No.2499 読書論・読書術 『書物を楽しむ』 林望著(朝日新書)

2026.09.23

『書物を楽しむ』林望著(朝日新書)を読みました。サブタイトルは「あえて今、紙の本を読む理由」。著者は1949年東京生まれの作家・書誌学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は書誌学、国文学。『イギリスはおいしい』(平凡社/文春文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞、『謹訳源氏物語』(全十巻、祥伝社)で毎日出版文化賞特別賞を受賞。著書に『リンボウ先生 老いての楽しみ』(祥伝社新書)、『節約を楽しむ』(朝日新書)など多数。

本書の帯

本書の帯には、自宅の書庫に立つ著者の写真が使われ、「紙の本の利点、書店・古書店・図書館、書評の読み方・・・・・・リンボウ先生が徹底指南」「電子書籍なんて、まっぴらだ!」と書かれています。70年に及ぶご自身の読書遍歴についても言及。本書に登場する書名と著者名の一部を書き出すと、万葉集、源氏物語、伊勢物語、大和物語、今昔物語集、徒然草、宇治拾遺物語、平家物語、日本名山図会、世阿弥、兼好法師、田中冬二、川本三郎、長井荷風、西脇順三郎、佐藤春夫、夏目漱石、森鴎外、丸谷才一、池波正太郎、江戸川乱歩、藤沢周平、大藪春彦など。

本書の帯の裏

帯の裏には、以下のように書かれています。
「電子書籍の7つの大罪」とは?
 リンボウ先生、大いに語る
○私の読書に対する信念は
 「書物は買って読め」ということに尽きる
○電子本が「書物としての本」に
とって代わることはない
○電子書籍は途中でプツッと
電源が切れてしまえばそれっきり
○まったくナンセンスだと
痛切に感じているのがデジタル教科書
○付箋や傍線や書入れが
自分の読書の足跡となっている
○若いときに読んだ本を再読三読する楽しみ
○読書量と人格は関係なし
○読む価値のある書評について
○源氏物語から大藪春彦まで、
 リンボウ先生の愛読書リストも

アマゾンより

カバー前そでには、「読書をきちんと経験した人、読書の楽しさを知っている人たちにとっては、電子本は、しばしばフラストレーションのもとになります。」として、「もし電子本を読むとしても、スマホではだいいち小さくて目が疲れるし、タブレットでは重くて手が疲れる。とても文庫本を寝ころんで読む快楽と同じにはなりません。つまり、本というものは、その形、存在のすがたが千年を超える長い長い歴史のなかで完成されてきた世界なので、それをたかだか数十年の電子ものがとって代わることは想像すらできません」と書かれています。

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
書物を手に――序に代えて――
1章 活字は紙に限る
2章 電子書籍の7つの大罪
3章 本は捨てないほうがよい
4章 古書の味わい、書店の思い出
5章 図書館との付き合い方
6章 書評との付き合い方
7章 読書の楽しみを見出すまで
8章 私の愛読書
書後に

1章「活字は紙に限る」の「じっくり向き合う楽しみ」では、紙の本には、そこに実在するモノ(オブジェクト)としての楽しさがあると指摘し、著者は「手触り、紙としての質感、新刊や古書の匂い、重さ、装訂のデザイン、古書ならばそれが何十年か生き残ってきた歴史の痕跡、写本なら墨で書かれた文字の個性や美しさ・・・・・・そういう『味わい』が紙の本には在るということの結果として、ずっと座右に置けば、そのモノとしての存在感が、いろいろと私に話しかけてきます。また、ちょっと角度を変えると、本は手に取って読むに従って、いろいろな書き込みなどをして、自分の『手垢』・・・・・・言い換えると『読んだ証し』が付いてくる。そうなってからが、本は、ほんとうの『我が物』になっていくのです。読書というのは、そういう営為全体を含めたことがらなのだと、私は思います」と述べています。

2章「電子書籍の7つの大罪」の「大罪1 手触りやデザインが楽しめない」では、電子本には「装丁」「書姿」というものがないと指摘します。人間は、「ものの形」に執着を持つもので、だからこそ、家でも車でも、あるいは道具類でも、魅力ある形、手触り、使い勝手のよしあし、というようなことに並々ならぬ執着を感じて、どうせ同じような内容・コンテンツなら、デザインの良いものを手にしたい、あるいは本についていえば紙質のよいものを持って読みたい、そんな意識があるものだといいます。とくに日本人は、その書姿に対する希求・執着が著しい民族だということを、ぜひ指摘しておきたいとして、著者は「この、本を手に取るという行為・・・・・・、肌触り、紙の感じ、活字のスタイル、それらがみんな本の味わいで、日本人はとくに、『この本、デザインがいいなあ』とか思う。それが紙の本の価値でもあるのです」と述べています。

『本の読み方』(産経新聞出版)

また「大罪5 “育てる”ことができない」では、紙の本にいろいろ線を引いたり、書き込みをしたりして、大いに汚しながら読んだらいいと述べます。そうして読書の供に、付箋(ポストイット)のようなものを常に持ち、自分の読んだ所感を文章の上に投影して、印象を形に残しながら読んでいく。それがほんとうの読書だと、著者は訴えます。このあたりは、拙著『本の読み方』(産経新聞出版)のメッセージと同じです。わたしは、本を読みながら赤のボールペンで傍線を引くのが習慣です。わたしの読書に赤線引きは欠かせません。その理由は、その本のどこが重要なのかがわかってくるからです。なぜ線を引くのか。その理由は、主に次の2点ではないでしょうか。①あとで読み返すときに、その箇所だけを読めばいい②どの部分に線を引けばいいのかを考えることで、より深く内容の強弱を捉えられる。というわけで、著者の意見には深く共感しました。

3章「本は捨てない方がよい」の「手持ちの本を再読する楽しみ」では、著者の書庫には、24時間常時運転している除湿器が2台設置してあり、地下書庫の本が湿っけないようにしていると書かれています。また、和本の場合は、虫に食われたりしないように、防虫香というものを入れて桐箱に収めるなどの工夫をするほか、大切なものは定期的に虫干しするなり、できるだけページを開いて読むことで、空気を入れるのが、虫よけにもなるというわけで、折々に古い本を書斎に持ち出してきては読むということをしているとか。著者は、「それでも本は増え続けるので、もういっぱいになってしまっていますが、その不足は他の部屋にも書棚を作り付けて分散するということもし、さらには、どう考えても不要になってきた本は古書店に買い取ってもらったりしています」と述べるのでした。

「人生その時々に読みたくなる本」では、突き詰めていくと、日本文学の根底にあるのは和歌だといいます。たとえば、能楽もその基本は和歌的詞章であるとして、著者は「その脳の源泉ともなった『源氏物語』や『平家物語』も、もちろんのこと、『伊勢物語』も『大和物語』も、その基底には和歌がある。私たちのご先祖がたは、常に『和歌的発想』を以て物事を見ていたと言っても過言ではありません。自然の季節感、四季折々の行事、恋愛のありよう、そうしたことはみな和歌の世界の約束事になっていて、たとえば『万葉集』にも、そのあらゆるものが入っています。恋の喜びや苦しみの心は相聞歌に、人の死を悼み悲しむ心は挽歌に、そういうカテゴリーのなかでも、常に四季折々の風物が意識されている。それも日本文学の『姿』です」と述べています。

ちょっと変わったところでは、『万葉集』には「防人歌」のような徴用兵士としての日々を歌った歌、また故郷に残される家族の歌、「東歌」のように、今でいう「民謡」が和歌の形に固定されたものもあり、上は天皇から、下は無名の民草に至るまで、あらゆる階層の男も女も、こぞって歌を詠み交わし、歌に心を投影してきました。「挽歌」であれば、たとえば柿本人麻呂の挽歌は有名で、胸を打つ哀しみに満ちています。また、大伴旅人が人生を共にしてきた妻を失ったときの挽歌について、著者は「1300年後の私どもが読んでも、本当に心打たれます。そういう普遍的な喜怒哀楽の表現に、私どもの民族的アイデンティティを感じます」と述べます。

「経験を経てから本を読み直す」では、いまでこそ、世界的な名作として声価をほしいままにしている『源氏物語』などでも、滅私奉公式の国家主義に凝り固まった人からみれば、「『源氏物語』のようなものは色恋にかまけた貴族的な世界の軟派文芸で、あんなものは青少年に読ませるのはよくない」と断じたことだろうと、著者は推測します。事実、明治の帝国大学などでは、そういう偏見が横行していたというのは事実だといいます。つまるところ、何かの思想や宗教などに囚われていると、やはり文学のいいところを読み落とすことになると指摘し、著者は「だから、一定の思想などに囚われることなく、自分自身の生な人生経験と感情とに照らしながら、自由な精神で読んだときに、文学ははじめてその深みや味わいを感じさせてくれるのです。そういう文学のエッセンスを、本居宣長は『もののあはれ』という言葉で代表せしめたものでしたが、これは砕いていえば、『心や魂が、アアッと深く感じる心』というほどの意味です。文学は理屈ではありません。心を描くものが真の文学だ、とそんなふうにも言えるかと思います」と述べるのでした。

4章「古書の味わい、古典の思い出」の「書物の美術的な美しさ」では、現代はよろず世知辛くなって、本などもその装訂にかける手間ひまや費用を、もはや昔のようにはかけることができなくなった事実が紹介されます。たとえば、漱石や鴎外の時代の書物は、とくに文学作品の単行本のごときものは、たいてい名の有る美術家が装訂を担当して、重厚な布装に天金を配したりし、そしてほとんどは立派な貼り凾に収められていたものだったそうです。そういう凾入りの単行本などは、今はまずありません。著者は「私の本では、新潮社から出した『書藪巡歴』の初版本が凾入りでしたが、それは文学の凾入り本としてはもはや最後の最後のほうでしょう。しかし、書物はやはり存在としての美しさ、一種の美術品としての美しさというものが非常に大きな価値ではないかと思うのです」と述べています。

5章「図書館との付き合い方」の「本は図書館で借りて読むな」では、よほど深い感銘を受けた本の場合を除いて、人は読んだ本の内容を、時間とともに忘れていくことが指摘されます。しまいに、「さて、そんな本読んだことあったかなあ・・・・・・」という不確実な状態になるのが普通です。しかし、自分で買った本で読書した場合、その本は、毎日のように目に触れることになる。すると、たとえば「ああ、この本には、しかじかのことが書いてあったなぁ」と、過去の読書経験がリマインドされてくる。そのことが大事だとして、著者は「図書館で借りた本を読んだ場合には、その本を返すと、その瞬間に『読んだ内容』をも返却してしまう・・・・・・というのが実相です。なにしろ当該の本が身近に置いてあるわけではないので、1日1日とその本の読書記憶は薄くなり、失われていって、しまいにそんな本を読んだことすら忘れてしまうかもしれません」と述べています。また、「私だったら、そういう素晴らしい本は、衣食を節してでも自分のお金を出して買って座右に具え、毎日でも眺めていたいと思います。それが本を愛する者の、真実の思いです」とも述べます。

6章「書評との付き合い方」の「読書は一人ひとりのもの」では、読書には「動機(motivation)」というものが無くてはならないといいます。そうして、その動機は、すぐれて個人的なもので、たとえば敬虔で熱心なクリスチャンの人と、隠遁的老荘思想を愛する人と、読んで感銘を受ける、あるいは読むことが心の糧になる、という書物が同一なわけがありません。それは、若い人と中年・老年の人だってまるで違う読書希求を持っているだろうし、男と女でもはなはだ興味の持ち方は違うと指摘し、著者は「そういうことをぜんぶ抜きにして、世の中のすべての人にとって、『読むべき本』などを想定しうる筈はない、というのが私の基本的立場です」と述べています。

「万人に薦める本はなし」では、戦前の旧制高校なんかでは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」などと言って、それらはみな青年の必読書だと喧伝されていました。では、それらはどこまで役に立ったのかというと、はなはだ疑問であるといいます。いっぽうまた、著者たちの学生時代、すなわち昭和3、40年代時分は、「サルトル」「サルトル」とか言って、「実存主義」大流行の時代でした。じっさいサルトルが来日して大学などで講演もしたりして、それはもう盛大なものでした。著書も、流行に脅迫されて多少読んでみたそうです。原語フランス語では読めないので、日本語訳を読んだそうですが、まあ何を言っているのかさっぱり理解できないへんてこな文章だったといいます。

時移って、今では「実存主義」という言葉もさっぱり聞かなくなりました。だから、そういうのは一種の「流行」に過ぎないと著者は述べます。同様に、曰く構造主義、曰くポスト構造主義云々と、海の向こうから流行の思想が伝来します。けれども、それらは自分の人生にはまるっきりなんの関わりもないとして、著者は「明治以来、西洋のほうから来たものを、みな偉いものだと思って崇拝する。崇拝するのも感激するのも自由ですが、たまたまそれを読んだからといって、それゆえ自分は偉いと勘違いして吹聴するってのは、ちっとも感心したことではありません。それより、各自が1人ひとりの人生の中で、『こういう本を読みたい』と感じた1冊をじっくりと熟読し玩味し、またそこから独自の考察を廻らしなどして、『この本には、いいことが書いてあったな』と思えば、それはその人にとっての、心の血になり肉にもなるのです」と述べます。

「読む価値のある書評について」では、よき書評というのは、やはり1つの条件としては、書評を読んだ後、すぐにその本を読みたくなる、ということがあると指摘します。わたしも、まったく同感です。著者は、「いやいや、そういう「お奨め」のためにレビューというのはあるのです。新しい本の欠点をあげつらい、意地悪く批判をするためにあるのではありません。基本的には肯定して推挙するけれど、「さらに言えば」というような、きちんとしたスタイルが、有名なイギリスの『The Times』紙の書評にはあるというのが丸谷さんの意見でした。丸谷さんは、そういうきちんとした書評を日本にも根付かせたい、そう思っておられたようでした」と述べています。

7章「読書の楽しみを見出すまで」の「読書と無縁の小中学校時代」では、著者の家は読書人の家系で、父親の兄弟はみな大学で歴史や国語を教える職業についていたことが明かされます。著者の祖父ももともとは海軍の軍人でしたが、ほんとうは文学に心を寄せていた人であったようです。著者は、「祖父の家に行くと、鴎外や漱石など、立派な文学全集がずらりと本棚に並んでいて、また祖父自身も退役後は国語の先生となって、川村女学院で教えたりしていたのでした。祖父は漢文の素養も深く、漢詩文の書物、それも江戸時代の木版本などもあれこれと書棚にあり、それらの漢籍には、祖父の筆でいろいろな書き込みが残されています。祖父の没後、その旧蔵書の一部分は私が引き取り、いまも私の書庫に大切に保管してあって、折々に眺めては、祖父の懐かしい筆跡の書き入れなどを読み返したりしています」と述べています。

8章「私の愛読書」の「読書に貴賤なし」では、かねてから著者は「読書というものに貴賤はない」と信じていることが明かされます。世の中では、大衆文学と純文学、みたいな階級分けが蔓延っていて、純文学は偉い、大衆文学は娯楽だからくだらない、というようなふうに思い込んでいる人もいるかと思いますが、それは大きな間違いだとして、著者は「文学には貴賤などありません。1人1人本をよむ動機が違うように、1人1人その生活の苦楽が違うように、したがって何を読みたいか、あるいは何を読んで感銘を受けるか、あるいは読んでなにも感じないか、そこはみな個人個人の世界ですから、大衆文学が多くの読者に喜ばれているということは、それ自体充分に尊いこと、たとえノーベル賞を取った作家だからとて、読んでもなにも感じない人だって大勢います。そういう人は別に程度が低いわけでもなく、たまたまその作品を読むべき内的必然をもっていなかったというだけのことです。私にとっては、大江健三郎も川端康成も、まったく縁なき衆生です」と述べています。

「古典の突破口を見つける」では、古典はなぜ古典と成り得たのかという問題が語られます。古典だって、その書かれたときは新作であって古典ではありませんでした。つまり書かれた当時はどんな作品でも「現代文学」にほかならなかったのです。けれども、もしその作品が非常に面白くて、何度も読みたいと思ったり、あるいはどうしても人にも読み聞かせたいと思ったりした場合には、人から本を借りて、自ら写本を作って座右に備えておいたことでしょう。しかし、もしつまらない作品だったら、それはもう読み捨てられてわざわざ写本を作ったりする人はいないわけです。著者は、「そうやって文学は『新作』が時とともに淘汰されて、良いもの、有益なもの、つまりなんらかの意味で、残す価値のあるものだけが時間のなかを生き抜いて後世に残っていくことが許される・・・・・・その結果、時の淘汰を経て生き残った作品だけが古典という桂冠を被ることを得るのです」と述べます。

『源氏物語』はやっぱり非常に難しくて手ごわいとして、著者は「もし古典を読み慣れていない場合は、いきなり源氏は無理かと思います。それは高尾山しか登ったことがない人が、いきなりエベレストに突撃するようなもので、たぶん跳ね返されてしまうでしょう。やはりすこし足慣らしのような段階を経てから源氏には挑むほうがよいかもしれません」と述べます。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』のような、説話集と言われるものはおすすめだそうです。珍しいエピソードの集積で、お化けの話や狐・狸の話、色恋ものなどさまざまあって、読んでいて面白いからです。わたしも小学生の頃に最初に読んだ日本古典文学は『今昔物語集』でした。芥川龍之介の短編小説の元ネタになっていることを知って読んだのですが、とても面白かったことを記憶しています。

まず古語で書かれたおとぎ話のようなもので、文法的にも易しいし、構造が単純で理解しやすいのでお奨めするとして、著者は「まず、そうしたものから取りついていくと、古文といっても同じ日本語だということが分かってきて親しみやすく、自然と文法なども身について読みやすくなりましょう」とアドバイスします。「『平家物語』は講釈と同じ」では、読むのに易しく愉しいのは『平家物語』であるとして、著者は「なにしろ、高校生の私が、誰に教わることもなく、独り日本古典文学大系の本を開いて、その注釈だけで、一夏で読み切ったくらいですから」と述べるのでした。本書は無類の本好きであるリンボウ先生が書物や読書についての思いや考えを話し言葉で述べていく、非常に読みやすくて楽しい読み物でした。わたしも本好きなので、こういう本が大好きです!