No.2449 読書論・読書術 『ずっと幸せなら本なんて読まなかった』 三宅香帆著(幻冬舎新書)

2026.02.27

ずっと幸せなら本なんて読まなかった』三宅香帆著(幻冬舎新書)を読みました。「人生の悩み・苦しみに効く名作33」というサブタイトルがついています。著者は、1994(平成6)年高知県生まれ。文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中退。主に文芸評論、社会批評などの分野で幅広く活動しています。一条信也の読書館『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で紹介した著書で一躍“時の人”となり、NHKの紅白歌合戦の審査員まで務めた著者の新作ですね。本書は、2019年9月に幻冬舎より刊行された『副作用あります!?人生おたすけ処方本』に加筆・修正したものです。

本書の帯

本書の帯には、「ベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』」として、著者の顔写真が使われています。また、「寄り添う。見守る。救う。裏切らない。それが本なんです!」「あなたの気分にあわせて、おすすめの作品を選びました」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「悔しいとき」として、「悔しいときはちゃんとがんばったほうが、後悔することが少ないと教える――『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹」。「仕事に行きたくないとき」として、「きちんと生きて、いい人生にできるといいなと思えるようになる――『荒涼館』チャールズ・ディケンズ」。「若者ゆえの迷惑にイラつくとき」として、「おじさん、おばさんにしかできないことがこの世にあることを教えてくれる――『坂の上の雲』司馬遼太郎」。「残業で疲れきって本が読めないとき」として、「自分が機嫌よくいられるのが一番だなと思える――『るきさん』高野文子」。「孤独を感じたとき」として、「同性愛、強姦、近親相姦、障害、突然の死・・・・・・悩みを抱える登場人物が、あなたの居場所を作ってくれる――『ホテル・ニューハンプシャー』ジョン・アーヴィンング」。以上のように書かれています。

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「いつも幸せだったら本など読まずに生きていけるけど、残念ながら、一ミリの退屈も苦痛も後悔もない人生などない! つらいときこそ、本は寄り添い、解決法も教えてくれる。だからこそ、人生に読書は不可欠なのだ。本書では、古今の名作から、『悔しいとき』『仕事に行きたくないとき』『孤独を感じたとき』などの“症状”別に、小説、漫画、エッセイなど33作を独自の目線でセレクト。あなたを救う作品はどれだ? 心が整い、読書時間が愛おしくなる一冊。(本書は、2019年に刊行された『人生おたすけ処方本』を改題したものです)」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「新書版まえがき」
「はじめに」
対症療法編
この苦しみ、とにかくどうにかしたい!
予防編
未然に防ぐ、これ大事!
変身編
自分を脱ぎ捨て、劇的に変わりたい!
滋養強壮編
この一冊で、バッチリ元気!
「おわりに」
「新書版あとがき」

「新書版まえがき」の冒頭を、著者は「まったく他人に相談しない人生だった。仲の良い人にも、自分の葛藤を伝えることはあまりない。進学先も就職先も結局自分ひとりで決めた。あまりに相談しなすぎて、結婚したとき両親に顔合わせの場で「もう本当にこの子は人生のすべてが事後報告で」と苦笑しながら紹介された。どんな紹介だ。自分のなかで生煮えのことについて他人に打ち明けるのが苦手だ。アドバイスを求めるならば明確に答えがほしいことについて聞きたい。他人に相談しない。そう言うと、不思議そうな顔で見られる。だけど私にとっては、ずっとずっと究極の相談相手が存在していた。それが、本だった」と書きだしています。

人生で悩みや葛藤を抱えるたび、解決しようのない苦しみを感じるたび、しんどいなと思うたび、著者は本をひらいてきたそうです。小説でも批評でも漫画でもノンフィクションでも、本は常に私の悩みに答えてくれました。著者は、「悩みなんか抱えたことがなくて、苦しみなんか味わったことがなくて、人生がずっとずっと、幸せだったなら――もしかして私は、本を読まなかったのかもしれない。ふいにそう思うときがある」と述べています。

「はじめに」の冒頭を、著者は
「重い腰を上げて『本を読もう!』と思うタイミングは、ふたつあります。ひとつは、本に憧れたとき。たとえば小学生のとき、本を読んでる同級生がなんかかっこいいな~と思って、自分も分厚い『ハリー・ポッター』を読んでみる。いい光景ですね。ほかにも中学生のときにちょっと背伸びした小説を買ったり、大学生になって教授がすすめた本を読んだりすることもあるでしょう。しかし本を読むタイミングはもうひとつあります。それは、自分が思い悩んだとき」と書きだしています。著者自身は、小説やエッセイや批評といった本を読むのが好きだそうですが、それらのジャンルを好きな理由は「読書が楽しいから」だけではありません。楽しいからだけではなくて、「自分にとって一番しっくりくるヒントをくれるのが本だから」なのだといいます。

「対症療法編」の1「怒られた日の夜に読む本」では、『夏が僕を抱く』豊島ミホ著(祥伝社文庫)が取り上げられます。著者は、「小説には、というか『夏が僕を抱く』には、会社にいるときには思い出さない無数の感情がさらっと描かれる。たとえば、たぶん望めばずっとここにいられるけどでもこのまま甘えられないんだよなって諦めることとか、今は一瞬の意地で決意したけどそれはたぶん1年後には守れていない意地なんだろうなってうっすら分かることとか、幻想をずうっと見てたかった相手がやっぱりそんなの見せ続けてくれないんだって知ってることとか。ぜんぶ、大昔に感じたけど、ああやっぱりそんなの一瞬のことだよなって忘れようとしてた感情が、小説のなかで雨みたいに降ってくる。だから私はこの小説を家で読んで、ちょっと窓の外の現実のことを忘れて、それから眠って、また明日現実に返ってゆく。いい子に戻ろうって、思う」と書いています。

2「風呂に入りたくないときに読む本」では、『たいのおかしら』さくらももこ著(集英社文庫)が取り上げられます。著者は、「なんでこんなに面白いのか分からんけど、さくらももこのエッセイは面白い。ってもはや日本国民全員がご存知であろう事実であるので、そこには深くツッコミはしない。しかしさくらももこのエッセイの何がすごいのかといえば、この人のエッセイを、たとえばひとつの章を読み始める。最初の出だしの部分だけ、と。すると気がついたときに私は『はっ』と顔をあげる。数分経っている。気がつけばページは章の最後になっている。さくらももこくらい、読者の目をするする進ませる文章を書ける作家って、いない」と書いています。

3「女になりたいときに読む本」では、『女生徒』太宰治著(角川文庫)が取り上げられます。著者は、「なんとまあ太宰治は男性なのに女の子の一人称を書くのが上手いんだ・・・・・・とびっくりしてしまうのだけど、この小説には種明かしがある」と書きます。というのも、全編を太宰治が書いたわけではなく、彼のファンであった有明淑という実在の「女生徒」が日記を太宰に送りつけ、その日記を太宰が改編する形で小説に仕立てた作品なのです。著者は、「いやー、私はもともと『女生徒』の何とも言えない女子特有のふわふわした語りが好きだったもんで、はじめてこの事実を知ったときは少しショックだった。なんだ、太宰の上手いと思っていた女の子語りは、ふつーの女の子の日記だったのか・・・・・・。そう思って読めば、なんとなく色あせてしまう」と述べます。

元ネタは「ふつーの女の子の日記」だったとしても、『女生徒』には太宰治の「理想の女の子に語ってほしい! ロマンチック文章」が過分に付け足されていることが分かるとして、著者は「当人からしたら苦しくて苦しくてしょうがないこと。だけど他人は「そんなん、まあちょっとがまんしてれば治るよ」なんて言う。それは、一見、思春期の女の子の苦しみを語ったように見えて、実は太宰治自身の苦しみを語っているのではないか、と思える」と述べます。『女生徒』には太宰が「女の子になったからこそ」書けた文章が遍在しているという著者は、「それを読むとき私たちは、自分がなりたかったけどなれなかった、そして言いたかったけど言えなかった、『女生徒』の女の子として語ることができる、のだと思う」と述べるのでした。

5「友達とギクシャクしているときに読む本」では、『凍りのくじら』辻村深月著(講談社文庫)が取り上げられます。著者は、「中高生のときって友達がいても孤独だったように思う」と述べます。ギクシャクした経験というよりも、友達がいても微妙に自分の浮遊感を隠しきれない、そんな時代は誰にだってあるだろうといいます。見た目はいくら友達とうまくやっていても、自分の心の奥底では「友達ってこんなもんだっけなあ、どうしようかなあ」と迷っている、のがみんな本音ではないかというのです。辻村深月の『凍りのくじら』を読むと、あの頃の感覚がふっと蘇るという著者は、「自分ばっかり孤独だと思い込んで、誰のことも愛する気なんかなくて、それでも世界への妙な期待ばかりが膨らんでいた。友達、という存在との距離感が、ものすごく難しかった時期であったようにも思う。剝き出しの自意識のぶつかりあい。今となっては冷や汗しかかけない」と述べるのでした。

6「ひとめぼれしたときに読む本」では、『構造と力 記号論を超えて』浅田彰著(勁草書房)が取り上げられます。わたしも大学時代に読みましたが、非常に難解な現代思想の本です。著者は大学に入って数年経った当初、「とりあえず文学部に入ってるしここはひとつ『構造と力』の1冊でも読まねば、と思って(まじめだったのでね)、手にとったんですけど。何を言ってるか、まったく、分からなかった・・・・・・。難しいんだよね! 浅田彰」と書いています。でも今再読すると、要は「むかしはがっつり社会で構造が決まっていて、自分はそれに沿って生きるだけだったけど、今は構造がどんどんなくなって自己選択してかなきゃならん。大変だ」という話と、「なら未来では、誰かが自分に合った何かを決めてくれる社会にならないかな~」って話を書いているのだと思うのだとか。難解な本をこんなにざっくり要約できる著者はすごい!

7「出張のおともに持って行く本」では、『バートン版 千夜一夜物語 第1巻』大場正史訳(ちくま文庫)が取り上げられます。日本で言えば「今昔物語集」とか、外国だと「イソップ物語」のような、さまざまな物語がひとつに集まったアラビアの物語集が「千夜一夜物語」だと、著者はとらえます。ちくま文庫からは『バートン版 千夜一夜物語』が全巻出ています。「バートン版」というのは、イギリスの探検家であり翻訳家であるリチャード・バートンが、残存する物語たちを集め、翻訳した版のことです。注釈が非常に詳しいことが特徴で、収録されている物語が一番多いと紹介し、著者は「出張のときって、そんなにがっつり長時間本が読めるわけでもないし、だけどちょっとした空き時間は意外とあったりするじゃないですか。そんなときに、『千夜一夜物語』みたいな、ふだんは非現実的すぎて読めないけれど、出張や旅行のときなら浸って読める! という本を読むと楽しいですよ」と述べるのでした。

9「同棲するか悩んでいるときに読む本」では、『いくつもの週末』江國香織著(集英社文庫)が取り上げられます。この本について、著者は、「愛情をかける、ということの美しさを、たまに私たちは誤解する。愛情は究極、もらうかあげるかの一方通行同士でしかない。暴力みたいなもんだ。ガツン! 痛みになるか快楽になるかはその程度次第なのであって。もちろん夫婦だけじゃなく、人間関係すべてにおける愛に当てはまることだけど。だから江國さんは言う。愛は憂鬱なのだ、と。愛してるから離れられなくて、憂鬱だ、と。そんな『いくつもの週末』には、一緒に住んで生活をともにするからこそ抱く淋しさや苦しさが遺憾なく描かれていて、まだ家族以外の人と一緒に住んだことのない私を震撼させる」と書いています。

10「面白くない映画を観たあとに読む本」では、『華氏451度(新訳版)』レイ・ブラッドベリ著、伊藤典夫訳(ハヤカワSF文庫)が取り上げられます。著者は、「なぜ『華氏451度』の世界で、国家は映像もラジオも許すのに「本」は禁止するのか?――それはほかならない「言葉」こそが私たちの思考をつくっているのだと、知っているから」だといいます。わたしたちは他人の発する言葉を読んで覚え、それを使って自分の言葉を発します。オリジナルの文章や発言なんてほんとはなくて、誰かのコピーの集積でしかない。誰をコピーしたがるのかは人によるでしょうが、自分の触れている言葉が自分の思考をつくることに間違いはありません。著者は、「SNSなんか見ていたら分かることですが、私たちにとっては、自分の触れた言葉がそのまま、自分の思想であり、自分の世界なんでしょう」と述べます。また、自分の触れる言葉が変われば、自分も変わってゆきます。だとすると。大衆をコントロールしようとするときは、大衆が「触れる言葉」をコントロールするのが一番効き目があります。言葉を制限されたときに自由な思考などありえません。だからこそ言葉は一番最初にコントロールされる箇所なのだと指摘するのでした。

12「おじさん・おばさんになりたくないときに読む本」では、『坂の上の雲』1~8、司馬遼太郎著(文春文庫)が取り上げられます。著者は、「おじさん、おばさんになりたくない。そう願望を持つのはしょうがないけれど、しかしその願望以前にもうあなたは『えらい』のである。己の持つ権力を自覚してほしい。そしてその権力を、ちゃんと若い人とか未来とか仕事の配分とか、きちんと使える場所で使ってほしい。・・・・・・ということを、全8巻かけて、とうとうと話しているのが『坂の上の雲』という小説である」と書いています。たとえば同じ司馬遼太郎作品である『燃えよ剣』では、新選組という組織としても、構成員たちの年齢からしても、「若い」題材を取り扱っています。もちろん主人公の土方歳三は、「鬼の副長」なんて呼ばれてることもあり、権力をばきばきに持っています。が、しかし若いのです。それは彼の年齢もあるけれど、それよりももっと、新選組が会津藩主・松平容保という「権力」の下に仕えていた組織だったからだといいます。

要は新選組は社会的にそこまでえらくはなく、もっとえらい人がたくさんいたということです。しかし『坂の上の雲』は違うという著者は、「日露戦争を迎える日本において、日本陸海軍という、その時期もっともえらくなった組織のことを描いている。そう、『坂の上の雲』は、愛媛の片隅でただの『若者』だった男の子たちが、日本軍で権力を持つ『おじさん』になっていった過程を描いている物語、なのだ」と述べます。若い人と自分の間には「立場の差」があり、その差を通して若い人は接していると理解するとか、そのうえで若い人にちゃんと自分の立場でできることを還元するといったことは大切だと思うとして、著者は「私は。というか、そんな大人でありたいな、と思う。『坂の上の雲』を読むと。よきおじさん・おばさんになりたいもんである。ほんとにね」と述べるのでした。

「予防編」の13「初めてのデートに備えて読む本」では、『恋愛論 完全版』橋本治著(文庫ぎんが堂)を取り上げます。著者は、「橋本治という人は、男の人のことを好きになって、その結果、いろんなものを見た・・・・・・って言ったところでの話なんです。自分は男のことも女のこともちゃんと考えたんだよ、って。だから分かるけど、男と女ってこうなんだよ、って。まるで手品の種明かしをするかのように、彼は『実は恋愛ってほんとうはこうなってるんだよ』とひらりと説明をする。ほんとは恋愛と社会が分かれていてほしいこと。だけどもうそんな時代には戻れないこと。恋愛と社会というものに引き裂かれているのは、男性も女性も同じであること。ただしその引き裂かれ方は男性と女性でぜんぜん違うこと。そして私たちは、どこへ向かえばいいのか、分からないこと」と書いています。

著者が『恋愛論』を傑作だと思う理由のひとつは、橋本治自身も、この本を書くなかで(というかこの本は講演録なので、話すなかで)自分の過去や生い立ちについて、ある事実を発見していることだそうです。昨今、男女の差とは結局社会的に構築されたもので、そこに差異を見出すのはおかしいと言われています。著者は、「私も生物学的な差異と社会的な差異がどう関わり合っているのか、興味はあるけど分からない。『男らしさ』『女らしさ』という語彙がこんなにも人を縛っていたのか、と驚くときがよくある。だけどそれでも、やっぱり、男と女はちがうよなあ。と私個人としては思うわけです。いや、ちがうというよりも、「あんまり男と女を同じ性だと思いすぎたら、痛い目見るよなあ」って話。というか男女の差がどうこうっていうよりも、初デートのとき、やっぱり恋した相手を自分と同じだと考えすぎるのは、いろんな意味で危険だよって言いたい。初デートの先輩としてえらそうな物言いですが」と述べるのでした。

16「眠れないときに読む本」では、『海』小川洋子著(新潮文庫)が取り上げられます。「眠れないときには小川洋子を読むといい!」というのが著者の持論だといいます。眠れないときというのは地獄のように世界が厳しいとして、著者は「今、自分ははっきりと時間を無駄にしているのだ!!! と思わずびっくりマークをつけてしまうほどに苦~い自覚。しかしそんなことを考えるほど眠りは遠のく。なんで『眠れない』と自覚した夜はこんなにも眠れないのか。諦めて起きて水を飲んじゃうけど、結局やはり眠れない。そして今日も電気を消した部屋で考え事を進める(けど眠れないときに考えて、いいアイデアが浮かぶことなぞない)。うう、苦しい。だけど、小川洋子は、そんな夜を助けてくれる」と述べています。この文章を読んで、わたしは『海』が読みたくなりました。

18「合コン前に読む本(女性向け)」では、『風と共に去りぬ』1~5,マーガレット・ミッチェル著、大久保康雄・竹内道之助訳(新潮文庫)が取り上げられます。わたしの愛読書でもあります。この本には、“After all,tomorrow is another day.”という有名な台詞が登場します。有名な訳だと「明日は明日の風が吹く」。直訳すると「ほら、明日はまたちがった1日だから」。著者は、「この台詞から分かること。それは、スカーレットにとって欲望が満たされてしまったら、明日はちがった1日にならない、ということ。つまり、スカーレットにとっては自分の欲望を満たせないからこそ『未来は今のままじゃ終わらないはずだ、もっとよりよく生きられるはずだ』って思えるんです。そういう女なんです。明日が今日と同じ日だったら、いつか退屈で死んでしまう。そんなの無理。ハッピーエンドを誰よりも願ってるくせに、ハッピーエンドを迎えたら退屈で死ぬことくらいどこかで分かってる。だってこのあふれる欲望がなくなるんだもの。そんなのスカーレットが生きる理由、ない」と書いています。

著者は、ずっと自分の欲望と明日を追いかけて、吐き出しそうな衝動でやりたいことをやってのけ、運命ともいえる困難に勝ちまくって、誰かへのあふれる熱を持って生きるのが、スカーレットだといいます。だからこそ彼女はハッピーエンドを迎えずに「ああもうどうしてこんな人生!」と嘆きながら立ち向かうといいます。それがスカーレットにとっての「明日はちがった日がやってくる」人生なのだというわけです。著者は、「ついで大雑把なことをいうと、これって『グレート・ギャッツビー』にも見られるきわめてアメリカ的価値観なんだと思うんですけど(さらに大雑把なことをいうと、反対にヨーロッパ的価値観だと明日は今日と同じ日であってほしいんですよね)」と述べています。これは初めて知りました。勉強になりました!

19「合コン前に読む本(男性向け)」では、『アンナ・カレーニナ』1~4、トルストイ著、望月哲男訳(光文社古典新訳文庫)が取り上げられます。不倫小説の古典ですが、著者は「何かからすくわれようとして、夫じゃない彼と恋に落ちたはずなのに。どうしてか、恋をした先でも、すくわれない。たぶん、アンナは強すぎる。と私は思う。それは単純な『気が強い』みたいなことじゃなくて、精神のタフさとも言うべきものが、ふつうの人よりも濃く、ぎゅうっと詰まっている。そしてアンナの強さに、夫も、彼も、ついていくことができない。引いてしまう。アンナの強さを支えられるくらい、同じくらい強い男性とアンナは巡り合うことができなかった。それがアンナ・カレーニナの悲劇なんだと私は思うのです」と述べるのでした。

21「旅に出る前に読む本」では、『酩酊混乱紀行「恐怖の報酬」日記』恩田陸著(講談社文庫)が取り上げられます。著者は、「旅の準備をしているときは楽しい。着てゆく服を選んだり、持って行く本を選んだりすることは、きっと楽しいであろう旅の楽しみにはやる心を落ち着けるための儀式であり、同時にほんとに旅が楽しいかどうか分からなくてトラブルがないか不安で、もし楽しくなかったらどうしようせっかく時間とって行くのに、と無駄に不安になる心を落ち着ける儀式でもある」と書いています。わたしは「儀式」という言葉が大好きなので、嬉しくなりました。旅は、いつだって楽しみであると同時にものすごく不安でもあります。それは、本当にきちんと楽しい時間を過ごせるかどうか分からなくて怖いからだといいます。著者は、「だけどその『怖い』時間を過ごして準備をして、そして旅に出ないと、ほしいものは手に入らない」とも述べるのでした。

「変身編」の25「恋愛をしたいときに読む本」では、『言い寄る』田辺聖子著(講談社)が取り上げられます。この本は、恋愛を適正サイズに、それでいて「はあー恋愛上級者はこんなことを考えているのか」と、はうっとため息をついてしまう小説だそうです。『言い寄る』に出てくる男は、ネットで見かけたら「クズじゃん」と思いそうなのに、実際に小説のなかで出会うと可愛げがあって、読者も主人公もてろんと許してしまうといいます。著者は、「恋愛なんてしてもしなくてもいいと思うけれど、恋愛小説のページをめくったその先にあるものは、とろとろとした死海にただようカモメのような、くすくす笑いながら絵本をめくる子どものような、ちょっといい具合に煮込まれたカレーのような、そんなてろんとしたやさしさだろう」と述べます。『言い寄る』には、田辺聖子の軽やかな関西弁で、やわらかく、可愛げのある生身の人々が描かれます。著者は、「恋愛なんて言葉に押し込めなくても、他人と接することこそが、私たちにとってのよろこびであるはずなのだ」と述べるのでした。

26「カップラーメンができるのを待っている間に読む本」では、『細雪』上・中・下、谷崎潤一郎著(角川文庫)が取り上げられます。著者は、「考えてみてください。たとえば私たちが、「アルバム」を作ろうとするタイミングっていつだと思いますか?」と読者に問います。「卒業アルバム」という言葉がありますが、たいてい卒業することが分かっているからアルバムを作るのだといいます。「あ、この時間はどこかで終わるんだ」って気づいたとき、人はアルバムを作ろうとするというのです。いつかこの時間は終わってしまう。いつかこの時間を懐かしむときが来る。そんな予感を手にしたとき、わたしたちはアルバムにして楽しかった時間を思い出せる装置を作ります。いつだって楽しかった時間を頭のなかに再現できるように。著者は、「だとすれば、『細雪』は谷崎にとって、自分の愛した文化や関西や女性たちの一番美しい瞬間を残そうとしたアルバムなのです。文章で、いつでも頭のなかに再現できるように」と述べるのでした。

また、わたしたちはカップラーメンを食べるとき、どうしても素早く食べてしまいます。できるだけはやく食べる。そして次の行動に移る。栄養はないかもしれませんが、効率的で、味もわりとおいしい。だけど世の中には、カップラーメンと逆のものもあります。「これを食べる時間がずっと終わらなければいいのにな~」って思うもの。ずっとずっと触れていたくなるもの。効率とか生産性なんて言葉が頭にも浮かばないくらい、ゆっくりと長く続いてほしくなる、贅沢で丁寧なもの。著者は、「それこそが『細雪』という小説なんですよ。谷崎にとって美しい思い出そのものであり、谷崎の『ああ、この世界にずっといたい』っていう欲望に引っ張られて、私たちは『ああ、この世界にずっといたい』って思ってしまう」と述べます。鋭い指摘ですね。

「滋養強壮編」の27「死にたいときに読む本」では、『臨死体験』上・下、立花隆著(文春文庫)が取り上げられます。『臨死体験』という上下巻の分厚い文庫本を見るにつけ、著者のなかでは、「ばかね、死は魅惑的なのよ」と赤ワインを傾けながらおっしゃるお姉さまと、「そもそも死なんて概念はあまりにも宗教的あるいは霊的なものに染められすぎている、科学的に言うと・・・・・・」と語りだす白衣を着たお兄さまの二人が浮かんでくるそうです。『臨死体験』という本の擬人化ですね。『臨死体験』を擬人化するとその二人が浮かんでくるのかといえば、この本が「死」という人類最大の謎を目の前にして、「宗教的・精神的・霊的」アプローチと、「科学的・合理的・数値的」アプローチの双方をとっているからだとか。著者は、「どういう本かというと、『臨死体験』つまりは『一度死んで、何らかのイメージを見て、それからこの世に帰ってくる』体験について、博覧強記というべき作家・立花隆さんが、徹底的にさまざまな人の話を聞きながら調べ上げる・・・・・・という本」と書いています。

「おわりに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「いやー、本ってつくづく、幸せなときに読むモノとして作られていませんよね。現実に悩んだとき苦しいとき悲しいときに、読むべきモノですよね。思いませんか? 人間、幸せだったら本なんて読まなくていいでしょ。なんて幸福な人生。たぶん私はこれまでの人生で1ミリの退屈も苦痛も後悔もなかったら、本なんて読んでいなかったと思います。いいなあ、その人生。いいなあ、その自分。・・・・・・ってここで『いいなあ』と言うのは、冗談半分ではありますが、半分は本気です。たぶん、人間が悩んだり苦しんだりすることがなければ、この世の文学作品はほとんど生まれていなかった。そして生まれても、たくさん読まれることなんてなかった。幸福で、満足しているなら、ほかの人の言葉なんて必要としない。でも幸か不幸か、私たちは存分に悩んだり考えたり苦しんだりする人生を送るから。そのおかげで、小説家が小説を書いてくれたり、批評家が批評を書いてくれたり、読者が読んで泣いてくれたりするわけですね。そう思うと、『本』という媒体が、私にとっては人類の業からしみ出た汁のようなものに見えます。汁を愛する人生、ばんざーい。私は人々の業もそこから生まれ出てしまった本も、どちらも大好きです」

「新書版あとがき」の冒頭を、著者は「正直、今の私だったら、こんなこと書かないなあ。と、読み返していて思うことだらけの本書でした。あくまで2019年段階の倫理観で書いたものなので、もしかすると今読むあなたにとっては、間違っていると感じることも多いかもしれない。もしあなたを不快にさせてしまう箇所があったら、本当に申し訳ないと感じている。2019年の自分に代わって、心よりお詫び申し上げたい」と書きだしています。それでも、今も昔も、本が人生の絶望をすくいとってくれる存在であることに変わりはないといいます。昔より著者は人に相談するようになった気がするそうですが、それでも本が一番頼ることができる相談相手だといいます。

今もやっぱりお風呂は面倒だし、疲れきって本が読めないときもあるし、女に生まれたくなかったときもあるし、自炊したくないときもあるそうですが、著者は「それでも本を読むことは、今も昔も、ずっと楽しい。いつでも、ずっと、あー本が読みたい、と思う。はやく仕事を終わらせて本を読みたい、ていうかむしろ仕事せずに本だけ読んでいたい、といつだって顔をしかめている。そういうものが人生に存在してくれていることの幸せに、ずっと感謝している。これを読んでいるあなたにとって、本がどういう存在かは分からないが。それでも、本があなたを助けてくれるかもしれない、ということは、自信をもって伝えることができる」と述べるのでした。本書は、著者自らが指摘しているように「若書き」の印象もありますが、何よりも本が好きで好きで仕方がないという読書への愛情が伝わってきて、本好きであるわたしは嬉しくなりました。