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2016.01.05
『ゆがめられた地球文明の歴史』栗本慎一郎著(技術評論社)を読みました。
著者は、かつて山口昌男氏とともに「ニューアカ」の兄貴分として活躍した経済人類学者です。1941年、東京生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。奈良県立短期大学、ノースウエスタン大学客員教授、明治大学法学部教授を経て衆議院議員を二期務めました。1999年、脳梗塞に倒れるも復帰し、東京農業大学教授を経て、現在は有明教育芸術短期大学学長です。著書に『経済人類学』(東洋経済新報社)、『幻想としての経済』(青土社)、『パンツをはいたサル』(光文社)などがあります。
わが書斎の栗本慎一郎コーナー
本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「私たちはこの世界でいかにして生きてきたのか? 文明という『病』はいかにして生まれ、蔓延していったのか?南シベリア、スキタイ、パルティア、カザール、キメク汗国・・・従来の歴史が見落としてきた『この地上で起きた本当のこと』をユーラシア全土に視野を広げて考察する、栗本経済人類学の精髄が凝縮された衝撃の一冊」
著者は、1981年に発表したベストセラー『パンツをはいたサル』以来、人間社会の根底にある過剰と蕩尽の構造を解き明かし、警鐘を鳴らしてきました。本書は、そんな著者が自らのライフワークの集大成として世に問う”パンサル版”世界史の真実と呼べる一冊です。”世界四大文明”に象徴される歴史教科書の「通説」のなか、ゲルマン民族と漢民族中心の歴史観を打破し、埋もれてきたユーラシア大陸全体を俯瞰し、この地上で起きた本当のこと・文明という病の起源とその展開について壮大な規模で自説を述べています。まさに、栗本経済人類学の精髄が凝縮された一冊であると言えるでしょう。
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに「歴史の真実を知りたい人のために・・・・・・」
第1章 始まった栄光と苦難の道
第2章 移動と遊牧と宇宙観と文明の本当の始まり
第3章 世界史の柱・西ヨーロッパ
第4章 「遅れていた」地域・西ヨーロッパ
第5章 アジアの共生的「発展」
著者は、はじめに「歴史の真実を知りたい人のために・・・・・・」において、「本書は、最初から真実を求める人のためにだけ、この地上で人類に本当に起きたことの流れを示しておく本である。『政治的真実』を求める人、それにだまされやすい人には全く向いていないものである」と述べています。
著者は、歴史学上の嘘っぱち説として、以下のような例をあげます。
1.ヨーロッパは、唯一一神教であるキリスト教精神を基盤にして生まれた。
2.ヨーロッパにはゲルマン人のほかケルト人なる民族もいた。
3.キリスト教は、パレスチナのイエスが独創的に作った宗教である。
4.安定した社会は内部から自然に発展し、そこに市場、貨幣、交換も生まれる。
5.アジアことにシベリア・満州(もちろん日本も)は、歴史の動きの単なる周辺部である。アジアとヨーロッパの歴史は連動していない。
6.アジアは、漢民族中心の国家や文明を中心軸にして発展してきた。
7.日本列島はアジアの大きな流れと無関係な歴史を持ってきた。そして19世紀まで「発展」はなかった。
第1章「始まった栄光と苦難の道」の冒頭では、「文明なのか、文化なのか」として、著者は以下のように述べています。
「われわれが文明と呼んでいるものは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられているものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という」
著者は、さらに文明について以下のように述べます。
「文明とは時間的にも地域的にもある程度の限定があるものだ。たとえば、ローマ文明の概念や成果の中に中世や近代のイタリア文化は含めない。
もちろん、現代イタリアにローマ文明の影響があるのは当然だがそれは別問題だ。また、日本文明という言葉が使われないのは、文明と言うには日本文化の根付く地域が狭すぎるし、日本文化がある一定の期間にだけ特別の性格を持ったということが認められないからである。
つまり、地域的にはまとまりが小さすぎ、かつ時間的にまとまりがなさすぎるから文明とは言わない」
では、「文化」のほうはどうなのか。著者は述べます。
「一方、文化のほうは、むしろ、広がりよりもまとまりや深まりを持つもので、かつ時間的には文明より長く、時には永遠に続くものだ。日本文化という場合、明らかにそうであろう。その場合、もちろん、重要な要素は変化変容することもあるが、いくつかの重要な要素は不変であることが多い。だから、日本文化は世界的にも顕著な根強いものとして存在するのだ」
さらに著者は「骨格が集団の価値判断のシステムであるべき文化(これが文化の基本定義だ!人が作り出したものがすべて文化だというのは幼稚園的定義である)というものについては、ローマに関してもこれまでの歴史家の提供したものはお粗末に過ぎる」と述べています。
著者は、単発の文明についても以下のように述べています。
「結局、古代中国、インダス、エジプトの古代文明は地球上に起きた単発文明の1つであった。後に繋がらない単発文明なら、アトランティスを取るまでもない。あちこちにたくさんあって、今後も地球のどこかで眠っていたものがたくさん見つかっても驚いてはいけないだろう。驚くべきものは、物と人に満ち溢れ、住む場の地球さえ壊しそうになっている現代へと導いた『一種の病』である文明の発端である」
文明と経済は切っても切り離せません。
「経済の誕生」についても、著者は以下のように述べています。
「アリストテレスは貨幣や価格(物の等価)が交換のなかから自然に生まれるものではなく、神聖な(とそこで想定される)権威によって決められることを見つけ出した。後に近代ドイツの社会学者マックス・ウエーバーもあいまいながらそこに注目している。経済人類学者カール・ポランニーはアリストテレスの学問的役割を含めてその全体を確認したのだ。その後に発展していく経済におけるように市場と貨幣と交換があたかも最初から当然のごとく結びついているものではなく、それらは世界的市場経済が登場して貨幣の力で3つを統合する前はそれぞれ別々の存在だったのである。そしてこれがギリシア・ローマを経て更に西ヨーロッパをも経て世界市場経済につながったものだった」
第2章「移動と遊牧と宇宙観と文明の本当の始まり」では、「シルクロードなど存在しなかった」という驚くべき見解が示されます.
著者は、以下のように述べています。
「要するにシルクロードがあったという『嘘』は、漢民族が自分たちも西と交流接触していたと主張したいために19世紀から強く言い出しはじめた『嘘』である。昔からもちろん、その嘘は今日まで繋がる西への領土的野心にバックアップされている。漢民族よりもはるかに重要な役割を持って、東西交流のルート沿いに存在したチュルク人(現在の中国領にいるウイグル人、キルギス人、カザフ人を含む)の地に自分たちは古くから関係していたと言いたいだけのことだ」
続けて、著者は以下のように述べています。
「もっともシルクロードを言い出したのはそのころアジアへの植民地的野心がガチガチだったドイツの学者(兼情報屋兼、多分政治屋)リヒトホーヘンだったし、それに乗って1400年周期で湖がさまよっているなどと馬鹿な噂を商売ねたにして成功したスエーデンの探検屋あるいは幻想家(スヴェン・ヘディン)だった」
そのような壮大な嘘が成立するのかとも思いますが、考えてみれば、現代でも韓国が「従軍慰安婦」を、中国が「南京大虐殺」のような嘘を堂々と吐いているわけですから、ありうることかもしれません。
著者は、以下のように現代文明のルーツについて述べています。
「人類は北アフリカからメソポタミアへ北上した後、コーカサスを通ってさらに北上、ついで西アジアの草原を経て南シベリアに至った。現代文明につながるものはインドや中国へもそこから拡散したのだ」
第2章の最後は、以下の一文で終えられています。
「シュメール、スキタイ(サカ)、ゲルマンといった節目節目を作った人びとはすべて西アジアの草原に深いかかわりを持った。そしていずれも文明という病を地球に拡大したのである」
第3章「世界史の柱・西ヨーロッパ」では、「パルティア帝国」という謎の大帝国が紹介されます。著者は次のように述べています。
「歴史の真の動因を形成したその大帝国とは、一応名前は知られているが基本的には謎の国である。重要な時期、重要な場所において500年に及ぼうとする長期(前247~後226年)にわたって存在したパルティア帝国であり、重要な民族とはその内部および周辺において従属的に活動していたゲルマン民族である」
パルティアは、ヘレニズム王朝の1つセレウコス朝から遊牧民パルニ族が独立して建てた帝国だった。だから元来、スキタイあるいはサカの一部だったと考えてよいとして、著者は以下のように述べます。
「パルティアの興る300年も400年も前から、パレスチナに近いバビロニアでは哲学的信仰集団マギ(原称マゴイのラテン語名称)たちが活動していた。イエスが自国のまだ未発達な段階だった初期ユダヤ教僧侶を批判するような程度のレベルで東方に布教することなど、まったくと言って良いほど考えられなかったのである」
このマギたちの伝統の中から幼稚なレベルのままローマ国教になったキリスト教の批判者として、宗教改革者であるマニが出現しました。マニの構築した宗教は、キリスト教におけるグノーシス派とブッダの思想を採り入れて作られました。つまり、キリスト教の教義上の矛盾を批判するものでもあったのです。このようなマニについて、著者は次のように述べています。
「かくのごとくマニははっきりした思想家であった。ゾロアスター(古イラン原名ザラシュトラ)もマニも、イエスと比べるとはっきり思想家たる要素を整えており、イエスは彼らと比べると田舎の現実説教家にすぎない。キリスト教の教義は彼の死後さまざまな要因で付け加えられて構成されたものである。そしてその隆盛は政治的な力によるものである」
続けて著者は、キリスト教の動きについて以下のように述べます。
「だから当然のごとく、このキリスト教は政治的にも思想的にも東からは押し返される構造があった。キリスト教が西へ向かわざるを得ない構造もまた、パルティア文化の存在があったからだった。何よりもキリスト教が生まれた時代そのものがパルティア帝国の時代だったことを忘れてはならない(が、みな忘れてはいないか)。このことは後のヨーロッパの発展に大きな意味を持ったことでもある」
第4章「『遅れていた』地域・西ヨーロッパ」では、4世紀になると西ヨーロッパには東方から移住してきたゲルマン人と北方から降りてきたゲルマン人とが入り混じり始めたことが説明されています。ヨーロッパ原住の人びととも混在しつつありましたが、ゲルマン人は政治的軍事的に力をつけてきたのです。この時期について、著者は以下のように述べます。
「この段階では当然、約1万年前まで生きていたと想像されるネアンデルタール人は全く姿を消しているのだが、1万年というのは10×1千年で、決して想像もつかない過去ではない。気候的にはウルム氷期が終わってアルプスの氷が次第に溶けていくころだ。紀元前3000年紀にはずっと東方の南シベリアにミヌシンスク文化圏が栄えている。初期の文明においては寒冷地のほうが人の生活に適していることも挙げられる。寒ささえしのげれば、凍った川での通行・移動は簡単で、食料の保存も利いたからだ。ネアンデルタール人、あるいはそれに続く子孫たちの存在を完全にゼロと決め付ける必要はないのではないか。もちろんこれは人類学的一般論に過ぎないが、一応触れておく」
ネアンデルタール人に強い関心を抱くわたしの心に、この一文が矢のように突き刺さりました。
また著者は、「全ての基礎となるヨーロッパ文化の二重性」として以下のように述べています。
「いかなる文化においても主流に敵対する反主流派はいるものだ。けれどもヨーロッパではそれが恒常的なものでかつ必然的なものになった。つまり、難しく言えば光に対する闇、衷心に対する周縁、明るい部分に対する暗闇の部分が常に存在するという二重性が固定化したのである。そして世界の他の地域に比べて、それが同一地域内に共存するという構造も確定された。もともとが非キリスト教徒ばかりだった地域にキリスト教のひとつの派閥(アタナシウス派)が一方的に唯一の正統派として持ち込まれたのだから当然である」
続けて、著者は以下のように述べています。
「そしてこのもともとの非キリスト教という部分が、単なる未開の状態だというのではないことがもう1つ重要な点なのだ。これもこれまでの歴史教科書が意識的に無視しているところで、『もともと』ローマにキリスト教をもちこんだ時の基になっている先進的なミトラ教の世界があったのである。ガリアやブリテン島に派遣されたローマ軍人の多くが紀元前2~3世紀からキリスト教に先行する先進宗教ミトラ教の意識的な信者だった。既述のとおり、ミトラ教は基本が太陽信仰でペルシアからユーラシアに広がっていた宗教であって、アケメネス朝ペルシアが出来るときにはゾロアスター教のもととなったし、当然のごとく体系的な宇宙観や教団組織も持っていて、パレスチナ時代のキリスト教などとは比較にもならない先進宗教だった」
第5章「アジアの共生的『発展』」では、「中央アジア北部の草原の文化がアジア、ヨーロッパに伝播」として、著者は以下のように述べています。
「そもそもここ10万年ほどの人類の文化は、いったん南シベリアに集まった人類集団が中央アジア西部草原での東西移動を主軸としながら、そこから満州や中国、さらにはインド、ペルシア、また戻って移動してはメソポタミアの文化文明を作っていったものである。カスピ海、黒海のすぐ西にはドナウ川の地域がある。そこは東ヨーロッパだ。その中でアジアが単独の動きをしなかったのは当然である」
また、ネアンデルタール人について、著者は以下のように述べます。
「一方、15万年前から3万年前という比較的新しい時代に生きたネアンデルタール人は一応われわれと違う『旧人』に分類される人びとであるが、その自然人類学の判断は間違っているかもしれない。彼らが絶滅したのか、実は一部『新人』になったのか謎が多い。3万年前というと明らかにわれわれ新人の直接の祖先と共存している時期であるから、何も交流がなかったとみることは出来ない」
「地球上の最重要地域を見逃してきた歴史学の愚かさ」では、著者は以下のように述べています。
「要するに、われわれ新人はネアンデルタール人をすべて絶滅させた(殺した)か、圧迫し殺戮をしたと見るのが自然である。ただし、彼らのうち山中や僻地に逃れた一部は独自の文化を築き、やがてわれわれと共生する隣人となったと考えることも不可能ではない。われわれ新人の先祖とは、おそらく交配可能だったわけで、その意味で完全抹殺があったとは言い切れないだろう。この研究はまだこれから展開されるべきことだろう。ヨーロッパのバスク人は、一部で自らネアンデルタール人の子孫を名乗っているが、そういうこともなくはないかもしれない。もちろん、今すぐそんなことを実証できるわけはないが。
いずれにしても、すでに全世界に広がっていたことが確実なネアンデルタール人の大多数に対する殺戮は間違いなくわれわれの『原罪』であり、集団的残虐性が引き起こした罪である」
拙著『唯葬論』(三五館)で、わたしはネアンデルタール人についてかなり詳しく書きました。「7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化した。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行なった。つまり『死』ではなく『葬』こそ、われわれの営為のおおもとなのである」というのが『唯葬論』のメッセージです。つまりは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えているのですが、これはじつは新人が絶滅させた「ネアンデルタール人への想い」だったのかもしれません。
どうやら「人類の歴史は、彼岸のネアンデルタール人たちによって支えられたいた」という考えがわたしの脳内に棲みついたようです。