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No.0990 プロレス・格闘技・武道 | 人生・仕事 『教養としてのプロレス』 プチ鹿島著(双葉新書)
2014.10.02
『教養としてのプロレス』プチ鹿島著(双葉新書)を読みました。
著者は、1970年生まれのお笑い芸人で、時事ネタを得意とする芸風だそうです。帯には、著者の写真とともに「人生という”四角いジャングル”を生きるためのプロレス脳を活かした思考法の数々を開陳!」「最低限必要な教養とは、読み書き そろばん プロレス。」と書かれています。
著者の写真入りの本書の帯
カバー見返しには、以下のような内容紹介があります。
「今もっとも注目すべき文系芸人プチ鹿島による初の新書登場。90年代黄金期の週刊プロレスや、I編集長時代の週刊ファイトなどの”活字プロレス”を存分に浴びた著者による、”プロレス脳”を開花させるための超実践的思想書。『プロレスを見ることは、生きる知恵を学ぶことである』―。著者が30年以上に及ぶプロレス観戦から学びとった人生を歩むための教養を、余すところなく披瀝。すべての自己啓発本やビジネス書は、本書を前に、マットに沈む!」
この「90年代黄金期の週刊プロレスや、I編集長時代の週刊ファイト」というフレーズに、わたしの魂は激しく反応しました。まさに、わたしはこれらにどっぷりハマった人間なのです。
なにしろ、新日本プロレスも全日本プロレスも全テレビ放送を10年以上完全録画していました。しかも、SONYのベータマックスで!(泣笑)
本書は、なんといってもタイトルが秀逸です。「教養」と「プロレス」という一見相反するような言葉を組み合わせたセンスに脱帽ですが、その内容もプロレス愛に満ちています。かつての名著『私、プロレスの味方です』村松友視著(情報センター出版局)を彷彿とさせます。
本書の目次は、以下のような構成になっています。
前書き プロレスの意味を再定義する
第1章 プロレスは誰でも経験できる
第2章 半信半疑力を鍛える
第3章 人生の答え合わせができる
第4章 プロレスで学ぶメディアリテラシー
第5章 引き受ける力を持つ
第6章 差別に自覚的になる
第7章 人の多面性に気づく
第8章 無駄なものを愛す
第9章 胡散臭さを楽しむ
第10章 どんな時のユーモアは必要である
第11章 敬意をもって「下から目線」でいる
第12章 時代の転換はプロレスで確認できる
第13章 ファンタジーはリアルの上位概念である
第14章 SNS時代をプロレス脳で生き抜く
第15章 マイナーに安住するなかれ
第16章 時に、勝利に固執する
後書き プロレスも人生も「受け身」が重要である
前書き「プロレスの意味を再定義する」で、著者は次のように述べます。
「私は『プロレス』という言葉の使われ方が気になる。『取り決めがある』『茶番』的なネガティブな表現で使用されることが多い。ハッキリ言えば『八百長』の意味だ。テレビではコメンテーターが国会の乱闘シーンを見て『これはプロレスで・・・・・・』などと半笑い気味で使う。
何を言っているのか。言っておくが、正しい『プロレス』の使い方はまったく違う。『モノの見方』のことである。予想以上のものを見たとき、心が揺さぶられているとき、それを解釈しようとする心。それこそがプロレスである」
その正しい使い方が、久しぶりに日本中がテレビを注視した夜に某タレントの口から出ました。そのタレントとは、タモリです。そうです、ブログ「笑っていいとも! グランドフィナーレ」で紹介した番組で、タモリが「プロレス」の正しい使い方を口にしたのです。著者は、次のように書いています。
「そのフィナーレでテレビ史に残る事件が起きた。
明石家さんま、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、爆笑問題、ナインティナイン(以上敬称略)の『お笑いアベンジャーズ』とでも言うべきヒーローたちが同じ『絵』に収まったのである。
あのときの『とんでもないものを見ている』という驚きとワクワク、『いったいどんな事情でこうなった!?』という興奮。今後、語り継がれるであろう歴史的場面。あれを見た人の感動や驚き、一方で『どこまで段取りがあったの?』という半信半疑や各々の解釈。
すべて、それらが『プロレス』なのである。プロレスの醍醐味なのである。
真実を知りたい、何かについて語りたいという野次馬精神。人々はそう思ったとき『プロレスを見ている』のだ。プロレスしているのだ」
さらに著者は、「タモリさんは『これ・・・・・・プロレス?』の言葉の前に『すごい』と漏らしていたので『こういう段取りなの?』という、その場を茶化した意味でつぶやいたわけではない。『ホントにこのリングに揃っちゃったの? これから何が起こるの?』と興奮した、正しい意味での『プロレス』の使い方だったのだ」と述べています。
著者は「前書き」の最後で、以下のように書いています。
「この本は、実はプロレス本ではない。」と。
本書には数多くのプロレスラーの名前や名勝負のエピソードが登場します。それでも「プロレス本」ではないというのは、以下のような意味です。
「世の中の森羅万象を語ろうとしたら、わかろうとしたら、たまたまプロレスで学んだことが役立つことに気づいたのです。こんな楽しい見方や解釈のこと、おそらく多くの人は知らないと思う。人生を歩むうえで、『プロレス脳』がどれだけ有効なのか、おそらく多くの人は知らないと思う」
本書は最初から最後まで面白いのですが、特に第9章「胡散臭さを楽しむ」が良かったです。著者は「wbc「とは力道山時代のプロレスである」として、WBC(ワールドベースボールクラシック)の持つ胡散臭さを指摘します。
著者は、2006年の第1回大会から毎回ガッツリ見ているそうです。というのも、WBCの興行臭に懐かしきプロレスのそれを感じてしまうからとか。「野球世界一を決める」という大風呂敷の広げ方にワクワクしつつも、一方で「なぜ3月に?」「なぜこのルールで?」という疑心暗鬼と半信半疑がついて回るといいます。そして、著者は以下のように述べています。
「実際に始まってみれば、『アメリカとの試合でアメリカ人の審判に足をすくわれる』『韓国に負けたあとに、マウンドに国旗を突き差され大喜びされる』など、およそ真っ当な国際大会にはあり得ない振る舞いの数々を受けた。
ところがだ。混沌は時としてダイナミズムを生む。大会の杜撰さとデタラメっぷりが逆に『興行』の大爆発を誘発したのである」
さらに、著者は以下のように述べます。
「世界一を争う大会で日本と韓国が何度も闘うというのは、国際大会ならあり得ない設定でツッコミどころ満載なのだが、そんなキチンとした『公式性』より、目前の『ドラマ性』に日本人はすっかり燃え上ってしまったのである。最初は様子見だったのに、いつの間にか熱狂。グレーゾーンの多さが、おもしろさに転化されてしまった。たぶん、力道山が初めてプロレス興行を見せたときも、これに近い感じだったのではないだろうか?」
第13章「ファンタジーはリアルの上位概念である」も良かった! その中の「ファンタジーの体現者アンドレ・ザ・ジャイアント」では、著者は身長223センチの「人間山脈」「世界8番目の不思議」「一人民族大移動」と呼ばれたアンドレ・ザ・ジャイアントの次のようなエピソードを紹介します。
「その昔、ドリーファンク・ジュニアが控室で『世界最強のレスラーは誰か?』という話をレスラー仲間でしていた。誰かがアンドレの名前を出した。ドリーは怪訝そうな顔をして『アンドレは別だろう?』と発言者をたしなめた。子供の頃に読んだプロレス記者が書いた本のエピソードである。そう、アンドレはファンタジーの世界の住人」
著者は「現代思想 総特集プロレス」(2002年2月臨時増刊号)の中で、澤野雅樹氏が書いた以下の言葉を紹介しています。
「アンドレ・ザ・ジャイアントがいる世界と、アンドレ・ザ・ジャイアントがいなくなった世界との違いは、実は途轍もなく大きいと思うんですよ。アンドレがいなくなった瞬間からだんだん人間化への道、スポーツ化への道を辿っていて、怪物達のシアターみたいな形で存在していたプロレスが、ほぼ終わったのかなという気がしないでもない」
その後、アンドレは1986年6月17日、愛知県体育館でアントニオ猪木と戦います、この日は、猪木がアンドレから変形の腕固めでギブアップを奪った歴史的な日となりました。猪木ですら最後まで3カウントはアンドレから取れませんでしたが、ついにギブアップを奪ったのです。まさに、ビッグサプライズでした。アンドレはこのシリーズを最後に新日本プロレスを去り、90年に全日本プロレスに転出します。ジャイアント馬場との巨人タッグなどを実現して、93年に亡くなります。
神話を終えたアンドレについて、著者は次のように述べます。
「アンドレがいなくなった瞬間からプロレスは人間化への道、スポーツ化への道を辿っていったとするのであれば、アンドレだけでなくプロレスの神話が終わったのも、この頃だろう。
全日本では、その年から『四天王プロレス』が始まった。三沢光晴と川田利明、小橋健太、田上明の四天王と呼ばれる若手レスラーが行った試合スタイルのことだ。プロレスの特徴でもあったグレーゾーンの撤廃。具体的には両者リングアウトや販促、流血試合や反則のない、ピンフォールによってのみ決着するスタイルを推し進めた。不透明の排除にファンは狂喜した。一方で危険な技の工房がどんどんエスカレートしていった」
著者は、さらなる「アンドレが去った後の地殻変動」について述べます。
「海外でも新しい潮流が。1993年、アメリカでは11月12日にコロラド州デンバーで現在の『UFC』第1回大会がスタートした。
UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)とは、バーリ・トゥード(何でもありの意味)ルールで始まった究極(アルティメット)の格闘イベントのことである。試合は『オクタゴン』と呼ばれる金網に囲まれた八角形のリングで行われる。初期ルールでは噛みつき、金的への攻撃、目潰し以外の攻撃がすべて認められていた。現在は、よりスポーツ化が進んで洗練され、世界中の格闘家たちの目標になっている。つまり、アンドレがいなくなった年に、息の抜けないリアルな時代が始まったのだ」
約300ページの新書を一気に読みました。読みながら、わたしは非常に気持ち良かったです。『私、プロレスの味方です』を初めて読んだときの記憶が甦ってきました。90年代の「週刊プロレス」や「週刊ファイト」を読み耽った頃を思い出しました。プロレスの面白さを改めて再確認しました。そして、プロレス以外のジャンルでもプロレス的に見ることを学びました。著者の今後の著作活動に大いに期待します。