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2015.05.20
『永遠回帰の神話』エリアーデ著、堀一郎訳(未来社)を再読しました。
本書には「祖型と反復」という副題がついています。『唯葬論』や『永遠葬』の資料として、ここ最近は20世紀を代表する宗教学者であるミルチャ・エリアーデの主要著作を再読していたのですが、わたしが生まれた1963年に初版が刊行された本書の内容が最も参考になりました。訳者の堀一郎は宗教学者として東京大学宗教学科などの教授を務めました。柳田國男に師事し、その三女と結婚しました。宗教民俗学を提唱し、日本民俗学会代表理事を務め、エリアーデを日本に紹介したことで知られます。
わが書斎のエリアーデ・コーナー
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はしがき」
第一章 祖型と反復
第二章 時間の再生
第三章 不幸と歴史
第四章 歴史の恐怖
「訳者あとがき」
「用語解説」
「参考文献」
「索引」
わが書斎のエリアーデ・コーナー
エリアーデといえば、「中心のシンボリズム」で知られますが、さまざまな存在物には「中心」の栄誉をになうとする信仰があるとして、そのシンボリズムを以下のように整理しています。
1.聖なる山―ここにおいて天地が相会う―は世界の中心に位する。
2.すべて寺院や宮殿―さらに拡大してすべての聖都や王の住処―は聖山であり、従って中心となる。
3.大地の軸(axis mundi)にあるゆえに、聖都、寺院などは、天、地、地下界の接合点と考えられる。
エリアーデは、この「中心のシンボリズム」が西欧世界において、近代の初め頃まで残っていたとしています。世界像(imago mundi)としての寺院に関する古い観念、すなわち神殿はその本質として宇宙を模造しているという考え方は、ヨーロッパにおけるキリスト教の宗教建築物の中に入り込みました。紀元1、2世紀のバジリカは中世の大聖堂のように天上のイェルサレムを象徴的に再現しています。エリアーデによれば、山のシンボリズム、昇天のシンボリズムおよび「中心への探究」のシンボリズムに対すると同様に、これらは明らかに中世文学に証明されるし、また近世のある種の文芸作品にもあらわれているといいます。
この「中心のシンボリズム」を唱えるエリアーデは、「宇宙創造の反復」について以下のように述べています。
「中心は何よりも聖域であり、絶対的実在の地である。同様に他のすべての絶対的実在の諸象徴(生命と不死の樹、若さの泉、等々)もまた『中心』に位している。この中心に導かれる道は『苦難の道』であり、その困難さは、その実在のそれぞれの高さによって実証される。即ち寺院の困難な渦巻階段(ボロブドゥルにおける如き)、聖所巡礼(メッカ、ハルドワール、イェルサレム)、黄金の羊毛、黄金のリンゴ、生命の薬草を求めての英雄的冒険の危険を乗り越えての旅、迷路のさすらい、自我完成の道、自己存在の中心への道の探究者の苦難、等々である。この道は骨の折れる、苦痛にみちみちたものである。なぜならそれは事実上、俗から聖への通過儀礼であり、はかなく幻の如きものから実在と永遠性へ、死から生へ、人から神への通過儀礼だからである。中心に到達することは、清め、加入式に等しい。俗的で架空の存在は新しい存在へ、真実にして永続し、かつ効果ある生命へと場を変えるのである」
天地創造のわざは、あらわでないものからあらわなものへ、宇宙論的にいうならカオスからコスモスへと推移します。そして、聖都(世界の中心)のシンボリズム、古代における建築儀礼などを考える上で、エリアーデは以下の2つの重要な命題を示します。 1.いずれの建造も、すぐれた宇宙開闢のわざ、世界創造を反復すること。 2.従って建立されたものは何ものでも、その基礎を世界の中心に持つ。 (われわれも知る如く、天地創造はそれ自体中心から起こったゆえに)
「宇宙創造の反復」は建築だけでなく、儀礼もそうです。いずれの儀礼にも神的なモデル、祖型があるとして、エリアーデは以下のように述べます。 「すべての宗教的行為は、神々、開発英雄、もしくは神話的祖先によってその基礎が定められたと主張されるのである。未開人の間では、儀礼だけがこうした神話的モデルを有するのではなく、あらゆる人間の行為が神、英雄、もしくは祖先によって太初の時にあたってなされた行為を、どの範囲まで正確に『くり返す』かによって、その効力が護られるとされる事実を、このついでに注意しておく必要がある」
エリアーデは、結婚式にも神的モデルがあると指摘しています。 人間の婚姻は神婚、さらに正確には天地の結合を再現するというのです。 キリスト教の結婚式では花婿が「私は天、そして汝は地なり」と言うそうですが、古代インドのヴェーダ時代においてさえ、花婿と花嫁は天地と同一視されていたといいます。エリアーデによれば、結婚式のひとつひとつの手ぶりは神話時代の原型によって正当化されるそうです。
結婚式の神的モデルを指摘したエリアーデは、さらに次のように述べます。 「ここで強調されねばならぬのは、これらすべての婚姻儀礼の宇宙開闢的構造である。それは単純に天地の間の神婚といった模範的モデルを模倣するという問題に止まらない。この神婚、即ち宇宙創造の結果について主要な考察が払われているのである。ポリネシアで不妊の女が受胎を願うとき、『そのときにあたりて』大神イオによって大地に横たえられた最初の母(原母神)の模範的モデルを模倣するのは、このためなのである。逆に離婚の進行過程には、『天地の分離』をいのる呪文がとなえられる。婚礼の際に宇宙開闢の神話が儀礼的に読誦されることは多くの民群の間で行なわれている」
宇宙神話は婚姻のときだけに用いられるのではありません。 すべての儀礼において、模範的モデルとして用いられるのです。これは世界創生神話が、治療、受胎、誕生、農耕儀礼などに関連して読誦されるゆえんなのです。天地開闢は何にもまして創造をあらわすものなのです。
またエリアーデは、「天地創造の周期性」について指摘し、以下のように述べています。
「世界の創造は年ごとに更新される。アラーは創造を成就し、かくてこそくり返す。この宇宙開闢のわざを永遠にくり返すことは、正月ごとに1つの時代の開始へと変化せしめることにより、死者に生命を返還することを許し、信者たちに肉体的復活の希望をつながせる。われわれはやがて正月行事と死者儀礼との関係に立ち戻ることとするが、殆どいたるところで死者が正月の時季に(クリスマスと主題祭との間の12日間)、その家族のところに帰ってくる(そしてしばしば『生きている死者』として帰ってくる)という信仰は、この点で、時間の撥無がこの神話的瞬間においては可能であり、そこで世界は破壊され、さらに再創造されるとの希望をあらわすのである。死者はこの瞬間においてこそその家に帰ることが出来るのだ。なぜなら、死者と生者をへだてている一切の障害はとり除かれる(これは原初のカオスを再現することにはならないのであろうか)からであり、そして死者はこの矛盾的瞬間において時間は一時保留され、従って生者と再び同時代人となり得る故に帰り来るのである。その上、新しい創造はやがて準備されるから、死者は継続し具体化し得る生命への復帰を希望し得る」
エリアーデは、ほとんどすべてのインド・ヨーロッパ社会で残っている正月の神話、儀礼の類似形態が日本文化の中にも見出せるとして、以下のように述べています。 「日本では、ドイツ人(及び他のインド・ヨーロッパ民群)の間におけるように、一年の最後の夜は、葬送用動物(馬など)の出現と、地下的葬送の男女神の出現によって特徴づけられる。そこで秘儀集団の仮面行列が行なわれ、死者が生者を訪問し、イニシエーションがとり行なわれるのである」 エリアーデによれば、このような秘儀の歴史は日本では非常に古く、東方のセム人の影響とか、インド・ヨーロッパ起源といった推定は禁物としています。ユーラシア大陸の西方でも東方でも、神々、死者の霊魂などの「来訪者」の儀礼複合は、歴史時代以前に発達したものだそうです。これは正月行事の古代性をよく確証するものであると言えるでしょう。
ところで、古代人たちは「時間の再生」という概念をどうやって得たのか? エリアーデは、月信仰が「時間の再生」に気づかせたとして、述べます。
「単純文化人にとって、時間の再生は連続して成就される―すなわち『年』の合間のうちにもまた―ということは、古代的な、そして普遍的な月に関する信仰から証明される。月は死すべき被造物の最初のものであるが、また再生する最初のものでもある。私は別の論文で、死と復活、豊饒と再生、加入式等々に関する最初のまとまりのある教説が組織づけられるのに、月の神話が重要であることを論じた。ここでは月が事実、時間を『はかる』のに役立ち、月の面が―太陽年の久しい以前に、しかもさらに具体的に―時間の単位(月)をあらわすのであるから、月は同時に『永遠の回帰』をあらわすのだ、ということを想起すれば十分である」
月について論じた『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』
そう、月は「永遠回帰」のシンボルなのです。 この月の思想は、1991年10月に上梓した『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』(国書刊行会)の内容に多大な影響を与えました。 エリアーデは、さらに月について以下のように述べています。
「月面―出現、増大、虧衰、消滅、三日の暗黒の夜ののち再出現とつづく―は循環の観念の発達に大きな役割を演じた。われわれは同様の観念を特に古代の黙示録や人類起源説に見出す。大洪水、すなわち大水が衰えた罪ふかい人類に終焉を与え、そして新しく再生した人類が通常この破局を遁れた神話的『祖先』から、もしくは月の動物から生れる。これらの神話群の層位学的分析は、その月的性格を明らかにしている。このことは、月のリズムが短い合間(週、月)をあらわすのみならず、さらに拡大された、連続に対する祖型として役立つことを示している。事実、人類の『生誕』、その成長、衰老、及び死、は月の循環と同化される。この同化が重要であるのは、ただに月の普遍的生成の構造を示すからだけでなく、その楽天的な結果のゆえである。というのは月の消滅は必ず新月がついで現れるゆえに、決して終末的でないように、人間の死も決して最終的なものではない。特に全人類の死滅(大洪水、大水、大陸の沈没その他)でさえ、決して全体的破壊ではなく、新しい人類が1つがいの残存者から生れ出るからである」 ここに書かれているエリアーデの考え方は、わたしが葬送儀礼イノベーションとして推進している「月への送魂」に反映されています。
ところで、本書には歴史哲学を唱えたヘーゲルについても言及されており、「時間の再生」について考える上で非常に興味深かったです。 エリアーデは、以下のように述べています。
「ヘーゲルの事物は本性において、それ自らを永遠にくり返すと確信し、『太陽のもと新しき何物もなし』といった。われわれが今まであきらかにしてきたすべてのことがらは、古代社会人の持つ同一観念の存在を明確ならしめるものである。彼等にとっては、事物はそれ自ら永遠にくり返されるのであり、太陽の下には新しき何物も起りはしない。しかしこのくり返しは1つの意味を持っている。すなわちそのことのみが事件に真実性を与えるのである。ことがらは祖型―模範的出来事を模倣するゆえ、自らくり返す。その上このくり返しによって時間は中断され、もしくは少なくともその毒性が消される。しかしヘーゲルの観察は別の理由で意味がある。すなわちヘーゲルは歴史哲学を樹立すべく努力し、このなかで歴史的事件は逆転不能であり、自律性を持つが、それにもかかわらず自由の余地をのこす弁証法に場を与えとした」
「訳者あとがき」で、堀一郎は本書について以下のように書いています。
「私はこの『永遠回帰の神話』に、著者の意図した古代文明人や伝承文化人の抱懐してきた歴史観や宇宙観に対する透徹した新解釈、またそれをもってヘーゲル以後の直線的歴史観に根ざすマルキシズム史観と絶望的実存哲学に勇敢に立ち向い、ヨーロッパに新しいキリスト教的な救いを与えようとする著者の理論と情熱に深い敬意を寄せるものであるが、それと同時に、本書は、私が久しい間問題として抱いてきた、『民間伝承』なるものの、極めて根強く、社会の変革に堪え、また久しき時間の流れに堪え得てきた持続性と継承性の解明に、1つの光を与えるものとして、高く評価され得るものと思う」
ちなみに日本を代表する宗教民俗学者であった堀一郎の主著は『民間信仰』という本です。『永遠回帰の神話』と同じく、わが愛読書です。