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No.2474 歴史・文明・文化 『西洋交霊術の歴史』 リサ・モートン著、田口未和著(原書房)
2026.06.25
雨がしとしと降っています。こういうときは霊たちが近くにいるような気がします。このたび、コロナ禍のあいだに書き溜めていた書評ブログを蔵出しすることにしました。今回は、『西洋交霊術の歴史』リサ・モートン著、田口未和著(原書房)を紹介します。著者は、1958年カリフォルニア州生まれ。脚本家、編集者を経て、作家、ノンフィクション・ライター。ブラム・ストーカー賞やリチャード・レイモン賞など数々の賞を受賞した作家であり、超自然現象に関する世界的な権威として広く知られています。2014年から2019年まで、ホラー作家協会会長。著書多数。
本書の帯
本書のカバー表紙には交霊術を行っている霊媒女性の写真が使われ、帯には「神話時代から、フォックス姉妹、コナン・ドイル、フーディーニまで、霊的でコミュニケーションの歴史を総覧する決定版!」と書かれています。カバー前そでには、「古代ギリシア・ローマの神話時代から、近代スピリチュアリズムのきっかけを作った19世紀のフォックス姉妹、心霊主義とコナン・ドイル、天才奇術師フーディーニ、ウィジャボード、現代の霊能者、携帯アプリまで、人類はどのように冥界や死者と通じようとしてきたのか。現代のポップカルチャーにもつながる魔術的世界に迫る」とあります。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
序章
第一章 過去の霊を呼び出す
第二章 初期のネクロマンシー
第三章 啓蒙主義と
ロマン主義ゴシックの暗闇
第四章 ヴィクトリア朝と
スピリチュアリズム、
交霊会の誕生
第五章 戦争とウィジャ――
20世紀のスピリチュアリズム
第六章 交霊会はどれほど世界的か?
第七章 現代の交霊会
第八章 (なぜ)交霊会は必要なのか?
「謝辞」「写真提供への謝辞」
「参考文献」「原注」「索引」
「序章」で、交霊会の原形といえるものは、アメリカのフォックス姉妹が1848年につくり出したとして、著者は「まだティーンエイジャーだったふたりは、好奇心に満ちたグループをテーブルの周りに座らせ、ラップ音を立てては霊のしわざだと言ってみんなを楽しませた。しかし、交霊会をそこからさらに洗練させたのは、大西洋の両側にいるスピリチュアリストたちだ。前述の描写からもわかるように、当初の交霊会は教会の楽しい集会(あるいは復活ショー)でもあり、社交の集まりでもあり、参加者が死後の世界が存在する証拠だと信じるものをスリリングに見せるものでもあった。19世紀の科学、産業、都市化の急速な発展への抵抗として生まれた運動であるスピリチュアリズム(心霊主義)は、死後も霊魂は生き続けると信じる信奉者に、その証拠をたびたび目撃させる最初の宗教というイメージを打ち出した。しかし、交霊会は19世紀最大の詐欺ともみなされ、霊媒は正体を暴こうとする者たちから自分をうまく守るすべを身につける必要に迫られた」と書いています。
霊との交信を期待する人たちの集まりに対して、「交霊会」という語が一般に使われるのは、1850年代後半以降のことですが、この言葉はすでに興味深い歴史をたどっていました。もとは、種類に関係なく大きな集まり、とくに政治的な集まりを指すフランス語だった「séance」(元来は「座ること」を意味した)という語は、1830年代に別のもっと変わった意味で使われるようになります。「動物磁気説(animal magnetism)」あるいは「メスメリズム(mesmerism)」と呼ばれた、当時人気のあった理論の実践者の集まりに対して使われたのです。著者は、「これがスピリチュアリズムの直接の前身となる。動物磁気はすべての生きた動物が持つエネルギーで、特別な技術を持つ治療師がこのエネルギーの流れを変えることで病気が治るとされ、やがてはテレパシーや死者との交信も含むようになった」と述べています。
第二章「初期のネクロマンシー」の冒頭を、著者は「ローマ帝国の衰退とカトリック教会の拡大とともに、西洋世界は中世に入った。教会は過去の異端信仰と格闘し、ときには無視し、ときには吸収し、またときには全面的に根絶やしにしようとした。初期の神学者たちも異端信仰の魔術とキリスト教の奇跡という問題と格闘した」と書きだしています。キリスト教学者は、初期の魔術的行為のすべてが詐欺だったと主張するのではなく、「初期の魔術は、これらの才能を持つ人間を誘惑する悪魔によって支配され、したがってネクロマンシーは死者を呼び覚ますことから、悪魔を呼び出すことへと移行した」と論じました。
キリスト教哲学者としておそらく史上最も偉大な聖アウグスティヌスは、幽霊の存在を否定し、422年の文献でその辛辣な論理的根拠を示しました。彼は、「もし死者の魂が本当に生者の世界で起こる事象に関われるのだとしたら、そして、もし私たちの夢のなかで話しかけてくる彼らが、本当に彼ら自身なのだとしたら、私は他人のことについては言えないが、私の信心深い母親なら、陸上でも海上でも私とともに生きるために私のあとを追い、私のもとを訪ねない夜は一日としてないだろう」と述べました。アウグスティヌスは「幽霊」からの優れた啓示は、実際には天使からのお告げで、不吉なメッセージは悪魔からのものだと示唆したのです。
「キリスト教の魔法使いたち」では、4世紀までに、ローマ皇帝は異教徒の魔術的な習慣を厳しく罰するようになっていたことが紹介されます。しばしばローマ帝国西方の最後の偉大な皇帝と呼ばれるウァレンティニアヌス1世(在位364~375)は、「ネクロマンシーの捧げもの」に携わった者への死罪の適用を認めたとして、著者は「魔除けを身に着けたり、治療として魔術的行為をすることでさえ、市民は極刑に処される可能性があった。人々は魔術に関する書物を持っているために捕まることを恐れて、焼き捨てた。結果として、そうした書物は乏しくなり、のちのオカルト実践者たちに貴重視された」と書いています。
宗教的権威者、たとえばパリ大司教は1277年に、すべてのネクロマンシー関連の書物をはっきりと禁じました。14世紀の聖ドミニコ会の異端審問官ニコラウス・エイメリクスは、『ソロモンの食卓(Table of Solomon)』や『ネクロマンシーの宝物(Treasury of Necromancy)』のような書物を押収して焼却したことについて書いた。悪名高きネクロマンサーが書物を処分したという伝説は数多くある。ソロモン、シモン・マグス、ロジャー・ベーコン、聖ゲルマヌスはいずれも、見つかるのを恐れて書物を廃棄したといわれる。この時代を生き残った魔術関連の写本の一部は、修道院や宮廷に保管されていた。
三章「啓蒙主義とロマン主義ゴシックの暗闇」の「光のショー」では、幻灯機の最初期の利用者が詐欺師のネクロマンサーだった可能性は十分にあるとして、著者は「カリオストロが交霊会で行なったトリックのほとんど、たとえば、高価な宝石が突然現れたり消えたりするトリックは、魔術師の定番の手品のように思えるが(自信に満ちあふれた態度で行なう)、同時代の大陸ヨーロッパで活動していた他の詐欺師たちは、幻灯機を使ったのではないかと思われる交霊会を開いていた」と書いています。特に有名なのは、ヨハン・ゲオルク・シュレプファーというドイツのいかさま師で、彼は幻灯機を使って「ファンタスマゴリア」という、骸骨、幽霊、悪魔などの不気味な像を見せる光のショーを開いた最初の人物ともされました(実際には彼のものが最初ではない)。シュレプファーはカリオストロよりほんの数年早くライプツィヒに滞在し、彼らには共通点がたくさんあったといいます。
カリオストロとシュレプファーは、どちらも熟練したネクロマンサーを自称してヨーロッパを旅して回り、フリーメイソンの高位の地位に就きました。どちらもエリート層を相手に活動し、王家とも親交がありました。また、どちらも頻繁にいかさまを暴かれて信用を落とし、その時点で、次の標的を求めて移動しました。著者は、「シュレプファーはライプツィヒの喫茶店の経営者としてスタートしたが、多額の借金ができ、その返済の手段として交霊会を開くようになった。交霊会は人気があり、シュレプファーの評判も広まり、すぐに他の都市でも術を披露するようになった。シュレプファーは自ら伝説をつくり上げた。彼は3種類の霊を呼び出せると主張した。精霊と悪霊、その中間の霊である(悪霊から身を守るためにつねに拳銃2丁を持ち歩いていたらしい)。交霊会ではまず精霊を呼び出して、悪霊から自分を守ってくれるように頼んだ」と紹介しています。
シュレプファーのイリュージョンは、1人の男に影響を与えたとしてしばしば取り上げられます。歴史上はじめて偽物の交霊会を考案した人物とされるエティエンヌ・ガスパール=ロベールソンです。1799年、36歳のロベールソンは、はじめて幻灯ショーを披露し、やがてパリのサロンから廃墟の礼拝堂に移り、そこで「ファンタスマゴリア」(ギリシア語で「幽霊の集会」を意味する、幻灯機を用いた幽霊ショー)を6年にわたって開催しました。著者は、「パリ住民にはサロンで啓蒙主義の政治について精力的に議論する者たちもいれば、ロベールソンの薄暗い礼拝堂へ行って、幽霊ショーを見る者たちもいた。ロベールソンのショーは毎回、詐欺師たちについて話すことから始め、次に幽霊ショーに移った。最後のライトが消されると、奇妙な音が聞こえ(おそらくシュレプファーの交霊会を参考にしたのだろう)、霊たちが現れる」と述べています。
ロベールソンは1940年代から50年代、60年代にアメリカを巡業した「幽霊ショー」で用いるようなテクニックまで導入していました。板を使って、観客の頭上に幽霊を飛ばしたのです。実際に、マリナ・ワーナーは「彼――と同時代のライバルや模倣者たち――は、ホラー映画とそのなかの悪鬼、幽霊、吸血鬼が出没する郊外の町という舞台設定のヒントを与えた」として、ロベールソンがのちの映画にさらに大きな影響を与えたと言っています。注目すべき点として、初期のホラー映画の何作か――『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)や、とくに『カリガリ博士』(1920年)は、催眠術で犠牲者をトランス状態に陥らせる悪党を登場させています。
ロベールソンのショーはすぐに模倣され、イギリスやアメリカに広まりました。ロンドンでは、ポール・ド・フィリップスタルが自分のショーを「ファンタスマゴリア」と呼び、作り物であることを強調すらして、「悪賢い詐欺師と悪魔祓いの虚構を暴き、いまだに幽霊や肉体から離れた霊の存在を信じている人たちの目を開かせる」ことがショーの目的だと観客に宣言しました。ファンタスマゴリアのショーは1803年にアメリカに伝わり、数年のうちには全米の博物館や劇場でショーが開催されるようになり、1839年までは人気を維持しました。著者は、「やがてこうした不気味な幻灯ショーは観客に飽きられたが、同様の演出への関心は1860年代に再び目につくようになる。『ペッパーズ・ゴースト』と呼ばれる幻影トリック(実際の俳優と特別なコーティングを施した鏡を使う)が登場したのだ」と述べます。
「メスメルと動物磁気説」では、フランツ・メスメルは患者の治療に磁石を使うことから始めましたが、すぐに独自の「動物磁気」でより成功できると信じるようになったことが紹介されます。彼はいくつかの装置、おもに「磁気を帯びた」水を満たした木製の桶に鉄の棒を入れたものを利用しました。水面から上に突き出した棒は伝送機の役割を果たし、患者は治療が必要な体の部位を棒にこすりつけました。また、メスメルは人同士をつなぐと磁力が増幅されると教え、そのため複数の患者を桶の周りに緩く縛りつけ、手を握らせることもありました(霊媒が交霊会で用いる方法の先駆けといえる)。浄化治療を経験した患者にはマットレスを並べた「分利室」が用意され、そこで深い眠りに落ちる者もいて、その状態で超感覚的な知覚が生まれ、死者の霊と会話を交わしたといいます。
「予言者」では、「ポキプシーの千里眼」と呼ばれたアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスについて言及しています。デイヴィスは当時まだ人気のあった「引き寄せの法則」という形而上学的な考えを押し出したと指摘し、著者は「デイヴィスが誰あるいは何にこれらの言葉を書き取らせているかという疑問については、彼は交信している霊ではなく、その領域に接触している彼自身の霊だと話している。彼は自分自身を『霊と肉体を結びつける仲介役、すなわち霊媒』と表現している(これにより、デイヴィスはこの意味での『霊媒』という語を最も早い時期に使ったひとりということになる)。デイヴィスは今ではスピリチュアリズムの中心人物とみなされているが、交霊会や霊媒という考えにはかなり批判的だった。彼は『サマーランド』と呼んだ死後の世界を信じていた。そこは、すべての人間の霊が肉体の死後に向かう非常に美しい場所で(デイヴィスは天国や地獄の存在を信じていなかった)、霊たちがサマーランドを離れる理由は――とくに霊媒からの命令に従って離れる理由は――ほとんど考えられなかった」と述べます。
第四章「ヴィクトリア朝とスピリチュアリズム、交霊会の誕生」の「フォックス姉妹」では、フォックス姉妹の霊媒としての冒険の最初の数年は、そこから生まれるスピリチュアル運動のための事実上のテンプレートのように読めるとして、著者は「ケイト、マギー、レアは、観客の半分には霊との交信を思いのままにできる本物の霊媒として見られ、もう半分からは、ばかばかしい詐欺師と見られていた。とくに信心深い男女は彼女たちの行為を、冒瀆的あるいは異端とみなし、科学者たちは単純にはねつけた。しかし、多くの人が三姉妹に魅了されたのは、その登場の時期が鍵であり、ちょうどアメリカが科学と社会改革の岐路に差し掛かったときだった」と述べています。
生物学的研究、工学、技術の急速な進歩は、多くの人に自分たちの精神的な生活は衰退していると感じさせ、奴隷制廃止運動の進展や女性の基本的権利の確立は調和的な未来の可能性に心を開かせたのです。アメリカは電信線で覆われ、モールス信号を通してメッセージを伝えたと指摘し、著者は「フォックス姉妹の周囲で起こるスピリット・ラッピングとほとんど同じに聞こえる、トンツー式の音による通信だ。フランツ・メスメル、エマヌエル・スウェーデンボルグ、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスの著作はすべて、新しい信仰体系のための道を開いた。信奉者が精神性、科学、社会改革、哲学を結びつけて考えることを認めるものだ」と述べます。
「イギリスとアメリカにおける初期のスピリチュアリズム」では、アメリカの南北戦争はおよそ62万の、ほとんどが若い兵士の命を奪い、その悲劇が1860年代のスピリチュアリズムの発展を後押しする結果となったことが紹介されます。嘆き悲しむ両親や妻、配偶者は、彼らの愛する者があの世から送ってくるかもしれない合図を得たくて、霊媒を頼ったとして、著者は「スピリチュアリズムは若者たちの運命について何の情報も得られなかった人々へのなぐさめも提供した(戦争の規模と大勢の戦死者を把握する難しさを考えれば、めずらしい出来事ではなかった)。スピリチュアリズムには家族を亡くした人たちをなぐさめる力があったものの、そうなるための組織に欠けていた(若い支持者の多くは戦争で死んでしまい、その層が激減した。)たとえば、スピリチュアリストが運営する治療院や、障害を負った退役軍人のための住宅はなかった」と述べています。
「心霊写真」では、1859年、ザ・スピリチュアル・テレグラフ・アンド・ファイアーサイド・プリーチャー紙が数号にわたって、霊を写真でとらえる可能性について議論したことが紹介されます。著者は、「死んだばかりの人物を撮影した(現在では一般的な習慣になっている)女性写真家が、写真上で別のふたりの人物――ひとりは男性で、ひとりは女性――が死体の後ろでポーズをとっていることに気づいた。その後すぐに、別の写真家(あるいはダゲレオタイピストが新聞に投書して、自分もそうした写真を偶然つくり出したことがあると主張し、その原因を説明した。当時の写真撮影に使われていたプレートは、1枚撮影してプリントしたあとで洗って再び使う。もし洗い方が不十分だと、同じプレートを使って撮った写真をプリントしたときに、幽霊のような像が現れるかもしれない。新聞社が最初の女性写真家に連絡をとってみると、写真家は、死体を撮影したときに使ったプレートはまったく新しいもので、現れた女性のドレスはすっかり時代遅れのものだった、と話した。しかし、死んだ男性の家族は誰も、写真に写り込んだ霊が誰かわからなかった、とも言った)と書いています。
初期の心霊写真の例はいくつかありますが、本格的な心霊写真が撮影されたのは1862年のこと。ウィリアム・マムラーというアマチュア写真家がセルフポートレートを撮ろうとして、最終的な写真に写っているのが自分だけではないことに気づいたのです。カメラは椅子に座った幽霊のような女性の姿もとらえていました。著者は、「マムラーは心霊写真の撮影を商売にすることにした。最初のうちは客に対して、いつも霊が現れるわけではないと釘を刺しておいたが、数年のうちには通信販売で死者の霊の写真を売っていた(愛する人の霊が写った写真は7ドル50セントという価格だった)。マムラーにとっては残念なことに、彼の写真の購入者は、人の姿をした『霊』のなかには、まだ生きている人物もいて、その全員が自分の写真をスチュワート夫人のスタジオで撮影したことがあった。マムラーは信用を失い、以前は彼を支持していたスピリチュアリストの新聞でさえ非難にまわった」と述べています。
「スピリティズムと神智学」では、霊との交信を探求する19世紀に生まれた信仰体系は、スピリチュアリズムだけではなかったことが指摘されます。スピリチュアリズムからほんの数年遅れて、神智学とスピリティズムという同様の教義が生まれたのです。ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーは、本人によれば1831年にロシアで生まれ、成長とともに霊能力を身につけました。10代のうちに自分よりずっと年上のニキフォル・ヴァシリエヴィチ・ブラヴァツキーと結婚しましたが、チベットを旅するために逃亡し、そこで7年間マハトマたちのもとで学んだといいます(1850年ごろにニューオリンズまで旅したともいわれ、そこでブードゥーを学んだと本人は言っている)。著者は、「チベットで過ごした時期については大きな論争の的になっているが、彼女がヨーロッパを旅したことは間違いなく、そこで催眠術と霊媒術を学んだ。1858年にパリでD・D・ホームと出会い、ホームはのちに、自分が彼女をスピリチュアリズムに転向させたと断言した」と述べます。
「心霊現象研究協会」では、当初、SPRは心霊現象を否定するのと同じくらい、証明することにも関心を持っていました。特に強い関心を持ったのが、思考の伝達でした。バレットがすでに数年前から調査していたが、1882年、フレデリック・マイヤースは「思考伝達」というぎこちない語に換えて、「テレパシー」という造語を使い、次の100年に超心理学者たちの強迫観念になる論争に実体を与えました。著者は、「霊媒は実際に霊を呼ぶのだろうか? それとも彼らは生きている人たちの心を読むのだろうか? SPRが思考伝達ではなく霊との交信を重視し始めてから40年後の1924年、サイエンティフィック・アメリカン誌の共同編集者だったJ・マルコム・バードが『テレパシーか霊かの選択は・・・・・・心霊研究の最も重要なテーマである』と書いた。それが、J・B・ラインが1927年にデューク大学超心理学研究所を設立したときに掲げた大きな疑問のひとつとなる」と述べています。
第五章「戦争とウィジャ――二〇世紀のスピリチュアリズム」の「エクトプラズム」では、心理学者ウィリアム・ジェームズが称賛した科学的好奇心は、前世紀から持ち越されていた、霊媒によるエクトプラズムの発現に再び向けられたことが紹介されます。心霊現象研究協会(SPR)や他の機関の調査官が、幽霊のものというより濡れた洗濯物のように見えるもので覆われた霊媒の写真を撮影しました。心霊現象研究家のハリー・プライスは、「チーズクロス[もともとはチーズやバターの製造や調理に使われていたガーゼのような綿織物]の切れ端を崇拝するのぼせ上がった人々が、交霊部屋の薄暗い神聖な光のなかで彼らの前にぶら下げられるその布切れを、讃美歌でうやうやしくまつり上げ、祈りで飾り立てた」とあざけりました。
S・F・デイモンというハーバード大学の大学院生は、エクトプラズムは実際には過去の錬金術師たちが探し求めていた「第一質量」だと主張して、アーサー・コナン・ドイルから称賛されました。ドイルは自分でもエクトプラズムを扱ったことがあると言い、それを「物質世界と霊界をつなぐもの」と呼びまし。研究者はエクトプラズムのサンプルを入手することにも成功しましたが、その白く長いものが、よれよれの紙かチーズクロスだとわかっても、ほとんど気にしませんでした。ドイルの『新たなる啓示』(1916年のライト紙への投書として始まり、1918年にアメリカとイギリスで出版された)とともに、オリヴァー・ロッジが戦死した息子の霊と交信した記録『レイモンド」が第1次世界大戦後のスピリチュアリズムの興隆に重要な役割を果たしました。この本はレイモンドの生活を描く手紙のセクションから始まり、霊媒のレオナルド夫人が彼女の支配霊「フェダ」の指示で、レイモンドからの数多くのメッセージを伝えるセクションに移行します。
「ハリー・フーディーニとアーサー・コナン・ドイル」では、交霊会の全歴史において、ハリー・フーディーニとアーサー・コナン・ドイルの友情ほど有名な、あるいは興味をそそられる関係性はないとして、著者は「多くの点で、ふたりはスピリチュアリズムの議論の両面を代表する。フーディーニは伝説の魔術師で、信者として始まり(18歳のときに死んでまもない父親との交信を試みるため、時計を売ってお金をつくった)、霊媒として働きすらしていたが、詐欺的なやり方にがまんできなくなってやめた。その後は、スピリチュアリズムのいかさまを暴く運動を始めた。一方、コナン・ドイルは疑い深い良識ある医師として始まり、1887年に参加した交霊会で、自分では説明できない霊からのメッセージを受け取り(彼が読もうとしていた本についての警告が書き出された)、運動の最も熱心な支持者になった」と述べています。
しかし、2人の友情は終わりを迎えます。フーディーニが遠回しにレディ・ドイルを詐欺師と呼んだと思い、コナン・ドイルが激怒したからです。かつての友人同士の間の亀裂は、同じ年のうちにさらに深まります。サイエンティフィック・アメリカン誌が、本物の心霊現象を引き起こした霊媒には賞金を出すとして、フーディーニが5人の審査員のひとりになったのです。コナン・ドイルは同誌に対して、審査員は偏見を持っており、コンテストには詐欺師しか応募しないだろうと書き送りました。彼はフーディーニへの私的な手紙で、審査員に加わることを戒めたといいます。審査員団がマージェリー・クランドンの調査を始めたときには、フーディーニとコナン・ドイルが非難合戦を繰り広げました。著者は、「作家は猛烈に擁護し、魔術師は彼女のトリックを非難し、彼女が医師である夫に膣を大きくする手術をしてもらい、そこに『エクトプラズム』を隠せるようにした、とさえ言った」と述べます。
フーディーニは妻ベスとの間で、死んだ自分があの世から接触を試みたときに、本物だとわかる暗号を決めていました。アーサー・フォードという若い霊媒がベスに協力し、1929年についに、その暗号のフレーズ――「ロザベル、信じて」を口にしました。しかし、その暗号は1928年刊行のフーディーニの伝記に載っていたので、フォードはそれを読んでいたと思われるとして、著者は「ベスは1936年まで、毎年ハロウィーンにフーディーニとの交信を試し続けた。最後の年の交霊会はハリウッドのニッカーボッカーホテルの屋上で行なった。その伝統はフーディーニの弟ハーディーンに、そして、ハーディーンの弟子のシド・ラドナーに引き継がれた。シドが2011年に死亡すると、彼の息子のビルとその友人トム・ボルトが伝統を継続した。彼らは2012年から交霊会を一般に公開するようになった」と紹介します。
アーサー・コナン・ドイルはフーディーニより4年ほど長く生きました。生涯の最後の数年は「フィニアス」からのメッセージを聞いて過ごした。妻のジーンがいつも交信し、来たる終末の時を予測した指導霊です。著者は、「コナン・ドイルが1930年に死亡したあと、数千人が参列した彼の葬儀には、霊媒のエステル・ロバーツの姿もあった。彼女はそこでトランス状態に入り、空っぽの椅子を指さして、『彼がそこにいる!』と叫んだ。2016年、イギリスのITVとソニー・ピクチャーズテレビジョンが、ミステリードラマ『フーディーニ&ドイルの怪事件ファイル』の放送を開始した」と紹介しています。
「ヘレン・ダンカン」では、「なぜ第2次大戦後には、アメリカ南北戦争後や第1次世界大戦後のように、霊を呼び出す交霊会が再興しなかったのだろう?」という問いを示した著者は、「その疑問への答えは、複数の要因が複雑にからんだためと考えるしかない。第一に、スピリチュアリズムの霊媒をおもに構成した女性たちは、1940年代に入ると戦時生産に駆り出され、戦後は仕事を続ける意欲が増していた。1世紀に及ぶ詐欺行為の暴露がついに厳しい法律の制定につながり、霊媒たちにとっては活動しにくい環境になっていった。そして、世界は死と同じくらい恐ろしい新しい脅威を生み出した。原子爆弾である。おそらく全世界が歴史上はじめて地球規模の不安発作に襲われていた。そんなときに、死者の霊に考えを向けることは単純に難しかっただろう」と述べています。非常に興味深い指摘ですね。
「映画と舞台上の交霊会」では、映画産業について言及されています。映画産業が生まれた当初から、ジョルジュ・メリエスの『ダヴェンポート兄弟の衣装だんす』(1902年)などの霊を呼び出すようすを描いた映画は人気だったことが紹介されます。著者は、「ジョジ・アルバート・スミスの『幽霊を撮る(Photographing a Ghost)』(1898年)は、心霊写真を愉快に取り上げ、写真家が心霊写真を撮ろうと試みるようすを描く。1921年の『霊魂の不滅(The Phantom Carriage)』のようなショッキングなサイレント映画は、霊を恐ろしいものとして描き(ある男性が死者の魂を集める馬車の御者にされそうになる)、その一方で、バスター・キートンの『キートンの化物屋敷(The Haunted House)』(1921年)はスラップスティック(どたばた喜劇)と悪霊のイメージを混ぜ合わせている」と紹介。
この時期のより啓発的な一作は『暴かれた霊媒、あるいは現代のスピリチュアルな交霊会(The Medium Exposed? or,A Modern Spiritualistic Séance)』です。「トリック」映画を専門にするR・W・ポール・カンパニーが1906年に製作しました。著者は、「この7分間の珠玉の作品では、あるグループが交霊会に集まり、霊媒を椅子に縛りつけたあとで、照明を暗くすると、不思議な現象――タンバリンの音、霊の手、宙に浮かぶ頭蓋骨――が暗闇のなかに見え隠れする。会席者のひとりが突然、明かりを元に戻すと、霊媒の仲間が彼らの後ろに立ち、伸縮棒に物をぶら下げていた。共謀者は逃げ出し、激怒した会席者は縛りつけている霊媒を椅子ごとトランクに詰め込み、家から運び出す。丘からトランクを転げ落とすと、トランクが開いてなかから驚いた(まだ縛られている)霊媒が現れ、警察に連行される」と紹介。
第七章「現代の交霊会」の冒頭を、著者は「19世紀のスピリチュアリストたちが始めた交霊会には、大きな目的がふたつあった。第一に、死者の霊と交信すること。第二に、そうした交信が実際に起こったと証明することである。確かに交霊会は別の機能も果たし、物質主義への反発、霊的信仰を促進するためのグループの結成、進歩的な大義の追求のための同盟、単純に娯楽を提供することなども含まれる。しかし、まず何よりも、交霊会はこのふたつの目的を促進するために存在した。もし交霊会が世界大戦間の時代にほとんど忘れ去られるほどに衰退したように思えたとしたら、ふたつの目的が別々になったと考えるほうが正確かもしれない。死者、より具体的には死んでしまった愛する人と会話したいという願いは、20世紀初めのトランス霊媒から、直接、同世紀後半の心霊研究につながっていった。そして、死後の霊の存在を科学的に証明する必要が、1882年の心霊現象研究協会の創設から、大学を拠点とする研究所へ、最後には超常現象調査へとつながった」と書いています。
「電子音声現象(EVP)」では、19世紀にウィリアム・マムラーの心霊写真に匹敵する音声の証拠がなかった唯一の理由は、録音技術がわずかに写真技術に後れをとり、1900年代に入るまで実質的に発達していなかったからだと指摘しています。しかしその後は、蓄音機、ラジオ、電話が標準的な家財道具となり、霊は見るだけでなく、音を聞けるようになりました。著者は、「霊媒ではなく機械を通して霊と直接交信する可能性を最初に考えたひとりが、トーマス・エディソンだった。1920年、エディソンはアメリカン・マガジン誌とのインタビューで、死者と話すための装置をつくろうとしていると話し、支持者たちに衝撃を与えた。彼は『スピリットフォン』を組み立てている最中で(本人は「スピリットフォン」とは呼ばなかったが、インタビュー記事の掲載後にメディアがこのフレーズを広めた)、あと数カ月で完成するだろうと言った。ディソンの装置は生命とその死後の存続についての彼の理論に基づいたもので、控えめな言い方をすれば、ユニークな見解だった」と述べています。
携帯電話は死者からの電話の概念を変革しました。死者からテキストメッセージが送られたという報告が頻発するようになったのです。それについては、たいていはシンプルな説明がつくとして、著者は「今ではメールのほうが多くの人に好まれる通信形式となったため、愛する人を失い悲しんでいる誰かが、単純に自分をなぐさめるためにメールを送信するかもしれない。しかし、故人の電話番号がすでに別の誰かに割り振られたのを知らない可能性があり、自分のところにメッセージが戻ってくることになる。2015年にユーゲニア・クイダという人工知能の専門家が親友を事故で失い、悲嘆に暮れていた。彼女は親友の人生の歩みの大量のデータを人工知能に統合し、親友のレプリカとメールの交換ができるようにした。これらのテキストベースの『グリーフボット』は、近い将来に愛する故人と交信する確かな方法になるかもしれない」と述べています。グリーフケアを研究・実践するわたしとしては、非常に興味深いですね。
第八章「(なぜ)交霊会は必要なのか?」では、「すべての証拠が反対を指し示しているのに、なぜ私たちは死者と話ができると信じようとするのだろう?」という問いを提示し、著者は「人類と世界の歴史を通して、私たちは一貫して、死後にも霊魂は存続し、生きている人たちとの関係を継続しようとするのだと信じてきた。カール・ユングは、『不死という考えは地球全体に広まる心霊現象である』と述べた。宗教は変化し、霊を呼ぶ方法は進化するが、私たちの幽霊との関係は基本的には変わらない。神々はやってきては去るかもしれないが、死者は一定のまま変わらない。疑う側も信じる側も、ひとつの点で合意している。人間は生まれながらにして、死後も何らかの形で存続するのだと信じようとする点だ。『はっきり言えば、私のなかには死後の命を信じようとする何かがある。そして、その厳密な証拠があるかどうかにはまったく関心がない』。前世紀の偉大な科学ライターのひとり、カール・セーガンはそう述べた」と紹介します。
また、「なぜそれほど多くのスピリチュアリスト、とくに19世紀のスピリチュアリストは、交霊会が本物だと科学的に証明することが必要だと感じたのだろう?」という問いを提示する著者は、「ハーバード大学に心理学部を立ち上げ、心霊現象研究協会(SPR)の会長を務めたウィリアム・ジェームズは間違いなく、彼自身のスピリチュアリズムへの傾倒を科学的に確かめる必要を感じていた。彼は少なくともひとりの本物の霊媒、レオノーラ・パイパーを見つけ出したと信じ、その唯一の本物の霊媒だけでも、人間の霊魂が死後も存続する科学的可能性を正当化すると示唆した。『もしあなたが、すべてのカラスは黒いという法律をくつがえしたいのなら』と、彼はSPRで発言した。『どのカラスも黒くはないと示す必要はない。1羽だけでも白いカラスがいると証明できればよいのだから』。彼はレオノーラ・パイパーが自分の白いカラスだと信じた」と述べます。
特に19世紀の人々が霊媒に頼っていたもうひとつの重要な理由を挙げる人だちもいます。それは、霊媒が性別や階級に縛られない職業だったことです。著者は、「スピリチュアリストの霊媒のほとんどは労働者階級か貧しい家庭の出身で、霊媒になることで退屈な両親や配偶者から逃げることができ、そうでなければ近づけなかっただろう特権階級(王室も含む)に入り込むことができた」と述べています。悲しい推理ですが、意外と的を得ているような気がします。愛する人を亡くすことも悲しければ、霊媒にならざるをえなかった人生も悲しい・・・・・・交霊術の歴史はグリーフケアの歴史でもあることを痛感しました。