No.2471 哲学・思想・科学 『美の救い 柳宗悦傑作選集』 柳宗悦著、若松英輔編(角川ソフィア文庫)

2026.06.09

『美の救い 柳宗悦傑作選集』柳宗悦著、若松英輔編(角川ソフィア文庫)を紹介します。人間国宝である十四代 今泉今右衛門氏と「工芸文化」と「儀礼文化」の視点から「日本文化」の本質を語り合う趣旨の対談の参考文献として読んだのですが、大きな刺激を受け、新たな発見も得ました。著者の柳宗悦は、1889年生まれ。東京帝国大学哲学科卒。宗教哲学者、民芸運動の創始者。学習院高等科在学中「白樺」同人。日本民藝館初代館長。「工藝」創刊。1961年没。

本書の帯

本書の帯には「美は救いの母である」と大書され、「『民藝』誕生から百年――批評家・宗教哲学者としての柳に光を当てる無二の選集」と書かれています。帯の裏には、「当然ながら民藝という言葉が誕生する以前から『もの』としての民藝はあった。しかし、民藝という言葉が民藝の世界をより豊かにしたことは否めない。この言葉にたどり着くまでの柳宗悦、この言葉を生み、育んだ彼、そして、この言葉を足掛かりに「仏教美学」という新しい地平を提唱するに至る彼の姿を、彼自身の言葉によって確かめること、それが本書の眼目である。(この本の使い方 はしがきに代えて)」と書かれています。

本書の帯の裏

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「『民藝』という言葉を生み、美への新たな眼差しを示した柳宗悦。民藝運動の目的は『美による救い』にあると説いた思想の起点は終始、宗教哲学者としての信念に根差し、やがて『仏教美学』という新たな地平を拓いた。従来注目されることの少なかった文章にも光を当て、その生涯と境涯を自身の言葉で辿りながら、内面の変容、批評家としての無二の存在感、日本精神史における役割を浮かび上がらせる、意欲的入門書。ブックガイド付き」

本書の「目次」は、以下の通りです。
「この本の使い方 はしがきに代えて」
第一章 出会いと別れ
    ――柳宗悦の原点
恩師服部先生
「白樺」の仲間
ウィリアム・ブレーク(序・備考)
妹の死
第二章 神秘道と神秘家
神秘道への弁明
種々なる宗教的否定
第三章 宗教哲学者の悲願
宗教哲学の再建
見えない世界について
法衣の秘儀
第四章 民藝の火
朝鮮の友に贈る書
朝鮮とその芸術(序)
第五章 美をめぐることば
円空仏と木喰仏
工人銘 器物七則
雑器の美
日本民藝美術館設立趣意書
第六章 「見る」とは何か
茶道を想う
琉球の富
「見ること」と「知ること」
第七章 美による救い
美の法門
美の宗教
第八章 美と宗教―柳の確信
仏教美学の悲願
仏教に帰る
法と美(序・前書)
私と宗教
「ブックガイド」

「この本の用い方 はしがきに代えて」の冒頭を、本書の編者である若松英輔氏は以下のように書きだしています。
「2025年、『民藝』という言葉が生まれて100年という大きな節目を迎えた。100年という歳月は、言葉の歴史からみればけっして古いとはいえない。だが、民藝という一語には、現代語であるといって終わりにできない語感がある。それは、この国の古層から柳宗悦という人格を通じて顕現した古びることのないことばの様相を呈している。『民藝』は『民衆的工藝』の略語である。工藝は民衆のものだった時代もある。そうしたときには民藝という言葉は必要なかった。しかし、大正の終わりから昭和初期、工藝は必ずしも、民衆の普段使いのものばかりではなかった。用いられるものではなく、装飾のためのものもあった」

歴史はしばしば、人の到達点を重んじ、その道程を充分に顧みないとして、若松氏は「人は生涯を年譜的にとらえるだけでは充分ではない。その内面性、境涯をも同時に把捉しなければならない。境涯においては外面的な出来事だけでなく、その内心の現実、つまり感情も大きな役割を担う。『悲しみ』は、柳宗悦を読み解く鍵となる言葉である」と述べています。柳宗悦は「悲しみは美の母だ」と言いました。のちの柳なら美は救いの母だと言ったでしょう。1955年、亡くなる6年前に刊行された主著である『南無阿弥陀仏』で柳は、「美しみ」と書いて「かなしみ」と読むことにふれ、「悲」の1字に秘められた心情の秘義を読み解いています。

評論は、優劣を比較し、批判の言葉を添えることもありますが、柳にとっての「評価」は、深い愛から始まります。ブレイク伝で貫かれた態度は、その生涯を通じた根本姿勢になっていきました。ここで光っているのは真の批評眼であると指摘し、若松氏は「彼は民藝によって美と哲学を架橋しただけではない。若き日の彼は批評と哲学を架橋している。近代日本の批評史を語るときに柳に言及する人は少ない。だが、小林秀雄がランボーを論じるよりも先に、柳はブレイクを論じているのである。批評家として柳宗悦は再評価されてよい」、そして「救いなき宗教があり得ないように、救いなき民藝もまたあり得ない。柳が生涯を民藝に捧げたのは、仏の慈愛がすべての人、すべての物に注がれていることを『物』に深く学び、教えられたからなのだろう」と述べます。

第一章「出会いと別れ――柳宗悦の原点」の冒頭には、「恩師服部先生」(『柳宗悦全集 第一巻』)という一文が収録されています。若き柳宗悦が「恩師」と慕った服部他之助のことはあまり知られていないかもしれません。学習院に学んだときの教師で、出会いは柳が中学2年生のときでした。若松氏は、「服部は著述家でもあって、その代表作の1つに『聖哲エマソン』がある。柳宗悦におけるエマソンの影響はこれから再考されてよい。白樺派は、しばしば文学運動の1つであるように考えられているが、それは事実と異なる。それはまさに文学、芸術、哲学、宗教をも包含する稀有なる精神運動だった。柳はそこで中心的な役割を担った。出発点において柳は、哲学者であるよりも真の意味での批評家だった。そうした彼の大輪の花というべき著作が『ウィリアム・ブレーク』である」と書いています。

「妹の死」では、愛する妹を亡くしたとき、柳宗悦は「おお、悲しみよ、吾れ等にふりかかりし淋しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお悲しみよ、汝がなかったら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。悲しみにおいて妹に逢い得るならば、せめても私は悲しみを傍ら近くに呼ぼう。悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる。涙よ、尊き涙よ、吾れ御身に感謝す。吾れをして再び妹に逢わしむるものは御身の力である」と書いています。

第二章「神秘道と神秘家」には、『宗教とその真理』に続く『宗教的奇蹟』『宗教の理解』『神に就て』といった著作によって彼は宗教哲学者として注目を集めるようになったことが紹介されます。「神秘道」という言葉は聞きなれないかもしれません。柳はそれを「神秘主義」とは質を異にするものとして用いました。「主義」は、場合によっては静的なものになりかねません。それは死せる概念となることもあります。「神秘道」は、単に論じられるだけでは明らかになりません。その試みが生きた言葉と経験に裏打ちされているとき、そこに何かが浮かび上がるとして、若松氏は「柳が関心を深めたのは『神秘主義者』と『神秘主義』ではなく、どこまでも『神秘道』と『神秘家』なのである。この視座と態度は、のちに井筒俊彦にも影響を与えた。この時期に刊行された柳の著作が井筒俊彦の書架にあったのを私は見たことがある」と述べています。

「神秘道への弁明」(『柳宗悦全集 第二巻』)の二「神秘道と流派とについて」では、柳が「宗教は真に離言の道である。それはすべての言語を絶する。即如は定義せらるるを許さぬ。断定はものの内容を局定する。無限の自由であるべき絶対の面目はこれによって表示し得べくもない。すべての批判反省はこの渾一の態を分析して平面にもたらす差別知に過ぎぬ。すべての差別を絶する時にのみ彼に完全な自由がある。一切の形式、一切の主義はむしろ自由の拘束である。自由に即する心が彼等の心である。この心の切な事において神秘家は人々の要求を越える。神学は宗教への弁疏であろうが、活きた宗教そのものは弁疏を脚下に踏んでいる。神秘経験は言説の堡塁に依拠するのではない。知識は吾々を美わしく装飾する、しかしそれは霊の量ではない。かつてパスカルが言ったように宗教は「心」の事に属する。権威は内に湧くのであって外に在るのではない。彼等は厳かな霊の示現の前に、一切の教条、儀式、聖典をすら第2次とする。これら各々の価値を忘れるのではない。ただかかる事にのみ拘束せられる時、宗教の真諦が失われるのをより明らかに知っている」と述べています。

神秘道はあらゆる宗派を1つに結ばしめます。救いの専有は基教にのみ許されるのではありません。神は基教的であると共に仏教的です。真理は常に回教的であり、儒教的です。柳は正当なすべての宗教はその根底において調和されるべきものであると思うといいます。争論は理解の不足に過ぎません。柳は、「神秘道は主張ではなく傾向である。理論ではなく気質である。組織たるよりも開放である。思想たるよりも精神である。定義たるよりも暗示である。規矩たるよりも創造である。形式たるよりも流動である。彼等の危期は神秘道を主義に托す時にある。理論が生命の位置を奪う時、宗教は言葉の宗教に死滅する。偉大な宗教家はすべて言葉を謹んでいる。彼等には沈黙が最良の言語であった」と述べるのでした。

「種々なる宗教的否定」(『柳宗悦全集 第二巻』)の四「聖貧」では、キリスト教のみならずすべての高い宗教は「貧」の思想に深く浸ったと述べられます。宗教は今もなお貧者の厚い友であるといいます。毛皮を纏って彷徨って歩いたスーフィーSufiも同じ「貧」の美に活きていました。およそ第10世紀の末葉――アシジの聖者の在命時より200年も昔――スーフィーズム(回教神秘道)に関する最古の論の中に、その著者アル・フジュウィリAl-Hujwiriが「貧しい」の1章を書いた事は人々の興味を引くでしょう。柳は、「無欲を説いた老荘にこの思想が流れている事は疑い得ない。簡粗な法衣に身を守った仏徒が彼等の行為に『貧』の力を体現した事も認めねばならぬ事実である。いつも私欲は破宗門である。しかし『貧』こそ深い宗教の理想であると断じるなら、今の人々はいち早く疑うであろう。よし彼等の愛するフランチェスコから『聖貧』の教えを聞くも、これのみには心を躇うであろう」と述べます。

第三章「宗教哲学者の悲願」(『柳宗悦全集 第三巻』)に収録された「宗教哲学の再建」では、柳が神秘主義と密接な関係に立つことについて語られます。不注意な批評家は神秘主義の主張は、言下にひとつの主義を標榜していると言うかもしれないが、神秘主義とはあらゆる主義からの離脱を求める思潮へ下した批評家の言葉であって、それは主義の主張ではないといいます。主義という言葉を用いるなら、それは「唯一な主義」に立とうとする意味があるとして、柳は「神秘主義は、1個の主義ではあらぬ。主義であるなら、それは既に神秘の道から離れる。禅家は禅宗という字を悦ばない。禅の真意において宗派はないからである。究竟の深さは思惟によっては測り得ないが故に、それは思惟にとって永えに匿された不思議である」と述べています。

人は、このようなものを「神秘mystery」と名づけます。語源を遡れば眼を閉じて口を被うという意味です。見えずまた語ることができない無上なものを指すのです。「人の智慧」において、すなわち思惟において神を語ることはできません。ただ神秘においてのみ神を語ることが許されているとして、柳は「ポーロは巧みに告げた。『我らは智慧を語る。されどそはこの世の智慧にあらず。我らは神秘において神の智慧を語る』と。理性を重んずる人にとって、神秘という言葉は不明とか不合理とかいう意に響くかもしれぬ。しかし私は簡略にこう言い添えておこう。神秘とは暗きが故ではなく、知の挿入を許さぬ自明さを持つからである。故に神秘こそ全き理性であると言わねばならぬ」と述べます。

「法衣の秘儀」では、衣は身を被うと言うよりも、むしろ心を現わすのであるといいます。法衣は信念の衣です。俗を棄てて出家をする者は、その徴を衣に委ねます。彼は世のすべてを棄てるがゆえに、すべての色を棄てる黒を慕います。そこにはこの世を離れる静寂があります。しかし同時に信念に活きる者の生気が漂います。いつも黒き色は静けさを語りますが、同時に強さを示すではありませんか。そこには褪せる彩りはないとして、柳は「悠久なる不変の相のみが残る。黒は『玄』の世界である。秘められた深さが内に宿る」と述べています。

また、柳は「心に乱るる者は、黒の色に堪えぬ事が出来ぬ。そこはこの世を超え得た者のみが住み得る世界である。僧はその黒に衣を染める。否、黒に染められる世界に、選ばれてゆく者を僧と呼びなすのである」とも述べます。法衣はただ布と色と形とから成り立つのではありません。そこには法が交わります。法にその衣たるの意味が頼るのです。法は神の智慧です。ゆえに、その奥義は「この世の智慧」では計ることができません。衣とは呼んでもすでにこの世の衣ではありません。纏う者もまたは見る者もこのことを心せねばならないのです。

第四章「民藝の火」の「朝鮮の友に贈る書」(『柳宗悦全集 第六巻』)では、柳は朝鮮の芸術ほど愛の訪れを待つ芸術はないと思うと告白します。それは人情に憧がれ愛に活きたい心の芸術でした。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その芸術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのです。そこにはいつも悲しさの美しさがあります。涙にあふれる淋しさがあります。柳は、「私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。貴方がたの過去の運命やまた思想はいかなるものであったろうか。その地理や隣邦との関係から来る避け得ない環境の為に、温かく平和な歴史は永く保ち難かったであろう。まして東洋の静かな血が通い、仏陀の教えによって育てられた心には地の生活がいかに無常に思えたであろう」と述べるのでした。

第五章「美をめぐることば」に収録された「雑器の美」(『柳宗悦全集 第八巻』)では、手工藝の終りが近づいて来た今日、祖先が作った雑器こそは、貴重な遺品であると述べられます。民藝が手工である時期は今や過去に流れようとしているとして、柳は「苦しい事情はかかるものの復興を阻止している。今日の不合理な勢いの許では民藝として栄える日は二度とは戻り難いであろう。ただ伝統を守り続ける地方のみが、今も正しい手工の道を歩む。そうして僅かばかりの個人がそれを助けようと努力している。しかし『手工に帰れよ』という叫びはいつも繰り返されるであろう。なぜならそこにこそ最も豊かに、正しき労働の自由があり、正しき工藝の美が許されているからである。かくて手工のしるしである今日までの民器が、愛をもって顧みられる日は来るにちがいない。歴史は傾くとも、その美に傾きはない。時と共にその光はいや増すであろう」と述べます。

第六章「『見る』とは何か」に収録されている「茶道を想う」(『柳宗悦全集 第十七巻』)には、茶道は器を見る道であり、兼てまた用いる道であることが述べられます。誰でも日々器を用いて暮します。しかし、何を用いるかで分れ、どう用いるかで更に別れてしまいます。誰でも器物を用いるとは言ういますが、用いる物が様々であり、用い方が色々です。柳は、「用ゆべき物を用いない者がある。用ゆべからざる物を用いる者がある。何を用いるかに心を寄せない者がある。どう用いても気にかけない者がある。彼等を果して用いる人と呼べるだろうか。物は選び方で右と左とに別れ、用い方で更に活きもし殺されもする。用い誤れば用いないにも劣るであろう」と述べています。用い方1つではありません。四季の推移、朝夕の変化、部屋の結構、器物の性情、すべては用い方に限りない創作を求めます。

人も器を待つごとく、器も用いる人を待たなければなりません。柳は、「物を使うのは易しくとも、使い得る人が幾許あろうか。真の茶人達は物を生活に取り入れて使いこなした。見ることから用いることへ更に道を深めた。生活で美を味わったことこそ、茶道の絶大な功徳である」と述べます。また、「茶」の型は必然あって考案ではありません。法より自然なものがあるでしょうか。それゆえに、「茶」はどこまでも道です。道であるからには公です。則るべき法です。柳は、「茶は猥りに個人的好悪を許さない。それは単に個人の嗜好に止まるが如き小さなものではない。茶道は個人のことを超える。茶道の美しさは法の美しさである。個人を露に出す『茶』はよき『茶』とはならぬ。『茶』はすべての者に属する『茶』である。『茶』は個人の道ではなく人間の道である」と述べます。

茶礼は人々に自由を贈る公道

「茶礼」と言います。礼は式であり範です。礼に到って「茶」も奥義に達したのです。このような礼式に高まってこそ茶道です。方式はわたしたちに遵奉を求めます。それだけの権威があっての茶礼です。学ぶ者はこの礼に忠順でなければなりません。服従を人は拘束と解するかも知れません。しかし法に従うのは法に則るのであって、このこと以外に全き自由はないのです。柳は、「自由は気儘の謂であってはなりません。法に即してこそ全き自由が得られるのです。気儘より大きな拘束があるでしょうか。自己を言い張る時、人は不自由に迫られるでしょう。茶礼は人々に自由を贈る公道です。このことにすべての伝統的芸道の密意がかかります。

型を去って能楽の美があり、歌舞伎の芸があるでしょうか。いかに新しいものが生まれたとしても、それが深まる時、遂に型として納るに至るでしょう。「茶」の美はその型において最も深まります。「茶」を行う者には法への慎みがなければなりません。柳は、「茶道の永い持続は1つにこの型の存在に依る。茶祖は逝き茶人は歴史に往還するも、茶礼のみは永えに残る。それは個人を越えた力であって、時の流れで消し去ることが出来ぬ。幾多の誤った茶人が後を継ぐとも、型は型であって彼等に左右されない。もし『茶』が礼に達していなかったら、歴史は早くも終りを告げたであろう。個人に終るものは生命が短い」と述べています。

型と形は違います。形のみを誇示する「茶」は、見て見苦しいものです。しばしば茶道は形式の芸として非難されます。それは型の意義を想い誤るからに過ぎません。型を死なしめるのは人の罪であって、茶道の罪ではありません。法より活きたものがあるでしょうか、活きたものであってこそ法に深まったのです。柳は、「礼の密意を誤って『茶』を殺す者がいかに多いであろう。型の真意が忘れられてから、既に幾歳月になるであろう。礼に即して自由を得られずば、未だ礼に徹した者ではない。形で『茶』を玩ぶことは慎んでいい。型をゆめ浅く受け取ってはならぬ。型に入って『茶』が益々活かされねばならぬ。真の『茶』は型でいよいよ自由である。すべての偉大な芸術の仕事は法則の発見である。茶道は美の法則を語る驚くべき道の1つである」と述べます。

初期の茶人たちは彼らの取り上げた器物で美の標準を人々に贈りました。茶道はこの贈物を弘めることに誠実な役割を勤めました。人々は美しさと言う神秘なものを、計量する簡単な物差を受けたのです。こんな驚くべき贈物があるでしょうか。しかもそれは誰にだって贈られたのです。誰に届けても間違いない確な秤です。何も茶人だけが受けたのではない。ちょうど一尺差がどんな人にでも使えるように、誰にだって使える物差です。それも分り難い美を、分りやすく測る為なのです。しかもその物差は何も込み入ったものではありません。世にも簡単な物差です。

度盛に何が記してあるか。一語「渋い」と言う字が書いてあります。ただそれだけです。それで充分な働きをするのです。柳は、「この世には様々な美の相があろう。可愛いもの、強いもの、派手なもの、粋なもの、各々が美しさの1つである。性情により環境により、人はその何れかに近づくであろう。だが情趣が進めば、いつも辿り着くのは渋さの美である。この境に到り得て美は納るのである。美の深さを訪ねるなら、いつか此処に来るであろう。美の奥義を語る様々な言葉はあっても、この一語にすべては尽きる。茶人達は美の帰趣を、この一標語に托したのである」と述べています。

幸なるかな、すべての日本人はこの一語を知りぬいています。この貴重な言葉を不断使いにさえしています。無学な者だとて平気で会話にこの言葉を入れます。しかもこの言葉で自らの好みを省ることさえします。どんな派手好きの人でも、渋さの美が深いことはひそかに知っています。柳は、「これこそは国民が有つ美の標語なのである。どの国にこれに該当する言葉があろうか。言葉が無ければ観念を欠き事実を欠こう。渋いと言う和語以外に、無上な美の標準を示す言葉はいかなる国の辞彙にもない。それもむずかしい漢語の熟字で表現してあるのではない。また抽象的な理知の言葉に托してあるのでもない。味覚から来た平易極る『渋い』と言う言葉である。東洋の生活があってのみ、よくこの語を生み得たと言えよう」と述べます。

芭蕉も「侘び」と言う言葉を遺しました。俳道を知るほどの者は、誰もその意を受け取っています。ここが文学のまた生活の標的です。しかし、誰にもそれを解らせるのは困難です。目前に物で語るのではなく、形なき心で伝えるからです。しかしながら、「渋さ」は物で伝わります。形で見せられ、色で示され、模様で出されます。柳は、「あの茶器に見られる簡素な形、静かな膚、くすめる色、飾りなき姿、下恨の者もこの語の心を活きた品々で受けとる。物に即して美を示したことこそ、茶道の忘れてはならぬ長所である。それは遠い思想ではなく近い現実である」と述べています。

心を物で語るのです。物が心を映すのであす「侘び」も「渋さ」も1つではあります。しかし、「侘び」は知者の用語に属し、「渋さ」は民衆の言葉に交ります。この言葉あるがために、美を民衆に知らせ、民衆が美を囁くとは、なんという幸せなことでしょうか。それもただの美ではありません。渋さの美であり、終りの美です。美の帰趣です。柳は、「この言葉こそ茶人達がすべての人達に贈ってくれた無比の遺産ではないか。すべての日本人が最も深い美への標語を有っている。こんな驚くべきことがまたとあろうか」と述べるのでした。まさに「渋さ」とは「侘び」の見える化・民衆化です。「心を物で語る」あるいは「物が映す」のです。

初期の茶人たちは、尋常なものの深さを感じていました。彼らは誰も顧みなかった通常の物から、異常な茶器を取り立てたのです。あの「大名物」の茶碗も茶人も、もとは凡々たる民器に過ぎませんでした。真理はいつも真近くに寄り添います。彼らを囲む周囲を、彼らは愛をもって振り返りました。日々の雑器こそ、彼等が眼を注いだ領域でした。誰も見棄ててかかる品々です。大胆と言えば大胆ですが、これにも増した必然はありません。柳は、「素朴な日常の器物は、彼等を裏切る如き不徳な者達ではない。質素な物は愛を受ける。それらの品々は無垢な心で生まれ、自然の恵みで育ったのである」と述べます。

心も身も共々に健在です。用器のことですから、病弱であったり華美であったりしては、奉仕の役を果すことが出来ません。誠実こそ彼等の道徳ではありませんか。かこのような物から正しい美が輝くのに何の不思議があるでしょうか。柳は、「救いが誓われている生涯である。謙遜な物は美と結縁が深い。あの「大名物」はかつては貧しい雑器であった。その美しさは質素な性質から湧くのである。謙譲の徳無き物はよき茶器にはなれぬ。茶道も清貧の教である。禍なるかな、贅沢なる茶室、作為せる茶器、茶礼を乱す今の多くの茶人達」と述べるのでした。

そもそも茶祖は美しい数々の品を、美の為に出来た作物から選び挙げたでしょうか。決してそうではありません。生活のために出来た器物が、彼らのこの上ない友達でした。彼らが「茶」を観じたのは、遼遠な美においてではなく、現実に即した美においてです。考える美よりも交る美に、もっと切な愛を感じたのです。柳は、「観念においてではなく生活において、更に深く美を見つめた。言わば美を遠きより近きへ移した。親しさに美の本質を感じた。かくて美と生活とを固く1つに結んだ。鑑賞の歴史において、ここまで徹した例が他にあろうか。それ故今日吾々が工藝と呼ぶ領域が、彼等の心を惹いた世界である。美の為に生まれた美術よりも、生活の為に生まれた工藝に、彼等はもっと厚く美を観じた」と述べています。

茶事は工藝的なるものに始終します。諸道具はもとよりです。書画の掛軸といえども、表装との諧調です。それを工藝的なものになさずば用いはしません。茶室こそは工藝品の綜和です。庭園の配置は工藝化せられた自然です。点茶の動作、また工藝的な所作に外なりません。いずれも用に発し生活に根差した美しさです。柳は、「言い得べくば『茶』は生活の模様化である。茶礼は渾然たる立体的紋様である。工藝的なるものを離れて『茶』はその道を樹てない。美を工藝に観じ、工藝を美に観ずることに茶道の特性がある。このことを彼等をおいて誰が躊躇なく薦めたであろう。生活に美を即せしめることなくして、彼等は美を語りはしなかったのである。かくして彼等は工藝に美の永遠な位を贈った。茶道は工藝の美学である」と述べます。茶室とは「工藝品の綜和」であり、茶道とは「工藝の美学」であるということがよくわかりました。

茶道は物の教から心の教へと高まります。心なくして物が活きるでしょうか。柳は、「よき物を有つことと、よき心を有つこととが、ひとつになるまで深まらねばならぬ。物は心を呼ばずば未だ物たり難く、心は物を活かさずば未だ心たり難い。美しき物がいかに多くあろうと、それだけでは茶器にならぬ。すべての物は心の現れにまで進まねばならぬ。心を忘れて誰か物のみを活かすことが出来よう。心が誠たらずば物も誠たることは出来ぬ。心と物と茶境においては一如である」と述べます。茶道とは心道なのです。日本人の類いない美への教養は、長いあいだ茶道に訓練させられた賜物です。しかし、柳は「悲しくも美への眼力が衰えた昨今、茶礼の使命はいや増して大きいと思える。とりわけ美の王国をこの世に建てんと志すほどの者は、茶祖の偉業を想いみないわけにゆかぬ。正しくその衣鉢を継いで、茶道の真面目を甦らすことこそ、吾々に与えられた使命である」と述べるのでした。茶の道は「美の法」なのです。

第七章「美による救い」に収録された「美の法門」(『柳宗悦全集 第十八巻』)では、人が美しいものを作るといいますが、そうではなく仏自らが美しく作っているということが述べられます。いや、美しくすることが仏たることなのです。美しさとは仏が仏に成ることです。それは仏が仏に向ってなす行いです。それゆえに、仏と仏との仕事なのです。念仏は、人が仏を念ずるとか、仏が人を念ずるとか言いますが、真実には仏が仏を念じているのです。一遍上人の言葉を借りれば、「念仏が念仏する」のです。「名号が名号を聞く」のです。すべて正しきものは、仏の行いの中の出来事に過ぎません。美しきものは、仏が仏に廻向しているその姿なのです。

禅は「見性」と言いますが、それは本有の性を直ちに見よとの意です。これを見ることが「成仏」なのです。柳は、「美の世界にもこの成仏がなければならない。浄土門では極楽往生を説くが、本分にその極楽が在るのであって、何も特別な個所を指して、しか呼ぶのではない。往生はその本分を離れてはない。阿弥陀仏はその本分の体なのである。それ故往生は阿弥陀仏に帰入することなのである。かくて南無阿弥陀仏が往生するのである。美の往生もこの往生を離れてはない」と述べるのでした。

「美の宗教」(『柳宗悦全集 第十八巻』)では、宗教から芸術が分れたことは、宗教にとっての悲劇であると述べられます。しかし、同時に芸術が宗教を見棄てるなら、これも芸術にとっての悲劇だと言えるでしょう。柳は、「近世の芸術はこの問題をどう解決しようとしたか。それをふたたび宗教芸術にもどそうとしたのではない。美への追求それ自らに宗教を捉えようとするのである。一個の椅子、一個の馬鈴薯、そんなものはかつて宗教的な画題ではなかった。だが画家たちはそれらの非宗教的題材に迫ることにおいて、充分宗教的真実さをしめしたのである」と述べています。このあたりは、わたしの「宗遊」という考え方にも通じるように思われます。

柳は、ロートレックを例にとります。彼は幾度か娼婦を画題に選びました。柳は、「宗教家は眉をひそめるであろうが、不思議なことに、例のカトリックでこのごろ安置する低調なマリア像より、遥かに真実なものが内に宿るのである。この画家の、なみなみならぬ誠実な苦悶の跡が、ずっと見る者に深い感動を与える。画題はたとえ卑しくとも、取扱い方に卑しさはない。これに比べると例のマリア像の如き、いかにやくざな扱い方を示しているであろう。どこにも真実に迫るものがないのである。ただ甘い浅薄な感傷があるだけである。そんなものを宗教的とは夢にも言えぬ。今日の芸術家のある者は、僧侶よりも、もっと僧侶ではないであろうか。求道の情熱において」と述べます。

柳の考えでは、宗教運動は、もう寺院の宗教だけでは足りないといいます。それも大に進めてもらいたいけれども、在家から自由な活発な動きを起してよい。といいます。その在家宗教の有力な1つに美の宗教が建てられねばなりません。それは2つの大きな理由によります。新しい世代は、美の世界に異常な関心を抱いています。かつての信の場合のごとく、今は何よりも美に真実なものを追求しているのです。それは現実な視野に入ってくる世界だからです。しかも美が人類を結合さす契機となりつつあるのです。聖なるものに代って、美なるものが異常な勢いを示して来たのです。柳は、「この意味で美術館は新しい教会堂であるとも言える。もうその役割を果し始めているのである。第2には、愚かにも宗教は芸術と離れてしまったが、興味深いことには、芸術から新しい宗教とも言えるものが、要請されつつあるのである」と述べています。

昔は宗教が芸術を生んだと言えますが、今は逆で芸術が宗教を生んでゆくといいます。これを、柳は「美の法門」とも「美の宗教」とも名づけます。柳は、「これが新しい一道であると思われてならぬ。もとよりそれは在来の宗教芸術の形を取るものではない。もとより造形の芸術ばかりではない。文学も音楽も、そういう道をたどって、深さへと徹するであろう。ただ末世の今日、もっと具体的な目前に見る視覚の芸術が、一層の一般性を帯びてくるのは必定である。いわゆる美術の急速な繁栄はこのことをよく語ろう」と述べています。

『工藝文化』より

しかし、柳の考えでは、将来もっとも普遍的関心を招くものは工芸美ではないかといいます。なぜなら、美術よりもさらになお日常の生活に即してくるからです。それに美術はなお観念との関連が深いからです。主として理念を持つ個人芸術家を通して現れるからです。これに比べるなら工藝は一段と具象的です。もっとじかの生活的な「物」です。柳は、「かかる物に美が根を下ろすことを必要とする日は来るであろう。ちょうど宗教が生活の宗教でなければならなかったのと同じように、芸術もまた生活的なものに成り切らねばならない。この真理を見ぬくとき、工芸はこれから一段と重い位置を得るであろう」と述べるのでした。

「美は社会と厚く結ばれねばならない」と、柳は言います。それは宗教が個人の救いから、衆生の済度に移るのと同じです。工藝界はちょうどその衆生界に当ります。衆生の日々の生活にもっとも深く交るのが工藝です。美術は単数ですが、工藝は本来が複数です。それゆえに、美の法門が建てられるとき、工藝美の問題が重要な意味を示してくるのは必然です。柳は、「ここで美の宗教にも主として自力門に立つ美術と、主として他力門に立つ工藝との二大門が考えられることを注意したい。仏教が教える二門の判釈は、美の宗教においても示唆するところが大きい。もとより究極は自他不二の一門に帰すのであるが」と述べています。

美の法門を建てるとなると、なぜ美術にも増して工藝の領域が大切になるかは、工藝が凡夫の救いに深く立ち入ってくるからです。そこは主として無学な貧乏な名もない工人たちの世界なのです。しかし仏教において、他力道が凡夫成仏を約束するように、美の宗教は、下品な工人たちの救いを契うべきです。これなくして美の王国は成りたたないとして、柳は「少数の美術家が成仏するだけでは、衆生済度の誓いは具現されない。私が生活に交る工藝特に民衆に交る工藝(それを呼んで「民藝」と名づけているが)、かかる世界に現れる美に宗教が建てられるべきだと主張するのはそのためである」と述べます。「民藝」は民衆的工芸ですが、わたしはそこから民衆的儀礼としての「民禮」を着想しました。

将来、美の問題の解決に最も多くの糧を贈るものは、東洋の思想ではないでしょうか。道教も仏教も、将来大に見直されるときがあるでしょう。西洋の二元的見方とは違って、不二の相をいつも奥深く見届けているからです。たとえば「大無量寿経」四十八願の第四に「無有好醜の願」と呼ばれているものがあります。誰も知る通りすべての念仏宗は、右の大願中の第十八願、すなわち「念仏往生の願」の上に宗門を建てているのです。同じように美の法門を建てる者にとって、まさに第四の「無有好醜の願」がその礎となるのを見出してよいでしょう。

「無有好醜の願」の意味はこうです。「もしも私が仏になる時、浄土において、好きものと醜きものとの別があるなら、私は仏にならぬ」と述べているのです。省ると大変な誓いではないですか。好醜は今の言葉では美醜です。この世には美しきものと醜きものとが混雑し並在しているのです。しかし、それは人間の迷いがこんな差別を酵したに過ぎません。本来はそんな二はなく、一切の人間は、その自性において好醜の別を越えていると教えるのです。そういう世界がとりもなおさず浄土です。そして柳は、「今日まで美の宗教にもっとも近接したのは、恐らく日本における『茶道』であろう。これは正しく美を仲立ちとした一種の宗教なのである。あるいは美に即して道を建てたものと言う方があたるかもしれぬ」と述べるのでした。

第八章「美と宗教――柳の確信」に収録されている「仏教美学の悲願」(『柳宗悦全集 第十八巻』)では、柳は「興味深い事に、仏教にしろ、キリスト教にしろ、ギリシャ哲学にしろ、最もそれが繫栄し円熟した時代は、美学が無くとも、必ず偉大な芸術を伴っていた事である」と述べます。つまり偉大な宗教時代と偉大な芸術時代とは、何時も同時同体でした。それは宗教的信仰や思想の具体的な表現としての芸術でありました。大にしては建築から彫刻絵画、さては音楽や、もろもろの工芸品に至るまで、一切の領域に自らを美しく表現しました。注意すべきは、それらがいずれも理論や主張から生まれたものではなく、宗教的情操の必然な現れとして、熟した美の世界でした。別に美学が存在しなかったということは、美と人、美と物、美と社会との関係が、今日よりも遥かに密であったためと思えます。しかも更に不思議なことは、宗教繁栄時代の作には1つとして積極的に醜いものがなく、いずれも美しさと固く結ばれていたことです。

そうしてそれらの一切のものは在銘ではありませんでした。醜いものの方が多く、しかもその大概が在銘を誇る今日の作と比べると、夢にも等しい出来事とも思えるほどだといいます。柳は、「考えると、美学が必要になるのは、末世のしるしとも言える。美を論ぜねばならぬほど世が醜に沈んできたためとも言える。とかく誤った道に陥りがちである時、正しい美とは何かを示さねばならぬ必要が起る。昔はかかる美論が必要でないほど、美と社会とが1つに結ばれていたのである。しかもそれは時代的全体的美の表現で、個人の芸術として現れたのではない、このことは、その時代の一切の人々が美の王国に参与出来た事情を示そう。宗教心がその時代全般に滲み込んでいた時、美もまた一切の人と物とに、決して無縁ではなかったのである」と述べるのでした。

「追補 美の奇蹟」では、柳は「今、どうして美を論ぜねばならぬのか、末世だからである。後来の人為が横暴を極めて、『本来の清浄』を瀆しているから、これを反省する必要があるのである。ちょうど、人間と仏とが2つになっているから、成仏への反省が必要なのと同じである」と述べます。「後生一大事」と信者は言いますが、まさに一大事に違いありません。この反省で本来の姿に帰るのですから。しかるにこれを一大事と考えないような末世になってしまったのです。「後生」というから、変に思えますが、この「後生」が「即今」のことなのです。これを「即今の一大事」と言った方がよいとして、柳は「そうして無碍心を離れて、この問いへの答えは得られない。心の問題も美の問題も究極は1つである。心のわだかまりをほぐせ。これが救いとなる」と述べるのでした。

「追補その2 直観について」の序「『美しさ』と『美しきもの』」では、「美しさ」とは抽象的概念に過ぎないといいます。そんなものは影に等しいといいます。だから「美しさ」の理解は「美しき物」に即して、始めて活きたものになるでしょう。この「美しき物」との結合が1つでないと「美しさ」への思想は、空中の楼閣に等しいのです。この悲劇はしばしば「美しさ」を詳しく論じる人、必ずしも「美しき物」を理解し得る人でないという矛盾の中によく示されます。ここに「美しき物」というのは、具体的な芸術品を指すのです。それは耳で聞く音楽でも、目で見る焼物でも何でもいいです。また心で味わう詩文でもいいです。しかし一番具象的なのは、眼で見、手で触れ得る造形作品です。これに比べると、無形の音楽や文学は時間的な美しさとでも言えましょうか。

これに対し、形と線と色とで示されるものは、空間的で最も如実です。ゆえに、柳はこの一文を書く時、誰にも手っ取り早く、近付きやすい視覚的な造形の世界を見詰めつつ書くことにしようとして、「つまり美の問題への理解には、どうしても知識だけでは駄目で、直観の裏付けが要る。否、裏付けどころではない。直観が知識の基礎であり出発でなければならない。さもないと知識は単なる抽象で、死んだものになるのは前述の花や、人格の例でも分ろう。観ぜずして、または観じ得ずして「美」を知ったり、論じたりしても余り意味はないし、かかる「知」からは当底権威は生まれて来ぬ。たとえ影を追っても、実体を握る事は出来ぬ。家を建てたと思っても、空中に建てるのと等しく、どこにも安定がなく、実際がない」と述べるのでした。

「直観とは何か」では、「見る」とは何かということが問題になります。それは、直観とは何かということになります。直観とは、あらゆる独断を拭い去った理解をいうのです。直観をよく主観と混同する人がいますが、大いに違います。主観は主我的で、自己中心で、自分勝手の観方のことです。しかるに直観は、自己を忘れた境地に入ることです。茶道に「一期一会」という言葉がありますが、これは普通には一生一度限りの茶会と思って心を入れろという意味にとるでしょう。それでもひとかどのよい解釈かも知れませんが、本当はそんな、なまぬるい解釈では駄目でしょう。

むしろ「一度」などという数の入らぬ世界に入れとの意味に受取ってこそよいのです。「一会」とはまっさらとか、即今とかいう世界への示唆なのです。二度三度に対する一度ではありません。一切の「度」が、現下の新鮮なうぶな「度」となることです。「一度」は常度の新度です。だから「幾度も」がいつでも現下の真新しいこの「一度」となるのです。常にまっさらな茶を持つのが一会の真意です。「只一回のこと」と受取るのはまだ浅いとして、柳は「むしろ度数なき度数とでも言おうか。そういう茶を点てろとの教えであってこそよい。厳しく言えば『一度すら起らぬ茶』があるが、これを『どうする、どうする』と私達に迫ってくる公案と思う方がよい。『一回だけ』などという余裕をおくべき沙汰ではあるまい」と述べるのでした。

「仏教に帰る」(『柳宗悦全集 第十九巻』)では、東洋人が、思想の面で世界に貢献できるとすれば、それはやはり東洋の伝統の中で熟したものの中に見出されるであろうといいます。西洋的なもので、西洋に貢献しようとするのは望みが薄いようです。東洋人はやはり東洋人としての立場で仕事をするべきでしょう。その方がずっと自然であり、また妥当ではありませんか。柳は、「考えると、世界の平和は東西両洋の相互敬意に見出されねばならない。世界を一色にする事で平和を得ようとしても無理であろう。自然が違い歴史が違うからである。東を西に化してしまうことで、平和が来るのではない。むしろ東と西とに別れていることに特別な意義を見出すべきである。もとより別れるその事が目的ではなく、別れつつも相結ばれるところがなければならぬ。二は一のためだとも言え、一は二あって益々一の意味を深めるとも言えよう。それ故お互いの尊敬と理解とが必要である。またお互いが自らの立場に存在理由を見出さねばならない」と述べています。

「私と宗教」(『柳宗悦全集 第十九巻』)では、柳の悲劇は、美の世界を介して宗教の意味を述べようとするのであるといいます。またかくすることによって、最も親しく宗教を多くの人々の心に近づけ得ると信じるのであるといいます。柳は、「全般的にいって寺院宗教が衰えつつある今日、これに代わるものは美の殿堂を建てて、それを介して眼に訴えつつ道を明らかにすることではないであろうか。これが私をして民藝館の仕事に、1つの使命を感じさせている必然の理由なのである。ちなみにいう、近世、世界各国で美術館の設置が盛んになってきたのは、以上のように美を介する宗教への要請が、だれの心にも知らずして抱かれてきた徴ではないであろうか」と述べるのでした。これはもう、わたしの「宗遊」という考え方に通じていることを確信しました。わが魂の義兄弟であった鎌田東二先生は宗教哲学者でしたが、晩年は同じ宗教哲学者であった柳宗悦に多大な関心を寄せていました。鎌田先生が帰幽された今、わたしは柳宗悦の宗教哲学を学ぶ覚悟であります。