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2016.05.19
『神話学入門』カール・ケレーニイ&カール・グスタフ・ユング著、杉浦忠夫訳(晶文社)を読みました。神話学者ケレーニイと心理学者ユングの共著ですが、主として書いているのはケレーニイです。「神話とは何か」を明かした入門書で、1951年に出版されました。日本語版は75年に出ています。
ケレーニイは、1897年ハンガリー生まれ。ブタペスト、ベルリン大学などで古典文献学を学びました。大学で教鞭をとるかたわら、トーマス・マン、ホイジンガ、フローベニウス、ユングらの文学・歴史学・民族学・心理学にわたる研究者と交わり、ギリシア・ローマ古典学への深い学殖に裏付けられた巾広い神話研究者として活躍。1943年以降はスイスに住み、特にユング研究所と密接な関わりを保ちながら研究生活に打ちこみました。73年に逝去しています。
また、ユングは1875年スイス生まれ。精神分析の臨床医を経て、チューリヒ、バーセルで教鞭をとりました。はじめはフロイトの精神分析学の影響を受けましたが、のちに精神分析学と性格学と東洋的な神秘主義的叡智を追求した独自の分析心理学を樹立。現代ヨーロッパ思想に多大な影響を与えました。61年に逝去しています。
ケレーニイとユングの写真(カバー前そで)
本書のカバー前そでには、ケレーニイとユングのツーショット写真とともに、以下のような内容紹介があります。
「神話―それは始まりへのたえざる回帰である。古代の人びとにとって、神話とは、美化された幻想でも神々についての作り話でもなく、日常の思考や表現の形式であり、あらゆる不条理や残酷さを秘めた生きる営為そのものであった。今日われわれにとって、古代の神話物語は幻の世界にしかすぎないのか。われわれはいかにして、神話的始原に関わりえるのか。そして神話学とは何か。本書は、20世紀屈指の碩学カール・ケレーニイが、『童児神』と『少女神』の二つの典型的な神話像を手がかりに、ギリシア・ローマ古典から現代文学にいたる深い学殖を傾け、卓抜な想像力と透徹した思考を駆使して、神話の本質と根源を解明し、現代のもっとも独創的な心理学者ユングが独自の分析を付してなった。人間の生と死のドラマへの根底的な問いに貫ぬかれた『開かれた神話学』のための白眉の入門書。待望の邦訳。」
本書の「目次」は以下のようになっています。
「新版〔第四版〕まえがき」
「第二版・第三版まえがき」
序説 神話の根源と根拠の創設について
(カール・ケレーニイ)
1/A 童児神(カール・ケレーニイ)
1 童児神たち
2 孤児
3 ヴォグール族の神
4 クッレルヴォ
5 ナーラーヤナ〔那羅延夫〕
6 アポローン
7 ヘルメース
8 ゼウス
9 ディオニューソス
1/B 幼児元型の心理学のために(C・G・ユング)
序論
A 幼児元型の心理学
1 過去状態としての元型
2 元型の機能
3 元型の未来性
4 幼児モチーフの単一性と多様性
5 童児神と英雄児
B 幼児元型の特殊現象学
1 「幼児」の遺棄
2 幼児の無敵さ
3 幼児の両性具有性
4 初めと終りとしての幼児
まとめ
2/A 少女神(カール・ケレーニイ)
1 アナデュオメネー
2 神話的観念の逆説
3 神々しい少女像
4 ヘカテー
5 デーメーテール
6 ペルセポネー
7 インドネシアの娘神(コレー)
8 エレウシースのコレー
9 エレウシースの逆説
2/B コレー像の心理学的位相について(C・G・ユング)
結び エレウシースの奇蹟について(カール・ケレーニイ)
原註
文献一覧
訳者あとがき
索引
本書では、「童児神」と「少女神」の神話像について深い考察がなされていますが、『儀式論』の参考文献として「神話と儀式」の関係に興味があるわたしは「神話とは何か」という本質論を求めていました。ここでも、その部分にしぼって内容を紹介したいと思います。
序説「神話の根源と根拠の創設について」の冒頭で、ケレーニイは以下のように述べています。
「音楽とは何か。詩とは何か。神話とは何か。これらはすべて、対象そのものに対する既存の現実的関係なくしては、いかなる考察も成り立ちえない問題ばかりである。これは至極当然なことである。しかし神話にはこういった現実的関係というものはない。あるとすれば、偉大な神話的創造物そのものが、今日の人間は『奥行きや永続性や普遍性において自然そのものとのみ比較しうる』1つの現象に直面しているのだということを、今日の人間に理解させずにはおかないであろう」
冒頭から「音楽」という言葉が出てきましたが、ケレーニイは神話と音楽を比較することを以下のようにすすめています。
「神話の様相をはっきりさせるには、音楽と比較してみるのが一番手っ取り早い。芸術としての神話と素材としての神話は、同一現象のなかで相互に連携しているが、それは作曲家の技巧と素材、すなわち音の世界とが融合していることと少しも変りはない。作曲活動は造型者としての芸術家を示すとともに、音の世界が形づくられる様子をわれわれに教える。独自の精神をもった一造型者が前景に見当たらないところ、たとえばインド人やフィンランド人やオセアニア人たちの雄大な神話群の中でなら、このような関係、つまり造型活動そのものにおいて自己を開示する芸術と、同一現象の不可分な統一としての自己形成的で独自な素材が、なおさらいっそうのこと話題とされてしかるべきである」
ケレーニイは、生きた神話を目の当たりにしながら長期間現地で過ごした1人の野外調査家を紹介します。人類学者のブロニスラフ・マリノフスキーです。マリノフスキーは、トリブリアンド諸島で神話の本質について考察し、『未開人の心理における神話』という研究書を1926年に出版しました。彼は同書で以下のように述べています。
「未開人の神話、すなわち生命をもった原初的な形での神話は、単に物語られた出来事であるだけでなく、1つの生きられた現実である。原初的な神話は、今日われわれが小説の中で読むような仮構の物語といったものではなく、生きた現実なのである。つまり、そういう物語は事実大昔に起こった、そしてそれ以来ずっと、世界と人間の運命に影響を与え続けているのだ、という信念に基づく現実そのものなのである。・・・・・・これらの出来事は単なる好奇心によって生命を保たれているのではない。仮構の物語として維持されているのでもなく、また真実の物語として維持されているのでもない。そうではなくて、これらは原住民にとってみれば、原初的で、より偉大、かつより重要な現実を証言するものである。人類の現在の生、運命、行動を規定しているのはこのような現実であって、このような現実の認識が、一方では人間に祭儀的慣習的な行為への動機を与え、他方ではそうした行為を実行するための指針を人間に与えるのである」
ケレーニイによれば、神話は根拠を説明します。
神話は本来、「なぜ」に答えるものではなありません。そうではなく、「どこから」に答えるものなのです。そして、神話の出来事は世界の根拠を形づくります。というのは、一切が神話の出来事を基礎とするからです。
ケレーニイは、次のように述べています。
「神々は『根源的』である。根源的であるがゆえに、1つの新しい神とともに常に1つの新しい世界―新しい宇宙時代、あるいは新しい宇宙位相―が誕生する。神々はそもそもの初めに、つまり神々が生れた瞬間においてのみ存在するのではなく、またあの最初の創造の周期的な反復、すなわち神々の広大無辺な再現と祝祭時の顕現においてのみ存在するのではない。神々はいついかなるときでも存在はするが、しかし神々の形姿に含まれるものを物語の形式で展開する神話素は、つねに太古に始まる。始原と太古への回帰が、あらゆる神話の基本的特徴なのである」
ケレーニイによれば、神話において重要なのは問うことではありません。重要なのは、始原(アルケー)へのためらうことなき直線的な回帰、つまり「根拠」への無意識的な後退としての根拠の説明なのです。
ケレーニイは、以下のように述べています。
「闘牛士のように一歩後退したり、潜水器にもぐり込むように過去にすべり込んだりするのは、与えられた神話を体験し、それに従って行動する者だけではない。真の神話作者も神話素の創造者、あるいは再創造者でもこの点では同様である。何が『真実である』かを語るためには、哲学者なら自己を取り巻く現象世界に押しいるであろうが、『神話の語り手』は、何が『原初的であった』かを伝えるために太古へと回帰する。神話の語り手にとっては太古の世界が本来の実相にほかならないのである。本来の実相、すなわち主体と客体との真の直接性が、このようにして現実に獲得されるかどうかについてあえて語らずとも、われわれは神話的な根拠の説明の手段と方法を理解する」
また、ケレーニイは以下のようにも述べています。
「神話は、神話の語り手が物語を身をもって体験しながら、太古への帰路を見出すことによって根拠を説明する。事実、神話の語り手は、周辺をうろついたり嗅ぎ回ったりすることなく、調査したり緊張したりすることもなしに、自分の関わり合うあの太古に、彼の語り伝えている始原世界のただ中に、突如として現われる。人間は現実にどんな始原世界のなかに存在し得るのか。どの始原世界に直接もぐり込めるのか。人間には人間独自の始原世界がある。すなわち人間の不断の自己形成を可能にする人間の有機的存在という始原世界がある。人間は人間自身の根源を発達した有機的存在として経験する、―あたかも人間が一千倍も増幅された一つの反響音であるとともに、人間の根源が最初の響音であるかのような、ある種の同一性に基づいて経験する。人間はこの根源を彼自身の絶対的な始原(アルケー)として体験する。それ以来人間が人間の未来の存在と生命のあらゆる対立物を自己の内部に融和させる一個の統一体となるところの、あの始まりとして経験する」
1つの新しい宇宙統一の始まりとして理解されるこの根源は、童児神の神話素によって示されます。同じように自己の根源として経験されるもう1つの根源、同時にそれに前後する無数の存在物のアルケーでもあるあの根源を示すのは、少女神の神話素です。個体はこの根源によってすでにその萌芽のうちに無限性を与えられるとして、ケレーニイは述べます。
「本書で一括される2つの神話素は、さながら道標のように人間的な成長と植物的な成長という比喩を借りることによって、ある軌道をわれわれに暗示する。すなわち、この軌道の上で始原世界への通路としての根拠の説明が始まり、発展の道を再びあの比喩形式で歩むことになる。比喩的に語ることが許されるなら、われわれの全体性の生命ある萌芽に通ずるのは、われわれ自身への一種の沈潜なのである。この沈潜の習慣が神話的な根拠の説明であり、このような習慣の結果は、われわれが根底から流れ出る比喩に開眼したことによって、さきに挙げた2つの始原世界が一致する場所にわれわれが戻ったということである」
続いて、ケレーニイは以下のように述べています。
「萌芽の始原、あるいはゲーテの精神に従って表現するなら、『核心(ケルン)の深淵』はそこにつながり、そこにあの中心点が―われわれの全存在全生命がそれをめぐって形成され、またそれによって形成されるあの中心点が仮定されねばならない。われわれの生命におけるこうした全く内面的な相を空間的な概念の中で考えれば、起因と根源の認知とが同一である理想的な場所は、この起点と中心点でしかありえない。このようにして自己の内部に引っ込んでこれについて報告する者が、われわれの存在の根拠を経験し、これを告知する、すなわち根拠を明示するのである。
さらに、ケレーニイは以下のように述べます。
「世界をある一点から再構成すること、すなわち、根拠の説明者そのものがそれをめぐって組織され、それを起点として組織されているところの点、彼がその中で根源的に(彼の一回限りの特殊な組織に関しては絶対的に、無限に連なる祖先たちとの依存関係に関して言えば相対的に)存在しているところの点、―そういう点をもとにして世界を再構成すること、これこそ神話学の最大にして最も重要なテーマ、すなわち根拠の説明そのものである。大宇宙の写しである一つの新しい小世界の建設と同時に、神話的な根拠の説明が行動に移されはじめる。すなわち根拠の説明
Begründung が根拠の創設 Gründung
となるのである」
続けて、ケレーニイは古代都市について以下のように述べています。
「神話が生きていた時代に宇宙の写したらんと欲して建てられた諸都市は、宇宙進化論的な神話素が世界の根拠を説明するように、根拠づけられる。これらの都市の基礎は、さきにあげた2つのアルカイ(誰しもそこで始まる絶対的なアルケーと、誰もがそこで祖先たちの継承者となる相対的なアルケー)の中から芽を出すかのように据えられる。このようにして、諸都市は世界そのものと同じ神的な基盤に基づいている。それらは世界と都市が古代において同一であったもの、すなわち神々の住処になる」
そして、ケレーニイは「根源」について以下のように述べるのでした。
「『根源』は神話において二重の意味をもっている。1つの物語、あるいは1つの神話素の内容としては『根拠の説明』であり、1つの行為の内容としては『根拠の創設』である。両者の場合ともに、根源は人間が人間本来の根源へ回帰すること、それと同時にそもそも人間として到達できるかぎりの根源的なものが原像、原神話素、原儀式の形態で現れることである。これらの現象形態は3つが3つとも、人間的に到達可能な同じことがら、つまり同じ神話的観念の現象方式であるかもしれない」
「幼児元型の心理学のために」の序論では、ユングが未開人の神話について以下のように述べています。
「未開人の精神状態は神話を作りあげるのではなく、神話を体験する。神話は本来前意識的な魂の啓示であり、無意識的な魂の出来事についての不本意な表出であって、断じて肉体的過程のアレゴリーではない。このようなアレゴリーは非科学的な知性のむだな遊戯というものであろう。それに対して神話には活力にあふれた意義がある。神話は未開種族の魂の生活を表現するだけではなく、魂の生活そのものである」
続けて、ユングは以下のように述べています。
「ところでこの未開種族は、自己の神話的遺産を失うとたんに、自己の魂を失った人間のように壊滅し没落する。ある種族の神話体系はその種族の生きた宗教であって、その喪失はいつでもどこでも、また文明人の場合においても、ひとつの道徳的破局である。しかし宗教は魂の過程との生きた関係であって、この過程は意識に依存せずに、意識のかなたで、つまり魂の暗い背景のなかで生ずる。これらの無意識的過程の多くは、確かに意識の間接的誘因から生ずるが、意識的恣意から生ずるものでは絶対ない。その他の無意識的過程は自然発生的に、ということは、認識可能で意識的に証明可能な原因なしに生ずるらしいのである」
本書は主にケレーニイが執筆しており、ユングの文章はあまりありません。
わたしはユングの本格的な神話論が読みたかったので、ちょっと肩透かしを食ったような印象でした。この本、必ずしも共著にする必要があったのかなと思いました。また、神話についてもギリシア神話のみを取り上げており、『神話学入門』というほどのスケールの内容を感じることはできませんでした。ユングの神話論は物足りませんでしたが、今度はユングの儀式論を読みたいです。ユングには膨大な著作がありますが、果たしてどの本で、彼は儀式について言及しているのでしょうか。ご存知の方がいれば、ぜひ教えていただきたいと思います。