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No.2496 芸術・芸能・映画 『ヌーヴェル・ヴァーグ』 古賀太著(集英社新書)
2026.09.18
『ヌーヴェル・ヴァーグ』古賀太著(集英社新書)を読みました。「世界の映画を変えた革命」というサブタイトルがついています。著者は、日本大学藝術学部映画学科教授。専門は映画史。1961年生まれ。国際交流基金に勤務後、朝日新聞社文化事業部企画委員、文化部記者を経て2009年より現職。著書に『美術展の不都合な真実』『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』、訳書に『魔術師メリエス』など。フランスより国家功労勲章シュヴァリエ授与。

本書の帯
本書の帯には「その『新しさ』は、永遠に生き続ける」と大書され、「ゴダール、トリュフォー、シャブロル、ロメール・・・・・・。さらに、映画史の古典から21世紀の新作まで。『ヌーヴェル・ヴァーグの精神』に満ちた約800本を紹介!」と書かれています。帯の裏には「●本書の構成と、各章で紹介する主な作品」が紹介されています。
本書の帯の裏
カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「ヌーヴェル・ヴァーグ(N・V=新しい波)は、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらを中心に1950年代末のフランスで生起した映画の革新運動だが、それにとどまらず、日本も含めた『世界同時多発現象』として、新しい映画表現や製作スタイルを生み出した。本書は、国境や時代を超えたN・Vの広がりとその担い手について解説。映画の創始者であるリュミエール兄弟から現代の映画作家に至るまで、『N・Vの精神』に満ちた作り手たちによる約800本の作品を紹介する」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「『はじめに』に代えて」
第1章 フランスのヌーヴェル・ヴァーグとは
第2章 1959年までの道のり
第3章 ヌーヴェル・ヴァーグの開花
第4章 「左岸派」たちの肖像
第5章 ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの監督たち
第6章 日本におけるヌーヴェル・ヴァーグ
第7章 西欧に広がるヌーヴェル・ヴァーグ
第8章 旧共産圏とアメリカ大陸
第9章 映画史から現代へ
「あとがき」
「註」
第1章「フランスのヌーヴェル・ヴァーグとは」の「(1)命名と普及」では、1959年のカンヌは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉がフランス内外に広がるのに決定的な役割を果たしたことが紹介されます。フランスからは3本が出ました。マルセル・カミュの『黒いオルフェ』がパルムドール、フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』が監督賞、アラン・レネの『二十四時間の情事』はアメリカ政府の要請でコンペ外の上映となりましたが、国際批評家連盟賞を受賞しました。著者は、「『大人は判ってくれない』も『二十四時間の情事』も第1回長編で、トリュフォーは27歳、レネは36歳。これは前年に大統領になったド・ゴールが作った文化省の初代文化大臣に任命された、小説家のアンドレ・マルローの力が大きかった。彼は事前に3本を見て強く推した」と書いています。
第2章「1959年までの道のり」の「(1)『カメラ万年筆』論」では、N・Ⅴの若者たちがシネクラブ活動を始めていた1948年、24歳にして評論家や小説家として活躍していたアレクサンドル・アストリュックが『レクラン・フランセ』144号に「新しいアヴァンギャルドの誕生――カメラ万年筆」という論考を発表したことが紹介されます。つまり、今後の映画は娯楽から抜け出して、個人が思想を表現し物語を語るものとなることです。これは、撮影カメラが万年筆のように自己表現の道具となるという意味でした。カメラ付きのスマホが筆記用具としてSNSなどでのさまざまな表現に使われる現代を予言したようにも思えますが、アストリュックは映画がそう変わることを提案したのです。
N・Ⅴの監督で、彼が想定した哲学をも映画で語りうる存在になったのはゴダールただ1人かもしれないと、著者は述べています。いずれにせよ、監督が脚本も書き、作家として個人で活動するという形は、それまでの映画作りに対峙する新たな監督像を提示したのでした。著者は、「実際にはN・Vの監督たちの多くはシャブロルがポール・ジェゴフと、トリュフォーを始めとしてリヴェット、レネが複数の作品でジャン・グリュオーと組んだように、特定の脚本家と共同で脚本を書く場合が多かったが。ともあれ、個人で簡単に動画が撮影できるスマホ万能の現代を考えると、『カメラ万年筆』論は古びることはない」と述べています。
「(2)アンドレ・バザン」では、N・Vの監督たちに最も大きな理論的影響を与えたのは批評家のアンドレ・バザンであると指摘します。アストリュックの「カメラ万年筆」という考えも、起源はバザンの文章にあるといいます。映画批評家であった彼はフランソワ・トリュフォーが少年鑑別所にいたときに身元保証人となり、さらに志願入隊をした軍隊から脱走して投獄されたときに除隊の手助けをして、まさに「父親代わり」となりました。アンドレ・バザンの映画批評の特徴は、簡単に言えば「存在論的リアリズム」の擁護であるとして、著者は「彼の映画論は邦訳の『映画とは何か』を読めばわかる。バザンは『写真映像の存在論』で、写真の独自性は『人間の創造的介在なしに』自動的に生み出されたことからくる客観性にあると説いた」と述べます。
第3章「ヌーヴェル・ヴァーグの開花」の「(1)ヌーヴェル・ヴァーグの美学」では、N・Vの映画の特徴として即興演出やロケの多用や素人の起用などが挙げられると指摘します。ミシェル・マリはその美学として脚本から仕上げまでの以下の8つの立場を挙げています。
(1)作家=監督が脚本家を兼ねる
(2)事前に決められたショット構成を用いず、即興に大きな余地を残す
(3)ロケが特権化され、スタジオ(撮影所)に依存しない
(4)数人からなる「機動性のある」撮影チームが用いられる
(5)後時録音よりは撮影時に録音する直接音
(6)過剰な追加照明は用いない、感度の高いフィルムを使用
(7)非職業俳優が用いられる
(8)職業俳優の場合は新人俳優を用いる
「(3)トリュフォーの奇跡」では、自伝的内容の多いN・V初期の作品の中でも、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)はとりわけその要素が強いことが指摘されます。両親の不和、学校の先生の無理解、家にも学校にも耐えられずに家出をして盗難に及んで少年鑑別所に送られるまで、すべてが実体験をベースにしたことが、彼のインタビューでわかっています。トリュフォーは「カイエ派」の中では珍しく大学に行っておらず、小学校をかろうじて卒業した。そのうえ、文字通り不幸な少年時代を送っているとして、著者は「それらすべてがこの映画の細部のリアリティの強さを生んだのである。さらにアントワーヌを演じたジャン=ピエール・レオーがトリュフォーのイメージに応えた」と述べています。レオーも家庭に不満でよく家出をした経験がありました。警察から護送車に乗せられて外を見るときの目、鑑別所で女性精神科医に答えるときの自然な表情、ラストの有名な海岸の場面のクロース・アップの静止ショットで捉えられた目など、ジャン=ピエール・レオーの視線の鮮烈な強さがこの映画を支えているといいます。
さらに驚くべきは、トリュフォーはレオーが演じるアントワーヌ・ドワネルを主人公として、その後20年にわたり、4本の作品を作っていることだといいます。『二十歳の恋』(1962年、オムニバスの1本)、『夜霧の恋人たち』(1968年)、『家庭』(1970年)、『逃げ去る恋』(1979年)と、主人公が俳優と同じように成長してゆく形の映画史的に見ても類いまれなシリーズとなりました。最後の『逃げ去る恋』はいわば総集編で、回想形式で過去の作品が使われています。レオーはこれらの「ドワネルもの」以外でもトリュフォーの『恋のエチュード』(1971年)や『アメリカの夜』(1973年)に出演しているほか、ゴダール作品にも『中国女』(1967年)を始めとして数本に出演しており、N・Vの代表的な顔の1人となりました。
「(4)『勝手にしやがれ』の衝撃」では、著者が現在の目でN・Vの初期長編10本ほどを見ると、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』は圧倒的に突出していると述べます。多くのショットはコマ切れでつながっておらず、時には登場人物が正面を見て話し、会話がほぼ成り立っていません。原題の「息切れ」「息もたえだえ」(英語題はBreathless)という言葉がぴったり合うほど、最初から最後まで一気に突っ走るとして、著者は「『勝手にしやがれ』という邦題は、この映画を買い付けた秦早穂子がつけたものだが、秦はわずか20分のラッシュを見ただけで買い付けを決めた。海外で最初に買ったのは日本で、日本公開はフランス公開の10日後だった」と述べます。秦は自伝的小説『影の部分』に「モノクロの画面は光輝き、ジャン=ポール・ベルモンドは自由で無造作だった。20分あまりのラウル・クタールのカメラは鮮烈だった」と書いています。
さらに、『勝手にしやがれ』には画面のあちこち「引用」が登場し、作品体をかき乱していると指摘されます。著者は、「ミシェルとパトリシアが行く映画館にハンフリー・ボガードのポスターがあるような、トリュフォーの映画でよく見る『映画愛』の表現もあるが、ゴダールの場合は、音楽(モーツァルト)、文学(フォークナー、リルケ)、絵画(ピカソ、ルノワール)など多岐にわたる。パトリシアが参加する空港での記者会見に臨む作家のパルヴュレスコをゴダールが敬愛するジャン=ピエール・メルヴィル監督が演じるのも、ゴダールらしい引用である。さらにラジオや新聞、雑誌といったメディアも混入する。セバーグの英語訛りのフランス語では時々会話が通じず、ミシェルが何度電話しても相手がいないように、言葉をめぐるコミュニケーションの問題が生じる。そしていくつもの種類の自動車が続々と登場する。こうしたゴダール特有のスタイルは、この最初の長編に始まって生涯にわたって続く」と述べています。
その後、ゴダールは公私にわたるパートナーとなるアンナ・カリーナと出会い『小さな兵隊』を作りましたが、アルジェリア戦争に触れたために上映禁止となり、戦争終結後の1963年1月にいくつかの台詞を削除して公開されました。ゴダールは公開直前に「人々はヌーヴェル・ヴァーグを、ベッドのなかにいる人たちしか描こうとしないと非難している、だったらぼくは、政治にかかわっていて寝る暇もないような人たちを描いてやろう、と。そして当時は、政治と言えばアルジェリアのことだった」と述べています。ゴダールはカリーナと、次に2人の幸福な気分を表した『女は女である』を撮り、微妙な関係を暗示する『気狂いピエロ』まで長編だけで6本を作りました。
「(5)ロメールの謎」では、ゴダールより10歳年上の1920年生まれで、「カイエ派」の最年長であったエリック・ロメールが取り上げられます。1983年の『海辺のポーリーヌ』は日本で初めて公開されたロメールの映画ですが、これ以降の作品はほとんどが同時代的に公開されて「お洒落な」映画として流通しました。著者は、「フランスでは1960年代後半以降の作品はおおむね当たるようになり、ロメール監督の長編25作品(『モンソーのパン屋の女の子』と『シュザンヌの生き方』を含む)を800万人以上が劇場で見たというから、結果としてはN・V一番のヒット監督である。もともと高校の教師で、小説を別名で出版していた。映画の理論的分析にすぐれて1948年には『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に最初の評論「映画――空間の芸術」を発表し、N・Vのメンバーに大きな影響を与えた」と説明しています。
第4章「『左岸派』たちの肖像」の「(1)アラン・レネの冒険」では、「左岸派」の代表監督であるアラン・レネが取り上げられます。アラン・レネはブルターニュ地方の海に面したヴァンヌ市の薬剤師の息子として生まれて文学、映画、演劇に興味を持ち、1939年からパリに住みました。短編ドキュメンタリーで特異な才能を発揮し、彼の初長編であり初めての劇映画『二十四時間の情事』(1959年)に挑みました。短編ドキュメンタリー『夜と霧』(1955年)のナレーションは作家のジャン・ケロールが書きましたが、本作では女性作家のマルグリット・デュラスにシナリオを依頼。このような文学者との協働は、ほかのN・Vの監督には見られないとして、著者は「そもそもトリュフォーは『フランス映画のある種の傾向』で有名な文学作品をプロの脚本家が翻案して映画化することを非難していた。この作品の原題は『ヒロシマ、わが愛』だが、最初予定されていた題名は『ピカドン』だった」と述べています。
デュラスの文学の力を最大限に生かしたレネは、次の『去年マリエンバートで』(1961年)では、「ヌーヴォー・ロマン」の旗手、アラン・ロブ=グリエと組んでさらに抽象性の高い世界を構築。前作と同じく登場人物の名前はなく、男は「去年フレデリクスバート庭園で会った」と言い、その公園を思い浮かべます。画面にはその公園を歩く女が写ります。女の夫らしき男が、追いかける男に銃を放ちます。男は時おりモノローグで女との出会いを語り、その場面を思い浮かべるのでした。ロブ=グリエは、この映画のシナリオのみならず絵コンテまで描いてレネに渡したといいます。著者は、「3人の主要人物以外は台詞も少なくまるで人形のようで、全体として絵画のように(例えばルネ・マグリットの)、造形的に完成された場面が次々に続く。廊下を走り回るカメラは、『世界のすべての記憶』を思わせる。前作のような政治性や歴史性ははぎ取られ、純粋に人間の記憶と愛を追いかける画面と言葉がせめぎ合う」と述べます。
「(3)ジャック・ドゥミのファンタジー」では、『シェルブールの雨傘』(1964年)が取り上げられます。同作は、すべての台詞を歌で綴るという映画史でも初めての試みのなされたミュージカル映画です。著者は、「ドゥミ初めてのカラー作品でもあり、美術のエヴァンの力を借りて冒頭の色とりどりの傘に始まって赤や黄や青の原色を使った人工的な世界を作りあげた。この二重に人工的な世界で語られるのは自動車整備工の青年ギイと傘屋の娘ジュヌヴィエーブの悲恋だが、その背景にはアルジェリア戦争という現実がある」と説明します。同作は1957年11月の「旅立ち」、58年1月の「不在」、59年3月の「帰還」、そして63年12月の「エピローグ」と進みますが、ギイは「旅立ち」のときにジュヌヴィエーブに「今のアルジェリア戦争では、いつ帰ることができるかわからない」と語ります。『シェルブールの雨傘』はカンヌでパルムドールを受賞し、世界中でヒットして主演のカトリーヌ・ドヌーヴを一挙にスターに押しあげました。
第6章「日本におけるヌーヴェル・ヴァーグ」の「(2)日本のN・V」では、大島渚(1932年生まれ)、吉田喜重(1933年生まれ)、篠田正浩(1931年生まれ)がフランスのN・Vとほぼ同世代で、現代では彼らを指す「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉が知られていると紹介されます。1961年、大島渚は結婚したばかりの女優・小山明子、脚本家の田村孟や石堂淑朗らと共に松竹を辞めて創造社を設立。吉田喜重は1964年、篠田正浩は1966年に松竹を退社しました。フランスの場合はもともと監督が大手映画会社の社員であることはないので状況は全く異なりますが、とりあえず松竹の3人は60年半ばまでにフリーとなりました。日本のN・Vはフランスからの影響は受けており、特に『勝手にしやがれ』の影響を感じます。しかし、著者は「日本の監督たちの方が明らかに政治性が強く、体制への反抗や虚無感を濃厚に表している」と分析しています。中でもそれが最も激しいのがブログ「儀式」で紹介した大島渚でした。
「(5)増村保造と中平康」では、1960年代後半に日本の映画産業が壊滅的な不況に陥るまで、増村保造は大映に、中平康は日活に所属し、あくまで商業映画の枠の中で新しい映画を作っていったことが紹介されます。日本映画を変えることにより意識的だったのは増村保造でした。大映に入社後イタリアの国立映画実験センターに留学。帰国後、溝口健二らの助監督を経験して『くちづけ』(1957年)でデビュー。同じ年の『青空娘』『暖流』を通して感じられるのは、登場人物の異様なほどのスピード感溢れる台詞回しと率直で性急な感情表現だと指摘し、著者は「『くちづけ』のラストシーンで川口浩は野添ひとみに突然キスをして『これで理由ができたろう』と叫ぶ。『青空娘』で若尾文子は訪れた父の家で女中扱いされても全くめげず、ミヤコ蝶々に『女中の仕事教えてよ』と微笑む。『暖流』の左幸子は東京駅で改札を過ぎた根上淳に『情婦でも二号でもいいんだから、待ってます!』と叫ぶ」と述べています。
日活の中平康は増村のデビューの1年前にあたる1956年に『狂った果実』を監督しました。原作は石原慎太郎です。彼が芥川賞を受賞した『太陽の季節』が56年3月に出てベストセラーとなり、5月に公開された同名の映画作品(日活、古川卓巳監督)もヒットしました。そこで石原作品から6月に『処刑の部屋』(大映、市川崑監督)、7月に『狂った果実』が公開されたのです。脚本は石原慎太郎が手がけ、『太陽の季節』に脇役で出ていた弟の石原裕次郎を売り出すために作られた作品ですが、軽快なテンポとアップを多用した直接的な感情表現、人妻を奪い合う兄弟という不道徳な内容、兄と恋人のいるヨットにボートを衝突させる衝撃的なラストによって、「太陽族映画」と呼ばれた石原原作ものの中でも高い評価を得ました。それにして原作の出版と同年に映画が公開されるとは凄いですね!
「(6)その他の監督たち」では、まず川島雄三が取り上げられます。彼は戦時中の松竹で助監督から監督になり、20本以上を残しています。日活に移って彼の本領が発揮されるのは『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年)からで、さびれた遊郭に集う貧しい男女を雨や川の流れと共に描きながら、同時に明るいジャズやラテン音楽、チンドン屋や巡業芝居、異様なノリの小沢昭一を組み合わせました。『幕末太陽傳』(1957年)ではさらにこのアクの強い構成を突き進め、品川の遊郭で代金が払えないために働くフランキー堺が絶えず話しながら室内を走り回り、石原裕次郎演じる高杉晋作らの襲撃計画も左幸子と南田洋子のケンカも小沢昭一の飛び込み心中も巻き込んでゆきます。著者は、「あちこちに動物や死のイメージが遍在する強烈な作品である」と評しています。
次に、今村昌平が取り上げられます。彼は戦後松竹で小津安二郎や川島雄三などの助監督を経て、1954年に日活に移籍しました。『幕末太陽傅』の脚本に参加した後、デビュー作の『盗まれた欲情』(1958年)を発表。同作について、著者は「旅芸人一座の長門裕之を中心にした庶民の欲望や活力を肯定する視点は明確である。そこに政治性が加わり、また独自の土俗的な世界を表現するようになるのは『豚と軍艦』(1960年)からだろう」と述べています。同年に作られた大島渚の『日本の夜と霧』と増村保造の『偽大学生』は日米新安保条約(=アメリカの支配)に反対する学生を描きましたが、今村の『豚と軍艦』はアメリカ軍に寄生するヤクザたちを描き、終盤にその象徴として豚の群れを登場させたのです。
日本のN・Vについては、邦画大手が展開したシリーズものやジャンル映画を挙げる人もいるだろうとして、著者は「ジャンル映画は繰り返すうちに型だけが残ってジャンルそのものを問うようなメタ映画が生まれ、自由な表現が可能となる」と述べます。その典型が鈴木清順で、日活でギャング映画を作りながら『関東無宿』(1963年)あたりから次第に人工的でキッチュな映像を生み出し、『東京流れ者』(1966年)や『殺しの烙印』(1967年)で「清順美学」と呼ばれる色彩感覚溢れる独自のシュールな作品を残しました。著者は、「1960年代に松竹を退社した大島渚、吉田喜重、篠田正浩たちに加えて、その前の世代で1950年代に松竹から日活に移籍した川島雄三、今村昌平、鈴木清順を考えると、小津安二郎や木下惠介という巨匠を抱えた松竹という会社が、映画界における旧世代の抑圧する制度として機能し、その反動としてN・Vを生んだと言えるかもしれない」と述べるのでした。
第7章「西欧に広がるヌーヴェル・ヴァーグ」の「(1)イタリア」の冒頭を、著者は「ヌーヴェル・ヴァーグという呼称はフランス語だが、日本の場合がそうであるように、戦後社会の急激な変化を背景に世界各地で自然発生的に生まれている。つまりフランスの影響とは関係なく、各地で同時代的に生まれた現象である。しかしその世界的な動きに最初に刺激を与えたのが、イタリアのネオレアリズモであることは間違いない」と書きだしています。すでにファシズム政権下の1940年代に先駆的作品が何本か現れ、戦後はロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(1945年)やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948年)などが世界各地で上映され、全編ロケで素人を中心とした即興的な演出が話題となりました。
「(3)ドイツ」では、時期的にフランスに先んじたイギリスとは逆に、ドイツでは「ニュー・ジャーマン・シネマ」と呼ばれた新しい波は数年遅れたことが紹介されます。1962年のオーバーハウゼン短編映画祭における「オーバーハウゼン宣言」で、若手小説家や映画監督が「古き映画は死んだ。われわれは新しい映画を信ずる」と発表。それに参加したアレクサンダー・クルーゲ(1932年生まれ)は、初長編『昨日からの別れ』(1966年)がヴェネツィアで銀獅子賞を得て評価されました。これは東側から西側に移った20代女性の放浪を通じて、戦後のドイツ社会の問題や過去を浮き彫りにしました。
『昨日からの別れ』が高い評価を受けた1966年、フランスのIDHECを出てアラン・レネやルイ・マルの助監督を務めたフォルカー・シューレンドルフ(1939年生まれ)は、『テルレスの青春』(1966年)がカンヌで国際批評家連盟賞を取りました。著者は、「こちらは20世紀初頭のオーストリアの高校の寄宿舎におけるいじめを描く。その暴力的な描写や無関心を装う周囲の反応はナチス時代を思わせるが、この監督はそのような象徴的な場面の造形に才能を発揮し、『ブリキの太鼓』(1979年)ではカンヌでパルムドールを獲得して世界的な巨匠となった」と説明します。第2陣は1970年前後に始まります。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945年生まれ)、ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年生まれ)、ヴィム・ヴェンダース(1945年生まれ)などの1940年代生まれが20代で次々と作品を発表しました。
ヘルツォークは1968年に最初の長編『生の証明』を発表。第二次世界大戦中に負傷してギリシャの島で療養するうちに暑さと孤独で精神を病んでゆく青年を描き、異郷と狂気という生涯続く彼のテーマを見せています。続く『小人の饗宴』(1970年)では小人症の施設での反乱劇を描いて賛否両論を呼びました。『アギーレ/神の怒り』(1972年)は16世紀の南米で黄金の地を目指すスペイン人たちを描きましたが、主演のクラウス・キンスキーの狂気の姿が強い印象を残しました。ヘルツォークはその後も彼を主演に『ノスフェラトゥ』『ヴォイツェク』(共に1979年)、『フィツカラルド』(1982年)、『コブラ・ヴェルデ』(1987年)と4作品を作っています。著者は、「世界各地の辺境まで出かけ、あるいは歴史上の奇矯な人間を見つけてカメラに収めるヘルツォークの手法はほかの同時期のドイツ映画とは異なるが、明らかに映画の新しい地平を開いたと言えるだろう」と述べます。
「(5)スペイン」では、1940年生まれのビクトル・エリセは寡作ながら重要人物であると紹介されます。1969年にオムニバス『挑戦』(1969年)でデビューし、1973年に初長編『ミツバチのささやき』でサン・セバスチャン国際映画祭で金の貝殻賞を得ました。著者は、「幼い姉妹が見る不可思議な世界を、六角形の格子の入った窓を通した黄色い光や黒をバックにした室内に描き、バロック絵画を思わせた。スペイン内戦終結直後の1940年を描きながらも、フランコ政権末期の映画制作時を想起させ、さらに映画『フランケンシュタイン』を重ねた。主演のアナ・トレントは日本で人気を呼び、彼女が主演の映画が何本も公開された」と述べています。その後は1983年に『エル・スール』、1992年に画家、アントニオ・ロペス・ガルシアのドキュメンタリー『マルメロの陽光』、 ブログ「瞳をとじて」で紹介した2023年の長編と、これまでに4作しか作っていませんが、世界の映画ファンに愛されています。
「(7)ギリシャ」では、テオ・アンゲロプロスが国際的な名声を得たことが紹介されます。彼は1935年にアテネに生まれ、1961年からパリのソルボンヌ大学やIDHECに学びながらシネマテーク・フランセーズで多くの映画を見た後、ギリシャに戻って1970年に初長編『再現』を発表しました。同作について、著者は「ドイツでの出稼ぎからギリシャの山村に帰った男が殺される事件を描きながら、まるで古代ギリシ悲劇のような格調高い映像を見せた。ロングショットを多用し、終盤にはカメラを360度パンさせて妻を見る住民たちを写すなど、彼ならではの手法も見ることができる」と述べています。次の『1936年の日々』(1972年)からは「ギリシャ現代史三部作」が始まり、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)と続きました。
第8章「旧共産圏とアメリカ大陸」の「(1)ポーランド」では、フランスのN・Vに先んじたのが「ポーランド派」であったことが紹介されます。彼らはN・Vよりも少しだけ年上の世代に属します。その先陣を切ったのが1926年生まれのアンジェイ・ワイダ監督でした。『世代』(1955年)は、1943年のドイツ占領下におけるポーランド人の若者のレジスタンスを描きますが、著者は「その描き方はあくまで等身大だし、ほとんどがロケの撮影である」と述べます。その後ワイダは1944年9月のワルシャワ蜂起の終焉を『地下水道』(1957年)で描いてカンヌで審査員特別賞を取り、『灰とダイヤモンド』(1958年)では45年5月の終戦の1日を見せてヴェネツィアで国際批評家連盟賞を得ました。著者は、「この3本を見ると、スターリンが1956年に没してからポーランドでも『雪解け』が進み、共産党批判が現れると同時に社会主義リアリズムから自由で詩的な表現が広がってゆくさまがよくわかる」と述べています。
「(5)旧ソ連」では、アンドレイ・タルコフスキー(1932年生まれ)が取り上げられます。国立映画大学の卒業制作『ローラーとバイオリン』(1960年)からすでに水や鏡への豊かな感受性を見せ、次の『僕の村は戦場だった』(1962年)では目の前で起こる戦争に少年の記憶やニュース・リールを混在させて、心象風景を浮かびあがらせ、ヴェネツィアで金獅子賞を得ました。以降、彼の作品は『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)、『惑星ソラリス』(1972年)、『鏡』(1975年)、『ストーカー』(1979年)と国際映画祭の常連となりました。『ノスタルジア』(1983年)はイタリアで、遺作『サクリファイス』(1986年)はスウェーデンで撮影。著者は、「人間存在の根源を自然や記憶と共に描こうとする映像は後期になるにしたがって純化され、『魂の叫び』としか言いようのない作品群を残した。『ノスタルジア』以降はソ連に戻ることなく、政府からの帰国要請も拒否して86年にパリで客死した」と述べます。
「(8)アメリカ」では、日本で「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた1960年末から70年代の映画は、本国では「ニュー・ハリウッド」や「アメリカン・ニュー・ウェイヴ」(つまりアメリカのヌーヴェル・ヴァーグ)などと呼ばれることが紹介されます。1967年のアーサー・ペン『俺たちに明日はない』、マイク・ニコルズ『卒業』、69年のデニス・ホッパー『イージー・ライダー』、ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向って撃て!』などがそれに当たります。著者は、「果たしてこれらがN・Vに当たるかどうかは人によって考えが異なるだろうが、私にはベトナム戦争や公民権運動、ウーマンリブなどの激動の時代を経た世代に向けたハリウッドの新しい展開に思えるし、すでに文献も多いのでここでは論じない」と述べるのでした。
第9章「映画史から現代へ」の「(1)ヌーヴェル・ヴァーグの再定義」では、各国のN・Vの根源にはイタリアのネオレアリズモがあり、その奥には第二次世界大戦の経験がありましたが、それは国によって大きく異なったと述べられます。また大戦後の独裁政権や社会主義政権による支配に対する反抗が契機となった国も多かったです。ただ確かなことは、いわゆる撮影所=スタジオで物語を作る映画から、ロケを中心にそれぞれの抱える現実を表現する映画に変わっていったことだとして、著者は「それまでの映画では表現されなかった自分の周囲の現実を知らせることが、映画を作る最大の契機となった。その意味では、どんな国でも、どんな時代でも、新しい現実を見せようとする試みは行われてきたのではないか。これまでは50年代半ばから70年代前半までの欧州、アメリカ大陸と日本を取りあげてきたが、この最終章ではそれを取っ払って自由に、見る人が『新しい現実だ』と思うような映画がN・Vだと定義してみたい」と述べています。
「(2)初期映画から」では、通常、リュミエール兄弟はドキュメンタリーで、『月世界旅行』(1902年)で知られるジョルジュ・メリエスからフィクションが始まったと言われますが、著者はメリエスにも彼なりのリアリズムの追求があると思うと述べます。それは自らのパフォーマンスで画面を満たすことでした。著者は、「その後の映画史は、チャールズ・チャップリンやオーソン・ウェルズ、ジャック・タチ、クリント・イーストウッド、北野武など監督兼主演の天才を何人か生み出すが、奇術師出身のメリエスはわずか3分ほどの映像を完全に支配し、パフォーマンスとしてのリアリズムを表現した」と述べるのでした。本書は、ヌーヴェル・ヴァーグという主題がありながらも、読者に「映画とは何か」という本質的な問いを抱かせてくれる名著です。