No.2466 プロレス・格闘技・武道 『新日本プロレスvs全日本プロレス半世紀闘争1972-2025』 小佐野景浩著(徳間書店)

2026.05.09

『新日本プロレスvs全日本プロレス半世紀闘争1972-2025』小佐野景浩著(徳間書店)を読みました。「対立と協調が生んだ大河ドラマ」のサブタイトルがついています。著者は「週刊ゴング」の元編集長で、一条真也の読書館『昭和プロレスを語ろう!』『馬場・猪木をもっと語ろう!』で紹介した共著があります。本書は、「週刊アサヒ芸能」2022年5月19日号から2025年5月8日&15日合併号まで連載された「新日本プロレスvs全日本プロレス 仁義なき50年闘争史」に加筆、修正したものです。

本書の帯

本書のカバー表紙には、新日本プロレスと全日本プロレス両団体の旗揚げ試合のポスター写真が使われ、帯には闘志を剥き出しにした表情で向かい合うジャイアント馬場とアントニオ猪木の写真とともに、「始まりは馬場vs猪木!」「日本プロレス栄枯盛衰の真実」と書かれています。

本書の帯の裏

カバー裏表紙には手を取り合って勝ち名乗りを受ける馬場と猪木のBI砲の写真が使われ、帯の裏には「移りゆく時代・・・50年を超える闘い絵巻!」「両団体旗揚げ→BI対立→引き抜き戦争→蜜月→裏切り→BI時代終焉→協調路線→三銃士vs四天王→全日本分裂→対抗戦時代→共存共栄の時代へ→これからの半世紀」と書かれています。

アマゾンの内容紹介には、「新日本VS全日本『50年超の闘い絵巻』の全貌!」として、「いずれも1972年に旗揚げされた新日本プロレスと全日本プロレス。両団体の関係を振り返れば、まさに日本プロレス栄枯盛衰の真実が浮かび上がる。50年を超える闘い絵巻を繰り広げてきたのだ。両巨頭が対立した時代、果てしなき引き抜き戦争が勃発。所属選手、外国人レスラーが両マットを行き来し、時に蜜月期を迎えたかと思えば、また裏切りが発生する。そんなBI時代が終焉すると、協調路線も生まれた。リング上の闘いでは、三銃士と四天王がしのぎを削り、両団体ともに平成のプロレスブームを牽引したのである。99年に馬場が逝去し、全日本は分裂。それでも、新日本との対抗戦で踏みとどまった。企業戦争から共存共栄へと時代は変わり、元号も令和となった。2022年、猪木もこの世を去る。これからの半世紀がまた幕を開けたのだ」と書かれています。

本書の目次は、以下の通りです。
「まえがき」
 第1章 猪木が新日本、馬場が全日本を旗揚げ!
 第2章 BI対立が生んだプロレス黄金時代
 第3章 企業戦争の中で馬場&猪木のBI砲復活
 第4章 仁義なき引き抜き戦争から蜜月へ
 第5章 新日本に激震!その裏で馬場は・・・
 第6章 馬場が本気で新日本潰しに!
 第7章 企業戦争の果てに歩み寄った馬場と猪木
 第8章 長州の新日本Uターンで再び緊張状態
 第9章 BI対立時代の終焉
第10章 黒船SWS襲来に協調路線で対抗
第11章 時代は闘魂三銃士、四天王に
第12章 新日本最強神話崩壊!そして馬場逝去
第13章 全日本の看板を守った新日本
第14章 武藤・全日本vs蝶野・新日本
第15章 企業戦争から一致団結の時代に
第16章 新日本一強時代を経て両団体は・・・

「まえがき」では、著者は「1972年3月6日にアントニオ猪木が東京・大田区体育館(現・大田区総合体育館)で旗揚げした新日本プロレス、同年10月22日にジャイアント馬場が東京・日大講堂で旗揚げした全日本プロレスは半世紀以上もプロレスファンを楽しませている。振り返ると、力道山が53年に旗揚げした日本プロレスは、わずか19年で崩壊したため、80年代の終わりまでは馬場と猪木の対立が日本のプロレスの歴史を創ったと言っても過言ではない。全日本が馬場の人脈によってアメリカから超一流外国人選手を招聘すれば、猪木は既成の価値観と一線を画す実力主義のストロング・スタイルを打ち出した。猪木が実力日本一路線を邁進して馬場に対戦を迫れば、馬場は「日本ではなく、世界!」と、日本人初のNWA世界ヘビー級王者になった。その後、選手の引き抜き戦争で不可能と思われていた夢の対決が現実のものになるなど、馬場と猪木の対立は日本のプロレスを面白くしたのだ」と書いています。

第1章「猪木が新日本、馬場が全日本を旗揚げ!」の「日本テレビの要請で馬場が日プロから独立」では、猪木が古巣の日本プロレスを退団したとき、日本プロレスの試合を放送していた日本テレビ内では「日プロとNETへの報復として、馬場と猪木のBI砲を復活させよう」というプランもあったことが明かされます。しかし、日本テレビの小林與三次社長は「力道山の正統後継者の馬場」にこだわり、猪木の日本テレビ登場は消えたそうです。その後、日プロ中継のプロデューサーであった原章とともにハワイに飛んだ馬場とは、アラモアナ・ショッピングセンターで猪木&倍賞美津子夫妻と遭遇したといいます。それは偶然でした。馬場と猪木は人生の中で何度か偶然に会っています。馬場が亡くなる直前にも東京のホテルオークラでばったり会って、馬場が猪木に「おまえは、いいよなあ」と言ったエピソードは有名です。

それにしても、あれほど体も大きくて、かつ超有名な2人が何度も偶然に会うというのも不思議な話です。それだけ深い縁があったのでしょうね。ハワイでの遭遇について、原氏は「私と馬場ちゃんの姿を見た時に寛ちゃん(本名・寛至の愛称)が嫌な顔をしたんです。私は寛ちゃんと個人的に親しかったから、申し訳ない気持ちになりました。まだ馬場が日プロに独立の話をしてない時期だから、もし猪木が“馬場が日本テレビのプロデューサーと一緒にいたよ”なんて漏らしたら大変なことになっていた。日プロに馬場が独立するってバレていたかもしれない。でも、誰にも一言も喋らなかった。それは寛ちゃんに感謝してます。何だかんだ言っても、やっぱり馬場と猪木は仲間なんですよ」と語っています。

「本流を継承した馬場が全日本プロレス旗揚げ」では、日プロの引き止め工作を振り切った馬場は、1972年9月9日に会社名を「全日本プロ・レスリング株式会社」にすることを発表したことが紹介されています。同月18日には旗揚げ「ジャイアント・シリーズ」の日程と参加選手を明らかにしました。日本陣営は轡田友継、佐藤昭雄、アメリカ修行中のマシオ駒、大熊元司、元日プロの藤井誠之、さらに国際プロレスからサンダー杉山が円満移籍し、国際からは他に若手選手も貸し出されることが決まりました。注目の外国人選手は元WWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、フレッド・ブラッシー、ダッチ・サベージ、ドン・デヌーチ、ジェリー・コザックの6人。当時のファンなら誰でも知っている豪華な顔触れになりました。猪木は馬場の全日本旗揚げを「途中で馬場さんが俺を裏切り、俺だけ悪者にされてしまったが、俺が昨年やろうとしたことの正しさを馬場さんが証明した。問題の本質は日本プロレスの腐敗にある」と語ったそうです。

第2章「BI対立が生んだプロレス黄金時代」の「NETが巻き返し! 猪木と坂口が電撃合体」では、坂口征二を新エースとする日本プロレスと新日本プロレスが対等合併による新団体を設立したことが紹介されます。合併案の内容は①猪木が新日本を発展的解消、坂口以下の日プロ13選手が独立し、対等な形で新団体「新・日本プロレス」(仮称)を設立、②社長には株の60%を所有する形で猪木が就任、坂口は持ち株40%で副社長に就任するというもので、1973年2月1日に行われた選手会で日プロの全選手がこの案に賛成。同月8日、京王プラザホテルで猪木と坂口が記者会見で発表しました。猪木と坂口の電撃合体に馬場は「騒ぐことはない。俺はマイペース」と語ったものの、坂口を猪木に取られたのはショックだったようです。馬場は日プロから独立することを発表する前に坂口には打ち明けていましたし、選手会に「日プロが潰れたら、受け皿になるから」と置いてきた2000万円も、坂口が来ることを想定してのものだったからでした。

「団体の未来を見据えて後継者争奪戦も勃発」では、1972年の秋、老舗の日プロ、国際プロレス、新日本、旗揚げを目前にした全日本が熱い視線を送っていたのは同年夏のミュンヘン五輪にレスリング・グレコローマン100kg以上級代表として出場した鶴田友美・・・のちのジャンボ鶴田でした。レスリングを始める前はバスケットボールの選手で、あんこ型揃いだったレスリング重量級の中で195センチ、115キロのアスリート体形の鶴田はプロレス向きであり、争奪戦になって当然でした。高砂部屋、時津風部屋、二子山部屋などの相撲界も加わっての争奪戦に競り勝ったのは全日本プロレスでした。全日本は鶴田だけでなく、専修大学レスリング部の主将を務め、ミュンヘン五輪にレスリング・フリースタイル90kg級の韓国代表として出場した吉田光雄・・・のちの長州力の獲得にも動いていました。

鶴田と長州は、鶴田が1学年上で階級も違いましたが、強化合宿で一緒に練習した仲でした。鶴田がアマリロから凱旋した時には各大学のレスリング部にチケットが回り、長州は2階席から全日本の試合を観戦しています。さらに専修大学レスリング部の鈴木啓三監督と全日本のパーティーにも呼ばれました。著者は、「鶴田の全日本入りに関与した日本アマチュアレスリング協会・八田一朗会長の秘書的存在の野島明生(元早稲田大学レスリング部)は長州も全日本に入れたいと考えていたのだ。当時の全日本は長州だけでなく、ミュンヘン五輪にフリー100kg以上級で出場した磯貝頼秀、鶴田と同級生の中央大学レスリング部主将でミュンヘン五輪フリー90kg級代表の鎌田誠にも声をかけていた」と述べています。

「悪の2大巨頭! 新日本の狂虎&全日本の呪術師」では、新日本プロレスの初期の外国人エースだったタイガー・ジェット・シンが取り上げられます。猪木とシンの闘いは新日本の名物カードとなりました。シンと出会う以前の猪木は、カール・ゴッチの流れを汲むテクニシャンのイメージが強かったのですが、シンとの抗争で怒りの感情を爆発させ、そこから“燃える闘魂”という独自のカラーが生まれました。また、猪木はストロング小林や大木金太郎との日本人対決でもプロレス界を大いに盛り上げました。著者は、「緊張感溢れる実力日本一路線、そして激化の一途をたどる猪木とシンの抗争によって、NETの『金曜夜8時のプロレス』の視聴率は上昇カーブを描き、新日本は黄金時代を迎える。全日本で猪木vsシンに対抗したのは、ザ・デストロイヤーとアブドーラ・ザ・ブッチャーの抗争だ」と述べます。

「馬場による猪木潰し! 猪木に逆風が・・・」では、全日本プロレスが1975年12月に「オープン選手権大会」を開催したことが紹介されます。「オープン選手権」開催は、同じNWAのメンバーとしての協力要請でもあるし、執拗に挑戦を迫っていた猪木に対する「この大会に参加すれば対戦できる可能性もありますよ」という答えでもありました。さらにNWA傘下団体以外への門戸開放というのも重要なポイントで、これは国際の参加を意識してのものでした。馬場のシナリオ通りに国際代表としてラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上のトップ3人が参加表明。大木も雪辱を誓って日プロ代表として名乗りを挙げ、フロリダを拠点とするフリーの大物ヒロ・マツダも参戦しました。

その他、「オープン選手権」の全日本代表は馬場、鶴田、デストロイヤー、アントン・ヘーシンク、外国人勢はドリー、ブッチャー、ホースト・ホフマン、ドン・レオ・ジョナサン、ディック・マードック、パット・オコーナー、ケン・マンテル、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリングと錚々たる顔触れが揃いました。著者は、「デストロイヤー、マードック、ホフマン、ジョナサン、レイス、ラシク、レスリングといったガチンコに強いメンバーを集めたのは、猪木が参加してきた場合に備えてのものだった」と述べています。猪木を迎撃するためのシュート・レスラーの包囲網が出来上がっていたのです。

第3章「企業戦争の中で馬場&猪木のBI砲復活」の「日本選手権から格闘技世界一決定戦へ」では、1975年12月、「全日本プロレス・オープン選手権大会」への出場拒否で、ジャイアント馬場への挑戦を引っ込めざるを得ない状況になったアントニオ猪木は、76年に入ると同時に「日本選手権」の開催から方向転換して新たな企画を生み出したことが紹介されます。それは格闘技世界一決定戦・・・他の格闘技の選手との異種格闘技戦でした。1976年2月6日、対柔道家のウィレム・ルスカ戦で始まった猪木の一連の異種格闘技戦は、1997年1月4日、対空手家のウィリー・ウィリアムス戦まで20数試合行われた。その中で最も有名な試合は、1976年6月26日に行われたボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンである対モハメド・アリ戦です。

第4章「仁義なき引き抜き戦争から蜜月へ」の「いよいよ80年代! 猪木に新たなライバル誕生」では、シンの後に猪木の好敵手となったスタン・ハンセンが取り上げられます。著者は、「ハンセンがラッキーだったのは、新日本に初めて来たシリーズにシンがいたことだ」と述べます。1977年1月に初来日した反戦は、シンの狂乱ぶりを目の当たりにします。新日本のスタイルを研究したハンセンは、同年9月に再来日シンのサーベルにヒントを得たブルロープを振り回して“テキサスの荒くれカウボーイ”のキャラを作り、80年から新日本のレギュラー外国人になりました。「最初はデカいだけの“でくの坊”という印象だったが、俺との戦いを通して馬力だけじゃなくて、ハンセン独特のリズムが出てきた。本来、俺のリズムとハンセンのリズムは嚙み合わないはずなんだけど、それによって予測不能の面白さが生まれたんだと思う」と、猪木は後年になってハンセンについて語っています。

猪木とハンセンの一連の闘いは、新たな名勝負数え唄となりました。猪木vsウィリーの異種格闘技戦の直前の1980年2月8日、ハンセンは東京体育館で猪木をリングアウトで下してNWFヘビー級王座を奪取。猪木からNWFヘビー級王座を奪ったのはシンとハンセンだけです。そして、この年の4月にはもう1人、ライバルになる男が初来日しました。ハルク・ホーガンです。このシリーズにはハンセンも参加していて、ハンセンがシンから新日本流のプロレスを学んだように、タイツに「一番」の文字を縫いつけるほど日本での成功を夢見ていたホーガンもまたハンセンから学びました。アックス・ボンバーは、ハンセンのウェスタン・ラリアットをヒントに生まれたものです。

「新日本ブーム到来1 伝説の田園コロシアム」では、1981年9月23日に東京の田園コロシアムで行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとスタン・ハンセンの一戦が取り上げられます。新日本プロレスに参戦する巨漢外国人トップレスラー同士による肉弾戦は、名勝負として長く語り継がれています。この試合でアンドレをボディスラムで投げた史上5人目のプロレスラーとなったハンセンは、「あの試合は私も興奮を抑えられなかったよ。新日本と猪木が私を売り出してくれたことには感謝しているが、本当の意味でファンに認めてもらったのはアンドレとの試合だったと思う。あの大きなアンドレから逃げることなく正面からぶつかっていったことで、ファンがまた違った目で私を見てくれるようになった気がする」と述懐しています。

新日本のアブドーラ・ザ・ブッチャー引き抜きから始まった仁義なき引き抜き戦争のクライマックスは、全日本の1981年12月13日、蔵前国技館での「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦でした。その3日前の12月10日まで新日本の「第2回MSGタッグ・リーグ戦」に参加していたハンセンが、ドリー&テリーのファンクスと戦うブロディ&ジミー・スヌーカのセコンドとして登場。場外でテリーに必殺ウェスタン・ラリアットを見舞ってブロディ組の優勝に一役買ったのです。新日本プロレスの外国人エースであったハンセンが全日本に戦場を移したことは、新日ファンにとって最大のショックでした。わたしも含めて、「ブッチャーを返すから、ハンセンだけは引き抜かないでくれ!」という気分になった人も多かったはずです。

実は、このハンセンの電撃移籍は半年も前から決まっていたといいます。5月8日にブッチャーを引き抜かれた馬場は7月3日には報復としてシンを全日本のリングに上げましたが、それよりも前にハンセンを獲得していたのです。馬場がシンとカナダのトロントで契約したのは6月18日ですが、ハンセンを口説くのに成功したのはその3日前の6月15日のテキサス州ダラス。つまり馬場はハンセンを口説いた後にシンと会っていたことになります。著者は、「ハンセンはその後、6月24日の両国でブッチャーとタッグを結成して猪木&谷津と戦ったり、9月23日の田園コロシアムではアンドレとスーパーヘビー級の名勝負を演じて、新日本のトップ外国人として輝きを見せたが、その時点で全日本への移籍が決定していたと思うと、馬場の作戦は見事というほかない」と述べます。まったくです!

「馬場復活! ハンセン戦で新日本との戦争に勝利」では、全日本に移籍したハンセンと馬場との初対決が取り上げられます。試合は、馬場が躍動感溢れる動きと闘志でハンセンを圧倒。軽やかなフットワークを見せてカウンターの16文キックを見舞い、ジャイアント・チョップの連打でハンセンをたじろがせました。なおも馬場は左腕殺しなどの緻密さと32文ロケット砲などのスケールの大きなファイトで圧倒。一方、ハンセンも受けに回ることのない、ひたすら前に出るセオリー無視の暴走ファイトで押し返しました。著者は、「不思議と噛み合う馬場とハンセンのダイナミックな展開に超満員1万1500人の大観衆は熱狂。最後はジョー樋口レフェリーが2人の乱闘に巻き込まれて両者反則になってしまったが、限界説を吹っ飛ばしてハンセンと互角に渡り合った馬場に熱烈なコールが起こり、翌日のスポーツ紙には『馬場復活!』の見出しが躍った」と述べています。

「タイガーマスクに対抗1 全日本にジュニア王者」では、新日本ブームを巻き起こした初代タイガーマスクと全日本でジュニア王者を目指す大仁田厚が取り上げられます。タイガーマスクの正体である佐山聡は、1976年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。若手時代はメキシコ、イギリスで活躍。イギリスではサミー・リーをリングネームにしました。 1981年にタイガーマスクとなり、空中技を駆使したファイトスタイルで国民的な人気を集め、一大プロレスブームを巻き起こしました。タイガーマスクは期待通りにWWFとNWA世界のジュニア2冠王になって絶頂期に突入。それだけに対抗馬と見なされた大仁田は苦悩しました。馬場が大仁田を帰国前にメキシコに送ったのは、空中殺法をマスターさせるためでしたが、付け焼き刃の飛び技は、タイガーマスクの四次元殺法を際立たせるだけでした。

当時について、大仁田は「あの頃はちょうどタイガーマスクの全盛時代で、俺にとっては辛い時代だったよ。彼と俺のスタイルは全然違うからね。チャボからベルトを獲った後に2カ月ぐらいメキシコに行って、トぺとか空中殺法も覚えたけど・・・別に覚えたくもなかったんだよ。でも、会社も馬場さんも、俺が飛ぶことを望むから無理してやってたけどね。あの頃は扱いとは裏腹に楽しくなかった」と述懐しています。大仁田は翌1983年4月20日に左膝蓋骨複雑骨折の重傷を負って1年1カ月の長期欠場を余儀なくされ、同年8月12日にタイガーマスクこと佐山聡は虎のマスクと2本のベルトを返上して電撃引退。タイガーマスクと大仁田の新日本vs全日本ジュニア頂上決戦は実現することはありませんでした。両雄がリングで相まみえたのは、2012年3月16日の後楽園ホールにおける佐山主宰のリアルジャパン・プロレスのリング。対決が期待されてから30年後のことでした。

「日本マット界の体質を変えた『噛ませ犬』発言!」では、メキシコ帰りの長州力が藤波辰爾に対して放った「噛ませ犬」発言が取り上げられます。実際には長州のマイクアピールはCM中で、テレビではオンエアされておらず、本当に「噛ませ犬」と言ったかどうかは今も定かではないそうですが、長州の主張は「序列を乱してはいけない」というプロレス界の暗黙の掟を破るものでした。著者は、「試合後、猪木が控室に向かう段階の踊り場で長州を鉄拳制裁しつつも『こうなったら、2人を思う存分、戦わせる』として10月22日の広島県立体育館で一騎打ちを組んだということは、猪木も長州の行動を容認したということだ」と述べます。後年になって長州は、「溜まりに溜まったものをポンと栓を抜いてくれたのが猪木さんだった。長州力っていう酒が一番おいしい時に、ポンと栓を抜かれた時にはホッとしたな」と独特の言い回しで、この時のことを語っています。

第5章「新日本に激震! その裏で馬場は・・・」の「馬場と猪木の揃い踏みを夢見た初期UWF構想」では、1984年4月に第一次UWFが旗揚げしたことが取り上げられますが、ここには非常に興味深い内容が書かれていました。猪木がバックに控えていることを承知の上で馬場がUWFに協力したことです。猪木の名参謀であったにもかかわらず、クーデターで新日本プロレスを追われた新間寿は、「馬場さんには“4月からフジテレビで放映します、猪木も来ます”と正直に話しましたよ。日本テレビから出向してきた松根社長との確執もあっただろうから“馬場さん、もし何かあれば利用してください。これで坂口も含めて話し合いができれば面白いことができますよ。フジテレビには馬場さんも猪木さんも応援してくれていると言ってもいいですか?”と聞いたら、馬場さんは“いいよ”と」と語っています。著者は、「新間はフジテレビが放映するUWFで馬場、猪木が揃い踏みし、WWFの大物と馬場ルートのNWAの大物が勢揃いするという壮大な夢を描いていた」と述べています。

第7章「企業戦争の果てに歩み寄った馬場と猪木」の「長州の心が全日本から離れた鶴田との頂上対決」では、全日本プロレスに戦場を移した長州力が1985年11月4日にジャンボ鶴田と一騎打ちをしたことが取り上げられます。試合結果は60分ドローでしたが、印象的には長州の持ち味を完封した鶴田の勝ちでした。著者は、「時間切れのゴングが鳴ると同時に逆エビ固めを解いて「オーッ!」と両腕を突き上げ、コーナーに上がって右腕を高々と突き上げる鶴田の姿は勝者そのもの。この鶴田の勝ちという印象が残った裏には、馬場の“王者のプロレス”の教えがあった」と述べています。

馬場は鶴田に「まずリング中央を取ってどっしりと構えろ。そうすると周りをグルグル動く相手よりも格上に見える」「決着がつきそうもない時は、最後に攻めていろ。そうすれば優勢だった印象が残る」とアドバイスしていました。この馬場の教えを鶴田はしっかり守ったのです。著者は「馬場プロレスの勝利と言ってもいいだろう」と述べます。後年、長州は鶴田戦について「鶴田先輩は凄かったよ。鶴田さんのペースでやっちゃうと、俺はもう完全に自分のキャラはない。2度とやりたくないと思ったよ。要するに流れが絶対に合わないというか」と語りました。この頂上決戦によって「全日本のスタイルは合わない」と痛感した長州の心は全日本から離れたと言っても過言ではありません。

「UWF崩壊! 新日本と全日本が争奪戦を展開」では、第一次UWFへの先発隊として前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬が送り込まれて1984年4月11日に大宮スケートセンターで旗揚げしましたが、来るはずだった猪木が動かず、責任を取った新間はプロレス業界からの引退を宣言したことを振り返ります。猪木に見捨てられたと感じた前田は、引退していた初代タイガーマスクこと佐山聡、新日本から藤原喜明、高田伸彦(現・髙田延彦)、木戸修を呼び込んで格闘技色の強い独自のスタイルを模索。そして新たな格闘技シューティングを構築中の佐山がショー的な要素を一切排除した関節技と打撃を主体とする妥協なき格闘プロレスを推進したことにより、UWFはシューティング・プロレスと呼ばれて熱狂的な信者を生みました。だが、理想と現実の狭間でUWFは崩壊の道をたどります。著者は、「シビアなスタイルは興行数を見込めずに収益が上がらず、方向性を巡って佐山と前田が対立。孤立した佐山は85年10月にUWFを離脱して、シューティング確立に専念することを表明。11月25日にはUWFの事務所は閉鎖された」と述べます。

第8章「長州の新日本Uターンで再び緊張状態」の「長州問題解決! 超獣と呪術師が全日本復帰」では、アントニオ猪木とマサ斎藤によって「巌流島の決闘」が行われた1987年10月4日、全日本の伊勢崎市体育館に日本マット追放となったはずのブルーザー・ブロディが乱入。2年7カ月ぶりに全日本に電撃復帰を果たしました。さらに暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」には、ブロディだけでなく、アブドーラ・ザ・ブッチャーが実に6年半ぶりに全日本に復帰。11月22日の後楽園ホールではザ・ファンクスとブッチャーの抗争が復活し、タッグ公式戦という形でスタン・ハンセンvsブロディの夢の対決が実現しました。著者は、「ブロディもブッチャーも最後に参加した日本の団体は新日本。新日本と全日本の引き抜き防止協定書では両者ともに新日本に属していて、全日本が声をかけるのは協定違反になってしまう。つまり、新日本がブロディとブッチャーの全日本復帰を認めることが長州問題クリアの交換条件だったと考えられる」と述べています。

第9章「BI対立時代の終焉」の「長州離脱後の全日本を救ったのは天龍革命!」では、長州力率いるジャパン・プロレスが去った後の全日本マットで天龍源一郎が起こした「天龍革命」が取り上げられます。天龍革命の特筆すべき点は、体制への反逆ではなく、団体トップの馬場の信頼を得て実現した無血革命だったことです。天龍と阿修羅・原の「龍原砲」は1987年6月6日の長門大会から発進し、6月11日の大阪大会では鶴田&タイガーマスクと激突して鶴田を本気で怒らせ、テレビ解説の馬場は「今までジャンボに欠けていたものが、この試合に出てきましたね!」と声を弾ませました。天龍革命勃発直後に新日本では世代闘争が勃発して長州、藤波、前田日明らがニューリーダーズとして注目を集めていましたが、馬場は「天龍が他のニューリーダーたちとどこが違うか。それはな、私利私欲がないことなんだよ。どうすればプロレス界が、ウチの会社がよくなるかを常に考えて行動している。だから俺は天龍が何を言おうが、何をやろうが、全然心配しとらん」と、天龍に全幅の信頼を寄せていました。

第10章「黒船SWS襲来に協調路線で対抗」の「BI戦争終結! 馬場と坂口が強調路線を発表」では、1989年7月に猪木が参議院議員になり、新日本プロレスの代表取締役社長の座を坂口征二に譲ったことが紹介されます。これによって、新日本と全日本の間に「雪解け」ムードが生まれました。馬場が坂口のことは信用していたからです。また、WWF(現WWE)が84年から各テリトリーのトップ選手を引き抜いての全米侵攻を開始したことでアメリカの勢力図が変わり、呼べる選手が限られてきました。それまでレギュラーだったトップ選手がWWFに移籍したことで来日中止になるケースも少なくなかったため、新日本と全日本の団体間での交流が不可欠になりました。また第3勢力とも言うべきUWFの台頭に対する危機感も、新日本と全日本を結びつける大きな要因でした。

第11章「時代は闘魂三銃士、四天王に」の「事実上の全日本との対抗戦!? 新日本vs天龍開戦」では、SWS崩壊後に新団体WARを立ち上げた天龍の新日本マット参戦が取り上げられます。1993年から新日本vs天龍WARという新たなうねりが生まれました。新日本9・26大阪城ホールで藤波がグラウンド・コブラツイストでようやく新日本は天龍に一矢報いました。しかし、12月15日のWAR両国で天龍が藤波に雪辱。明けた1994年1・4東京ドームでは超満員札止め6万2000人の大観衆を集めて、猪木vs天龍が実現し、天龍がパワーボムで激勝。天龍は「馬場、猪木のBIをフォールした唯一の日本人レスラー」になりました。

その天龍に勝ったのは、それまで天龍に2連敗を喫していた橋本真也です。1993年9・20名古屋でムタを撃破してIWGPヘビー級王座を初戴冠した橋本は2・17両国でジャンピングDDT3連発で初勝利。天龍に敗れた猪木は同年5月1日の福岡ドームから引退に向けてのファイナルカウントダウンを開始し、天龍に勝った橋本は“新日本の強さの象徴”になりました。天龍は結果的に新日本が新時代に突入するための橋渡し役を担ったのです。橋本は天龍をリスペクトしていました。それを証明したのが、1994年2月17日、両国国技館。“ミスター・プロレス”天龍源一郎との試合でした。ブログ『証言 橋本真也』で紹介した本の「まえがき」で、ターザン山本氏は、「新日本とWARの団体対抗戦。その頂上対決。勝利者インタビューの橋本を見てほしい。天龍への気遣い、尊敬は、感動的ですらあった」と述べています。

「全日本を平成黄金時代に導いた四天王プロレス」では、新日本が1992年秋から天龍率いるWARとの対抗戦を主軸にして団体の枠を超えた戦いを繰り広げたのに対して、全日本は三沢、川田、田上、小橋の4人がしのぎを削る純血路線で試合内容が果てしなく進化したことが指摘されます。この4人が奏でる戦いは「四天王プロレス」と呼ばれ、誰も踏み込むことができない域に達していました。著者は、「彼らが提供したのはストーリーや言葉に頼らず、反則裁定や両者リングアウトなどの不透明決着を排除した1話完結・完全決着のプロレス。特に三冠戦はギブアップではなく、ピンフォールで決着するのが暗黙のルールだった」と述べています。

「平成の熱狂を産んだ新日本vsUインター対抗戦」では、1995年10月9日、東京ドームで実現した新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面対抗戦が取り上げられます。この大会は、超満員札止め6万7000人を動員。大観衆が見つめる中で武藤が髙田との頂上決戦に勝利しました。その後、1996年の1・4東京ドームでは髙田が武藤に雪辱を果たしてIWGP王者となりましたが、4・29東京ドームで橋本が髙田からベルトを取り戻し、約半年で全面戦争は終了。著者は、「総合的な戦績は新日本の28戦23敗の僅差だったが、一発目で髙田が武藤に敗れたというインパクトが強く、事実上、初戦で勝負はついていた。『Uを消してやる!』という長州の宣言通りに96年12月27日、後楽園ホール大会を最後にUインターは消滅したのだった」と述べるのでした。

第13章「全日本の看板を守った新日本」の「全日本では三沢、新日本では藤波新政権が誕生」では、1999年1月31日に逝去したジャイアント馬場の「お別れ会」が、同年4月17日に日本武道館で開催されたことが紹介されます。馬場お別れ会「ありがとう」は、プロレスの興行ではなく馬場の本葬として営まれたもので、関係者とファンを合わせて2万8000人が参列。新日本などの他団体、かつて全日本に所属していたザ・グレート・カブキ、グレート小鹿、ターザン後藤、プロ野球界からは千葉茂、江川卓、巨人多摩川会のメンバーらが参列。祭壇代わりに設置されたリングは花で埋め尽くされました。さらに5月2日には、東京ドームで馬場の引退記念試合。生涯現役のまま急逝した馬場の国内5759試合目となる引退試合は、馬場&ザ・デストロイヤーvsブルーノ・サンマルチノ&ジン・キニスキーと発表され、往年のライバル3人がリングに上がり、オーロラビジョンに馬場との名勝負が映し出されました。その後、元子夫人が16文シューズをリング中央に置いて引退の10カウント・ゴング。馬場のテーマ「王者の魂」が流れる中、超満員6万5000人の馬場コールが馬場に届けとばかりにドームの天井を突き抜けたのでした。

第15章「企業戦争から一致団結の時代に」の「格闘技界混迷の中で武藤が2年ぶり新日本登場」では、2004年の1・4東京ドームで武藤敬司と蝶野正洋が戦ったことが紹介されます。武藤&ボブ・サップ組vs蝶野&天山広吉組の対戦でしたが、武藤と蝶野は2年ぶりに真っ向からぶつかり合い、勝利した武藤(サップが天山をフォール)は「今日が“点”なのかわかんないけど、俺はもう全日本の主だから、蝶野も新日本の主になって、そこでもう1回対等にやろうじゃねぇか」と蝶野にエールを送りました。この1年前には絶縁していた武藤と蝶野でしたが、やはり「闘魂三銃士」や「nWo」として同じ釜の飯を食った中であり、その絆は切れなかったのです。ちなみに、2024年2月21日の東京ドームで武藤が引退したとき、最後の相手を務めたのも蝶野でした。

2004年の1・4東京ドームですが、メインでは中邑が髙山を撃破し、IWGP王座とNWF王座を統一してNWF王座を封印しました。さらに1年2カ月前に退団してWJプロレスに移籍した佐々木健介が、フリーとして殴り込みをかけて永田と対戦したのも話題になりました。その他、全日本からフリーになった天龍源一郎、パンクラス所属の鈴木みのる、ノアからはIWGPジュニア・ヘビー級王者として杉浦貴が参戦するなど、2004年1・4東京ドームはプロレス・オールスター戦のような豪華版となりました。観客動員数は満員発表の5万3000人。PRIDE、K-1が人気の中で、プロレスの底力、プロレス健在を見せつけたのでした。

「脱・猪木! 棚橋がユークス新体制の象徴に」では、新たにゲーム会社ユークスが新日本プロレスの親会社となったことが紹介。新体制は猪木イズム、ストロング・スタイルに縛られることなく、若いファンに受け入れられることを模索。ゲームソフトを手掛けるユークスにとって「若者が憧れるカッコいい選手」が絶対条件であり、キャリア6年半、29歳の太陽のような明るさを持つ棚橋弘至に未来を託しました。IWGP王者となった棚橋の初防衛戦の相手は、「G1クライマックス」優勝した難敵・天山。スリング・ブレイドの連発、投げっぱなしドラゴン・スープレックス、仕上げはハイフライフローという完璧な畳みかけで勝利すると、棚橋は「両国の皆さん、愛してま~す!」と叫びました。著者は、「プロレスラーが愛を叫ぶとは、猪木時代にはあり得なかったことだ」と述べますが、棚橋は「団体が本当に苦しい時に観に来てくれるお客さんはかけがえのない存在。嘘偽りのない言葉です」語りました。棚橋はユークス新体制において脱・猪木の象徴的存在になったのです。

「三沢の死、大震災でメジャー3団体が一致団結」では、2009年6月13日にリング上で亡くなったノアの三沢光晴の追悼興行に新日本、全日本が協力したことが紹介。同年9月27日の日本武道館における追悼興行第1弾には武藤が出場。三沢の後任としてノアの社長に就任した田上明と社長コンビを結成して小橋健太&髙山と対戦し、田上と武藤はシャイニング・ウィザードの競演で超満員1万7000人の観衆を沸かせました。10月3日の大阪府立体育会館での追悼興行第2弾では、新日本から蝶野が出陣してGHCヘビー級王者・潮﨑&小橋とトリオを結成して力皇猛&モハメドヨネ&齋藤と対戦。蝶野と潮﨑のケンカキックとトラースキックの合体殺法、蝶野と小橋のダブル・エルボーバットなどの夢の連係で、こちらも超満員6300人の観衆を魅了。その9日後の10月12日には、新日本の両国国技館における蝶野25周年特別興行で蝶野&武藤&小橋の新日本&全日本&ノアのメジャー3団体のトップによる夢のトリオが実現して中西&小島&秋山準と対戦しました。

2011年3月11日に東日本大震災が発しました。4月18日に新日本、全日本、ノアの3団体が日本武道館で記者会見を開いて、8月27日に同所での東日本大震災復興チャリティープロレス「ALL TOGETHER」の開催を発表しました。同大会のメインイベントではIWGP王者・棚橋、三冠王者・諏訪魔、GHC王者・潮﨑が王者トリオを結成して、中邑&KENSO&杉浦と激突。王者トリオのトリプル・ドロップキックという合体攻撃が、超満員1万7000人のファンを唸らせました。著者は、「創始者の急死に見舞われたノアに新日本と全日本が協力し、蝶野の25周年を超党派で祝い、大震災では一致団結してプロレスの元気を届ける。もはや昭和の企業戦争の時代は遠い昔になり、平成半ばからは力を合わせて業界を発展させようというプロレス界になったのである」と述べています。

「新日本新体制! ユークスからブシロードへ」では、旗揚げ40周年イヤーの2012年、新日本が大転換期を迎えたことが紹介されます。2005年11月14日に株式会社ユークスの子会社となった新日本は90年代終盤からの暗黒時代を脱しましたが、12年1月31日にユークスがトレーディングカードの開発・販売を手掛ける株式会社ブシロードに新日本の株式100%を売却。新たにブシロードをオーナー企業とする新体制になったのです。このブシロード新体制の象徴的存在になったのが、アメリカ修行から帰国したオカダ・カズチカでした。2月12日の大阪府立体育会館におけるIWGP戦は超満員6200人を動員。大観衆の中で、オカダはレインメーカーを炸裂させてIWGP王座を奪取。24歳3カ月の若者の快挙は、世紀の大番狂わせとして「レインメーカーショック」と呼ばれました。オカダがウルティモ・ドラゴン主宰の闘龍門でデビューしたのは2004年8月、16歳の時。闘龍門でプロレスラーの基礎を作った上で、2007年8月に新日本に移籍して、合宿所に住んで1からストロング・スタイルを学び、2年のアメリカ修行を経てからの快挙であり、この時点でキャリアはすでに9年目を迎えていました。

第16章「新日本一強時代を経て両団体は・・・」の「半世紀を超えて・・・新日本と全日本の未来は」では、2022年10月1日に新日本プロレスの創始者であるアントニオ猪木が79歳で逝去したことを紹介。2025年1月4日にDDT、AEW、新日本の3団体所属となったKONOSUKE TAKESHITAが「G1クライマックス」に優勝し、さらに10・13両国でザック・セイバーJr.を撃破して第14代IWGP世界ヘビー級王者になりました。著者は、「新日本の生え抜きではないし、もちろん猪木の遺伝子は持っていない。オカダも飯伏も生え抜きではないし、生え抜きの棚橋、中邑、内藤にしても猪木が引退してからデビューした選手。そうした世代が新日本の頂点に立つ時代なのだ。そして26年1・4東京ドームでは棚橋が引退試合を行い、21年東京五輪の柔道100kg級金メダリストのウルフアロンがプロレスデビュー戦を行う」と述べるのでした。優れたプロレス史のテキストである本書を一気に読了し、わたしは忘れていたエピソードなどもいろいろ思い出しました。思えば、新日本と全日本の歴史は「平家と源氏」「西武と東急」などと同様に日本人に大きな影響を与えた大河ドラマでした。わたしは新日本ファンでしたが、今となっては全日本プロレスの全盛期もなつかしいです。