No.2452 人生・仕事 『定年後の日本人は世界一の楽園を生きる』 佐藤優著(飛鳥新社)

2026.03.12

『定年後の日本人は世界一の楽園を生きる』佐藤優著(飛鳥新社)を読みました。著者は1960年、東京都生まれ、同志社大学神学部卒、同志社大学大学院神学研究科修了(神学修士)。1985年に外務省入省。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、その後、モスクワの日本国大使館、東京の外務省国際情報局に勤務。2002年5月に鈴木宗男事件に連座し、東京地検特捜部に逮捕、起訴され、無罪主張をし、争うも2009年6月に執行猶予付き有罪確定。2013年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失いました。代表的な著書に『国家の罠』『自壊する帝国』『交渉術』などがあります。

本書の帯

本書の帯には腕を組んで睥睨する著者の写真が使われ、「知の巨人が、たどり着いた人生の最終結論」「『定年後が人生で一番楽しい』が手に入る」「おカネ・人間関係・健康・趣味・勉強・マインド」と書かれています。

本書の帯の裏

帯の裏には、「還暦を迎えた人たちがどんな心構えを持ち現実的にどう対応すべきなのか? 人生の最終コーナーを回って自分のゴールを達成するためには、何が必要なのか?」として、「人生の最終コーナーを回って自分のゴールを達成するためには、何が必要なのか? 嫌いな人たちにまで交友範囲を広げて、それを維持する必要はない。残された人生の時間を、ストレスなく生きることに集中すべきなのだ」と書かれています。

アマゾンより

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本書の「目次」は、以下の構成となっています。
まえがき 「自分が本当に幸せだ」と感じる条件が揃う日本
第一章 定年後のマインド「リセット」
第二章 定年後のおカネ
第三章 定年後の勉強
第四章 定年後の仕事
第五章 定年後の交友関係
第六章 定年後の隠れ家
第七章 定年後の家族関係
第八章 定年後の恋愛・趣味・健康
あとがき 他人と比較してものを考えるのは致命的な習慣

まえがき「『自分が本当に幸せだ』と感じる条件が揃う日本」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「私は2023年6月27日、東京女子医科大学病院で腎臓移植手術を受けた。63歳のときである。それ以前、2022年1月から血液透析を受けていたが、体調は思わしくなかった。ところがどうだろう・・・・・・妻からもらった腎臓が私の体に定着すると、手術後、数日の段階で、目に見えて体調が良くなった。現代医学の素晴らしさを、まさに体感した。しかも、こうした高度医療を、一定の金額を超えずに受けられるのが、日本という国なのである」

日本には高額療養費制度があります。すなわち、医療機関や薬局の窓口で支払った額が、ひと月の上限額を超えた場合、その超えた金額を支給する制度です。腎臓移植の場合、手術費用や免疫抑制剤などが高額になるため、著者の場合、非常に助かったそうです。著者は、「実は江戸時代でも、60歳を超えて生きた人たちの寿命は長かった。しかし、脳卒中や心臓発作、あるいは外傷などに対する救急医療はなかった。ということは、いま60歳以上の人たちは、まさに『楽園』に住んでいるとさえ言えるのではないだろうか」と述べています。

著者は、いわゆる「鈴木宗男事件」の嵐に巻き込まれ、2002年5月14日、背任容疑で東京地方検察庁特別捜査部(以下、東京地検特捜部)によって逮捕されました。その後、偽計業務妨害の容疑で再逮捕され、東京拘置所の独房に512日のあいだ勾留されました。無罪を主張して争った著者でしたが、2009年6月30日、最高裁判所で有罪が確定。そして懲役2年6ヵ月、執行猶予4年が言い渡されたのです。しかし、その後の報道や著者の発表した書籍などによって、この事件は「国策捜査」であるということに対する理解も進んでいるのではないかとして、著者は「このような『苦難』を日本で経験した私ではあるが、外交官としての海外における経験に鑑みると、やはりこの国は『世界一の楽園』だと思う」と述べます。

なぜ、日本が「世界一の楽園」なのか。日本国中の津々浦々に張り巡らされているワイファイによって、相当な僻地でもない限り、どんな場所でもネット環境が整備されています。そして、アマゾンプライムやネットフリックスなどを月に数百円から1000円程度で楽しむことができます。こうしたプラットフォームの先には、何万というコンテンツがあります。また日本は世界一の漫画大国でもあります。スマホでも読める漫画で、実は世相がよく分かるとして、著者は「新聞の政治記事を読むよりも、特に定年後の人たちにとっては有用かもしれない」と述べます。加えて日本ならば地方都市にも大学があり、そこには図書館があります。これも最近は一般人に開放されているケースが多いです。もちろん地方自治体の図書館もあります。こうしたインフラも日本の強みです。

かつてドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーは、「未だかつて、現在のなかで、自分が本当に幸福だと感じた人間は1人もいなかった。もし、そんなのがいたとしたら、たぶん酔っぱらってでもいたのだろう」と言いました。しかし著者はそれに同意せず、「日本には『自分が本当に幸せだ』と感じることのできる条件が、すべて揃っている。特に定年後の人たちには――。本書では私がこれまでに上梓した書籍のエッセンスを集め、重要な内容も選択し、それらをコロナ禍後の日本、そして政界が混迷する社会に落とし込んで再解釈したうえで、多くの論考を加えた。少々口幅ったいが、これまでの人生の集大成だと考えている」と述べるのでした。

第一章「定年後のマインド『リセット』」の「『神の国』と『世界一の楽園』」では、「人間が死んだ後、どうなるのか」という問題が取り上げられます。著者が尊敬する作家の米原万里氏は唯物論者でしたが人間が復活する可能性を信じていたそうです。著者は、「死者の復活を信じるという点では、唯物論者の米原氏も、キリスト教徒の私も同じ。重要なことは、死後の世界について分からないことがあれば、そのことを率直に認めることだ。『死んだら終わり、生まれ変わることはない』と決め付けずに、虚心坦懐に、自分の心に『どうなるのだろう』と尋ねてみるのだ。そして、天国や地獄など『あの世』のイメージが思い浮かんだら、そのイメージを大切にすること。『あの世』のイメージを持つことは、『この世』の生活を豊かにするうえで重要になるからだ」と述べています。

著者は、「あの世」はあると思っているといいます。ただし、「死後、現在とは違う世界に私たちが移動するということではない。私が信じる『あの世』は、イエス(キリスト)が強調した『神の国』のこと。イエスは近々『神の国』が到来するので、人々に悔い改めることを呼びかけた。ただ、ここで言う『神の国』は、天国や地獄という観念と異なる。『神の国』とは、神が王として支配することを意味するのだ」と述べます。人間による民主主義とは対極にある、いわゆる神権政治が、「神の国」にはあります。キリスト教は性悪説に立つ宗教なので、人間によって理想的な社会や国家ができるとは考えません。「もうすぐ神の支配が実現するのだから、人間は悔い改め、その支配を受け入れる準備をせよ」というのが、イエスの伝えたメッセージなのです。

「『逃げるべきときには逃げる』のは立派な知恵」では、精神科医の斎藤環氏の「大人社会のいじめやハラスメントは、閉塞空間だからこそ起きる」という説を紹介し、「ひきこもり」について考察します。ひきこもりについて、著者は「人がひきこもるのは、1つの『思想』ではないか」という仮説を提示します。「働かないだけの人間に、そんなものなどあるはずがない」という反論が返ってきそうですが、著者は、「目の前にある社会システムに従うのは無理だ、だから私は下りる」という「思想」だと感じるといいます。つまり、ひきこもりは、単なる「現実逃避」や「サボタージュ」ではないというのです。

著者は、「そういう人たちが一定程度いるのが当たり前であり、社会はそうした条件も含めて成り立っていると理解すべきではないのか。だから、ひきこもっている人に対しては、無理やり社会システムのもとに連れ戻そうとしたりするのではなく、まずは『生きていてくれてありがとう』という姿勢で接する必要があると思う」と述べます。斎藤氏は、かつて哲学者、フリードリッヒ・ニーチェを扱ったNHKの番組で、「『超人』とは、完璧なひきこもりのことだ」と言ったことがあるそうです。そのことを紹介して、著者は「考えてみると、その『超人』にいつでもなれるのが、定年後の日本人なのである」と述べるのでした。

「自分の行動範囲や人間関係を限定する」では、2025年前後に定年後の人生をスタートさせた人たちは、バブル時代を経験していることが指摘されます。日本社会がエネルギーに満ちあふれていた時代を知っています。その時代だからこそ得られた豊富な体験や知識があるとして、著者は「旅行でもグルメでも、この贅沢な体験が、現在の社会における衣食住のレベルを底上げしていると思う。たとえば、格安で知られるサイゼリヤのメニューがあれほど種類豊富で美味であるのは、バブル時代にグルメ志向を体験した人たちが、サービスを供給する側にも消費者側にもいるからだと、私は考えている」と述べます。目利きをする力や文化力があり、様々な物事の経験値が高いのが、現在、定年を迎えた人々です。その潜在能力を発揮すれば、やっとデフレから抜け出して賃金が上がりつつある日本社会を救うことができるはずといいます。

「コロナ禍で明らかになった新たな価値観」では、緊急事態宣言が発令されて飲食店が営業を控え、ビジネスパーソンの多くが夜の街に飲みに出歩かなくなったことを回想します。旅行もしないばかりか、買い物すらネットで済ませる。家にひきこもって、ネットで映画を観たりリモートで仕事をしたりするような日々が続きました。著者は、「逆に言うと、世の中には、実に便利なものが数多くあることが分かった。たとえばユーチューブには無料で楽しめるコンテンツがあるし、ネットフリックスやアマゾンプライム、あるいはフールーなどの有料コンテンツも、月1000円くらいで、バラエティに富んだ動画が見放題である」と述べます。

さらに、著者は「昔と比べて断然安い値段でコンテンツを観ることができる。それほど、おカネをかけずに楽しめる。こんなに便利な時代はなかった! しかも、仕事ではズームなどのミーティングツールを使い、離れた相手と顔を見ながら会議を行うことができる。また、これらのツールによってプライベートも充実する。たとえば定年後の人なら、遠く離れて住む子どもや孫たちの顔を観ながら会話ができる。コロナ禍がなかったら、おそらく動画サービスやミーティングツールの良さに気づかない人が多かったはずだ」と述べるのでした。まったく、その通りですね!

「錨の遊びの範囲内で生きる定年後」では、人生を航海にたとえるならば、還暦とは、既に遠洋航海を終えて港に戻ってくる頃だといいます。嵐や荒波を乗り越えて母港に戻り、錨を下ろす。そして、その錨の遊びの範囲のなかで充実した人生を送ることを目指すのだというのです。著者は「そして、その錨は何かといえば、自分がこれまで歩んできたなかで培った経験値や人生観のようなものだろう。それらがしっかり自分自身を固定してくれるからこそ、力を抜いて波間に漂うことができる。というのも、自分なりの考え方やものの見方、言ってみれば『哲学』が確立されていないと、せっかく港に戻ってきても、また、あらぬ方向に流されかねない。それには、自分の行動範囲や興味の対象、そして人間関係などを限定したうえで、残りの人生を有意義なものにすべきである」と述べています。

第二章「定年後のおカネ」の「退職金を手にしても投資や起業はダメ」では、著者は60歳になったら「守りを強くする」ことを勧めています。それまでは攻めに徹してきた人でも、定年を迎えてからは、人生の守りを固めることこそが重要になるといいます。著者自身も60歳を迎えたあと、かなり仕事を限定するようになったそうです。出版社や編集者についても、これまで関係を築くことのできた相手だけを仕事先として選んでいるとか。あえて新たな関係を広げようという気持ちはなくなり、広く浅くではなく、狭く深くという感じだと告白します。著者は、「こうして仕事も生活も限定し、力を集中させて、省エネを図る。そして自分の陣地をしっかりと築き、強固なシェルターを造る。大波が襲来しても、家族だけは守れるようにしておく。そんなイメージを、私は60歳以降の人生として描いている」と述べるのでした。

「おカネを増やすのは『遣わないこと』が一番」では、柔道もボクシングも体重による階級制ですが、投資の世界では、大人と子どもが同じ土俵に乗っていると指摘します。一方、確実な投資先として、国債を挙げます。国債は国が発行元なので、元本割れのリスクが低く利子も付きます。いわば守りのマネープランとなりうるというのです。マルクスは「労働によっておカネを得ることが資本主義の本来の姿だ」と考えたました。それに対して、おカネを運用することでその差益を得る、つまり労働を介在させずにおカネがおカネを生み出すような資本を「擬制資本」と呼び、労働による資本とは別物だと考えたのです。ところがマルクスの言うところの「擬制資本」が、いまや経済の主役になってしまったとして、著者は「私の感覚が古いのかもしれないが、やはり、おカネは労働によって稼ぐものだという感覚を失いたくはない」と述べます。この意見は、わたしも大賛成です。

「人間として名誉と尊厳を維持できるのが日本」では、ここで「労働価値説」に立ち返ることが重要だといいます。株や為替で儲けても、そこで何らかの価値が生まれているわけではないからです。株価の上昇や下落に一喜一憂するよりも、毎日こつこつ働いて、商品やサービスを作り出していくことに喜びを感じるようになったほうがいいとして、著者は「資本主義社会においては、利益を上げることは正義であり、その利益を求めて企業は競争する。その考え方を突き詰めると、『新自由主義』と言われる考え方に行き着く。できるだけ国家の統制をなくし、資本の自由な競争に委ねる。資金と能力のある者が勝ち、結果はすべて自己責任とする。すると、株主資本主義や金融資本主義が台頭する。すべての価値がおカネによって評価されるようになるのだ」と述べます。

ところが『聖書』の世界においては、このような価値観は認められない。『聖書』では、〈あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない〉(「マタイによる福音書」6章24節)と明言されていることを紹介し、著者は「神とおカネは対極のものであり、その2つを併せ持つことはできない」と述べます。また、マルクスの『資本論』を勉強してきた著者からすると、投資によっておカネを増やすことに対しては抵抗があるといいます。加えて、確率的に言っても、現在はAIによって「秒」で株銘柄の売買が行われているため、素人が勝てる可能性は低いと指摘し、著者は「ファンドや機関投資家が勝つのだ。実際、金融投資に関しては、素人と玄人の力の差、すなわち情報格差があまりに大きい。先述した通り、柔道でもボクシングでも体重別に階級がある。しかし投資の世界では、大人と子どもが同じ土俵で戦っている」と述べるのでした。『聖書』と『資本論』はともに世界史上で最も読まれた本ですが、この2冊が著者の思想と行動を支えているのですね。

「定年後にネットを使えないとどうなる」では、現在の若者はテレビなど観ないことが指摘されます。その代わり、ユーチューブやネットフリックス、あるいはアマゾンプライムビデオなどを観ています。ということは、同じメディアを観ていれば、子どもや孫と話をする際の共通の話題を見つけることができるとして、著者は「近年に大ブレイクしたアニメやドラマ、たとえば『鬼滅の刃』や『愛の不時着』などを観れば、それが共通の話題となるだろう」と述べます。現在の定年後の人々は、ネット環境に順応できる人と苦手な人、その2つに大きく分かれています。難なく順応し、これらを使いこなしている人がいる一方、ネットどころかパソコンも満足に使えない人もいる。これが新たな格差となっています。趣味や娯楽の分野だけならまだしも、銀行や行政とのやり取りなどでネットへの対応が必須になっているのです。

第三章「定年後の勉強」の「読みそびれていた本に再チャレンジ」では、読書の習慣がある人とない人では、人生の充実度に差が生じることが指摘されます。そこには2つの理由があるといいます。第1に、読書が情報を得るために最も安価で確実な手段であるということ。第2は、読書によって、多くの人生を経験することができること。他人の成功だけでなく、失敗から学ぶこともできます。容易に理解できない難解な本とは、どう付き合えば良いのか? 難解な本のなかには、先行している学説やデータを無視し、自分の思い込みを表現している本が多いことを指摘し、著者は「何も、読者の理解力に問題があるわけではないのだ。この種の本を読むのは時間の無駄なので、読まなくていい。これに対し、その分野の基礎知識がないと理解できない本がある。たとえば、微分法に関する知識がない人が、偏微分方程式が多用されている金融工学の専門書を理解することなど不可能だ。その場合には、自分の数学の欠損を埋めるのにかかる時間を計算する必要がある」と述べています。

ビジネスパーソンとしての多忙な生活にまぎれて、これまでに読みそびれていた本に再チャレンジすることも提案し、「たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、あるいはゲーテの『ファウスト』やヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』などの古典をじっくりと読むのだ」と述べます。さらに著者が勧める意外な本は、大学時代の教科書です。読者が法学部出身だったならば、法学や法律のテキス。商学部ならば、経済学や会計学などの教科書。自分が学生時代に使っていた教科書を見返すだけでも、記憶の訓練になるし、当時の世情を思い出して、脳に刺激を与えることができるとして、著者は「昔の教科書であっても、ネットで探せば、驚くような安価で購入できる。そうして手にした教科書によって、若かりしころの空気、景色、友人などを思い出すことができる。表紙を見ているだけでも、自分の原点に返る感じがする。こうして人生を二度、経験することができるのだ」と述べます。

「学び続けると人生も社会も豊かに」では、優れた「物語」を小説で読んだり映画で鑑賞したりすると、多くの人生を疑似体験することになるといいます。ただし、そのときに自分の感情を共振させるには、それ相応の知識や経験が必要だといいます。そうした条件が揃えば、1人の人生を数倍に大きくすることもできるというのです。著者は、「人間が一生に経験できることは限られている。そこで私が勧めるのは、小説を読むこと。あるいは映画でもいいだろう。要は、それらを通じ、数多くのバラエティに富んだ人生を、バーチャルに経験するのだ。優れた小説や映画からは、自分が実際に体験しなくとも、まったく違う人生を経験できる」と述べています。

「自分の蔵書を再確認し古書店を訪問」では、中国共産党が漢字を簡略化したことを紹介し、これは識字率の向上というよりも、民衆が過去の文献を読めないようにすることが目的だったことを明かします。このように文字の改革を行えば、それまでに蓄積されてきた歴史が消えるのです。すると、自分たちに都合の良い「歴史」ができあがるわけです。著者は、「日本人も安穏としていてはいけない。これに近いことが日本でも起きているからだ。現在の日本人で、古文や漢文を自由に読むことができる人は少ない。これは戦後のアメリカによる教育制度改革の影響であろう。古文や漢文を勉強する授業時間は、極端に減らされてしまった。すなわち、古文や漢文を読めなくして、それまでの日本の歴史を遮断し、日本が戦前と同じような道を歩まないようにする意図があった」と述べます。先人の知恵がたくさん詰まった自国の古典を読む機会がないというのは不自然です。そこで日本人が教養を取り戻すためには、古文や漢文の読み直しが必要なのです。

「教養磨きには高校時代の教科書を」では、新しい知識を身に付けるのは難しくとも、過去に学んだあと眠っている記憶を呼び覚ますことは比較的容易だといいます。そのためには、高校の教科書や参考書を再読し、時間を見つけてはチェックすることも重要です。最初に取り組むべきは「国語」。現代国語の教科書には、文学はもちろん、歴史や哲学といった文科系の文章から、物理や生物などの科学者の論文まで、幅広く載っています。現代国語の教科書自体がリベラルアーツの集大成だと言えます。次は「数学」。いまさら数学など、何の役に立つのかと思うかもしれません。しかし数学は、論理的な思考を育むのに必要不可欠な学問なのです。さらに学びたいのが「倫理」。世界中の思想家、哲学者、宗教家の考えを知ることができるので、思考の鋳型を作ることができます。

「近所の大学図書館に眠る専門書や稀覯本」では、生涯学習とは、広い概念で、自分のキャリアとは連動せず、自分の関心を深掘りして、生きがいにすることであるといいます。趣味、スポーツ、芸事などを、無理なく楽しく学ぶことなのです。つまり、いわゆる教養を深めたい、知識を増やしたい、勉強すること自体が楽しいという人にピッタリなのが生涯学習です。著者は、「私自身は、作家として著作物を生み出すための勉強がすべてだ。とはいえ、学んで新しい知識を取り込むことが大きな喜びであることは、学生時代からまったく変わらない。勉強自体が趣味となり、それが楽しいという人は、生涯、勉強を続けるべきだろう。そんなとき、日本が世界に誇るインフラと言えるのが大学図書館・・・・・・近所の大学図書館の多くは地域住民に開かれている。そこには一般の図書館にはない専門書や稀覯本が眠っている。大学時代の専門をさらに深く学ぶ教材がある、ということだ。ぜひ、積極的に活用すべきだろう」と述べるのでした。

第四章「定年後の仕事」の「私の一日の働きぶり」では、著者の1日のタイムスケジュールが紹介されます。朝は4時45分に起床。主要新聞の電子版の更新時間が朝5時なので、朝一番のニュースにいち早く目を通すためだそうです。そして、同志社大学の学生たちに対する「早朝リモート講義」(午前6時から8時30分)が、平均すれば週に3回入ります。そのあとは原稿執筆の時間。執筆は、だいたい正午から午後1時くらいまで続けます。そのあとは、おもに読書や情報収集の時間です。著者は、「頭がまだクリアな午前中は原稿執筆などの『アウトプット作業』を行う。そして頭を使ったあと、午後の時間は『インプット作業』に充てる。これが1日の基本だ。ただし、ある1日の午後に、取材をまとめて入れてしまうこともある」と述べています。興味深いですね。

第五章「定年後の交遊関係」の「フェイスブックやXに友人がいたとしても」では、著者は「512日の勾留中、あらためて振り返ってみると、最後まで私との友情を大切にしてくれた人、バッシング後も何事もなかったがごとく普通に付き合ってくれた記者は、共同通信の加藤正弘氏、朝日新聞の西村陽一氏、それに産経新聞の斎藤勉氏だけである。この3人は私にとって大切な友人であり、現在でも、家族同様に親しく交流している」と述べています。ちなみに著者が職業作家となってから、バッシング当時に陰で著者を攻撃していた記者たちが、「心のなかでは佐藤さんを応援していました」などと言って近寄ってきたそうです。「いくら心のなかで応援していたとしても、あなたは私を攻撃する記事を書いたのですから、信用できませんね」と言い返したいところだったとか。しかし、そこは感情をグッと抑えて、「当時は、そうは見えませんでしたが、心のなかで応援してくださったことには感謝します」と答えることにしているそうです。これも興味深いですね。

「真の友人は10人以下」では、ロシア人やイスラエル人の世界では、友人という言葉の意味は重いことが紹介されます。「私には、友人が100人います」などと言うような人は、まったく信用されません。友人の基準が甘すぎるからです。友人は、自分が不遇な状態に陥ったとき、命の危険を覚えるようなことがあっても守ってくれる人のことです。これが10人を超えることはありません。そして著者には、イスラエルとロシアに、本当の友人がいるそうです。この人たちは「鈴木宗男事件」のときもリスクを負って著者を守ってくれました。リアルな付き合いを通じて生じた友情は一生続くとして、著者は「このように、定年後の人たちは、仕事に注ぎ込んできたエネルギーを、本当に信頼できる友人に振り向けるべきだろう。そうすれば、ビジネスの最前線で戦ってきた前半生よりも、ずっと濃い、豊かな人生を送ることができるはずだ」と述べます。

「典型的な外務官僚は定年後が孤独」では、1人でいるのが好きであり、また交友する相手がいないとしても、実は孤独ではないといいます。なぜなら心は清廉を維持しているからです。加えて著者は、「この世には意のままにならないものがある」と自覚している人は孤独にならないと思っているといいます。さらに言えば、孤独な自分だけの時間を意図的に作ることも重要だとして、著者は「そうして自分の内面を見つめ、自分の行いを振り返ってみる。すると、自分にとって実際に何が最も大切か、何にエネルギーを注ぐべきか、それらが自然と明らかになってくる。時には友人たちから離れて1人になり、何もしない時間を作ることも大切なのだ」と述べています。

「経済合理性から外れた人間関係を作る」では、目先の利に敏い人は短期的に成功を収めるかもしれませんが、長続きはしないといいます。欲をかいて失敗することが多いし、社会からのサポートを得られないからです。また、人間が自分のためだけに努力できることには限界があるとして、著者は「家族や友人、あるいはコミュニティの隣人たち・・・・・・そうした人たちとの関係性のなか、相手に救いの手を差し伸べたりしながら生きる人のほうが、力が発揮できる。そして、結果として成功する。であれば、そのほうが幸せな生き方だ」と述べています。

「『賢者の時間』を大切に」では、数学者のクルト・ゲーデルの「不完全性定理」という数学の理論によれば、1つの体系のなかには、必ず自己矛盾の要素があることが紹介されます。そして、その体系のなかにいる限り、その矛盾には気づかない、とします。つまり、立ち位置をズラして考えることができれば、自分を取り巻く世界の矛盾が客観的に見えてくるといいます。「孤独は人を賢者にする」という言葉があります。実際、古から、偉大な思想、哲学、文学、芸術などは、孤独な時間のなかから生まれました。「ひらめき」が生じるのは、孤独な時間なのです。著者は、「意識的に孤独になり、自分の感性を磨き、心の清浄を得るのだ。すなわち、必要以上に友を求める必要などない。そして直観力を磨くのだ。実は、仕事をせず、人間関係もない『ひきこもり』は、超人の条件でもある。そのため『ひきこもり』の人たちに対しては、『生きていてくれるだけでありがたい』という気持ちで接するべきだ。そして、自分がそうなっても恥じる必要などない」と述べます。

「スペシャリストの友人は定年後の財産」では、安心して社会生活を送るためには、「自助」「公助」「共助」の3つが大切だとされることが紹介されます。特に定年後は、地域コミュニティで互いに助け合う「共助」が重要になります。そしてその意味では、学生時代の仲間の存在は大きいかもしれないといいます。著者は、「利害関係のない青春時代に、同じ空間を共有してきた友人は、何十年たっても、昔の感覚のまま付き合うことができる。そんな人たちは、貴重な存在と言える。しかも旧友たちは、これまで社会で長年の経験を積んでいるので、それぞれの職種のスペシャリストになっている。そうした人たちの助けが、還暦以降の人生では、大きな力になる」と述べるのでした。

第七章「定年後の家族関係」の「『鬼滅の刃』が教えてくれること」では、『鬼滅の刃』が取り上げられます。自ずと知れた漫画と映画の大ヒット作品ですが、コロナ禍と関連して、著者は2つの現象を頭のなかに銘記したそうです。1つは鬼が登場するという文脈。同じ頃に『約束のネバーランド』という作品もヒットしましたが、そこにも人間を食べることで知能などを維持する鬼たちが登場しました。もともと鬼は、「目に見えないけれども、災いをもたらすもの」という存在です。そうした人知の及ばない存在との相克の物語が、新型コロナウィルスと対峙する状況と重なりました。そのことが、『鬼滅の刃』のヒットと無関係だとは思えないというのです。

それから、もう1つ。そうした状況下、「自分を守ってくれるのは家族だけだ」というメッセージも、作品からは強く窺えるといいます。著者は、「主人公の炭治郎と妹・禰豆子の戦いの物語は、鬼に勝つためには家族でまとまって戦うしかない・・・・・・そう訴えているように見える。新型コロナウイルスの出現によって、『守ってくれるのは肉親だけだ、すなわち家族単位の自助努力が必要だ』ということが分かったのだ」と述べています。著者が『鬼滅の刃』に関心を抱いていることは意外でもあり、嬉しくもありました。同作品と新型コロナウイルスとの関係、さらには同作品における家族観については拙著『「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)に詳しく書きましたので、著者の佐藤優氏にぜひ献本させていただきたいと思います。

「介護はアウトソーシングする時代に」では、『介護破産 働きながら介護を続ける方法』(結城康博、村田くみ著・KADOKAWA)という本が紹介されます。同書によると、年老いて介護が必要になった親を看取るまでの費用の目安は、約550万円です。介護期間の平均が約5年間なので、年に約100万円、月に10万円弱かかる計算になります。この額に、日々の生活費が加算されていくわけです。そのため公的扶助や公的サービスを活用し、1人で抱え込まずに、介護をアウトソーシングすべきであるといいます。現状では、「養護老人ホーム」「特別養護老人ホーム」「老人福祉センター」「在宅介護支援センター」など、様々な老人福祉サービスが提供されています。これら公的サービスを最大限に利用し、介護の専門家の力を借りていくことこそが、親も自分も不幸にならない最大のポイントだとして、著者は「これからの時代、『介護は専門家に、愛情は家族で』が基本になる。病気になったら医者に診せるのと同じように、介護が必要となったら、しかるべき専門のプロにお願いするのだ」と述べます。

第八章「定年後の恋愛・趣味・健康」の「定年後の結婚はどうなる」では、著者は「結婚とは、互助システムかもしれない。一種の生活共同体を作る営み。逆に言うならば、互いに信頼関係があり、助け合って生きていくということであるならば、結婚という形にとらわれる必要もない」と述べます。近くに住んでいる者同士であれば、籍を入れずとも、互いに行き来しながら、互いを高め合うこともできるというのです。そのため定年後の結婚は、恋愛感情だけで突っ走ってはいけません。そうすると、失敗することが多いはずだといいます。著者は、「結婚は、互いの生活を守るための生活防衛とも言える。親の介護や自分たちの老後対策が第一の目的だと考えて、常に頭を冷やすべきだろう」と述べています。

著者は、「結婚の形態は重要ではない」と断言します。ただし夫婦は、寝食を共にしてセックスをするだけのものではありません。互いに愛し合い、相手の気持ちを斟酌して行動することが、間違いなく夫婦の必要条件でだといいます。著者は、「私自身も、1回目の結婚には失敗した。その経験を語ると、離婚は極力経験しないほうがいい。離婚は、結婚の3倍くらいのエネルギーがかかると感じたからだ。それでは、どうすれば離婚しないで済む相手を見つけることができるか? まずは数ヵ月、同棲をしてみることだ。こうして一緒に生活していると、恋人時代には気づかなかった相手の癖や性格が見えるようになる。そのうえで一緒にやっていけると感じられたら、結婚するのだ」と述べています。

あとがき「他人と比較してものを考えるのは致命的な習慣」の冒頭で、著者は「ヴィクトル・ユーゴーは『40歳は若者の老年期、50歳は老人の青年期』と言った。私は、いま日本の60代以降の人たちは『人生の黄金期』を生きているとさえ思う。ただ貝原益軒は『養生訓』で、〈老後は、若きときより月日の早きこと、10倍なれば、1日を10日とし、10日を100日とし、1月を1年とし、喜楽して、あだに、日を暮らすべからず〉とも指摘している。またアメリカの作家ヘンリー・ソローは、『人は死の間際になって初めて、本気で生きてこなかったことに気づく』と警鐘を鳴らしている」と述べています。1960年生まれの著者はわたしより3歳年長ですが、「60代の先輩」「人生の先達」として、本書でさまざまな学びを与えてくれました。本書は、心ゆたかな老後を生きるために最適な人生のガイドブックです!