶり、そこへ動機と生命力を与えた。触発された鈴木はこの年の11月30日に獣神サンダー・ライガーとパンクラスルールで対戦。かつての先輩から勝利をあげ、闘いへのモチベーションが蘇生する。そして翌年6月より新日本マットへ里帰りし、“プロレス王”への道を歩み始めた」と述べるのでした。

「王者・髙山、挑戦者・三沢の意義」では、2002年7月、ノアのシリーズに参戦した髙山は、8月に入ると初エントリーとなる新日本プロレス真夏のシングルリーグ戦「G1 CLIMAX」へ出陣。開幕戦の8・3大阪府立体育会館は佐々木健介との公式戦でした。初戦は健介の情念に屈したものの、以後は天山広吉、棚橋、吉江豊、越中詩郎を連破し決勝トーナメントへ進出。準決勝では西村修も退け初出場で優勝戦のリングに立ちました。最後はこの年より猪木から現場を任された蝶野が意地を見せ、外敵である髙山を破って8年ぶり4度目の夏男となりましたが、試合後に藤田、安田ら総合経験者が乱入。新日本勢も対抗したため対立概念が発生します。そして、藤田、髙山らはその後「真猪木軍」となったのでした。

こうした流れの中、昭和の新日本でフラッグシップタイトルとして歴史を刻んできたNWFヘビー級のベルトが復活。1973年12月10日にジョニー・パワーズから奪取して以後、猪木の代名詞となり定着。ストロング小林、ビル・ロビンソン、大木金太郎、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンらとこのベルトを闘い、激闘史を刻みました。最終的にはIWGP構想(乱立する世界中のタイトルを統一させる)に賛同し、1981年に封印されましたが、そのベルトが21年ぶりに復活。「新日本に本当の闘いを見せつける」ために、藤田は王座決定トーナメント1回戦で髙山との“同門対決”をプロデュースしました。8月29日の日本武道館、猪木が立ち会う中でPRIDE以来1年3ヵ月ぶりに対戦した両者。その試合を再現するかのように藤田が顔面パンチを放ち出血させましたが、髙山はヒザ蹴り6連発で野獣を沈めたのでした。

奈津子との結婚を決意した真っ只中でGHCヘビー級王者となった髙山は、同年9月23日の日本武道館大会で三沢光晴の挑戦を受けます。エルボーバットで沈められるまでの数分間、髙山は三沢の姿が二重に見えたまま闘いました。ノアのスタッフから電話で連絡を受けた奈津子は武道館へ向かい、一緒に救急車へ乗り込みました。著者は、「そこで、フライ戦のさいに腫らした顔を見た時以上の怖さを感じた。格闘技は危険と見なされればレフェリーが止めてくれる。しかし、プロレスはある意味そこから先を見せることで強さを体現する。肝の据わっている奈津子も、そこに恐怖を覚えたのだ。事実、髙山は23分50秒もの間、三沢と闘った。おそらく、途中でレフェリーがストップをかけようとしても拒否しただろう。『俺がチャンピオンで、あの三沢光晴を挑戦者として迎えたことに意義があったんだよ』多くの偉業を成し遂げた髙山だが、そこに関する誇りはどんなチャンピオンベルトよりも重く、崇高なものだったのかもしれない」と述べます。

「プロレス界の帝王として」の「2003年プロレス大賞MVP」では、天山にIWGPを明け渡した時点で「NWFは封印する」と発言していた髙山は、年をまたいだ1・4東京ドームで中邑とケジメの防衛戦を行うつもりでしたが、12・9大阪府立体育会館で歴史的快挙が生まれたことが紹介されます。中邑真輔が天山を破り、デビュー1年4ヵ月、23歳にして史上最年少IWGPヘビー級王者となったのです。そして、ドームではこのベルトも懸けて髙山と闘うことをアピールしました。大晦日は、中邑が「K-1 Dynamite!!」ナゴヤドームでキックボクサーのアレクセイ・イグナショフと対戦。3ラウンドにヒザ蹴りを食らいダウンするもすぐに立ち上がりましたが、即座にレフェリーがストップをかけTKO負けになります。しかし、中邑側の抗議が認められ無効試合に変更されました。

一方、髙山は「INOKI BOM-BA-YE 2003」神戸ウイングスタジアムでのミルコ・クロコップ戦が発表されながらその欠場により流れ、テレビ解説を務めるのみに終わりました。著者は、「いわば、中邑は1年前の自分のように大晦日の影響(減量と顔面の腫れ=骨にヒビが入っている可能性あり)を背負った状態で目の前に立った。メッタ打ち状態になるほど中邑に対し、非情な攻めに徹した髙山。ところが、どんなに蹴って、殴って、叩きつけても23歳のチャンピオンは音をあげない。そしてジャーマン・スープレックスで投げられながら体勢を入れ替えるとチキンウイング・アームロックへ。これにはさすがの帝王もギブアップした」と述べています。

「新日本の外敵エース。小橋とプロレス頂上決戦」では、新日本プロレスをⅤ字回復させたのは棚橋とされていることが紹介されます。そして中邑真輔と柴田勝頼も自分のやり方でスターダムを駆け昇りました。しかし、暗黒期に外敵エースとして髙山が君臨しなければその土壌は築けなかったのです。「TAKAYAMANIA EMPIRE Ⅲ」のメインに柴田が出場すると決まったあと、鈴木みのるは「ずっと柴田のことを気にかけていたからね、あいつ。新日本の暗黒期を一緒に乗り越えたんだもん。髙山の中では棚橋、中邑、柴田は特別ですよ。あいつは言わないけど、横で聞いていてそう思います。あの時の新日本だけでなく、プロレス界を支えたのは髙山。そこに出てきた新戦力が、この3人ですから」と語っています。そう、髙山はPRIDEに続き、新日本も救ったのでした。

2004年3月6日、ノアの日本武道館大会で髙山は小橋建太とGHC戦を行います。小橋のあまりにもデンジャラスな「リアル・ブレーンバスター」が炸裂しました。言うまでもなく、長身の髙山はこうした技を食らったことなどありません。にもかかわらず、カウント2で返しました。ならばと小橋が狙ったバーニングハンマーは堪えられましたが、4発目のラリアットから右の拳を握るとコーナー最上段へ。2000年2月27日のベイダー戦以来4年2ヵ月ぶり、そしてノアでは初解禁のムーンサルト・プレスで28分47秒、小橋は‟プロレス界の帝王”である高山を沈めたのでした。

PRIDEのオファーも来ながら、GHC戦を選んだ経緯は小橋も知っていました。だから、その意気に対し全力で応えるつもりでした。試合後の小橋は、「髙山っていうライバルがGHCを選んで、武道館に来たことで、ノアのファンだけじゃなくプロレスファンみんなのプロレスパワー、プロレス力っていうのを見せられたと思う。そういう意味では今日、髙山と闘えてよかったと思います」と語っています。敗れた髙山は起き上がると勝者と額をつけ合わせ、握手を求めぬままリングを降りました。著者は、「8度目の防衛となった小橋は『プロレス』を全身で浴びた大観衆の顔を1つずつ確認するかのように、リング中央でゆっくりと武道館を360度見渡した。年配である三沢や川田利明とは違う、同世代だからこそ築けたもの。それが当事者の2人だけでなく多くのプロレスファンと共有できる名作となったのは、かけがえのないことだ。小橋は、そういった空間こそが『財産』だと思っている」と述べています。

第6章「TAKAYAMANIA」の「頚髄完全損傷・・・想像を絶する闘い」では、2017年5月4日に大阪府豊中市にあるローズ文化ホールで行われたDDTプロレスの大会で起こった悲劇について書かれています。団体主宰者である髙木三四郎の地元ということもあり、定期的にDDTの大会が開催される会場です。試合は12時30分に開始。髙山は樋口和貞&勝俣瞬馬とのトリオで第4試合に登場し、HARASHIMA&高尾蒼馬&ヤス・ウラノと対戦。時間にすると13時半あたりになります。12分過ぎ、ウラノに対し髙山が回転エビ固めを狙いました。著者は、「言うまでもなく、過去にも意表を突く意味で何度か出している。回転エビ固めは頭から前転して決める技だが、そのまま髙山は寝そべる状態となり、動かなくなった。これを見た木曽大介レフェリーが、即座にストップをかける」と述べています。

「プロレスでしか描けぬ『髙山、立ってみろよ!』」では、2018年8月31日、後楽園ホールで開催された髙山の支援興行である「TAKAYAMANIA EMPIRE」について書かれています。当日は総勢37選手が出場したのに加え、休憩明けにスタン・ハンセン、天龍源一郎、武藤敬司、小橋建太(ゲスト解説として来場)、安生洋二、宮戸優光、垣原賢人、山本喧一、丸藤正道(試合にも出場)、ヒデオ・イタミことKENTA、そして髙田延彦からの応援メッセージ映像が流された。さらに前田日明もリングへ上がり、「髙山! プロレスラーの体はな、神経で動くんじゃねえんだよ。魂で動くんだよ! おまえも魂で体を動かせるようになって、このリングに戻ってこい!!」と激烈エールを送り、場内は大喝采となりました。大会の模様を「Abema TV」(現・ABEMA)で観戦していた当人は、その心意気に「父性を感じた」と感謝を嚙み締めました。

2024年7月4日、後楽園ホールで「TAKAYAMANIA Ⅲ」が開催されました。メインイベントは、鈴木みのるvs柴田勝頼。このとき、髙山は車椅子に乗って会場に姿を現しました。発生した大「タカヤマ」コールは、雨乞いの儀式のようでした。泣き続けながら、なんらかの言葉を漏らし続ける髙山を見て鈴木は「おまえが立てないんだったらこの勝負、お預けにしてやるよ。その代わり、てめえが還ってくるまで俺はプロレスのリングでおまえのことをずっと待っているからな! 何が帝王だ。今のプロレス王はこの俺、鈴木みのるだ! 悔しかったら立ち上がって、俺の顔を蹴っ飛ばしてみろ、この野郎!!」とマイクで告げました。ここで終了のゴングが鳴りました。

そして、著者は「髙山善廣は、リングに上がれずともちゃんとプロレスラーとして闘い、ファンに力と勇気を与えてきた。そして……鈴木みのるとのシングルマッチは今、この瞬間も続いている。あの時、勝負タイムがコールされることなく止められた、本部席のストップウォッチのスタートボタンが再び押される日は、来る――」と述べるのでした。じつは、2016年に、わたしは飛行機で高山選手と通路を挟んで隣り合わせの席に座ったことがあります。羽田から北九州へ向かうスターフライヤーの機内でしたが、金髪で巨体の彼はすごい存在感でした。スターフライヤーのシートはわりと大き目なのですが、それでも彼には窮屈そうでした。でも、じっと目を閉じて、両手を組んで、1時間半のフライトを過ごしていました。本当は、彼に「高山さん、ドン・フライ戦はすごかったですね!」と言いたかったです。髙山選手の完全復活を心よりお祈りいたします。