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2025.11.22
11月21日、東京から北九州に戻りました、その日の朝、東京のホテルで『「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)の見本を受け取りました。125冊目の一条本で、「この社会現象は、なぜ続くのか」というサブタイトルがついています。
『「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)
本書の帯
本書の帯には、「鬼滅の刃」の主人公・竈門炭治郎に扮したわたしが日輪刀を構えている写真が使われ、「大ヒットの本質は『アイデンティティ喪失』のケアにあり」「目からウロコの『新日本文化論』誕生」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「『鬼滅の刃』は神道・儒教・仏教を包含する日本人の精神安定剤」と大書され、「主な内容」として「●文化の集積地としての『鬼滅の刃』」「●力道山と『鬼滅の刃』」「●『国宝』と日本人」「●なぜ、『鬼滅の刃』は海外でも受けたのか?」と書かれています。
本書のカバー前そで
カバー前そでには、「コロナ禍で祭礼や参拝が失われた令和二年、そして政治不信や米不足、外国人による文化的動揺が深刻化する令和七年という二つの不安な時代に、『鬼滅の刃』は劇場版として大ヒットし(中略)秩序を回復する象徴として機能し、いわば大衆的な祭礼として受容されました(まえがき「経済的効果だけでは語れない大ヒットの本質」より)」と書かれています。
「目次」より
本書の「目次」は、以下の通りです。
まえがき「経済効果だけでは語れない大ヒットの本質」
第1章 「鬼滅の刃」という事件
コミックはこう読んだ
●日本人の心に棲みついた「鬼」
●ルーツは手塚の三作品だった
アニメはこう観た
●描かれる「呼吸」と「痛み」
●アニメのルーツも手塚ワールド
映画「無限列車編」はこう観た
●観終わって浮かんだ疑問
●「夢」が果たす役割
●マネジメントやリーダーシップが学べる
映画「無限城編 第一章 猗窩座再来」はこう観た
●社会現象の再来
●「こころ」の不安をケアする物語
最終巻の衝撃
●結婚をイメージしたハッピーエンド
●「死者」の気配
●高齢者に波及した理由
第2章 「鬼滅の刃」が描く
魂のルール
「鬼滅の刃」にみる日本人の精神世界
神道~「鬼滅の刃」が描く神の姿と神楽、
そして命のつながり~
【「神」について】
【ヒノカミ神楽】
【魂と転生】
【世代をこえて】
儒教~物語に息づく八徳~
【仁】【義】【礼】【智】【忠】【信】【孝】【悌】
仏教~知足、因果応報思想と怨親平等~
●死後観・人生観
【地獄】
【三途の川】
●知足
●因果応報
●怨親平等
先祖~混ざり合った日本人の「こころ」
日本人の「こころ」を追求した心学
日本人の宗教は「&」の文化
先祖供養こそ日本最大の宗教である
「先祖祭り」は日本人の信仰の根幹
祭り~祈りができなかった日本人
●「鬼滅の刃」が教えてくれた年中行事の意義
「目次」より
第3章 日本人の「ふるさと」
としての「鬼滅の刃」
「鬼滅の刃」は日本人の「ふるさと」の物語
「はじめに」
1.家族観――喪失から疑似親族へ
2.死生観――祖霊との往還
3.共同体意識――通過儀礼と位階制
4.儀礼の可視性――ヒノカミ神楽
「むすび」
第4章 日本人のアイデンティティ
の不安と「鬼滅の刃」
1.「鬼滅の刃」二度の流行
2.米不足と「鬼滅の刃」の流行
3.社寺参拝・祭礼の役割
4.アイデンティティ不安と「鬼滅の刃」
5.現代日本におけるアイデンティティの揺らぎ
6.日本人のアイデンティティとしての「鬼滅の刃」
7.現代日本人と熊
第5章 文化の集積地
としての「鬼滅の刃」
1.文化現象と「鬼滅の刃」
2.「鬼滅の刃」と大正の街
3.「鬼滅の刃」にみえる大正の風俗
4.遊郭編を中心とした「文化の集積地」
5.現代大衆文化としての再構成
第6章 力道山と「鬼滅の刃」
1.英雄を求める時代
2.力道山という英雄
3.「鬼滅の刃」の英雄像
4.英雄とは何か
「目次」より
第7章 「国宝」と日本人
1.映画「国宝」の大ヒット
2.「任侠」とは何か
3.日本における「任侠」
4.任侠映画の時代
5.「国宝」のテーマは「血液か才能か」
6.儒教における「孝」の思想
第8章 なぜ、「鬼滅の刃」は
海外でも受けたのか?
1.循環的要因
2.物語の普遍性
①出立②イニシエーション③帰還(Return)
3.普遍的道徳観とカタルシス
あとがき「再び、日本人にとって『鬼』とは何か」
【参考資料】
「鬼滅の刃」の勢いが止まりません。
2025年7月18日、一条真也の映画館「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」で紹介した「鬼滅の刃」シリーズの最新映画が公開されましたが、世界総興行収入が1000億円に達し、日本映画の歴代興行収入1位を記録したことが同作の製作会社であるアニプレックスから発表されました。一条真也の映画館「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した5年前の2020年に公開された前作は興行収入国内歴代1位に輝きましたが、今回はそれを超えたわけです。
新作の「無限城編」は北米市場でも公開されましたが、公開初週の興行収入はアニメ映画としては過去最高記録となる推定7000万ドル(約103億円)を記録しました。ソニー・ピクチャーズエンタテインメント傘下のクランチロールが配給を手掛ける同作は、公開初日だけで3300万ドルを稼ぎ出し、1999年に公開された「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」の3100万ドルを超えました。アニメ映画のオープニングとしては過去最高です!
5年前、原作コミックも、アニメも、映画も、そして関連グッズも、すべてが信じられないほどヒットするブームは「『鬼滅の刃』現象」などと呼ばれました。大ヒットの理由については、新聞・雑誌などのマスメディア、YouTubeなどのネットメディアが考察し、さらには心理学者、社会学者、経済学者までもを巻き込んで研究されました。配信インフラの充実、映画館の独占など、ブームの要因は様々に分析されています(それらの検証は本文に譲ります)。わたしは文筆活動を始める以前は、広告代理店でマーケターとして働いており、プロモーションから商品開発などに携わってきました。イベント企画なども手掛けた経験もあります。ゆえに、このブームにも当然興味を持ちました。
『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)
正直に告白するなら、「鬼滅の刃」については、わたしは「週刊少年ジャンプ」連載中に注目していたわけではありません。ある出来事がきっかけでアニメを全話観て、続いて劇場版を観て、それからコミックを読破しました。結果、経済効果という視点からでは見えてこない、社会現象にまでなった大ヒットの本質を発見しました。その本質について、わたしは前作『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林) を上梓し、かなりの話題となりました。前回のブームには、漫画の神様である手塚治虫の存在や、現代日本人が意識していない神道や儒教や仏教の影響を見ることができました。
神道・儒教・仏教は日本人の「こころの三本柱」
わたしは日本人の「こころ」は神道・儒教・仏教の3つの宗教によって支えられていると思っています。神道・儒教・仏教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描いたのは聖徳太子ですが、江戸時代に「神仏儒正味一粒丸」を唱えたのは二宮尊徳でした。そして、「鬼滅の刃」の主人公・炭治郎には尊徳の幼少期である二宮金次郎の面影が宿っています。わたしは、前回と同じく今回のブームも単なる経済的な効果を論じるだけではない、大きな転換点を感じています。5年前は、新型コロナウイルスの感染におびえ、祭礼や年中行事を行うことができなかった日本人にとっての精神的免疫とでもいうべき存在が「鬼滅の刃」でした。
「鬼滅の刃」は、家族・共同体・儀礼といった炭治郎が喪ったものを、1つ1つ再構築していく物語です。言い換えれば、それは彼自身にとっての「精神的故郷」を再建する物語であるのです。物語の冒頭で炭治郎は一家を喪い、帰るべき家を失いました。しかし鬼殺隊に入り、擬制的な親族関係を築き、死者と交感し、共同体に加入し、さらに儀礼を継承することで、失われた家族は別のかたちで再生されていきます。これらの諸要素はすべて、炭治郎が行う「故郷の再建」として読むことができます。同時に、「鬼滅の刃」が描いているのは、炭治郎個人の精神的故郷にとどまりません。
その物語構造は『古事記』『日本書紀』をはじめとする神話伝承と深く重なっています。死者との再会と帰還、大國主命が試練を経て新たな地位を得る異界往還譚、天岩戸における舞による光の再生――いずれも喪失と再生、死と再生をめぐる普遍的なモチーフです。「鬼滅の刃」は、こうした神話的構造を現代に再演した物語であり、だからこそ世代を超えて「懐かしい」と感じさせる力を持ちます。すなわち本作は現代神話として、日本人にとっての精神的故郷を映し出しているのです。結局のところ、「鬼滅の刃」の魅力は、単なる娯楽作品を超え、古典的神話を踏襲しつつ日本人の故郷的感覚を呼び覚ました点にあります。
自国の古典に手を伸ばすことが少なくなったわたしたちにとって、本作はその代替物として、安心と帰属の感覚を与えてくれたのです。「鬼滅の刃」の社会的流行は偶然の産物ではなく、数々の複合的な要因が絡まって生まれた必然です。同作が流行した要因の1つを、本書では日本人のアイデンティティ不安にもとめて論述してきました。コロナ禍で祭礼や参詣が失われた令和2年、そして政治不信や米不足、外国人増加による文化的動揺が深刻化する令和7年という3つの不安な時代に、同作の劇場版が空前のヒットを遂げた事実は象徴的です。同作は人々の不安を和らげ、秩序を回復する象徴として機能し、いわば大衆的な祭礼として受容されました。
ここで注目すべきは、現在の米騒動と平成5年の米騒動との違いです。当時の米不足は一過性の異常気象によるものであり、人々は外米への違和感を通じて「やはり日本人には日本米だ」という誇りを再確認する方向に働きました。それに対して、令和の米不足は気候変動や農業衰退といった構造的要因が背景にあり、「日本文化の基盤が揺らいでいるのではないか」という持続的な不安に直結しています。前者が「誇り」を強化したのに対し、後者は「アイデンティティ」の不安を掘り起こしたのです。「鬼滅の刃」はまさにその空白を埋める象徴的物語として選び取られたといえるでしょう。
日本人のアイデンティティを揺るがしているものに、日本国内における外国人の増加問題があります。社会問題化している観光公害・オーバーツーリズムの問題はそれが顕在化した最たる例です。しかも観光地として選ばれる日本的なもの――たとえば社寺ですが、そうした場所に観光客が一極集中することにより、本来その施設を精神的な支柱としていて、またその施設を支えるはずであった地元民が参詣しにくくなるという状況を作り出しています。社寺などで行われる祭礼が日本人のアイデンティティに深く寄与してきた事実がありますが、このような形でもこれに対する動揺は広がっていると思えます。
インバウンドのような適法な外国人ですらわたしたちはアイデンティティを揺るがす存在としてみている部分があります。それが埼玉県川口市などで問題になっている不法外国人や違法行為にはしる外国人であれば、その脅威ははかりしれません。「鬼滅の刃」は、こうした状況に対して象徴的な物語を提供しています。鬼の正体を外国人とする近代に流行した俗説ではありませんが、基本的に、鬼とは共同体にとって異質な存在であり排除の対象でした。先の参議院選でも大きな争点の1つになりましたが、現代日本人は外国人との共生をめぐって極めて微妙な感情を抱いています。端的に言えば「恐れ」と「受容」です。「鬼滅」はこの感情をそのまま表したものといっても過言ではありません。
近年、わたしたち日本人の安全を巡る問題として「熊」の問題があります。日本には本州に棲むツキノワグマと、北海道のヒグマという2種の熊が生息していますが、近年、これらによる人身被害は増加しているとマスコミなどで喧伝されています。熊はもはや「山奥の獣」ではなく、日常の安全を脅かす「現代的脅威」となっています。そもそも、熊は本来山林の奥に棲み、人間社会と一定の距離を保つ存在でした。それが里に下りてきて人間を喰うということは、熊が「鬼」化しているということが言えます。熊について考えることは「鬼」について考えることでもあるのです。
日本人・熊・鬼の関係を考える
熊が人里に下りてくるのは、山林を切り開き、里山を放棄し、地球温暖化を加速させ、生態系を撹乱した人間の営みがもたらした結果でもあります。熊を「境界を侵犯する脅威=鬼」とみなすのは容易ですが、熊から見ればむしろ人間こそが鬼なのではないでしょうか。熊はただ生き延びるために行動しているに過ぎないのに、その存在を一方的に「害」と断じ、駆除するのは人間です。自然界の秩序を乱し、異質な存在を生み出しているのは、わたしたち自身なのです。熊の立場に立てば、ただ生きているだけで駆除され、しかも食料としても利用されないことは理不尽に映るでしょう。むしろ人間を生き延びるために襲う「鬼滅」の鬼の方が、まだ一貫した論理を持っているとすら考えられます。
「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」が社会現象を巻き起こす中で、同時に大ヒットを記録した実写映画がありました。ブログ「国宝」で紹介した歌舞伎の世界を描いた日本映画の大傑作です。この作品について考えることは「鬼滅の刃」について考えるための思考の補助線になるということを発見しました。鬼滅光線と国宝光線の二本を同時に放射すれば、「日本人」の精神的本質が明確に浮き彫りになります。ちなみに、日本の実写映画として歴代1位の興行成績を記録した「国宝」という映画には2つのジャンルがクロスオーヴァ―しています。すなわち、芸道映画であると同時に任侠映画でもあるのです。そして、「鬼滅の刃」もじつは任侠の世界を描いているというのがわたしの考えです。
映画「国宝」との共通点も指摘
任侠とは、仁義を重んじ、弱きを助け強きを挫くために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す言葉です。ヤクザ史研究家の藤田五郎氏によれば、正しい任侠精神とは正邪の分別と勧善懲悪にあるといいます。仁侠(じんきょう)、義侠心(ぎきょうしん)、侠気(きょうき)、男気(おとこぎ)などとも呼ばれます。仁義を重んじる任侠的精神は、当然ながら儒教と深い関わりがあります。中国での任侠の歴史は古く、春秋時代に生まれたとされ、情を施されれば命をかけて恩義を返すことにより義理を果たすという精神を重んじ、法で縛られることを嫌った者が任侠に走ったとされます。正義よりも義理が優先される世界なのです。日本人のアイデンティティが揺れたとき、日本人は「鬼滅の刃」や「国宝」といったきわめて日本的な物語を求めたのではないでしょうか?
「鬼滅の刃」は現代の力道山?
2025年は昭和100年。戦後、すでに80年が経ちました。現代と80年前に共通していることがあります。その1つが、社会全体が「英雄」を求めていることです。昭和20年代と令和の日本。時代も社会的背景もまったくといってよい程異なりますが、人々の心は「英雄」を求めました。その結果、それぞれの時代に誕生して圧倒的な共鳴を呼んだのが、2つのタイプの「英雄」ではないでしょうか。1つは昭和のプロレスラー・力道山であり、もう1つは竈門炭治郎をはじめとする「鬼滅の刃」の主人公たちです。両者はいずれも日本人のアイデンティティを揺るがす社会不安のただ中で受け入れられました。
さらに、「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」は日本のみならず、北米や韓国をはじめとした海外でも爆発的なヒットを記録しました。「鬼滅の刃」が日本人だけでなく世界中の人々の心に刺さったのはわたしも想定外でした。この物語には、人類の無意識に触れる普遍性があるのでしょう。本書の執筆にあたっては瀬津隆彦氏(皇産霊神社権宮司・サンレー式典長)から、いろいろとレクチャーを受けました。瀬津氏という鬼滅博士のおかげで短い時間で鬼滅の世界観やキャラクター像を把握することができ、感謝しています。相変わらず国内も国外も政治が不透明で、社会全体がストレスフルな現在、ささやかなこの本が多くの日本人にとって未来を生きていくヒントとなることを願っています。『「鬼滅の刃」と日本人』は12月4日の発売で、現在予約受付中です。わたしが「日本再生」への祈りを込めて書いた本です。ぜひ、本書をお買い求めの上、ご一読下さい!
「日本再生」への祈りを込めて・・・