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2016.01.21
『死を見つめる心』岸本英夫著(講談社文庫)を読みました。
「ガンとたたかった十年間」というサブタイトルがついています。 著者は1903年兵庫県明石市生まれ。東京大学卒業後、ハーバード大学留学。東大教授、東大付属図書館長を兼任。文学博士。1954年渡米中ガンにおかされ、激務のなかで10年間も闘病を続けましたが、ついに64年1月に逝去。本書はその闘病中の心の記録をまとめたもので、64年度毎日出版文化賞を受賞しています。著者は、『宗教学とは何か』、 『祭と儀礼の宗教学』の著者である柳川啓一の師であり、主な著作に『人間と宗教』などがあります。
本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「人間が死というものに直面したとき、どんなに心身がたぎり立ち、猛り狂うものか─すさまじいガンとの格闘、そしてその克服と昇華・・・・・・言語を絶する生命飢餓状態に身をおいた一宗教学者が死を語りつつしかも、生きることの尊さを教える英知と勇気の稀有な生死観。第18回毎日出版文化賞受賞」
本書の「目次」は以下のようになっています。
「序にかえて」増谷文雄
1 死に出逢う心がまえ
わが生死観
別れのとき
私の心の宗教
2 癌とのたたかい
アメリカで癌とたたかう
癌の再発とたたかいつつ
命ある限りゆたかに
3 現代人の生死観
生死観四態
死
現代人の生死観
人間と宗教
「あとがき」高木きよ子
「父の死生観」岸本雄二
「主人の思い出」岸本三世
「文庫刊行によせて」
本書にはいくつかのエッセイが収録されていますが、最初の「わが生死観―生命飢餓状態に身をおいて―」の冒頭でいきなり心を鷲掴みにされます。そこには以下のような一文が書かれています。
「生死観を語る場合には、二つの立場がある。第一の場合は生死観を語るにあたって、自分自身にとっての問題はしばらく別として、人間一般の死の問題について考えようとする立場である」 その後には、以下のように書かれています。 「しかし、もっと切実な緊迫したもう一つの立場がある。それは、自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合の生死観である」
著者によれば、この第二の立場の場合には、第一の立場には含まれなかったもう一つの激しい要素を加えているといいます。著者は述べます。
「それは、人間が健康で生命に対する自信にみちて、平安に日々の生活を営んでいる場合には、まったく、思いもかけない要素である。人間が、生命飢餓状態におかれた場合に現われてくる生命欲のはげしさである。生命欲は、生理心理的な一つの力である。いつでも人間の心の底に潜んでいるに相違ない。しかし、人間は、平生はそれをそのままでは感じない。それがいざとなると、猛然と、その頭をもたげて来る。そして、はげしい生への執着となり、死に対する恐怖となって現われる。この要素を加えると、人間の生死観は、何か質的にも別個のものになったかと思われるほど、第一の観念的な立場とは、ことなってくる」
著者のいう「生命飢餓状態」とは何か。
「死が目の前に迫り、もはやまったく絶望という意識が心を占有したときに、にわかに、心は生命飢餓状態になる。そして生命に対する執着、死に対する恐怖が、筆舌を超えたすさまじさで、心の中に起ってくる。このように生命飢餓状態というものは、生存の見通しに対する絶望がなければおこってこないというところに、大きな特徴がある」
さすがに宗教学者らしく、己の死を意識してもけっして感情的にならずに、著者はクールに自身の心を見つめます。そして、死を「別れのとき」と考えるという発想に至りました。著者は次のように書いています。
「死というものは、実体ではないということである。死を実体と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実体ではなくて、実体である生命がない場所であるというだけのことである。そういうことが、理解されてきた。生と死とは、ちょうど、光と闇との関係にある。物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。光がないというだけのことである。光のない場所を暗闇という。人間にとって光にもひとしいものは、生命である。その生命のないところを、人間は暗闇として感じるのである。 死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである」
また、「別れのとき」というエッセイには「死の恐怖に勝つ道」として、以下のように書いています。
「人間にとって何よりおそろしいのは、死後の世界があるか、ないかということより、あるかないかわからないままに、生命欲に圧倒され、無理に、あると自分にいいきかせて、なぐさめようとする、しかし、どうしても疑いがおこってきて、煩悶するようになることではないか。それが、いちばん悲惨ではないか。こう考えて、私は、どちらかにきめてしまえば覚悟がつくかもしれないと思った。そして、ひとつ、悪い方にきめてしまおうということで、死後の世界はないのだと心にきめた。あてにならぬことはあてにしない、ときめたのである。死後、極楽だの天国だのがあるという考えかたで自分を救おうとしないで、なくても耐えていくことを考えはじめたのである。死後のことはわからない、という建前のもとに、自分の生命欲、生命飢餓感とたたかってゆくことにしたのである」
「死への心の準備」には、以下のように書いています。 「人間は、長い一生の間には、長く暮した土地、親しくなった人々と別れなければならない時が、かならず、一度や二度はあるものである。もう、一生会うことはできないと思って、別れなければならないことがある。このような『別れ』、それは、常に、深い別離の悲しみを伴っている。しかし、いよいよ別れのときがきて、心をきめて思いきって別れると、何かしら、ホッとした気持にもなることすらある。人生の、折に触れての、別れというのは、人間にとっては、そのようなものである。人間は、それに耐えていけるのである。 死というのは、このような別れの、大仕掛けの、徹底したものではないか。死んでゆく人間は、みんなに、すべてのものに、別れをつげなければならない。それは、たしかに、ひどく、悲しいことに違いない。しかし、よく考えてみると、死にのぞんでの別れは、それが、全面的であるということ以外、本来の性質は、時折、人間が、そうした状況におかれ、それに耐えてきたものと、まったく異なったものではない。それは、無の経験というような、実質的なものではないのである。 死も、そのつもりで心の準備をすれば、耐えられるのではないだろうか」
「私の心の宗教」というエッセイの中の「打ちこんで生きる」にも、前向きな死生観が綴られています。以下の通りです。
「自分というものを打ち込むことができているときには、私は、生き甲斐を感じて、本当に幸福でありました。が、打ち込むことができないでいるときには、自分の心がはりをもたずに、命の実感が失われているのであります。さらに、気がついたことは、このようにして、本当に、自分が、1つの目標に打ち込んでゆくことができると、そのときに、自分は、自分をそれにささげつくしたという感じがでてくるということであります。自分の命のすべてをあげて、ささげつくしえたときに、人間は、もっとも強い生き甲斐を感じて、本当に幸福なのだということであります。考えてみますと、ここに、人間生活の、不思議なからくりがあるようであります。自分にとって、もっとも大切なものは、命なのでありますが、その大切な命をすてることができるようになったその時に、私は、自分の命の、もっとも強い生き甲斐を感じ、私は、もっとも幸福である、ということであります」
「癌の再発とたたかいつつ」というエッセイには、「死を『別れのとき』と見る」として、著者が至った死生観が以下のように述べられています。
「それは、死を大きな『別れ』の時と見ることである。人間には、別れのときがある。日常の社会生活の中でも、しばしば別れのときが来る。親しい人や、住みなれた町や森にも、もう二度と会えないかも知れないというような別れの場合が経験される。しかし、そういう場合にも、旅出の荷物をつくったり知人に別れの挨拶をしたりしていると、だんだんに気持が準備されて来る。そのようにして、人間はいよいよの別れの悲しい刹那も乗り越えることができるのである」
さらに「死を『別れのとき』と見る」には次のように書かれています。
「死を別れのときと見るならば、日常生活の別れの場合にも人々がそうするように、心の準備をしておく必要がある。平生のその時その時の経験を、これが最後のものであるかも知れないという気持で、よく嚙みしめておかなければならない。そのようにして、十分に心に納得させておけば、最後の死の別れが来ても、人間はその悲痛に耐えることができる。死を別れと見るということは、毎日々々、心の中で別れの準備をしておくということである。この考え方も、死に立ち向かう自分の心の大きな援けになった」
題名もずばり「死」というエッセイでは、「どうしようもない」として、以下のような考えが述べられています。
「自分は死んでも、自分のなしとげたものは残る。 これは、一つの解決である。 『人は死しても名は残る』 家族や親しい友人たちは、死後も、自分のことをおぼえていてくれるであろう。時々は、思い出して、自分の墓にもうでてくれるかもしれない。 このような考え方は、たしかに、一つの慰めになる。単に慰めになるのみならず、最近の心理学の研究も、これを、死の問題に対する部分的な解決としては、支持するであろう。自我構造に対する心理的分析が進んできた結果、こうした意識も、自我意識の大切な一部であることが、立証されてきたからである。しかし、これは、結局のところ、部分的な慰めでしかない。自分の生命に対する執着のすべてを、後に残る人々の思い出の上にのみ託して、従容として、死につくことができる人は、きわめてまれだからである」
わたしには、この最後の考え方が一番しっくり来ました。
わたしには『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という著書があります。サブタイトルは、「『おそれ』も『かなしみ』も消えていくブックガイド」です。長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。その歴然とした事実を教えてくれる本、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる本を集めてみました。 これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。本書には、その不条理を受け容れて、心のバランスを保つための本がたくさん紹介されています。本書の読了後、そのことをよく理解されると思います。本書では、あなた自身が死ぬことの「おそれ」と、あなたの愛する人が亡くなった「かなしみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選びました。 本書『死を見つめる心』をもっと早く読んでいれば、ぜひ加えたかったです。
本書は、「死を受け容れる」ための発想本として優れています。 学者らしく非常に論理的に死をとらえているのですが、宗教学者ということで基本的に死をタブー視しない潔さのようなものが感じられます。 じつは、ある出版社から『死が怖くなくなる考え方』という本を書かないかという打診が来ているのですが、ぜひ書いてみたいテーマです。そのときは、必ず本書の中で披露されている数々の死生観を紹介したいと思います。