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No.2451 心理・自己啓発 『考察する若者たち』 三宅香帆著(PHP新書)
2026.03.09
『考察する若者たち』三宅香帆著(PHP新書)を読みました。著者は、1994(平成6)年高知県生まれ。文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中退。主に文芸評論、社会批評などの分野で幅広く活動しています。一条信也の読書館『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で紹介したベストセラーによって、一躍“時の人”となった著者の新作ですね。
本書の帯
本書の帯には、著者の写真とともに、「なぜ令和の若者は『正解』を欲しがるのか?」「考察動画、鬼滅の刃、変な家、ChatGPT、MBTI・・・『なんであれ流行ってるの?』にすべて答える一冊!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「『平成』と『令和』で何が変わったのか?」として、以下のように書かれています。
●「批評」から「考察」へ
正解のない解釈―→作者の意図を当てるゲーム
●「萌え」から「推し」へ
好きという欲求―→応援したい理想
●「やりがい」から「成長」へ
充実しているという感情―→安定のための手段
●「ググる」から「ジピる」へ
複数の選択肢から選ぶ―→AIが提示する唯一の解
カバー前そでには、「なぜ映画を観たあとすぐに考察動画を見たくなるのか?」として、「映画やドラマ、漫画の解釈を解説する考察記事・動画が流行している。昭和・平成の時代はエンタメ作品が『批評』されたが、令和のいまは解釈の“正解”を当てにいく『考察』が人気だ。その変化の背景には、若者を中心に、ただ作品を楽しむだけではなく、考察して“答え”を得ることで『報われたい』という思考がある。30万部超『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著者が令和日本の深層を読み解く!」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
まえがき――若者が考察動画を検索する理由
第1章:批評から考察へ
――『あなたの番です』『変な家』
『君たちはどう生きるか』
第2章:萌えから推しへ
――『【推しの子】』『アイドル』
『絶対アイドル辞めないで』
第3章:ループものから転生ものへ
――『転生したらスライムだった件』
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
第4章:自己啓発から陰謀論へ
――堀江貴文『多動力』、ひろゆき『1%の努力』
第5章:やりがいから成長へ
――『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』
『働きマン』
第6章:メディアからプラットフォームへ
――『スマホ脳』『一般意志2・0』
第7章:ヒエラルキーから界隈へ
――『スキップとローファー』『違国日記』
第8章:ググるからジピるへ
――ChatGPT、『NEXUS』
『わたしを離さないで』
第9章:自分らしさから生きづらさへ
――『世界に一つだけの花』『世界99』、MBTI
終章:最適化に抗う
――そして『スキップとローファー』
『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』
あとがき――やりたいことや自分だけの感想を見つけるコツ
参考文献――「考察の時代」を理解するための本
「まえがき――若者が考察動画を検索する理由」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「ドラマや映画を観たあとすぐに、他人の考察動画や考察記事を検索している。最近、そんな声をしばしば聞きます。『考察動画』や『考察記事』をあなたは知っていますか? ドラマや映画に潜む謎を発見し、その謎の回答を「考察」する動画や記事のことです。若い世代を中心に人気を博し、いまや純粋な感想やレビューと同じく、人気のあるジャンルになっています。そう、ドラマや映画の『ただの感想』よりも『考察』のほうが、いまや人気なのです。この現象はじつは、令和に流行しているヒット現象――『鬼滅の刃』や『変な家』や推し文化やひろゆきさんや陰謀論やChatGPTやMBTI(性格検査)やゲーム実況――の背景にあるものと、1つの共通点があります」
著者は「写真撮影OK」だけど「SNS掲載禁止」というガラス美術館でカメラをかざしてみます。すると、ガラス細工は上手く撮るのが難しいことがわかるとして、「目で見るよりも写真だと輝きが薄れてしまう。しかし角度や被写体選別をうまく調整すれば、うまく撮れる。そして写真はのちのち残る。『何かを得られた』という意味あるものとして、写真は残りますよね。私はふと思いました。『そうか、感動や感情は具体的な形のあるものとして残らないけれど、写真はデータとして残るよな』と。美術館に行った時間を、たんに『綺麗だったなぁ』という感情以上に意味あるものにしたいからガラス細工を見ることよりも撮影することのほうに、その場にいた若い人たちは夢中になっていたのではないでしょうか」と述べています。
ただ小説や漫画を読んだり映画やドラマを観たりしてその楽しさを味わうよりも、何か手元に残るゴールがある。意味ある時間になるものが手に入る。いま、とくに若い世代において、そこが重視されているように思うという著者は、「いまの若い世代は物心がついたときから、ずっと大量の情報やコンテンツが周りにあふれていました。そして検索してSNSでフォローしてAIに尋ねて、よりよい情報をつねに求めている。だからこそ、ただ面白いとか、ただ楽しいとか、ただおいしいとか、身体で実感できる素朴な感情や感覚だけで満足できなくなっている。より直接的な『意味ある時間』に変えられたほうが、嬉しい。そんな時代が来ているのではないでしょうか」と述べます。
ただ面白いとかただおいしいとか、感動を与えるだけでなく、そこにプラスアルファの「意味ある時間」に変える工夫ができると、流行する。――本書で読み解くのはそんな現象の数々であるとして、著者は「『意味ある時間』を求める若い世代の消費行動を、本書では『報われ消費』と呼びます。つまり、ただ楽しい時間を過ごすだけじゃない。その時間が報われるポイントがわかっていると、手を伸ばしやすくなる。ただ楽しい、面白い、おいしい、という感情だけでは無駄に感じてしまう。なぜか? みんな忙しいから? Z世代はタイパやコスパがいいものを求めているから? 著者はこの現象に、もっと根深い、現代特有の痛みを見出します。いま――「ただの自分の感情」が、軽視されているのでは? それは、AIがこれだけ流行する令和特有の病なのではないか、というのです。
第1章「批評から考察へ」の「『考察』によるヒット――『鬼滅の刃』『ONE PIECE』『進撃の巨人』」では、昨今では、「考察」の対象として発見された作品がヒットすることがとても多いといいます。たとえば『千と千尋の神隠し』(2001年)の興行収入を超える大ヒットとなり、再び社会現象を巻き起こしている映画『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』(2025年)。このヒットの裏側には、じつは大量の「考察動画」が存在しているという著者は、「つまり『鬼滅の刃』の映画についての『考察』が、YouTube動画を通して語られ続けているのだ。それこそ、無限に」と述べています。
興味深いのが、『鬼滅の刃』の考察動画はたとえば「裏設定」や「伏線回収」や「小ネタ」について語る、という体裁のものが多いことだといいます。中には「衝撃の真実に気づいてしまった」といった動画タイトルも多いとして、著者は「これらの動画は、『鬼滅の刃』の感想を語ったり、独自の分析をしたりするのではない。重要なのは、あくまで制作陣が仕掛けたであろうが映画鑑賞者に『気づかれていない』真実を伝えること。ゆえに動画では裏設定や小ネタや衝撃の真実が語られる。視聴者は一度観た映画の『考察』を観て、その小ネタを確かめに映画をもう一度観に行きたくなる。このような楽しみ方も、令和のヒット映画には施されている」と述べます。
連載の途中で突然「考察」され始めるようになった作品も存在します。尾田栄一郎の漫画『ONE PIECE』(集英社、1997年~)です。じつは現在の『ONE PIECE』は、「考察」動画文化において最も重要な作品と言っても過言ではないほど、たくさんの「考察」動画がアップされているといいます。たとえば「伏線回収」や「気づいた・・・? 衝撃の真実」や「隠された秘密がわかる」など、『ONE PIECE』の考察動画のタイトルにはやはりここでも、隠された正解を当てる、という言葉たちが踊っています。著者は、「かつては『ONE PIECE』と言えば基本的に、ルフィたちの冒険を楽しむ漫画だった。が、いまや『今後どのように伏線や謎が解かれるのか、考察動画YouTuberたちが当てることを楽しむ』鑑賞方法が存在感を増している。この傾向は『進撃の巨人』(講談社、2009~2021年)の最終回前にも見られた。連載開始時にはあまり注目されていなかった『考察』という手法が、連載中にメジャーになり、そして『考察』を通して作品を楽しむ読者が増えていく」と述べるのでした。
「批評の時代から、考察の時代へ――『エヴァ』の変化」では、物語を読む・観ることが、ただ味わうだけではない、正解を解くゲームになりつつある。それこそが「考察」が変化させた姿勢だといいますただ、考察が流行する以前も、皆、作品の謎を解こうとはしていました。では、フィクションの楽しみ方として、「考察」がなかった時代は、何をしていたのか? この問いに対して、著者は「令和以前に流行していたのは『批評』だった」と答えます。平成以前は、「批評の時代」でした。批評とは「作者すら思いついていない作品の謎に対して解釈を提示する」ことだと指摘し、著者は「作者は作品の生みの親ではあるが、親が子のことをすべて理解しているとは限らない。それと同じで、作者が作品のことをすべて理解しているとは限らない。このような態度を批評はとっている」と述べています。
「正解がない批評、正解がある考察」では、考察には「正解」がある。批評には「正解」がない。重要なのは解釈の「正解」の有無だと指摘します。考察には、作者が提示する(とされる)「正解」があるという著者は、「『君たちはどう生きるか』を観て、モデルとなった人物を推察すること。『変な家』を読んで、不可解な間取りの理由を考えること。『あなたの番です』を観て、真犯人は誰かを当てること。これらはすべて、作者側から提示された『正解』がある。一方、批評に『正解』はない。『君たちはどう生きるか』を観て、眞人の母が眠り続けている理由を考えること。『変な家』を読んで、なぜ本作の最後に日本のムラ社会的なテーマが入り込むのかを考えること。『あなたの番です』を観て、本作が流行する背景を考えること。そこに『正解』はない。だからこそ、批評にはゴールがない」と述べます。
第2章「萌えから推しへ」の「『推し』の時代、『萌え』の時代」では、令和の若者たちは、物語を楽しむ行為すら「報われること」を目的にしてしまうことが指摘されます。だからこそ、正解を当てる達成感が得られる、謎解きや考察ドラマが流行するわけです。令和最大のヒット、言い換えればキラーコンテンツとは何か。2020年代前半に限って言えば、「推し」であると断言し、著者は「思えば、令和という時代とともに『推し』の時代はやってきた。それまでAKB48グループのファンのあいだで使われていた『推しメン』という語彙は、いつしか人口に膾炙し、『推し』という言葉にずらされていく。2020年に、宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』(河出書房新社)が芥川賞を受賞。そして2021年には『推し活』がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた。令和と言えば『推し』、『推し』と言えば令和、というくらい、現代の時代性と『推し』がセットで語られる・・・・・・というのは私の偏見だろうか」と述べています。
第4章「自己啓発から陰謀論へ」の「『報われポイント』があるSNS」では、商品に、消費者の「報われポイント」とでも言うべきゴールが提示されていると、ヒットしやすいと指摘します。たとえば「考察」は制作陣の提示する正解という「報われポイント」がありますが、「批評」は正解がないので「報われポイント」がありません。あるいは、「推し」は応援した分だけ報われますが、「萌え」は報われることを求めていませんでした。そして「転生」は転生後に身体が変わって報われやすくなっていますが、「タイムリープ」は何度やってもなかなかうまくいかない報われなさこそが醍醐味となっています。そういう意味で、「報われポイント」があると、令和のヒットコンテンツは生まれやすいのです。SNSは「フォロワー」や「いいね」の数が見えやすい=投稿の「報われポイント」がある。掲示板は「フォロワー」や「いいね」の数が見えない=投稿の「報われポイント」がない。ここが重要です。
「庶民の側に立とうとするひろゆき」では、「ひろゆき」こと西村博之が取り上げられます。西村は冷笑派と評されることもありますが、「庶民派」であることを崩さない彼の姿勢を無視すると、わたしたちは彼が若い世代の一部から支持される理由を見誤るといいます。著者は、「実際彼は『コミュ障』を自称し、私生活は『庶民派』のプログラマーで、マッチョではない『おいら』が発信する。つねにパーカーを着て、YouTubeは自宅から配信し(スタジオではないのだ)、家は賃貸がいいと主張する。若いころはチラシ配りをやっていて、現代に生きていたら闇バイトも手を出していたかもしれないとすら語る。児童養護施設にPCを配る寄付のプロジェクトも開催する。ネットカフェが好きで、高級車や高価な腕時計には興味がないと述べる。彼の主張はいつも、投資効率の良い方法や庶民が生きやすくなる手段といった、昨今の社会への『最適解』の存在を伝える。つまり、庶民にとっての最適解の存在を『気づかせる』存在。それこそが彼なのである」と述べます。
著者は、転生ものというジャンルも同じ論理の上に立っているといいます。つまりこういう論理です。――そもそも、自分の立っている世界のスタート地点が間違っている。だから人生を変えるには、スタート地点を変えるしかない。著者は、「そのスタート地点が『現世での自分のスペック』であるとするのが転生ものである。一方、そのスタート地点が『現世を支配しているが気づかれていない悪の権力』であるとするのが陰謀論である。あるいはそのスタート地点が『気づかれていないプログラミングや投資の手法』であるとするのがひろゆき的思考なのである。著者は「ひろゆき敵思考」が危険だと言いたいのではないそうです。投資の知識やプログラミングが実際に自分を助けてくれることは大いにあるからです。むしろ注目すべきは「ひろゆき的思考」の書籍や動画を拡散させている欲望(令和の人々の志向)だと思っているといいます。
「『動く』事故啓発書から『気づく』陰謀論へ」では、一条真也の読書館『多動力』で紹介した「ホリエモン」こと堀江貴文の著書をはじめとする平成の自己啓発書は、「もっと世界を豊かに」「もっと楽しく」「もっと成果を出す」といった論理を説いていたことを指摘します。だからこそ行動を重視したのだといいます。しかし「ひろゆき的思考」や陰謀論は異なり、「マイナスをゼロにする気づき」を与えるとして、著者は「それは、従来の自己啓発書ではエンパワーメントされない人びとを癒やす。そして、努力が報われる世界に変わってほしいという人びとの欲望が隠されている。努力して成功したい、ではない。努力した分だけ――誰にもその成果が損なわれることなく――報われたいのだ。損なわれたものを取り戻したいだけだ。それは外部環境に対する働きかけである」と述べます。
自己啓発書とは、外部環境を度外視し、自分の行動を変えることに注力するものだといいます。このあたりは著者のベストセラーである『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で詳しく解説されています。陰謀論はむしろ、損なわれた外部環境に気づくことで、正常な環境を取り戻そうとする論理であるとして、著者は「掲示板からSNSへ変化し、発信に対して『いいね』『フォロワー数』などの『報われポイント』が生まれた。そして自己啓発的言説から陰謀論的言説に流行が変化するようになった。その根底には『損なわれている社会を取り戻したい』という欲望が存在する。損なわれたものに気づきさえすれば、努力が報われる社会に移ることができるからだ」と述べるのでした。
第5章「やりがいから成長へ」の「『働きマン』の『やりがい』よりもほしいもの」では、マイナビ実施「大学生就職意識調査」が紹介されます。それによれば、企業選択において2001年時点で「自分のやりたい仕事(職種)ができる会社」が48・2%(首位)でほぼ半数が選んでいたのに対し、2024年時点では28・6%とかなり落ち込んでいます。「やりたい仕事」はこの20年間で、仕事の夢ではなくなっています。代わりに「安定している会社」が伸び、そして就職みらい研究所実施の調査によれば「成長」も伸びつつあります。著者は、「要するに、仕事に求めるものが『やりがい』から『成長』『安定』に変化している。その理由は、ここまで見てきたとおり、『やりがい』よりも『成長』『安定』のほうが『報われやすい』からではないだろうか」と述べます。仕事のやりがい=報われにくい。仕事の成長・安定=報われやすい。ここが重要なのです。
第6章「メディアからプラットフォームへ」の「プラットフォームがヒットを生み出す時代」では、著者は「考察。それはYouTubeの動画プラットフォームにおいて生まれた。推し文化。それはXやTikTokといったSNSプラットフォームにおいて生まれた。転生。それは「小説家になろう」という投稿プラットフォームにおいて生まれた。陰謀論や成長幻想。それはYouTubeやSNSのプラットフォームにおいて生まれている。ここまでくると、私の言いたいことがわかるだろう。そう、令和のヒットコンテンツとはもはや、プラットフォームにおいて人びとの欲望が数値として認められたものによってのみ流行するのではないか? つまり、数値的に『これは見られる、読まれる』と認められたものが上位にあがり、より見られ、読まれるようになる。それがプラットフォームの構造である」と述べています。
「AIアルゴリズムが個別性を失わせる」では、わたしたちはプラットフォームのなかで、どんどん自分らしさを消して「正解に近い最適解」を出すことを求められていると指摘します。それが数値で結果を出すための最短距離だとして、著者は「自分らしさは消えていく。個別性が、意味のないものとされる。報われないからいらないものだとされている。すると、個人の感想なんて、意味のないもの、正解でないなら出さなくていいものとされるのは当然である」と述べます。ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね?」という言葉が流行するはずだといいます。この言葉は、そもそも感想や感情なんて意味がない、という前提が置かれていないと流行しないからです。著者は、「間違っているかもしれない個人的な感想よりも、作者のもっている正解を当てるゲームのほうが意味のあるものだと思えてしまう。考察が流行する理由がここにある。その思考こそが、じつは、プラットフォーム社会に最適化した発想なのである」と述べるのでした。
第7章「ヒエラルキーから界隈へ」の「『スキップとローファー』で描かれる『界隈』」では、『ロミオとジュリエット』は、家の対立を超えた2人の男女が恋愛でつながってしまった悲劇を描き、あるいは『ガラスの仮面』(美内すずえ、1975年~)は、演劇を通して、社会的階層も経歴も異なる2人の女優が出会い、ライバルとなる様子が展開され、あるいは『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ、2010年)は「スクールカースト」と呼ばれる教室のなかで異なるグループに属する学生たちを描いた物語だったことが紹介されます。著者は、「このように、社会や学校の『界隈』が異なるところを超えて交流する様子は、しばしばエンターテインメントになってきた」と述べます。しかし、その中でも、漫画『スキップとローファー』は、教室の中の「界隈」を超える物語として人気を博していると指摘します。
第8章「ググるからジピるへ」の「若者に拡がる『報われ消費』」では、世の中には、どんどん「報われ消費」とでも言うべき現象が増えていくのではないかと述べています。いま最も広がっている「報われ消費」とは何か。それはAIではないだろうかとして、著者は「最近しばしばSNSで見かける言葉をご存じだろうか。『チャッピー』というものだ。これ、何かと言えば、生成AIのChatGPTのことである。そしてその派生なのか、ChatGPTを使うことを、『ジビる』と呼ぶ人も増えているのだという。ChatGPTと似たものに、Google検索がある。自分の聞きたいことや知りたいこと、やってほしいことを打ち込み、答えを出してもらう。ググることとジビることは、一見よく似ている。もはや回答の精度が異なるだけではないか、と思うかもしれない。しかしChatGPTに打ち込むことと、Google検索をすることには決定的な違いがある。それは、前者ではAIの提示した正しい回答以外を知る余地がない、ということだ」と述べています。
「正解を提示する『疑似親』としてのAI」では、考察文化とAIはとても相性が良いと指摘します。実際、AIのことを感情や論理の面で信頼し、まるで思春期に親に相談するかのように――人によっては、きっと親よりもずっと喋りやすい相手として――さまざまなことを相談している人もいるのではないかとして、著者は「プラットフォーム社会の中で、AIの浸透は、ますますアルゴリズム的なものを私たちに身近にさせる。AIこそ、プラットフォーム社会の最先端の存在なのだ。AIをうまく使いこなせるかどうかは人間の技量次第であり、そこにあるのは、インターネットを信頼できないものとして警戒していた時代が遠くなっていく足音である。AIはむしろ人間よりも信頼できる、正しさを提示してくれる、問いを尋ねる私たちに報いてくれるものとして存在する」と述べます。
「目に見える『正しさ』で報われるか?」では、わたしたちはいま、AIを疑似親として求めると指摘します。なぜならもう、信頼できない情報に疲れたからです。陰謀論やフェイクニュースがあふれ、データベース化されそうなくらいたくさんいる推しの濁流に吞み込まれ、情報が洪水のように湧き出る世の中において、「チャッピー」は、わたしたちが流れる川の中で、どうしてもしがみついてしまうような存在なのであるというのです。著者は、「だってAIに何かを問いかけると、絶対に『答え』を返してくれる。AIは働きかけると必ず何か返してくれる。報われる。相談すればするだけ、いろんなことを教えてくれる」と述べるのでした。
第9章「自分らしさから生きづらさへ」の「固有名詞の解体」では、コピーライターの糸井重里が2001年に書いた『インターネット的』(PHP新書)の中にある「豊かな社会においては、経済も、文化も、いままでのような同じ価値観で「価値の三角形(ヒエラルキー)」をつくっていくことが困難になっていきます。いままでにも、価値が多様化しているとよくいわれていましたが、価値が多様化するというよりは、価値の“順位付けが多様化する”“価値の順位組み替えは個人の自由になっていく”ということでしょうか」という文章が紹介されています。これを読んでわたしは唸りました。今から四半世紀の前の発言であることを考えれば、糸井重里は天才ですね!
プラットフォームの時代においては、人それぞれに好きなものを見ればいい。そうなると、みんなが知るべき固有名詞なんて消失していく。ただただ、アルゴリズムのおススメだけが残ります。面白いのは、「考察」と「批評」の違いも、固有名詞の有無にあるということです。作者の正解を当てる考察文化は、誰が考察しているかは重視しません。著者は、「SNSや動画で考察動画を観るとき、考察者の思想の個性を求めはしない。わかりやすさは必要かもしれないが、考察者の価値観や解釈の個性は必要とされない。しかし批評文化では、解釈は人それぞれ違う前提になっているので、むしろ批評家の個性こそが必要とされる。小林秀雄、柄谷行人、吉本隆明など過剰なまでに固有名詞が意味をもつのが批評文化だった」と述べます。考察=語り手の個性は必要ない。批評=語り手の個性が必要。ここが重要なのです。
「最適化された自分」では、糸井が指摘するように、インターネット的であることがリンク、シェア、フラットだとすれば、プラットフォームによる「最適化」、つまり個人へのおすすめ機能がある世界は、そこに「オート」という機能を持ち込むと指摘します。インターネット的=リンク、シェア、フラット。プラットフォーム的=(リンク、シェア、フラットに加えて)オート。ここが重要です。著者は、「自動的に選んでくれる。私たちがこれまで手作業で選んでいたものを、今度は機械がオートで選んでくれるようになる。あなたがどんな界隈に属しているのかをジャッジして、自動でおすすめしてくれる。それこそがいまの時代の構造なのである。プラットフォーム社会、とでも呼べばいいのだろうか」と述べています。
「界隈とMBTIが流行する理由」では、アルゴリズムとはまさに「界隈」をジャッジしていることが指摘されます。著者は、「たとえば私がSNSで、あるK-POPアイドルの写真に『いいね』を押す。すると、アルゴリズムが勝手に『こいつはK-POP界隈だ!』と認識して、そのK-POPアイドルの話題を私のタイムラインでたくさん流すようになる。つまりアルゴリズムは決して私のことを知っているのではなく、私のような人間がどんな界隈に属しているのかを判断しているにすぎない。パーソナライズ化というけれど、そこにあるのは完璧な個人化ではない。どちらかと言うと、個人ではなく、界隈を判断されている」と述べます。
MBTIという性格診断はまさにこのラベリングの1つだといいます。MBTIとは、人間を16タイプに分ける性格診断のことです。ただし、ここではあくまでも「世間で流行しているMBTI」を扱いますが、正式な診断はより精緻なものであります。さまざまな質問に答えていくことで、最終的に自分がどういう特性をもつタイプなのかがわかります。星座占いや動物占いのように生年月日で決まるものではなく、質問に答えていくことで自分のタイプがわかる診断です。著者は、「それぞれ、Eは外向型、Nは直感型、Fは感情型、Pは知覚型、というように分類される。そのためMBTIに詳しい人は『あの人はE(外向型)じゃなくてI(内向型)だから、私たちよりも意見を言いづらい』とか判断したりする。要は、人間のそもそもの性格をジャッジする指標を提供しているのだ」と述べるのでした。
終章「最適化に抗う」の「感想から考察へ」では、著者は、たとえ作者であっても、作品の読み方の正解はもっていないはずだと訴えます。たとえば村上春樹に「この小説のテーマは?」と聞いても、正解は出てこないといいます。それを一言で伝えられるなら小説家は小説を書かないからです。物語は物語であり、その受け取り手がどんなふうに物語を見るのかは決めていいのです。著者は、「だからこそ、考察文化が提示するような、作品の読解の正解は本来存在しないはずなのである。しかし、考察が流行する昨今、むしろ読者側が正解を求めている。それは感想という、自分固有の感情を語ることに意味を感じない、ということでもある」と述べています。
「考察から批評へ」では、現代は若い世代が「最適化」に注力している時代であると指摘します。著者は、「自分はもう若くないと思う世代の方が本書を読んでくれているならば、私は言いたい。自分の好きなもの、やりたいこと、感じていること、そういうものすべてに意味があるのだと、自分の固有性を表現するものだと、私たちは若い世代に伝えていくべきではないか」と訴えます。批評とは、世界の見え方の固有性を愛する行為です。同じものを見ていても、あなたの解釈と、自分の解釈は違う。だからこそ、面白いのです。同じ世界に生きているはずなのに、人によって見え方はこんなにも異なる。そして解釈は、感想は、どんなに近しい感想でも、別のものであっていいのです。著者は、「正解がない。むしろ作者すら理解していない問いを、投げかける。批評が生み出すのは問いである。人によって異なる作品の解釈を、生み出した問いを、私たちは大切にしていくべきではないか」と訴えます。
「もしやりたいことができたら」では、著者は「失敗は嫌だ。別れは辛い。後悔は怖い。でも、人生は基本的に報われないし、失敗するし、辛いし、後悔するものである。やりたいことができること自体、怖いことだ。だってやりたいことができれば、失敗や後悔のリスクが上がる。やりたいことに向かっても、基本的にやりたいことはやれないことが多い。やりたいことなんか、ないほうがきっと失敗は少ない。それでも、自分の感情や欲望は抑圧しすぎないほうが、人生は楽しい。報われなくても。後悔が増えたとしても」と述べるのでした。「あとがき――やりたいことや自分だけの感想を見つけるコツ」では、「報われ最適化から抜け出すためのコツ」として、①本や雑誌を読む、②キャラじゃないことをやってみる、③一人で夜更かししてみる、④感動をじっくりと言葉にしてみる、⑤他人に簡単に憧れてみる。以上の5つを挙げていますが、これはわたしも大賛成です!