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2016.04.23
『イニシエーション』J・S・ラ・フォンテイン著、綾部真雄訳(弘文堂)を読みました。「儀礼的”越境”をめぐる通文化的研究」というサブタイトルがついています。著者はイギリスの女流社会人類学者で、マリノフスキーからモーリス・ブロックにいたるまでの、世界的に著名な人類学者が数多く在籍したロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で16年間にわたって教鞭を取り、現在は同大の名誉教授です。さらに彼女は、イギリス王立人類学協会の会長も務めた、まさにイギリス人類学界の重鎮です。
本書の帯
本書の帯には「子供が大人になるには?」と大書され、続いて「イニシエーション儀礼がまだ”生きていた”時代の鮮明な”絵”を再現した貴重な記録」と書かれています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は以下のようになっています。
「はしがき」
序論
第1章 宗教に関する理論とそのイニシエーション研究への貢献
第2章 イニシエーションの秘密
第3章 誓いと個人
第4章 霊の力
第5章 解釈上の諸問題
第6章 男性と女性
第7章 経験の権威
第8章 婚姻・妊娠・女子イニシエーション
結論
「イニシエーションの今日的可能性―解説に代えて―」(綾部真雄)
「文献目録」
「索引」
わたしは現在、本書の版元である弘文堂から『儀式論』という本を出すべく、執筆しているところです。同書を書くうえで「儀礼」と「儀式」の違いを定義する作業がなかなか難しいのですが、本書『イニシエーション』の冒頭で、著者のJ・S・ラ・フォンテインはいきなり「儀礼」と「儀式」について見事な定義を行っています。 まずは、「儀礼」について以下のように述べています。
「儀礼とは社会的行為である。その執行には諸個人の組織化された協力が必要とされ、特定の指導者もしくは複数の指導者が必要である。そこにはどのような人々がどのような機会に参加すべきかについての規則があり、ある種の範疇に属す人々を除外する規則が、それ以外の人々の参加を認めたり、要求したりする規則よりも重要視されることが少なくない。儀礼とはまた、ある特定のパフォーマンスのなかで踏襲されるべき正確かつ倫理的に正当な様式についての一般的承認を持つという意味で、社会的なものでもある。もちろん儀礼の手順に変化が生じることもあるが、それは特定の偶然性を受け入れるか、もしくは、より長期的な意味では、社会のなかでの組織上の変化へ適応するというかたちで生起する。一方で、儀礼は固定化された構造を持っているという一般的了解も存在する。儀礼を理解する上での本質、すなわち、それが必ずなされなければならないものであるという考え方は、人類学的な儀礼の定義の大半において見受けられる。そうした定義はすべて儀礼の社会的本質を認め、この点で、”儀礼”を反復的で形式化された行為を意味するものとして捉える倫理学者や精神分析学者らの視点とは一線を画す。踏襲された行為であるだけでは、それがいかに反復的なものであっても、儀礼とはみなせない。 社会的関係は、儀礼の編成に反映される。集団の構成、一連の行為における役割分担、そして、誰が進行を司るのかといったことが、儀礼を行う結社の構造中に表れている」
一方、著者は「儀式」について以下のように述べています。
「儀式(rites)とは、それがいかに曖昧かつ一般的なものであろうと、ある一定の目的を伴った行為の集成である。そしてその目的とは、人々の平和や善意に向けたものであったり、またより限定的にいえば、干ばつに終止符を打たせる雨をもたらすことであったりする。儀礼の特徴であるとされる結果と手段との関係は、通常、それを合理的もしくは技術的な行為と呼ばれるものと対照することにより表現される。グディは、我々はしばしば儀礼というカテゴリーを、理解し得ない、さらにいえば、その効果を信ずることのできないものを総称するための貯蔵庫的概念として用いていると指摘する。儀礼的行為とは非合理的なものではなく、目的志向的なものである。だが、その成功や失敗を西洋科学的な観点から推し量ることはできない。この議論には、(観察者が見た)儀礼の社会的効果を、儀礼の行為者が述べる儀礼の目的と置き換え、儀礼において用いられる象徴的手段のみが儀礼の唯一の目的であるかのごとくに(観察者が)記述することから、混乱が加わった」
わたしは、これほど明確な「儀礼」と「儀式」の定義を知りません。
さて、本書はどういった本なのか。著者は以下のように述べます。
「本書の主題は、ごく常識的な意味でのイニシエーションの儀礼にある。すなわち、少年から成人への通過を表す儀礼と同時に、秘密結社への加入儀礼をも扱う。前者については、一定数の新参者(特別なケースでは一組に一人か二人しかいないこともあるが)が関わる儀礼と、個人単位で行われる儀礼との間の社会学的区別が重要になる。成人への個人的移行は通常女子にかかわることで、胸部の発育や月経の開始といった、儀礼的処理が必要だと信じられているライフ・サイクル中の出来事と密接に結びついている。そのような儀礼は、思春期儀礼と表現するのが適切な特別なものである。社会によっては思春期儀礼とイニシエーション儀礼の両方を行うところもある。ザンビアでは、ベンバの少女たちは初潮時に各個人が思春期儀礼を経験するが、これは数名の少女が揃った時点で後に行われるイニシエーションに先行して必要なものである。月経儀礼のタイミングが生理学的条件によって決定されるのに対し、イニシエーションは状況に合わせて準備される」
本書の主題である「イニシエーション」は「秘儀」と深い関わりがあります。この読書館でも紹介した『秘儀の歴史』、『秘儀の世界から』、『神話と夢想と秘儀』などの書評でも述べましたが、ある人間をまったく別の存在に変容させるイニシエーションの本質とは秘儀であり、それは「錬金術の人間版」であると言えます。 イニシエーションについて、著者は次のように述べています。
「儀礼というものが常に秘儀的に行われることに鑑みれば、秘儀性は―無論それが重要な要素であることには変わりないが―、イニシエーション儀礼にとっての必要不可欠な属性ではない。成人への移行に際するイニシエーションの多くは公的性格か、行列を秘密で固め、ありふれた知識を用心深く覆い隠すケースにおけるような、公然と維持された虚構としての秘儀性のいずれかを持つ」
続いて、著者は以下のように述べています。
「だが、すべてのイニシエーションは、儀礼を終えたものだけが排他的に持ちうる知識と力の伝授を主眼とする点においては同じである。したがって、成員の名前や儀礼に使用する道具、歌、言葉などの性質といった情報および明かされた真実や謎解きを受けた神秘の理解と、伝達が不可能で今なお神秘性を残す経験そのものとを別個に考察することは有用であろう。知識とは、これらのいずれか、もしくは3種類すべてを包含するものである。秘密結社は、秘密の知識への関与、秘密裏の活動もしくは破壊活動、またはその両方を伴うためにこそ『秘密』結社として分類される」
また、著者は儀礼の持つ機能について以下のように述べています。
「儀礼はまた、知識よりはるかに分かりやすい資産へのアクセスを統制してもいる。大きな組織の運営、財産のコントロール、世帯の確立、専門家への謝礼などがそうだ。イニシエーションがもたらす報酬は、儀礼の社会的背景から来るのであって、儀礼で何が行われ、何が言われたかという細部に由来するのではない。こうした儀礼の細部は、『究極的価値』とでもいうべき誕生、死、神秘的力および人間的成長などと明示的にかかわっている。おそらく、儀礼の象徴的意味ばかりに注意が向いて、儀礼に付随する社会的要素を見逃してしまった多くの解釈者たちを誤った方向へ導いていったのも、おそらくはこの究極的な価値の過度の強調だった」
この読書館でも紹介した『初版 金枝篇』の著者であるジェームズ・フレイザーは、イニシエーションを「未開社会にまつわる最大の謎」であると述べています。 著者は、フレイザーおよび『原始文化』の著者であるエドワード・タイラーに言及し、以下のように述べています。
「フレイザーにとっても、著名な同時代人であったタイラーにとっても、宗教的諸概念はそうした連続性を理解する上での鍵であった。彼らはふたりとも、本質的には人類の進化を進歩的な啓蒙、もしくは過去の過ちからの心の解放であると考えるような伝統に身を置いていた。フレイザーは、こうした人類の知力の発達を3つの段階を経るものとして捉えた。すなわち、呪術、宗教、そして科学である。彼は宗教の衰退を、それまでのものとは一線を画す思考様式としての科学の発達に結びつけながら、社会の世俗化が進行していくことを指摘した。そしてまたタイラーと同様に、宗教儀式を、科学的な思考の勝利とともに消えうせる残存と見做しもした。宗教儀式はイニシエーション同様、さらに古い時代からの残存である呪術的要素をそのなかに包摂していると考えた。そして、そのような残存こそが、ある段階から次の段階への展開を解き明かす手がかりとなるという。古典的な古い時代の儀礼から来る諸要素は、『さらに未開』といわれる人々の、似たような要素がみられる宗教儀式につながるものだと見做しうるとの考えである」
次に著者は、この読書館でも紹介した『通過儀礼』(岩波文庫)の著者を取り上げて、以下のように述べています。
「ベルギー人アルノルト・ファン・ヘネップは1909年に『通過儀礼』を出版したが、これはデュルケームの有名な著書『宗教生活の原初形態』より3年早かった。ファン・ヘネップは明らかに、デュルケームが創り出した社会学的アプローチに共感を抱いており、また、フレイザーの著作も読んでいた。ファン・ヘネップの著書は象徴論に対する関心と、儀礼は単に原始的思考の表れとしてではなく、単一の活動として分析されねばならないという考えの双方に裏打ちされている。彼は儀礼というものが、その全体像としてのみ理解できるということを証明しようとした。呪術の残存であると解釈されていた多くの行為が、儀礼の中のある段階を区切るためのものであり、『状況の変化、あるいは呪術=宗教的または世俗的集団からもうひとつの集団への移行を確定するために』行われ、その際の個々の形式は、それぞれの目的により決定されるとする。成人のイニシエーションと秘密結社のイニシエーションが似ているのは、どちらも通過儀礼のなかの過渡儀礼であるということに由来する。通過儀礼という単一の集合の中には、境界を越えること、時間および社会的地位の変化といった種々の儀礼が含まれている」
著者は、さらにファン・ヘネップの通過儀礼論について述べます。
「ファン・ヘネップの分析による通過儀礼の構造的特徴は、3分化にある。3つのステージは儀礼によって区切られてはいるものの、すべての社会にある類似の儀礼や、同じ社会における様々な儀礼は、長さもまちまちであれば、強調する点も異なる。第1ステージは、子供の成人儀礼にせよ、葬式における生命への諸々の対処にせよ、もとの状態をすべて拭い去るという点に特徴がある。儀礼を受けている人物は、自分のもともとの状態から切り離され、過渡期に置かれるが、この状態をファン・ヘネップはリミナル(境界域)と呼んだ。これはラテン語のlimenに由来しており、この意味は『入り口』で、ここで人は入ってもおらず、出てもいないのである。彼はこの状態を『マージナル』とも形容した。リミナルあるいはマージナルなステージの特徴は、危険性と両義性で、これらは、たとえば目隠しをされる、通常の生活から離れて藪や森の中に置き去りにされる、あるいはいろいろ不快な試練を課される、といったことによって象徴される。こうした試練は次に彼が『接合』または『統合』の儀礼と呼んだ段階の儀礼の到来で終わり、ここでは新しい状態への統合が強調される。このように、分離、過渡、統合という3段階の形式は、中間領域と、2つの領域の間の境界線を設定し、ある領域から次の領域に人を送り込むことでその過渡をドラマ化する。次章において、フリーメイスンと中国の三合会の会員加入に際しての、イニシエーション儀礼の3段階を詳細にわたって例示するが、ファン・ヘネップが提唱した通過儀礼のこのような3段階構造の妥当性は、世界の各地で数多く観察される民族誌的証拠からも明らかである」
ここで「フリーメイスン」とか「三合会」といった固有名詞が出てきて、秘密結社に興味のあるわたしの胸はときめきました。
さて、儀式というものは「シンボル」の問題と切り離せません。 著者は、シンボルについて以下のように述べています。
「儀礼のコンテクストからシンボルを分離することがもっとも端的に表れているのが、シンボルの意味を発見するためにレヴィ=ストロースの分析の手法を用いた構造主義者たちの研究である。レヴィ=ストロース自身はほとんど儀礼を取り上げることがなく、彼の恐るべき分析力は神話の徹底的研究に注がれている。しかし儀礼研究における彼の影響は、リーチやタンバイアのような著者たちの研究に見ることができる。突き詰めていえば、この手法の特色は意味が、シンボルとして用いられた諸物の性質のみからではなく、それらの属性が相互にまとまり合い、そしてまたせめぎ合うあり方からも見出されると考えることにある」
著者は、シンボルについてさらに次のように述べています。
「物語であれ、神話であれ、儀礼のドラマ的過程であれ、各要素の単位が順序良く並んでいるかどうかは問題ではなく、肝要なのは対立項と同一項の連なりで、これがリーチのいう『シンボルを結合する論理』である。パターンを明らかにするために、分析者は各要素を再編成する必要があり、ここにおいて要素は儀礼から切り離されるのである。こうした手法の極端なものでは、行為、行動に影響を与える価値観、自然環境から来る制約などばかりでなく、多様な人間社会を特徴付ける文化的差異までが相互に関連を失ってしまうのである。残るのは人間の思考を表す普遍的シンボルのみである」
第2章「イニシエーションの秘密」では、秘密結社が正面から堂々と扱われます。 著者は、秘密結社とイニシエーション儀礼について次のように述べます。
「秘密結社がもっとも厳重に秘密を保持しようとするのがイニシエーション儀礼で、その中には必ず、儀礼やその他の秘密について漏らさないことと、掟を破った場合に厳しい制裁を甘んじて受けることに関する誓いが含まれている。フリーメイスンの新人は『フリーメイスンの秘密の如何なる部分についても明かさない、書かない、手紙を送らない、字を刻まない、記録しない、石などに刻字しない、あるいは描写しない』という誓いをたて、それを破った場合の罰は、『のどを切り裂き、舌を根元からちぎり取り、引き潮のとき、あるいは600フィートの沖合で、24時間に2度潮の干満のある砂中に埋める』というものであるが、より効果的であるといわれるこの罰則にしても、『意図的に偽証を行った者、いかなる道徳的価値もなく、この名誉あるロッジに迎え入れるにふさわしくない者という烙印を押される』という罰則に比べるとおだやかに聞こえる。我々が本章で取り上げている他の秘密結社、すなわち中国の三合会の場合、新人は言葉ではなく、実物で制裁の中味を示される。新入りがたった今明かされたばかりの秘密を漏らすとどうなるかを明確に示すために、彼の前で鶏ののどを掻き切るのだ」
さらに著者は、秘密結社の本質について以下のように述べています。
「秘密結社のメンバーは、結社の儀礼についての守秘義務のほかに、それ以外の秘密や神秘についても漏らさないという誓いをたてたが、その中には団員を区別するのに役立つ符号や言葉も含まれていた。フリーメイスンの手の組み方もそのひとつで、フリーメイスンにとってはそれでメンバーであることと、階梯が分かるが、外部の者にとっては何の意味もない。中国の三合会はメンバーにのみ特別な意味のある言葉を用いた。こうした言葉はふつうの会話の中でさりげなく使われ、団員が聞けば他のメンバーを識別することができた。これらの識別符号やその他の秘教的事柄に関する知識は最も重要な秘密と考えられている。そうした秘密がそこまで重要なのは、こうした事柄なしには団員と外部の者の識別ができないからである。秘密結社に加入するために越えなくてはならない線は、目に見えない無知と知識の間の境界線であり、境界線を越えたからといってテンプル騎士団のような稀な例外を除いて、越えた人物の外見が変わるわけでも、生活様式が変わるわけでもない。結社に加入するということは、秘密を共有し、外部の者に対して秘密を明かさないということである。もし外部の者がそうした秘密を手に入れることができるのであれば、境界線はあやふやなものになる。したがって、秘密が存在するということそのものが自らの存在を規定する上で必要不可欠なものなのである」
イニシエーションの儀礼と秘密の符号は結社の起源、歴史および初期の英雄たちにちなんだものが多いとされています。また、イニシエーション儀礼には演劇との共通点が多いことで知られます。本書の結論の冒頭で、著者は以下のように述べています。
「イニシエーション儀礼とは、関わっている者たちが創造し、参加者たちが選ぶある一定の方法と時間、そして場所にしたがって演じられる人工的な経験なのである。実施の時期、場所、それに各場面の詳細なやり方などが、演出に関わる者たちの間で激しい議論の的になることもある。演劇と同様、儀礼にも特定の印象を与えるためのトリックと『特殊効果』が利用される」
わたしも、つねづね儀礼と演劇は似ていると思っていました。 この点について、著者は次のように述べています。
「演劇は、一方では固定した作品として、また一方では演じられるたびに異なるパフォーマンスとして評価を受ける。儀礼はこの点でも演劇に似ている。どのような儀礼においても、観察者は次に何が起こるかについて、突出した特徴について、また場面の順序などについて説明を受けることができる。しかし、記憶のよさや、細部にわたって順序だてて説明する能力はインフォーマントによって異なる。また、1回ごとの儀礼のでき具合は異なり、どの程度の成功だったのか、どのくらい理想的形態に近かったかについての評価が下される。儀礼の内容自体も地域によって変化し、たとえばポコットの儀礼の歌の内容は村によって異なるが、これは許容の範囲内とされる」
また、著者は演劇と比較しながら儀礼の意味について述べます。
「演劇の場合と同様、儀礼の完全な意味は、集団に共通する一連の約束事と知識からなっており、よそ者にとってはまずこれらをインフォーマントから聞き出すのも、さらにそれを理解するのも難しい。シンボルには何層にも別れた意味があり、それらには伝統からくるものも、また日常生活からくるものもある。たとえば、色が表すシンボルの例を見れば分かるように、それらは社会によって見事に異なっている。西欧社会では、黒は葬式と喪の色である。他国、たとえば中国では、白が同じ目的で用いられる。緑とオレンジは、ベルファストではロンドンでは見られない政治=宗教的意味合いをもっている。こうした要素の意味を解釈するには、よそ者は数のもつ重要性、あるいは日常生活における特定の行動への言及、儀礼と演劇の両方に現れる品々の意味といったコードを学習しなくてはならない」
さらに著者は、儀礼と演劇を比較することについて以下のように述べます。
「イニシエーション儀礼を劇の上演と比較するというアイデアは新しいものではない。古典学者ジェイン・ハリソンは、ギリシャの古典劇はギリシャ人の宗教儀礼から生まれたものであると主張する際この比較を利用したが、こうした比較の起源はそのさらに以前にまで遡る。リンドグレンは、シベリアのツングースにおける人々の集いと、やはり同様に人々が集う場である儀礼のもつ娯楽的要素との相関に特別の意味を見出した。このことをここで持ち出したのは、これらの儀礼を理解するには、儀礼を細かく別々のシンボルあるいはシンボルの集合体に分解して理解するだけではなく、ひとつの全体として理解する必要があるということを強調したかったためである」
続けて、著者はシンボルと儀礼について以下のように述べます。
「シンボルに意味が付与されるのは、一連の儀礼全体が置かれた状況によってである。私はイニシエーション儀礼には一定の順序があるということが、儀礼を理解するための重要な鍵であるというファン・ヘネップの主張を踏襲する。ニョロの精霊儀礼の中のシャーマンのイニシエーションに際して見られるようなみだらな振舞いや、ウォゲオの少年儀礼における戦いのような、通常の振舞いとは逆の行動などは、ある一連の出来事の中でそれらが占める位置という視座から見ることで、もっともうまく解釈できることが彼の分析から分かった。つまり、普通の社会秩序とは逆転した行為が、こうした儀礼が創り出す境界領域を明白に表しているのである」
儀礼と演劇は似ているだけではありません。 両者の相違点について、著者は次のように述べています。
「演劇とイニシエーション儀礼の間には他の相違もあり、そのうちのもっとも重要な違いは、儀礼には通常観客がいないということである。実のところ、儀礼の多くは秘密なので、定義によって観客という概念は排除される。儀礼に参加できない人々の存在が、儀礼を行う集団が他から隔絶していることを物語る」
結論の最後、つまり本書の最後で、著者は社会における儀礼の意味を次のように述べています。
「儀礼の知識は、科学とは異なり変化へのアンチテーゼとしての性質をもつ。儀礼はまた、社会生活のすべてを創りあげた祖先のものであるとも考えられている。試したり、変更したり、改善したり、廃止したりすることなく、子孫に伝えていかねばならない。儀礼は経験を支え、長老たちの優越性を確認するものであるため、そこでは世俗的な力の重みが二義的なものとして扱われるのも不思議ではない。しかし、伝統社会といえども変わらないわけではない。自らは原初に創られた時のままの社会秩序を維持しようとしているつもりでも、変化は避けられないものだ。一方で、自らの社会を、現に知識を蓄積しつつ変化を進歩的改革として捉える社会として認識している場合でも、そこには伝統的権威と伝統的叡智が存在する」
続いて、著者は以下のように述べています。
「儀礼がいまだに非常に重要な社会においてさえも、本書で検討した諸儀礼が社会生活のすべてであると考えるべきではない。それらを儀礼のある種の形態として理解しようとするとき、我々はその儀礼をそれが埋め込まれている社会生活の種々の過程から意図的に取り出すことになる。儀礼とは、人々が特定の道徳的秩序の中で生活する際に創造される、極めて細密にして複雑なパターンの中のひとつの構成要素なのである」
「イニシエーションの今日的可能性―解説に代えて―」で、本書の訳者である人類学者の綾部真雄氏は「大人になったから結婚するのではなく、結婚が大人をつくる」としながら、近代化が進むにつれ、生物学的成熟と社会的成熟とのギャップがどんどん拡大していると述べています。さらに、先進諸国の中にはついに、法的成年の基準を除けば、大人と子供との社会的線引きを事実上手放してしまうところまで出てきたとして、以下のように述べています。
「人類史において、長らくそうした線引きの機能を担ってきたのが、婚礼をはじめとする様々な儀礼である。儀礼という『筋書きのある』ドラマで一定の役割を果たすことで、あるいはそれを通過することで、人はようやく過去と決別できる。儀礼は、誰かがそれを通過しつつあることを広く社会に知らしめるパブリシティの役割を果たすだけでなく、通過する本人の心理にも実存的な変化を与えるのだ。このとき、数多くある儀礼の類型のなかでも、とりわけ恒久的かつ劇的な変化を演出するのが、本書の主題でもある『イニシエーション』であろう。もっとも、儀礼的現実と世俗的現実とが大部分においてオーバーラップしていたかつてとは異なり、現在では、多くの社会が価値の中心軸から儀礼を半ば取り外して客体化し、寄り合いや同窓会として、政治宣伝の道具として、果ては民俗芸能継承の場として再定義している観がある。また、その暴力的側面が過剰に取り沙汰されたことにより、多くのイニシエーション儀礼がこの世から姿を消しつつもある」