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No.2462 プロレス・格闘技・武道 『証言 プロレス界ケンカマッチの真実』 佐山聡+藤原喜明+川田利明+船木誠勝ほか著(宝島社)
2026.04.26
『証言 プロレス界ケンカマッチの真実』佐山聡+藤原喜明+川田利明+船木誠勝ほか著(宝島社)を読みました。もう昭和プロレス本は読み尽くした感があったのですが、このタイトルで、版元が宝島社だと読まずにはいられません!
本書の帯
カバー表紙には、アンドレ・ザ・ジャイアントにローキックを叩き込む前田日明の写真が使われ、帯には「至近距離の目撃者が語る不穏試合の全内幕!」と書かれています。カバー前そでには、「僕はプロレスと総合格闘技とケンカはすべて分けて考えています。(佐山聡・談)」とあります。
本書の帯の裏
カバー裏表紙では、SWSでのジョン・テンタ戦で「八百長野郎!」の暴言を吐いて暴れる北尾光司を荒川真らが押さえている写真が使われています。帯の裏には、「●アントニオ猪木vsグレート・アントニオ●橋本真也vs小川直也●スーパー・タイガーvs前田日明●前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント●北尾光司vsジョン・テンタ●川田利明vs髙山善廣●藤原喜明vsキラー・カーン●橋本真也vs栗栖正伸」「ケンカマッチの謎を考察することはプロレスファンにとって至上の喜びである。」と書かれています。
アマゾンの内容紹介には、「日本のプロレス史に残るケンカマッチについて、試合に立ち会った当事者、至近距離の目撃者がついに証言! プロレスファンの記憶に残る猪木vsグレート・アントニオ戦、スーパー・タイガーvs前田日明戦、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント戦などのケンカマッチに関し、当事者、目撃者の証言から全貌を解明します。今だからこそ口外できるケンカマッチの真実とは? プロレスファンは必読!」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」ターザン山本
第1章 「新日本」「猪木」が〝魅せた〟ケンカマッチ・不穏試合
佐山聡①
「アントニオ猪木」という名前を守る
仕方なくやった制裁試合
藤原喜明①
猪木が制裁した「俺との試合は
アリ戦よりも客が入る」と言った選手
船木誠勝①
昭和の新日本の怖いところは
「制裁マッチ」が当たり前にあったこと
特別インタビュー
齋藤彰俊が語る「新日本vs誠心会館」
プロレスの枠を超えた“抗争”の真実
特別コラム
奇跡の名勝負となった「ケンカマッチ」
橋本真也vs栗栖正伸“涙の”ドラマ
「新日本プロレス」と「猪木」
ケンカマッチ・不穏試合の歴史
第2章 「UWF」「前田」の〝修羅場〟のケンカマッチ・不穏試合
佐山聡②
前田が“真剣”を抜いてきていないのに、
自分が抜くわけにはいかない
藤原喜明②
クマとの闘いは、
どんなプロレスラーとのケンカマッチより怖い
船木誠勝②
レスラーを“ウソつき”みたいな
目で見るようになったSWSの社長
山崎一夫
前田戦でアンドレが驚いた
「自分に対して反撃してくる人間」がいたこと
「UWF」と「U系団体」の
ケンカマッチ・不穏試合の歴史
第3章「全日本」と「王道の系譜」で起こったケンカマッチ・不穏試合
川田利明
「三沢vs川田」はすべてが“”のケンカマッチだった
アポロ菅原
「北尾光司vsジョン・テンタ」
「鈴木みのるvsアポロ菅原」全真相
「全日本プロレス」と「馬場」
ケンカマッチ・不穏試合の歴史
第4章 「女子プロレス」と「インディー」のケンカマッチ・不穏試合
山本雅俊
「ジャッキー佐藤vs神取しのぶ」
一方的な残酷ショーの真実
スペル・デルフィン
“平成のミステリー”陰湿すぎる私刑
「股くぐり事件」の真相
ブル中野
“女帝”が語る「世Ⅳ虎vs安川惡斗」
顔面崩壊事件と全女の狂気
「女子プロレス」昭和・平成
ケンカマッチ・不穏試合の歴史
「インディー」と「大仁田」
ケンカマッチ・不穏試合の歴史
プロレス界主要「ケンカマッチ&不穏試合」年表
「はじめに」では、ターザン山本氏がこう書いています。
「ケンカマッチに誰よりも興奮しているのは、実は古い昭和のプロレスファン。彼らはあたかもそれを待ち望んでいたかのように、『そら、見たことか。プロレスはマジなんだよ。ガチンコなんだよ』と声高々に主張できるからだ。まるで鬼の首を取ったかのように、ケンカマッチを無条件に礼賛する古参ファン。要するにプロレスはどこまでいっても、どんな時代になっても、日本という風土のなかでは“やらせ”“八百長”と言われてしまう世界、ジャンルなのだ。それに対するプロレス界の猛烈な反発、反撃がケンカマッチを生んできた。しかし、ケンカマッチは無意識に生まれるのか、本能的に生まれるのか、その答えはわからないままだ。ただ、歴史的に見て、あらゆるプロレス団体のなかで、“打倒!対世間”を最も意識してきたのが新日本プロレスであることは間違いない。それが創業者、アントニオ猪木の信念だからだ」
第1章「『新日本』『猪木』が〝魅せた〟ケンカマッチ・不穏試合」の佐山聡①「『アントニオ猪木』という名前を守るため、仕方なくやった制裁試合」の「佐山にケンカで勝てる人間はいなかった」では、冒頭に佐山聡の新日本若手時代のライバルであり、生涯の親友でもあった“虎ハンター”こと故・小林邦昭の〈あの当時の新日本プロレスで、佐山とケンカしてないのはボクくらいじゃないかな? ほとんどの選手とケンカしてますから。佐山は横柄な態度を取られると、たとえ先輩相手でもキレちゃうんですよ。でも、ボクは人とそういうふうに接するタイプじゃないからキレられたことはないけど〉という証言が紹介されています。
小林によれば、横柄な態度を許さない佐山のケンカっ早さは、プロレスの外の世界でも同じだったそうです。彼は、「街でもけっこうやんちゃなヤツが向こうから歩いてくると、相手が睨んできたりするじゃないですか? そうすると若い頃の佐山は、すれ違った瞬間に引き返して、『てめえ、この野郎! ぶっ殺すぞ!』っていくんですよ。相手はその筋の人間ですよ? 一緒に親分がいた時は、その親分に謝らせてましたからね。佐山には誰がいっても勝てないよね。気は強いし、キックボクシングの腕前はプロじゃないですか? 打撃のスピードがそのへんのケンカ屋とは全然違うから、たとえ何人かに絡まれたとしても、佐山1人に勝てないんです」と語っています。凄い話ですね!
「『ケンカマッチ』と『シュート』はまったくの別物」では、藤原喜明が「サル山」と称した70年代の新日本道場について、佐山聡が「プロレス団体というのは、腕に覚えのある人間たちが集まっているわけだから、ぶつかり合うことがないほうがおかしい。それはどこの世界でもあるのではないですか。でも、お客さんが観ているリング上でケンカはやってはいけないという意識はみんなあったと思います。とくに若手の試合は、山本さんも見てるし、猪木さんも見てるわけですから」と語っています。
ただ、試合でガンガンやり合うなかで、お互いカタくなることはあったそうで、佐山は「それをみなさんは『ケンカマッチ』と呼ぶのかもしれませんが、カタくなったとしても、昔の新日本はカタいのが当たり前みたいなところがありましたからね。だから、星野勘太郎さんとダイナマイト・キッドの試合がケンカマッチと言われますが、あれもお互いがカタくなりすぎたからです。2人とも気が強いから、カタくなったら引かないんです。アドレナリンのぶつかり合いだから。でも、星野さんもダイナマイトもプロだから、ちゃんと試合は成立させていますよね」と語ります。
「レス・ソントン戦でやった“やってはいけないこと”」では、新日本における最後の伝説的なケンカマッチが取り上げられます。1999年1月4日、東京ドームで行われた橋本真也vs小川直也の一戦で、通称「1・4事変」です。この試合で小川のセコンドについた佐山は、小川がケンカマッチの一線を越えてしまったことが問題だったとして、「あの時、事前に考えていたことは、相手の技を受けずに“ナチュラル”でいこうということです。本来のストロングスタイルに戻すということですね」「僕らの時代の新日本はそういう世界ではなく、プロレスとして最低限の着地点だけは想定していましたけれど、あとはナチュラルでした」と語領収書ます。
さらに、佐山は「オーちゃんもプロレスはそういうもの(ナチュラルが基本)だと猪木さんに教わってるから、そうやりたいんですけど、橋本選手は先輩だから試合の主導権はオーちゃんではなく、橋本選手が握ってしまう。そうすると緊張感ある試合にはならないですから、それを打破したいと。それならば、いちばんいい方法は、ナチュラルに徹して、なあなあな試合にはさせないということでした。ところがオーちゃんは、倒れてうつ伏せになった橋本選手の顔面を蹴っ飛ばしてしまったんで、『あっ!』と思いました。あれはプロレスラーが絶対にやってはいけないことです。無防備な相手の頭部に強い蹴りを入れるというのは、相手に重大なダメージを与えかねないし、死に至らしめることもある」とも語っています。
佐山いわく、プロレスを壊そうとする相手からプロレスを守るためにやらなくてはいけない時があるといいます。タイガーマスクvsレス・ソントン(82年5月25日、静岡産業館)の試合後、僕がハイキックでレス・ソントンをKOした時がそうでした。佐山は、「あれはレス・ソントンがジャーマンスープレックスで負けたのに、なんのダメージもないかのように、すぐに立ち上がって帰ろうとしたんです。彼にも意地があったんでしょう。でも、それはプロレスを壊す行為だから、レフェリーのミスター高橋さんに、『あの野郎、ジャーマンを受けたのにピンピンしていやがる。やっちゃえ』と言われて、僕もやったんです。やってはいけないことなんですが、焚きつけた高橋さんが悪い、ということにしておいてください(笑)」と語るのでした。
藤原喜明①「猪木が制裁した『俺との試合はアリ戦よりも客が入る』と言った選手」の「半殺しにしようと思ってたキラー・カーン戦」では、1983年3月23日の山口県立体育館における藤原とキラー・カーンのケンカマッチが取り上げられます。事の発端は、このシリーズにおけるカーンの周囲への態度だったそうです。当時、アメリカのWWF(現・WWE)でヒールとしてメインイベントを張るようになっていたカーンが帰国。それをひけらかすような尊大な振る舞いにカチンと来た藤原が、カーンの試合前、リングに上がる階段を逆さに置くというイタズラを仕掛けたのです。試合後、それが藤原の“しわざ”だと知ったカーンが、侮辱的な言葉を吐いたことで関係が悪化したといいます。それを知ってか知らぬか、3・23山口大会で藤原vsカーンの一騎打ちが組まれたのでした。
キラー・カーンとの一騎打ちについて、藤原は「ケンカマッチだとかいうけど、ある意味で、あれがホントの試合だよ。自分が磨いてきた腕の“試し合い”だからな。『お前、そんなデカい態度してるんだったら見せてやろうか?』っていうだけの話だよ。なんのことはない。ただ、あの時はそりゃ半殺しにしようと思ってたよ。ケンカってそういうもんだからな。リング上でのケンカなら、万が一のことがあったとしても『いや、事故ですよ』で済んじゃうから。自分がそうならないように守る技術も必要になるんだ」と語っています。試合内容的には藤原が圧倒していたと伝えられますが、それは寝技ではなく、猪木vsアリ戦(76年6月26日)の前からボクシングの練習に取り組んでいた藤原がパンチで圧倒したといいます。
「アリ戦の次のベストマッチは『グレート・アントニオ戦』」では、藤原に、印象に残る猪木のケンカマッチを聞くと、「猪木さんのケンカマッチでよく覚えているのは、カナダのごっつい野人みたいなのがいただろ? グレート・アントニオだ。顔をバッカンバッカン蹴って鼻血を垂らしてな(77年12月8日、蔵前国技館。3分49秒、顔面蹴りからのストンピングで猪木のレフェリーストップ勝ち)」という答えが返ってきたことが紹介されます。やや意外な答えですが、藤原は「なんで猪木さんがあんなことをやったかというと、グレート・アントニオが猪木さんに言ったらしいんだよ。『俺とやったほうが、モハメド・アリとやるよりも客が入るぞ』ってね。それで猪木さんがカチーンと来て、試合でもおちょくるようなパフォーマンスを繰り返してたから、『コノヤロー!』って、あっという間にボコボコにしちゃったんだ。見事だったよ。俺が見た猪木さんのベストマッチがアリ戦で、次に面白かったのがグレート・アントニオ戦だな(笑)。両極端なのが素晴らしいんだよ」と語るのでした。
船木誠勝①「昭和の新日本の怖いところは『制裁マッチ』が当たり前にあったこと」の「長州とマサ斎藤に制裁された橋本」では、1987年6月1日、福岡県北九州市の西日本総合展示場で行われた橋本真也vsヒロ斉藤のシングルマッチ後に、橋本が長州力とマサ斎藤からリンチされたことが取り上げられます。橋本の同期であり、彼のことを「ブッチャー」のあだ名で呼んでいた船木は、「あの時のブッチャーは最初からやるつもりでいましたね。なんか試合前からピリピリしていたんです。昔の新日本って、試合前に対戦相手と会うことがないんですよ。控室もまったく別で。だからブッチャーがどういう感情で来るかをヒロさんは知らなかったと思います」と証言しています。
また、船木は「それでいざ試合が始まったら、いきなり強い蹴りがバシバシ来るし、腕を取らせたら関節も絞め上げてくるんで、途中からヒロさんは自分の体を守ることに必死でしたね。ヒロさんもメキシコでそういう経験があったらしく、途中で『あっ、来たな』と気づいたんだと思います。とにかくブッチャーがバンバン蹴って関節を極めて、それをヒロさんが我慢する展開が続いて、最終的に『10分経過!』のコールのあと、セントーンか何かで終わったんじゃないですかね。最後だけ普通のプロレスで、その途中はとにかくブッチャーが攻めまくってました」とも証言しています。
さらに、船木は「あのあと、ブッチャーは長州さんとマサ(斎藤)さんに控室に呼ばれて、2人がかりで制裁を加えられたんです。あの時は自分もびっくりしました。いきなり向こうの控室からドーンドーンって暴れているような音と、長州さんであろう人の怒鳴り声が聞こえてきて。それがけっこう続いたんですよ。『いつ終わるのかな?』って思っていた記憶があるので、たぶん2~3分はそれが続いたと思います。それぐらいブッチャーがやったことは、プロレス界ではやっちゃいけないことだったんですよ。海外だったらクビになってたでしょうね。でも、昔の新日本プロレスにおけるマナーとか、そういったことはまったく教えてもらってないので、間違ったら自分が責任を負って成長していくしかないんですよね」と語るのでした。
「カナダの巨漢レスラーを潰した橋本と後藤達俊」では、船木の次のような証言も紹介されています。
「ジャイアント・グスタブっていうすごく大きな選手が来て、毎試合、若手レスラーと1対2、1対3のハンディキャップマッチをやっていたんです。当然、2人がかりでも若手はかなわなくて、グスタブが勝ち続けてたんですけど、ある日突然、坂口征二さんが『今日は思いっ切り蹴ってもいいぞ』って、その日に闘う予定だった後藤達俊さんとブッチャーに言ったんですよ。しかも『1発、強い蹴りを入れるたびに5000円』みたいな話で(笑)。それを聞いた後藤さんとブッチャーが『えっ、いいんですか? わかりました!』となって、ボコボコに蹴って潰しちゃったんです」
船木は、「坂口さん公認で、しかも賞金まで出すって言われてますから、後藤さんもブッチャーも最初からバシバシ蹴っていって、グスタブが一方的にやられてるもんだから、最後はマネージャーが乱入して(4分37秒で)反則負け。たしかその数日後、カナダに帰っていきましたね。グスタブがあまりにもしょっぱいからああなったんでしょうけど、そういう制裁マッチみたいなのが当たり前にあるところが、昭和の新日本の怖いところですよね。プロモーター側がそれを仕向けるって外国だったらありえないだろうし、今だったら、そんなことがあれば訴訟になると思います。でも、そういう時代だったし、『自分の体は自分で守る、そのために強くならなきゃいけない』っていうのが、あの頃の新日本でしたね」と語るのでした。
「『新日本プロレス』と『猪木』ケンカマッチ・不穏試合の歴史」の「ケンカマッチ、不穏試合を“是”とした猪木と前田」では、「橋本にシュートを仕掛け、『新日本プロレスファンのみなさま、目を覚ましてください!』と叫んだ小川は、大きな幻想をまとうことになる。しかし、一方の橋本を評価する声もあった。その1人が、元『週刊プロレス』編集長のターザン山本だった。〈猪木さんが強権発動できたのは、橋本だからですよ。あれを受けられるのは橋本だけ。これが武藤か蝶野なら、頭おかしくなってますよ。橋本も、この試合に関して泣き言や愚痴を言わない。彼も天下のプロレスラーですよ。橋本はむしろ誇りに思っていたかもしれない。『猪木さんが仕掛けられるのは、俺しかいない』と〉(『逆説のプロレスvol・14』双葉社)」という証言が紹介されています。
猪木イズムを最も色濃く受け継いでいる前田の意見は過激です。現役を引退している前田は、現在のプロレスにおいてのケンカマッチ、不穏試合についてどう考えるのか。本書では、『逆説のプロレスvol・14』の中の「(きっぱりと)是だね。あってもいいんじゃないかと思うよ。(中略)じゃないと、ただのゲーム上のキャラクターじゃん。『生きた人間』じゃなくなっちゃう。プロレスは生きた人間がやるから面白いんだよ。観てるほうが『あれ? いつもと違うぞ。何かあるんじゃないか?』とか『ホントはこいつのほうが強いんだな』とか、そういう妄想をして、そこにみんなは惹かれるんじゃん」という前田の発言が紹介されています。
第2章「『UWF』『前田』の〝修羅場〟のケンカマッチ・不穏試合」の佐山聡②「前田が“真剣”を抜いてきていないのに、自分が抜くわけにはいかない」では、1985年9月2日、第一次UWFの大阪府立臨海スポーツセンターで行われた、スーパー・タイガーvs前田日明の一戦が取り上げられます。このとき、試合開始早々から前田が仕掛けることでケンカマッチとなりましたが、佐山自身はあの試合を「ケンカマッチ」と呼ぶことを否定し、「あれはケンカではないんです。(中略)ケンカだったら“真剣”を抜くわけですけど、前田は『抜くぞ、抜くぞ』という気構えはありましたが、抜いてはいないんです」と語っています。
続けて、佐山は「もし真剣を抜いていたら、前田が最初にふいに打ってきた平手のパンチで、僕の顔面はぐちゃぐちゃになっていたはず。でも、あれはプロレスの張り手だったし、関節技も本気で極めに来ていない。当時の前田の真摯な気持ちだったんでしょう、『辞める、辞める!』と小声で言いながら、プロレスの攻防もいっさいしませんでした。レフェリーのミスター空中さんは『お前、辞めてどうするんや』と大阪弁で言っていて、僕としてはどうしようもなかった。前田が真剣を抜いてきていないのに、こっちが抜くわけにはいかないし、そもそも僕に抜く気はありませんでした」と語るのでした。この証言は、よく知られていますね。
「ケンドー・ナガサキの敗因は“相撲”」では、佐山が1995年9月26日に開催した「バーリ・トゥード・バーセプション」でのケンドー・ナガサキがキックボクサーのジーン・フレジャーに惨敗した試合が取り上げられます。ナガサキといえば、プロレス界で“ケンカ最強”の名をほしいままにし、数々の武勇伝を持つ猛者でした。95年3月にそんなナガサキをエースに大日本プロレスを旗揚げしたグレート小鹿社長は、ナガサキvsヒクソン・グレイシーを実現させ、「グレイシー狩り」を果たすことで、団体を一気に軌道に乗せようとしたのです。こうしてナガサキは、シューティング以外の団体にも広く門戸を開いていた「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン」に出場してヒクソン戦を実現させるため、まずは9・26駒沢のシューティング主催「バーリ・トゥード・バーセプション」に初出場したのでした。
ナガサキは、第1回UFCに参戦した経験を持つキックボクサーのジーン・フレジャーと、4本のロープが張られた六角形のリングでバーリ・トゥードルールで対戦。試合開始直後、ナガサキはタックルで突進しますが、フレジャーをつかまえることはできず、ヒザ蹴りで突き放されると右ストレートをまともにくらい、バタンと後ろに倒れ、わずか36秒で壮絶なKO負けを喫しました。試合後に映像をスロー再生して観た時、ナガサキの敗因がすぐにわかったという佐山は、「結局、タックルを突き放されて負けたんですけど、ナガサキさんはあの時、“相撲”をやってたんです。ナガサキさんは元大相撲の力士ですよね? そのクセなのか、タックルにスポーンと入ったんですが、胴をクラッチせずに、あるはずもない“まわし”をつかもうとしていたんです。僕もあれは予測できませんでしたね」と語っています。バーリ・トゥード(総合格闘技)はケンカではありません。もちろんプロレスのケンカマッチの延長で勝てるものでもありません。総合には総合の闘い方がある。2000年代初頭まで、プロレス界ではなかなか理解が広まり切らなかったこの事実を、佐山聡は30年以上前から言い続けてきたのでした。
山崎一夫「前田戦でアンドレが驚いた『自分に対して反撃してくる人間』がいたこと」の「試合前にいつも『酒を飲む』アンドレ」では、前田日明たちUWF戦士は若手時代、道場や試合前のリングで行われる藤原喜明とのスパーリングで、関節技の腕を磨いたことが紹介されます。山崎一夫は、そこにアンドレ戦での前田のルーツがある見ています。山崎は、「僕らが若手の頃は、スパーリングで藤原さんと関節技とか相手の倒し方みたいなのをずっとやってたんです。藤原さんからは『海外に行ったら、ホントに仕掛けてくるヤツがいるんだぞ』『いざという時に自分の身を守る術をもっていなければいけないよ』というのは、ずっと言われて育ってきてました。僕は海外に行ってないですけど、前田さんはイギリスに行ってますからね。自分の身を守る術を持っていて、そのための意識もあるから、アンドレが仕掛けてきても、『やられっぱなしじゃないよ』と。吹き込んだ外国人選手も、まさか前田さんがあそこまで反撃してくるとは思ってないでしょうし、たぶんアンドレもそうだったんじゃないかなって」と語っています。
「猪木さんを頂点とするピラミッドに前田さんはいない」では、前田と長州は「両雄並び立たず」「取り扱い注意」の関係だったことが指摘。実際、長州の新日本カムバックが87年5月だったのに対して、顔面襲撃事件が起きたのは11月。実に半年もの間、人気選手同士の対戦が組まれていなかったのです。本書には、「これは何を意味するのか。単に期待感を煽るために対戦を温存していたのか。しかし別の考え方もできる。長州を生かして興行を盛り上げるためとはいえ、前田との対戦は危険すぎると新日本上層部が判断した可能性はないだろうか。長州が戻ってきたことで、前田の“要注意人物”ぶりがさらに増したという構図」と書かれています。
そんな背景も考えられるからこそ、山崎は顔面襲撃事件を理由とする前田への処分に疑問を抱き、「僕の感覚だと、ちょっと見えない死角から蹴りが来たとしても、UWFの試合ってそういうものだったんで。ガードできないのが悪いっていう感覚でしたね。長州さんの目が腫れたのも、狙ってうまくできるものでもないですし。そのこと自体よりも、そのあとの新日本の対処法に意図的なものがあって、『なんだろうな……』っていう感覚だったんです」と語っています。つまり”加害者“が前田だったからこそ、新日本は長州のケガを大ごとにしたというわけです。ところが前田への処分が新生UWF旗揚げにつながりました。新日本にとっては痛手だが、前田はそれだけ手に負えない存在だったのです。
「『仲が悪い者同士の試合』は面白い」では、新日本育ちには「試合が壊れないかぎりは思い切りやればいい」という考え方があったとして、山崎は「プロレスって、カーンとゴングが鳴って始まった時に想像がついちゃう試合が、いちばん面白くないんですよね。『えっ、こうなっちゃうの!?』『こんなことして大丈夫!?』というのが面白い。その部分を猪木さんから教わったというか、新日本で学ばせてもらった感じはありますね。野球でいうと9回裏で大逆転みたいな。猪木さんはそれを意図してつくっていっちゃう。ハプニングも団体の魅力というか。猪木さんは『アイツ、嫌だ』って思ってる同士の試合が面白いって言うんですよ。結果として選手が団体を辞めちゃう時もあるんですけど(笑)、ハプニングも含めて新日本だったと思います。新生UWFも、やりたいことをやって、潰れてもいいじゃんっていう感覚で、もう一か八かでしたからね。そこに世の中の反応がドーンと来たんです」と語ります。猪木から前田へ、新日本からUWFへ。かつてあったハプニングも含めたプロレスは、ファンを魅了してやまなかったのです。
「『UWF』と『U系団体』のケンカマッチ・不穏試合の歴史」の「前田vsディック・フライ」では、船木誠勝によると、前田日明が「本当に怒った試合」は後にも先にもリングスでのディック・フライ戦(94年7月14日、大阪府立体育会館)だけだといいます。『逆説のプロレスvol・14』で、船木は「前田さんが最後まで遠慮なしにやったのはあれだけで、フライには本当にキレたと思います(笑)」と語っているのです。前田自身は、キレたのは「フライが最初に目を突いてきた」からだと説明しています。掌底を打つ際に親指を立てていたのだ。前田は試合当日の状況について、「あの日は、オランダ勢が自分の友達のキックボクサーとかをいろいろ会場に連れてきてたんだよね。それで、そいつらの前でカッコつけたんだよ。だから、オランダの選手はあの日の第1試合から危ないことばっかやって、荒れに荒れてたんだよ。で、俺がフライとやってる時もそうで、『じゃあ、やるんだったら来いよ』となって」と振り返っています。
船木は、『逆説のプロレスvol・14』において「前田さんはニールセン戦やアンドレ戦にしても、本人が思ってもいない時に、相手がいきなり仕掛けてくるわけじゃないですか。それにちゃんと対応できるって、シュートやセメントを超えた何かを持ってますよね。ハートが本当にすごいなと思います。前田さんはPRIDEとかそういう試合には出ていないですけど、いざとなった時に前を向いちゃうんですよね。で、最後までプロレスをやろうとする。だから、変わってますよね。変に余裕があるのか、わかんないのか……人がイイんでしょうね。潰そうと思ったら潰せる瞬間は、アンドレ戦にしてもニールセン戦にしてもあったんですよ。でも、最後までプロレスをやってしまうので、人がイイのもあるし、お客さんを裏切りたくないという思いが強い。前田日明っていうレスラーを最後まで見せてたような気がしますね」とも語るのでした。
第3章「『全日本』と『王道の系譜』で起こったケンカマッチ・不穏試合」の川田利明「『三沢vs川田』はすべてが“本気”のケンカマッチだったの「30年以上にわたる長い長い“ケンカ”」では、“デンジャラスK”川田利明は、プロレスは技と力、そして感情のぶつかり合いであり、そもそも不穏な空気をまとうものだと定義しているとして、彼の「ケンカマッチって、プロレス自体がそうじゃん。俺は感情的になることが試合では普通だと思っているからね。『ムカーッ』と思った場面はないのかって? ずっと『ムカーッ』としているのが試合じゃないの?」という発言が紹介されています。かくいう川田の生涯にわたるケンカ相手は、足利工業大学附属高校(現・足利大学附属高校)の1学年上の先輩・三沢光晴でした。川田vs三沢は常にデンジャラスであるからこそ、全日本プロレスの1990年代の黄金カードとなり、98年5・1、全日本が初進出した東京ドーム大会でメインを飾ったのです。三沢との三冠戦は通算8試合で川田が2勝6敗。8試合はいずれも川田が挑戦者の立場であり、王者として三沢を迎え撃ったことはありませんでした。ノアの2005年7・18東京ドーム大会を最後に、シングルマッチは通算20試合で3勝12敗5分けとなっています。
「飲み会で三沢と殴り合い」では、1990年、ジャンボ鶴田と覇を競っていた天龍源一郎がSWSへ移籍し、全日本は大激震に見舞われたことが紹介されます。当時、空中殺法がウリの2代目タイガーマスクとして人気を博していた三沢は、同年5・14東京体育館大会で川田にマスクの紐を解かせて素顔の「三沢光晴」に戻りました。三沢、川田、小橋らで「超世代軍」が結成され、のちの四天王時代の基盤ができあがります。しかし、結束が強くあるべき時期に、川田は三沢とリアルなケンカをしているのです。川田は、「巡業先で飲んだ帰りにタクシーに乗って、話をするなかで『天龍さんが』と名前を出したら、三沢さんが怒り出したことがあった。『お前も(SWSに)行きたかったんだろ? そんな名前を口に出すなら、お前も行けよ!』ってね。もう、車内でずっとケンカしていたよ」と語っています。
その“兄弟ゲンカ”が殴り合いに発展したことがありました。川田が27歳、三沢が29歳の91年11月の最強タッグリーグ戦。11・22香川・高松市民文化センター大会に現れた三沢は、右まぶたが大きく腫れあがっていました。全日本からは前日21日の大阪府立体育会館大会の試合中に負傷したものと発表され、川田も右ヒザ負傷と発表されて、タッグ揃って欠場しましたが、実際は2人の大ゲンカが原因でした。しかし、「プロレスはすべてケンカマッチ」と定義する川田も、ジャンボ鶴田相手には苦戦しました。「鶴田さんにこちらがムキになっていっても、何をどうやっても、あの人をムキにさせることは難しかったね。鶴田さんには余裕があるんだよね。(72年ミュンヘン五輪レスリング男子グレコローマン100キロ超級に出場した)キャリア的なもの、プラス体力、プラス体のでかさ。人間は瞬発力があったらスタミナがなくて、逆にスタミナがあったら瞬発力がないものだけれど、両方兼ね備えているのがジャンボ鶴田という人。両方兼ね備えているうえに、体もデカい。もうこれ以上のプロレスラーは現れないと思うよ」と述懐しています。
「川田の攻撃を受けなかった“UWFスタイル”の高山」では、打撃を得意とするプロレスラーである川田は、格闘技路線との親和性が高かったことを指摘。1995年10・25日本武道館大会に元UWFインターナショナルのゲーリー・オブライトが初参戦。オブライトは米アマチュアレスリングのトップ選手であり、殺人スープレックスが武器の選手でした。そんなオブライトに対し、川田は十分に持ち味を引き出したうえで腕ひしぎ十字固めで勝利。1996年7・24日本武道館大会での再戦では、オブライトのスープレックスを豪快に受けながら、打撃、関節技の応酬で格闘技とプロレスを融合させた新スタイルを表現。試合は敗れましたが、相手がどんなバックボーンを持つ選手であっても対応できる“名勝負製造機”であることを知らしめた川田は、「プロレスは格闘技なんだから。そうでしょ? そういう試合をしないプロレスラーは、俺はあまり好きじゃない」と語っています。
そして、川田といえば、高山善廣との激闘が思い出されます。1996年9月11日のUインターの神宮球場大会で、両者は初対戦。Uインター崩壊後の1997年10月21日の全日本プロレス日本武道館大会で、2度目の一騎打ちが行われました。川田は、高山に対し「レガースを着けて来い」とUインターのスタイルを迎撃すると宣言。レガースを着用して臨んだ高山は、ヒザ蹴り、掌底、キックと、打撃に徹して攻撃一辺倒の異常な展開に。15分が過ぎ、やっと川田がプロレスワールドに引き込み、最後はジャンピング・ハイキックで勝利を収めました。試合後の川田は、「俺は『(Uインターのスタイルを)受けてやるよ』という意味で言ったんだ。でも、高山は俺の技を受けなかった。受けないのが、たぶんUWFスタイルなんでしょ。当時、プロレス界で彼の名前を知っている人はそこまでいなかったはずだよね。その後、あそこまでの地位に上り詰めたんだから。本人は自分の力だけでのし上がってきたと思っているかもしれないけれど、プロレスってそういうものじゃない」と語っています。
「『ちゃんと俺を認めろ』という三沢への思い」では、直前の試合で負傷し、左目がほとんど見えない状態で、川田は三沢との最後の試合に臨みました。ノアの05年7・18東京ドーム大会。2000年3・31チャンピオン・カーニバル1回戦以来となる5年3カ月ぶりの邂逅では、やはり三沢は川田に対する激情を隠しませんでした。全種類繰り出したのではないかというエルボーの連打、急角度落下のタイガードライバー‘91、そしてエメラルド・フロウジョン。最後は助走つきのエルボーで川田はヒザから崩れ落ち、3カウントを聞きました。本書には、「ケンカ上等、感情をたかぶらせるのがプロレス。その炎を最も燃やすことができた相手は、川田にとって三沢にほかならない。なぜ、そこまでの試合をすることができたのか。どこまでいっても三沢は川田より上――そういったイメージを覆したかったのではなかった。川田は1歳上の先輩・三沢に、川田という人間を認めてほしかったのだ。しかし、その思いは09年6月13日、三沢の急逝によって生涯、叶わなくなった」と書かれています。
アポロ菅原「『北尾光司vsジョン・テンタ』『鈴木みのるvsアポロ菅原』全真相」の「得も言われぬ充実感があった菅原」では、1991年4月1日のSWS神戸ワールド記念ホール大会の、アポロ菅原vs鈴木みのる戦が取り上げられます。国際プロレス出身の純粋なプロレスラーである菅原がU戦士の鈴木を相手にした不穏試合。のちの鈴木の証言によれば、菅原の異変に気づいたのは試合開始早々だったとか。ファーストコンタクトの手四つの際に、菅原は鈴木の指を折ろうとしたというのです。しかし、菅原は「指を折りにきた? いやいやいや、手四つでグッと力を入れただけですよ。反則でもなんでもない。指を1本だけ攻めたら反則ですけど、そんなことで文句を言われてもさ、そういう勝負をするのがプロレスラーでしょ。もし相手がカタくやってきたら、俺はそのつもりで闘いますよ。金的に関しては狙ってやってるわけじゃないし、さっきも言ったけど、バチッと蹴ったり蹴られたりすることは、プロレスではよくあることでしょ。相手がちゃんと受ければいいだけでね。それに鈴木選手とは、なんの信頼関係もないですからね。攻撃するにしても防御するにしても隙は見せられないですよね。ちょっとでも油断したら、やられると思ってましたから」と語っています。
「北尾vsテンタで“負け”を受け入れられなかった北尾」では、菅原vs鈴木戦の後に行われた北尾光司vsジョン・テンタの不穏試合も取り上げられます。菅原と北尾の電話内容から浮き上がる事実は、北尾はテンタとの2連戦の“決着”をあらかじめ知らされていなかったということです。1戦目の試合後でも、北尾はマッチメーカーが描くストーリーを把握できないでいました。当時、SWSのマッチメーカーだったのはカブキで、北尾と同じ天龍のレボリューション所属。同部屋同士なのになぜ事前に話をしなかったのか、菅原は不思議に思ったそうで、「事前にちゃんと話しとけば、あそこまでこじれることはなかったんじゃないかなあ。なぜ2連敗するのかという説明がなかった。横綱がどん底まで落ちてカムバックするってことだったかもしれないですけど。いまだに自分はわかんないですよ、なんで横綱があそこで2つ負けなのか。この試合はあとになって動画で見たんですけど、ものすごくおかしな試合ですよね。同じ日に俺もおかしな試合をやってるんですけど(笑)。2人とも睨み合ってる時間がものすごく長くて、最初はテンタさんも横綱の態度に戸惑っていた感じでしたよね」と語っています。
「『全日本』と『馬場』ケンカマッチ・不穏試合の歴史」の「シューティングを超えたところにプロレスがある」では、ジャイアント馬場のセメントの強さについて言及。近年、発掘されたアメリカ修行中に馬場がしたためた手紙には「フレッド・アトキンスからシュートを教わっている」「ついに試合でシュートの技術を使ってしまった」との記述がありました。本人が書いた手紙の内容だけに信憑性は高いとして、本書には「冷静に考えたら、209センチ、135キロの体軀に、プロ野球選手として活躍できるだけの運動神経を兼ねそなえているのだから、真面目に練習していれば強くなるに決まっている。昭和50年代から晩年にかけての、動きが遅くなった馬場しか知らない世代には、変なバイアスがかかってしまっているのかもしれないが、“隠れシューター”馬場の実力は侮れないとされる」と書かれています。
全日本プロレスを旗揚げする前は、馬場は日本プロレスのエースであり、アントニオ猪木と「BI砲」を結成していました。日プロの試合でいえば、1971年にミル・マスカラス&スパイロス・アリオンがBI砲のインタータッグに挑戦した時の映像が残っていますが、何かトラブルがあったのか、馬場がマスカラスの攻撃をいっさい受けないシーンがあります。本書には、「コーナーからのボディアタックもサッと交わし、コーナーに追い込むと脳天唐竹割りではなく、珍しくナックルパートを顔面に入れるポーズで威嚇。何かを察知した猪木がタッチするが、馬場はそれを無視してマスカラスとやり合う不穏な展開だった。その流れの前はアームブリーカーからの脇固めでグラウンドに持ち込んだ馬場が、UWF的な動きでマスカラスを圧倒していた。『やればできる』が『つまらないからやらない』という馬場イズムが見え隠れする興味深い一戦だった」と書かれています。
「不穏試合を起こす外国人選手の“プライドの高さ”」では、1988年3月5日に秋田市立体育館で起こった「ハンセン失神事件」が取り上げられます。ゴールデンタイムで生中継されたことで有名になった事件です。天龍源一郎&阿修羅・原vsスタン・ハンセン&テリー・ゴーディの最中、龍原砲のサンドイッチ延髄斬りがハンセンにクリーンヒット。これ自体は日常茶飯事の光景でしたが、天龍の蹴りがハンセンのこめかみにジャストミートしてしまいました。これでハンセンは完全に失神、リング中央で大の字になったのです。目を覚ましたハンセンは怒り狂い、場外で天龍に強烈な張り手一閃。さらにイスをつかんで尋常ではない大暴れっぷりを見せました。この暴走を止めることは不可能と判断した原が、ラグビー流の本気のタックルでハンセンにアタックし、天龍から引きはがしました。試合後も怒りが収まらないハンセンを恐れ、天龍たちは会場の裏口から脱出したという壮絶すぎる逸話も残っています。本気の乱闘がゴールデンタイムで全国に流されるという歴史的な一戦となったのでした。
第4章「『女子プロレス』と『インディー』のケンカマッチ・不穏試合」の山本雅俊「『ジャッキー佐藤vs神取しのぶ』一方的な残酷ショーの真実」では、女子プロレスにおけるケンカマッチ・不穏試合を語る時に避けては通れない一戦として、1987年7月18日、ジャパン女子プロレスの神奈川・大和車体工業体育館大会におけるジャッキー佐藤vs神取しのぶ(現・忍)の凄惨すぎるシュートマッチが取り上げられます。神取が一方的にジャッキーをボコボコにした、という印象が強いこの試合ですが、実際にはそうではなかったそうです。本書には、「終始、神取が主導権を握ってはいたが、ジャッキーもやられっぱなしではなく、しっかりと対応しているし、顔面パンチのあとも秒殺ではなく、それなりの時間、試合は続いている。最後は神取のアームロックに、ジャッキーが『参った』と言って試合は終わる。通常なら、レフェリーがギブアップの意思を確認したら、本部席にゴングを鳴らすように指示し、その後に勝者の手を挙げるという段取りだ。しかし、この試合ではゴングを要請する動きはなく、レフェリーが神取の手を挙げたあとに慌ててゴングが鳴らされている。歪すぎる試合は、もうすべてにおいて歪だった」と書かれています。
「『インディー』と『大仁田』ケンカマッチ・不穏試合の歴史」の「プロレスの試合に“ガチ”で怒り狂ったセコンドと観客」の冒頭には、「日本のプロレス界におけるインディー団体の祖といえば、時系列だけで語るのであれば1989年4月30日に剛竜馬が旗揚げしたパイオニア戦志ということになる。だが、大きなムーブメントを起こし、インディーという存在を定着させたという意味では、大仁田厚のFMWということになる」と書かれています。FMW旗揚げのきっかけとなった、1989年7月2日に後楽園ホールで開催された「‘89格闘技の祭典」では、大仁田厚vs青柳政司の「プロレスvs空手」の異種格闘技戦が行われました。この時代、日本人同士の異種格闘技戦というのは異例中の異例でした。アントニオ猪木の格闘技世界一決定戦においても、日本人対決は1つもなかったのです。そういう背景もあって、大仁田vs青柳は大きな注目を集めたのですが、試合自体は完全にプロレスでした。しかし、その状況を青柳側のセコンドの空手家たちは聞かされていなかったため、真剣勝負だと信じていた空手家たちが、大仁田のラフファイトにヒートアップ。結果として収拾不可能と判断されてノーコンテストになりましたが、怒り狂った空手家たちがリングを占拠して大乱闘に発展。本書には、「実はこの混乱に乗じて大仁田は控室へ逃げ帰っていたのだが、リングに残ったプロレス側のセコンド陣(のちの邪道、外道、スペル・デルフィン、ウルトラマンロビン)が空手家たちにボコボコにされるというとんでもない事態となった」と書かれています。
この大仁田と青柳の決着戦が、FMW旗揚げ戦の目玉商品となりました。青柳はもともとプロレスラー志望でしたが、身長が足りずに断念しのでした。そんなバックボーンがあるため、プロレスが巧く、観客の心も上手につかんだのです。青柳の弟子である松永光弘も熱狂的なプロレスファンだったため、空手家ながら1989年12月10日に後楽園ホールで開催されたFMWの“日本初”となる有刺鉄線デスマッチに喜んで参戦しています。また、松永と高校時代の同級生で、プロレスファンでもあった齋藤彰俊は、新日本プロレスvs誠心会館の抗争で、一躍スターになっていきました。観客たちに「これはガチだぞ!」と興奮させてくれた“心はプロレスラー”な格闘家の存在が、90年代初頭のインディー黎明期の推進力となったのです。
「シュートを仕掛けたら“即契約打ち切り”」では、「大仁田は、プロレス界のタブーだった“異種格闘技戦でプロレスが負ける”ことを平然と受け入れた男である」と書かれています。青柳との対戦は大仁田の1勝2敗。負け越してはいますが、最後の最後に観客にインパクトを与えられれば、圧倒的に勝ちであるという理論で、その後も幾多の負けを重ねながら、大仁田はブレイクへの階段を駆け上がっていったのです。本書には、「勝ち負けの交渉がこじれて、リング上で事故が起きてしまう可能性があることを考えると、勝ちは譲って、最終的にすべてを回収してプラスにする発想は、極小で貧乏なインディーを率いた大仁田が生み出した、秀逸な知恵だった。その知恵は思想となり、現在でも、無意識のうちに、“最強を求めない”インディーマットに受け継がれている」と書かれています。本書の内容は佐山聡で始まり、大仁田厚で終わりました。昭和プロレスが懐かしいです。