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2016.01.16
『文化人類学の名著50』綾部恒雄編(平凡社)を読みました。
文化人類学を学ぶ上での基本文献を50冊取り上げて、解説しています。 編者は、日本を代表する人類学者の綾部恒雄です。 1930年生まれの彼は戦後、日本で文化人類学という学問を確立させ、生前、何百点もの著書や論文を残し、文化人類学の分野に多大な貢献をした人です。筑波大学名誉教授、日本文化人類学会会長などを務めました。2007年に腎臓がんのため死去しています。
本書は1994年初版ですが、その後も版を重ねています。 本書の目次構成は以下の通りです。
「はじめに」
1 草創期 文化人類学の古典
2 近代人類学の系譜
3 啓蒙的名著
4 構造主義・象徴論・生態学的思考
5 現代の視点
「索引」
わたしは『儀式論』執筆のための参考文献探しのために本書を読みました。 以下、本書で取り上げられている文化人類学の名著の解説文の中から、特にわたしが興味深く感じた箇所を抜書きしたいと思います。あくまでも読書メモとか備忘録のようなものですが、みなさんも関心を抱いてくれれば幸いです。なお、( )内は解説者の名前です。
●エドワード・タイラー『原始文化』(佐々木宏幹)
「タイラーのアニミズム論の重要部分を紹介することにしたい。彼によれば、アニミズムとは『霊的存在への信仰』 the belief in the Spiritual Beings を意味する。彼はこの『霊的存在への信仰』をもって宗教なるものの最小限度の定義であるとしているから、アニミズムは宗教そのものということになる。彼は『アニミズムは人類のきわめて低い段階にある諸部族の特徴であるだけでなく、その向上にともなって伝達の仕方が修正されることはあっても、始めから終わりまで断絶することなく高い現代文明のなかまで存続している』という」
「タイラーは『アニミズム』 animism の造語者であるが、この語はラテン語の『アニマ』 anima に由来し、気息・霊魂・生命を意味する。アニマは『生きていること』を示す語であるから、英語のアニマル、アニメ―ト、アニメーションの類語である。 タイラーは『アニミズム』によって、人間が神や死者、動植物、無生物などほとんどあらゆる存在に対して宗教的心意を示し、宗教的行動をとることの原初的な意味を根本的に明らかにしようとした。換言すれば彼は、人間のみがもつ『文化』の起源と発展・進化の過程を究明しようとしたのである」
●ジェームズ・フレーザー『金枝篇』(佐々木宏幹)
「呪術が人間の福祉のために自然の力を支配しようとする企てであるとすれば、呪術を執り行う者が重要で支配的な地位に就くのは当然であると考えられたからである。さて、王‐祭司‐呪術師の存在自体が共同社会(王国)の安寧および自然の運行を左右すると捉えられている場合、最も恐れられたのは、王の病気と老化である。それは全社会の衰頽と滅亡を意味するからである。そこで人びとは、王や祭司が老化したり病弱の兆しが見えてくると、彼を弑殺して新たに健康にあふれる若者を王に立て、社会の現状と自然の運行を再生させ、活性化させたのである。王殺し regicide の理由である」
●アルノルト・ファン・ヘネップ『通過儀礼』(綾部恒雄)
「『通過儀礼』という言葉は、今日の文化人類学、民俗学、社会学あるいは政治学や社会史などの分野において頻繁に用いられており、多少とも知的な人々のサークルでも、普段に利用される用語としての市民権を得ている。いうまでもなく、この言葉は本書のタイトルから来たものであり、ドイツ生まれのオランダ系民俗学・民族学者ファン・ヘネップの儀礼研究における天才的洞察力がもたらした優れた造語である。本書の出現以降は、儀礼研究を志す場合、通過儀礼的概念を措いて論議を展開することは難しいほどの古典的意義をもつようになった」
「ファン・ヘネップが、人間の年齢、身分、状態、場所などの変化や移行の際に催される儀礼に、この『通過』という概念を与えることによって明らかになった注目すべき発見の1つは、時間の経過や場所の移動をともなうそうした儀礼のほとんどすべてに、これまでの位置からの『分離期』、どっちつかずの中間の境界の上にある『過渡期』、そして新しい位置への『統合期』を表わす下位儀礼が観察されることを提示したことである。彼は、以前の世界からの分離の儀礼をプレリミネール儀礼 rites preliminaires と呼び、過渡期に執り行われる儀礼をリミネール儀礼、新世界への統合に際しての儀礼をポストリミネール儀礼と呼んでいる。ファン・ヘネップは、人生を解体と再構成、状況と形態の変化、死と再生の絶え間ない連続として、そして空間的な移動を、行動と休止、待つこと、休むこと、そして再び異なったやり方で行動を開始することの縁族として捉えた。また、そうした儀礼上の変化の起承転結には、超えていくべき新しい『敷居』(境界)があり、そこでは常に相対的に位置づけられる『聖』と『俗』の観念を軸に儀礼がもたれると考える」
●エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』(佐々木宏幹)
「デュルケームは聖/俗二分論に関係づけた儀礼論を組み立て、儀礼を大別して消極的儀礼と積極的儀礼とした。消極的儀礼とは聖と俗の二領域が互いに他を侵害することを防ぐための儀礼を意味し、それはつねに対象を回避すること、つまりタブー(禁忌)の形式をとる。この形式(タブー)は、人をして俗界から分離させ、聖界に接近させる。これに対して積極的儀礼は聖存在とのコミュ二オン、供犠、奉献などの行為により、聖なる力を高めるとともに集団の集合的感情を強化する。聖性高揚のための積極的な儀礼である。他面これら両儀礼は表裏の関係にあり、両者はしばしば同じ機能を果たすという。人は断食、禁戒、自己裁断などによって、コミュ二オンや奉献と同じ結果をうるからであり、また逆に供物、供犠はあらゆる種類の欠乏と放棄を含むからである」
●山口昌男『文化と両義性』(渡辺公三)
「2つの磁極として干渉しあいながら相転移してゆく生と知の軌跡を示す著作は、筆者の知る限りでもすでに40冊近い。それを表題に含まれたキー・ワードによって、例えば文化あるいは人類学の群、祝祭の群、知の群、神話の群、道化の群といったいくつかのクラスターに分けることもできそうに思われる。そしてこれに仕掛け、笑い、語り、舞台、即興、逸脱、気配、両義性といった、どこか通底しあう感性的なもう1つの語群を交差させ、天皇制を中心とした王権論、日本史のなかのバロック的な人物群、ロシア革命論、都市論、演劇論、政治論などの具体的な主題を照らし出す光源に転化すれば、ある『よろこばしい知』の空間の構造的な布置が浮き上がってくる」
●ヴィクター・ターナー『儀礼の過程』(黒田悦子)
「境界性(リミナリティ)とは、ある種の安定度を持った構造から次の構造に移行する時に、瞬時に生起する反構造(コミュ二タス)の時が持ちうる特性である。この典型例としてターナーは、ンデンプの首長任命儀礼を挙げる。首長が任命を受ける直前には、(1)匿名的状態、(2)従順と沈黙、(3)白紙の状態、(4)性的禁欲、(5)役職の公益性などが強く表現され、危険な反構造の状態が現出する。このコミュ二タスが顕著に現われたものとして、千年王国運動を挙げることができる。現代社会ではコミュ二タスはヒッピーや弱者の力として出てくる」
「境界性を表現する第一の儀礼は身分昇格の儀礼であり、第二は周期的・年中行事的な儀礼である。身分昇格の儀礼の典型例は、アフリカの即位式儀礼である。首長となる者は即位する前には共同体から隔離されて、辱めを受けるという地位逆転の儀礼がある。この儀礼では、構造上の弱者(例えば低い身分の者)が優位者であるかのように振るまうことが許される。子供が精霊の仮面を被って大人にもてなしを強要するハロウィーンもその一例である。また、アフリカの部族社会が自然災害によって脅かされた折に、女性が男性の役割を演じる儀礼もその例である。インドのホーリー祭でも地位逆転の儀礼が行われ、コミュ二タスが現出するが、階級組織を支える原理は転覆されず、むしろ強化され、村落生活の骨格は温存されていく。この例のあと、ターナーは南アフリカの黒人分離主義の教会や宗派の天国についての観念や、メラネシアのカーゴ・カルトを解説し、ここにも地位逆転の儀礼の要素を見出す」
●エリック・ホブズボウム『創られた伝統』(前川啓治)
「伝統が創り出されるのは古いやり方が通用しなくなったからではなく、故意に用いられなくなるからであり、まったく新たな目的のために、古い材料を用いて斬新な形式の伝統が構築されるのである。新たな伝統は旧来の伝統と容易に接ぎ木されたり、公式儀礼、象徴体系、倫理的勧告の豊富な宝庫から借り入れ、案出されたりするが、その特殊性とは歴史的な過去との連続性がおおかた架空のものだということである」
●べネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(太田和子)
「『国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である』という定義からとられた本書の題名『想像の共同体』は、それ自体人々の心をとらえて離さない不思議な強い喚起力を秘めた言葉であるが、『ナショナリズム』の起源を探るその手法のこれまでにない斬新さと鋭さは、1983年に本書が出版されるや否や、政治学はもとより、歴史学、人類学、社会学、経済学などの社会科学はもちろんのこと、文学や芸術の分野にまで大きな反響をよび起こした。今日、国家や国民、民族、エス二シティ、ナショナリズムなどを論ずる際に、本書に言及しない書物はないと断言してもよいほどにその影響力は大きい」
「最後にアンダーソンは、人はなぜ国のために死ねるのか、人々はなぜ『自らの想像力の造物』にこれほどの強い愛着を抱くのか、という大問題に挑戦する。この愛着の性質を理解するには、われわれがこれをどう表現しているかを思い浮かべればよいとアンダーソンはいう。母国、祖国、父国、ふるさと、わが大地など、たしかに、すべてが親族の語彙や自然のメタファーでみちている。そしてちょうど家族や親族が、自己犠牲や無私無欲、選択できぬ宿命的なものを現わしているように、ネーションという言葉の響きも『純粋性と無私無欲の霊気を帯び』て、『心からの自己犠牲的な愛』を呼び起こすのだ、と。だが同時にネーションは、もともと『血ではなく言語によって孕まれた』ことにより、帰化できる(ナチュラライズ[自然化])、出入りが可能という側面も持っている。言い換えれば、ネーションは『歴史的な宿命性』と『言語によって想像された共同体』という、閉じられていながらかつ開かれているという相矛盾する性質を秘めているというのである。そしてこの愛着の対象が『想像された』ものであるがゆえに、われわれは愛し続けるのだ、と」