- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
2016.06.29
『秘儀と秘義』オード・カーゼル著、小柳義夫訳(みすず書房)を読みました。「古代の儀礼とキリスト教の典礼」というサブタイトルがついています。神学者によるキリスト教の典礼秘義についての名著です。
著者は、1886年、西ドイツのゴプレンツ・リュッツェルに生まれました。 1905年、マリア・ラーハのベネディクト会修道院に入り、ローマで神学、ボン大学で古典言語学を学びます。その後、教会の礼拝祭儀におけるキリストの秘義の現存を生涯の研究課題として、神学にも教会の実践にも大きな影響を残しました。第二バチカン公会議の神学的総合と教会の刷新は、本書を中心に展開されたカーゼルの秘義神学に負うところが多いとされます。1948年にヘルシュテレにて逝去しています。
本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「『秘義なしに、人は真のいのちに入ることはできない』(アウグスチヌス)
最初のもっとも簡素な秘義への参加は洗礼であった。また、神が人間の舌を通じて告げた聖書の言葉、さらに、『キリストが我らの眼からもはや見えぬものとなって以来』の教会の礼拝祭儀―これらすべてが、秘義の内容をなすものであった。秘義は『筆舌に尽しがたい』ineffabileものであるため、人間の歴史のなかでは、多種多様な現われ方を示している。ローマ人、東方教会、ガリア人、ゲルマン人らによって、壮麗にも神秘的にも軽やかにも、幻想的あるいは瞑想的にも、その典礼秘義はみな異なっていたが、その多様性そのものを条件とするほどに〈普遍的〉(カトリック)なキリスト教の存在なのであった。著者はここに言語学的・宗教学的照明を与えるとともに、その秘義神学の立場から現代の思想状況を展望している。聖書と伝統によって支えられ、珠玉の言葉の結晶の示すヴィジョンと鋭い洞察は、本書の特質をきわ立ったものとしている」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「凡例」
「第四版への序」(ブルクハルト・ノインホイザー)
「第一版‐三版への序」
キリスト教における典礼秘義
第一章 秘義への転向
第二章 キリスト教における典礼秘義の位置
A キリスト教
B 祭儀の型としての「秘義」
C 秘義としての典礼
第三章 古代の秘儀とキリスト教の秘義
第四章 教会の一年におけるキリストの秘義
第五章 教会の一日におけるキリストの秘義
キリスト秘義の充溢の中から
1 秘義の本質について
2 秘義共同体である教会
「解説」(土屋吉正)
「キリスト教における典礼秘義」の第一章「秘義への転向」では、「秘義である神」として、著者は以下のように述べています。
「神の秘義の意味するところは三重でありながら、しかもなお一重である。
秘義とはまず第一に『神自身』である。すなわち無限の遠くにある者、聖なる者、近づき難い者、死ぬことなしに近づき得ない者としての神であり、あの預言者が、『わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民のただ中に住む者であるのに、万軍の主である神をこの目で見た』(イザヤ6・5)と言っているように、この者と比べてはすべてが汚れたものに見えるほどの神である。この全く聖なる者が、その秘義をあらわした。つまり被造物にまで身を低めて自分を啓示されたのである。しかしその啓示も『秘義のうちに』示された。傲慢な者、尊大な者にではなく、神によって選ばれた謙虚な者、心の清い者に向けられた恵みによる啓示によって示された。それゆえこの啓示もやはり秘義なのであって、この俗的な世には許されず、かえって世には隠され、ただ神を信じる者、選ばれた者にのみ示されたのである」
また、著者は以下のようにも述べています。
「古代世界はすでにこの秘義をおぼろげに予感していた。あらゆる地上のものは、何か超自然的な栄光の反映や結果に過ぎないということを古代世界は何かしら気づいていた。シュメールやバビロニアのジグラートも、永遠のいのちを求めるエジプトのピラミッドやスフィンクスも、この秘義への感覚に由来するものである。ギリシアのプラトンの知恵の洞察力もこれを語り、ギリシア時代、ヘレニズム時代の秘儀も、ここに近づこうとしていた。天を地に下ろし、人間的なものを神的なものに近づけ、そして両方の世界を合わせようという人間が常に抱いているあこがれもこれを示しているのである」
このあたりは、この読書館でも紹介した『秘儀の歴史』、『秘儀の世界から』、『古代の密儀』、『図説 古代密儀宗教』などで紹介した古代の秘儀や密儀、つまり秘密儀式について書かれた本に詳しく紹介されています。
しかし、本書は「秘儀」のみならず「秘義」について述べた本です。
「秘義」とは何か。その核心を「キリスト秘義」として著者は述べます。
「キリストその人が秘義そのものである。なぜならキリストは目に見えない神性を肉のうちに啓示したからである。キリストがへりくだって行われたさまざまな行為、なかんずく十字架上の死の奉献はまさに秘義である。なぜなら神はそこにおいてあらゆる人間的尺度を超えた方法で自分を啓示されたからである。なかでも、キリストの復活と昇天は秘義である。なぜなら、神の栄光が人間イエスのうちに、しかも世には隠れているがただ信じる者にのみ開かれた形で啓示されたからである。この『キリストの秘義』こそ、教会(エクレシア)の使徒が告げたものであり、教会が世々に宣べ伝えるものなのである。しかし、救いの計画が単なる理論ではなく、キリストの救いの行為を同一線上に包括しているように、教会も、単にことばだけによってではなく、聖なる行為によって人類を救いに導く。つまり信仰と秘義によって、キリストは教会の中で生きているのである」
第二章「キリスト教における典礼秘義の位置」のA「キリスト教」では、以下のように「感謝の奉献(エウカリスチア)」について述べられます。
「教会は儀式によって「受難を記念する」ことによって、常に新しい若芽を成長させ、霊(プネウマ)に満たされ、キリストの満ち満ちた背丈〔エフェソ4・13〕にまで成熟させるのである。
しかし感謝(エウカリスチア)の秘義の本質は、それが奉献であることに尽きるのではなく、この奉献はさらに(狭義の)秘跡としての側面をももっている。旧約の奉献は、一面では食物の奉献であった。つまり、食物をヤーウェに奉献し、それによって聖別された食物を、奉献に集った会衆がヤーウェとともに食べ、これによって会衆自身が聖別され、ヤーウェの共同体に高められる。新約の奉献も、食物の奉献であるが、その意味は全く高められ、霊的である。キリストは自分のことを、世の食物、『いのちのパン』(ヨハネ6・35、6・50~51)、「いのちの飲物」(ヨハネ4・14、9・37)と呼んでいる。『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠のいのちをもつ。』(ヨハネ6・53~54)受肉したロゴスは、事実、世の糧である。ことばと霊(プネウマ)によって世に超自然現象ないのちを与え、それを保つからである。キリストはこの事実をひとつの秘義に変えた。自分と教会との肉体的一致を、肉と血をともにすることによって、最も具体的に刻みつけようとされたからである」
また、3つの典礼秘義について、著者は以下のように述べます。
「3つの典礼秘義、すなわち洗礼、堅信、食物としての感謝の秘跡(エウカリスチア)は、人間がキリストのからだへ完全に組み入れられることを表わしている。洗礼は、キリストの十字架へと沈められることによって罪から清め、堅信は、霊(プネウマ)の新しい神のいのちを吹き込み、聖体の拝食は、このいのちを強め保ち、枝体をからだと完全に一体にする。したがって、この3つの秘義は、キリスト者として聖別する入信の儀(initiation)であり、これによって聖別された者が、神秘的キリストの最高の働きである父に対する愛の奉献に、行動的に協働できるようになる。この協働によって、入信者は、キリストのからだの中でさらに深く成長して行く。キリストの血によってたえず清められ、復活の霊(プネウマ)によってたえず新しくより強くいのちを与えられ、奉献の食物によってたえず主と一体化させられるからである。したがって、これら3つの秘義は、教会(エクレシア)にとっても、キリスト者ひとりひとりにとっても、最も重大なものであり、生きていくために必要欠くべからざるものなのである」
C「秘義としての典礼」では、「秘義から典礼へ」が述べられます。
「新約の原秘義は、ふつうに用いられる、『儀式』という意味での典礼ではない。旧約の典礼を示すいろいろな表現は、新約の真に霊的な事実に転用され、より深い意味を表わしている。キリストの奉献は、けっして『儀式』という古い意味での『典礼』ではなく、予型としての旧約の典礼を究極的に最高に完成したものであり、より高められた現実そのものである。教会がキリスト秘義を、典礼秘義の中で儀式によって行うとき、その旧約的な表現や形式は、新約の祭式において、新しいより高められた形で現実化され、完成されている。こうしてひとつの典礼が成立する。それはもちろん外的な形をもっているが、しかし『来るべきよいものの影』(ヘブライ10・1)をになっているのではなく、恩恵に満ちたあがないの現実そのものを帯びているのである」
第三章「古代の秘儀とキリスト教の秘義」では、著者は「祈り」「奉献」「秘義」について以下のように述べています。
「『祈り』とは心の思いと願いを神なる者の前に告げるものであり、『奉献』とは、本質的に神々への贈りものであるのに対し、『秘義』とは、神と一層親しい関係を結ぼうとするものである」
さらに「秘義」について、著者は以下のように述べます。
「秘義とは、そこで救いの事実が儀式のもとに現実化されるところの聖なる祭儀行為であり、祭儀を行う会衆は、この儀式を行うことによって救いの行為に参加し、それによって救いを得る」
「キリスト秘義の充溢の中から」の1「秘義の本質について」では、「典礼は、主がわれわれの救いのためになさったことの、儀式による完成である」として、以下のように儀式の意味が述べられています。
「われわれはキリストのからだとして秘義をとり行う。からだであるから、かしらのなすことをすべて行う。これを可能にするのが儀式である。儀式はひとつのかたどりであり、そのかたどりの中には、キリストが歴史の中で実行されたときにわれわれが参加することができなかった行為自身が含まれている。最後の晩餐も同じである。そこでキリストはあたかもこうおっしゃったようである。『十字架上の奉献という1回限りの行為を、今あらかじめかたどりとして行う。あなたがたも、これにならって、かたどりとして行なわなければならない。』全教会は、主が晩餐でなさったことを行う。しかし選ばれ聖別されたものだけが、教会のために、儀式を執行するのである」
著者は、古代の秘儀とキリスト教の秘義について、以下のように述べます。
「エレウシース秘儀のもつ意味を研究するとき、それが理性によって理解できるものではなく、ひとつの秘義であることを忘れがちである。秘儀は、実際は彼岸においてはじめて存在を知るものを、すでに今経験しながら生きることを可能にする。これはまさにキリスト教の秘義の祝祭に参加するとき必要なことである。日々ささげる秘義の祝祭において、キリストの死と復活の記念をとり行い、われわれ自身も死して復活することを学び、いつかこの力によって、より確実に死して復活することを得る。この秘義の食物は、死期の迫った人に与えられるとき、Viaticumすなわち『旅路の糧』と呼ばれる。この食物は次の世界のための糧となるべきものだからである」
また、宇宙的な秘儀とキリスト教の秘義について、著者は述べます。
「宇宙的な秘儀は死と結ばれたままである。これに対して、キリスト教の秘義は、死を越えてもはや死のない新しい生命へ到る道に人を導く。神話と祭儀は互いに分かちがたい関係にある。キリスト教においても同様である。しかしこの関係は、現代のキリスト教においてはほとんど自覚されていない。欠けているのは、存在そのものにかかわる結合であるから、それは禁欲や教育によっては得られない。キリスト者として生きる力は、まさに秘義が与えるものである。人は祭儀を通して、キリストのいのちにあずかる。決定的なことは、人がキリストの救いの営み(オイコノミア)の中に組み入れられていることである。その他すべてのことは、この存在的な関係から生じる結果なのである」
要するに、古代の秘儀は「死」のセレモニーであったが、キリスト教の秘義は「不死」のセレモニーでああるというのです。
ここで「神話と祭儀」が不可分の関係にあることが示されましたが、神話とは原初の出来事に関するものです。著者は以下のように述べます。
「原初に関する神話は、文学的な虚構ではなく、ひとつの世界像がそこに表われている。この世界像は、今日でも拘束力のある現実性を有し、そしてとくに祭儀を通して現存している。この儀式を通じてのみ、自然の移り変わりの真の意味を把握し、理解することができる。儀式も生活にとって必要なものである。この考えはなかんずくキリスト者にとって重要である。キリスト者の生活の中心は典礼である。キリスト者の生活はまさに典礼に依拠しているということを、祭儀のとき意識しているならば、典礼はけっしてつまらない死んだ決り事にはならないだろう。典礼こそが、原初の出来事の現存から常に新たに刺激を与えることによって、現在の生活を真に意味づけうるものだからである。
原始民族はこのような考えに従って生活している。かれにとっては、毎日の偶然的な出来事もけっして偶然ではない。原始民族は、いかなる出来事をも、祭儀の中で現存している原初と常に関連づけて考える」
また、ユングとケレーニイの共著である『神話学入門』に触れ、以下のように述べています。
「スイス人のユング(C.G.Jung)とハンガリア人のケレンニ(karl Kerényi)は、著書Einführung in das Wesender Mythologie(第4版、1951)の中で、神話と物の起源との関係の問題を扱っている。かれらは、神話というものは本来それに基づいて人が生活したものであることを結論している。神話は、今日では単なる文学作品と考えられ、その本質が忘れられているが、今日でも神話がセラム島の人々の生活を規定しているように、かつては、古代ギリシア人、ローマ人、ゲルマン人の生活をも支えていたのである」
神話と祭儀の関係について、著者は以下のように力強く述べます。
「神話は祭儀の中で生きている。祭儀は生きている神話である。祭儀は、現在の行動の意味を明らかにする模範を、過去の中に求める。キリスト教の秘跡もまさにこのことを明らかに示している。子供が生まれ、洗礼を受ける。聖なる三位がその上に呼び求められ、その名によって再び水から上げられる。人が水の暗黒のふところの中に沈められるとき、キリストが死んだように死す。そして、キリストが復活したように、人も三位の名によって水から新しい生命へ浮び上る。人が救いの原事実の中に沈められるこの儀式を通して、それ自体としては小さく貧しい人のいのちが、『第2のキリストになる』という壮大な次元の中にひき入れられるのである」
わたしは、祭儀とは神話の出来事を思い出させ、原初の時に連れ戻す「初期設定」の文化装置ではないかと思います。
さらに著者は、祭儀について以下のように述べます。
「祭儀は原初を再興する手段であるから、キリスト者にとっては、その中に原初が新たに現存する。祭儀においては、単に救いの行為の効果を経験するのではなく、救いの行為そのものが再び現存している。キリスト者の礼拝の対象はキリストの救いのわざである。祭儀で読まれる旧約の太祖の行為は、予型であり、象徴であり、預言である」
そして著者は、神話の本質についても以下のように述べます。
「真の神話の本質は、それが何か文学的な創作ではなく、生きた現実だということである。それはかつて原初に起こったことであり、現在の人間の運命に影響を与えていると信じられている。神話は、より高い永遠的な現実について述べる。ひとは、自己の実存を把握するためにはそれを知らなければならず、それから生き方への指針が得られるのである。
同様にキリスト者も、いつも自分の生活をキリストと関係づけなければならない。福音の中に模範を求め、あらゆる出来事に際して、キリストの光のもとに見たらどう見えるかを考えなければならない。キリストこそ、われわれの鋳型である。キリスト者は皆キリストの生き方を生き、第2のキリストにならなければならない」
ここでまた、著者は神話学者であるカール・ケレーニイに言及し、儀式と神話について以下のように述べます。
「ケレンニのことばを借りるならば、儀式とは神話の内容を行動に翻訳するものである。これはわれわれにとっても非常に重要な命題であって、何よりも典礼を祝うときに忘れてはならないことである。ひとりの人を水に沈めて象徴的に死をもたらす〔洗礼式の〕典礼において、キリストの死が象徴的に表わされる。こうして根源的な救いの行為が再び明らかにされ、単にことばによってだけではなく、儀式によって表わされる。ミサの祝祭においてはこのことがさらに強く表現される。パンは主のからだであり、ぶどう酒は主の血である。この2つは祭壇上に分かれて置かれ、エピクレシスによって聖別される。あらゆる天上的な出来事が、地上の出来事に反映するという原事実が儀式の中で表現される。2つの形態に分かれていることは、いけにえとなった神人の象徴である。死んだ者だけが、体と血に分かれているからである。主は祭壇上に死んだ者として置かれているのである」
著者は、農業祭儀についても以下のように言及しています。
「古代の農業祭儀の立場から見直すと、預言者ホセアのことばは新しい意味をもってくる。このことばは現実の秘儀の式文を提示している。古代の農業祭儀の中で異邦人は2日間嘆き悲しんだ後、生命の再帰を祝う。農業祭儀の中では、死の悲しみとそれに続く新しい生命の喜びというテーマが繰返し現われる。注意すべきことは、もともとは祭儀において行動するのは神だけであって、後になってはじめて信者も神とともに行動し、自分自身も神になる、という考えが発達してきたことである。こうして、エジプトのオシーリスの祭儀では、信者は自分自身オシーリスである。この考えはキリスト教において、キリスト者がもうひとりのキリストになるという考えにおいて、最高の完成に達した」
古代の秘儀を代表するものとして、エレウシースの秘儀があります。
これについて、著者は以下のように非常に興味深いことを述べています。
「エレウシースの入信者は、聖別式の中の定った所である文句を唱える。クレメンスはこれをエレウシースの『ドラマ』と言っている。この聖別式全体は明らかに1つの神秘劇の形をしている。『デーメーテールとコレーは、秘儀のドラマにつくりあげられた。エレウシースは、この二女神のさすらい、略奪、悲しみをたいまつの火によって示す。』」
わたしは、『葬式は必要!』(双葉新書)や『永遠葬』(現代書林)、さらには『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)などにおいて、葬儀をはじめとした儀式の本質とは「ドラマ」であると述べました。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。
親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。
では、この儀式という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。それは、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。
エレウシースの秘儀に話を戻しましょう。著者は述べます。
「このエレウシースの『ドラマ』は文学的な意味のドラマではなく、秘儀のドラマである。その中心テーマも、あらゆる秘儀の中心問題と同じく、『どうしたら死を免れ、死後も生命を保てるか』ということである。このテーマは、コレーとデーメーテールの運命の中に表現されている。コレーは、黄泉の王に略奪され、その母デーメーテールは子を探し、長いさすらいの末にやっとみつける。これらすべてがエレウシースの秘儀のドラマの中で演じられるのであるが、入信者はこれらの出来事をただ表現するだけでなく、かれら自身が演じているものそのものであるかのように、自分自身でそれを体験する。このテキストが示すように、かれらは母のさすらい(デーメーテールは女祭司の姿で現われ、娘を探す)と、失った娘への悲しみを演じる。これはアドーニスの祭儀の悲しみと似ている。「たいまつの光」は、母と娘の再会にかがやく光を意味している」
秘義の本質について、著者は以下のように述べています。
「秘義の本質は、見える要素を通じて霊(プネウマ)的なことを見、聞こえることばを通じて霊自身を聞くことである。古代の秘儀でも、原理は同じである。入信者が経験し、見聞きするのは客観的なものであるが、その背後に全く霊的なものを『観る』。それゆえ古代の秘儀は、キリスト教の秘義をよく深く理解し味わうための助けとなる。秘義は単なる儀式でも、単なる教育的な模範でも、大人には必要のない子供っぽい人々のための絵物語でもない。秘義とは、感覚的なしるしを通して、神の現実に触れさせるものである。秘義は客観的な行為であるが、それに参加すると、信者は信仰によって、そのうしろに神の現実を「観る」ことができるのである」
さらに、キリストの秘義について、著者は述べます。
「秘義において主の行為に参加する人は、すでに永遠のいのちの活動のまっただ中にいる。その行為は、すでに神のもの、天上のものになっている。これがいつの日か天上で祝う祝祭である。典礼においては、それをあらかじめ味わう。しかし秘義を祝うときだけ、天上の現実にあるのではない。キリスト者の生活は常に祝祭である。キリスト者は、常にキリストとともに父の前に立っているから、常にこの神聖な典礼を祝っている。外的な祝祭は過ぎ去るが、内的な祝祭は留る。逆に、ユダヤ教や異教では、典礼を祝う特別な日や、いけにえをささげる決った場所があった。祭儀は、時と場所にしばられていた。神を崇拝しようと思うときには、神殿に行かなければならなかった。神はそこにしかいなかったからである。われわれ人間にとって、現在とはただちに過去になってしまうただの一瞬に過ぎない。われわれは永遠の時の流れの中にあって、留ることができない」
続けて、人間の行う祭儀について、著者は述べます。
「これに照応して、人間の行う祭儀も、キリストによって時間から解き放たれていない間は同じであった。祭儀も時間に縛られ、太陽や月の運行や、地上の産物の成長に縛られていた。祭儀が時間や自然に繋がれていたので、しだいに自然自体を崇拝するようになり、遂には自然の諸力をも神格化してしまった。しかしキリスト教では全く違っている。主・キリストは死を通して永遠に入り、もはや時間性にしばられていない。したがってキリスト教の祭儀は、自然にではなく、永遠性に繋がっている。日や時間にしばられず、新しい世(アイオーン)のもとにある。祭儀によって、われわれは時間をふみこえる。もちろん、決った祝日を祝うこともある。時間のうちに生きる人間として、時間に貢物を払わないわけにはいかない。しかしわれわれは自然を祝うのではなく、自然によって象徴する何かを祝うのである」
著者によれば、われわれはキリストの行ったことをすべて行わなければならず、秘義の「共演者」にならなければなりません。著者は述べます。
「古代の演劇は、この『共演』の意味を明らかにしてくれる。古代の劇場で上演されるのはたいてい宗教劇であって、観客はただ傍観するのではなく、ともに演技し、ある意味でそれに参加した。劇場の中央には、神が、たいていは何かの仮面をつけて座していた。そのまわりで劇が行われ、全員が何らかの形で、その中に加わったのである。この劇は『神』と人との共同のわざであった。この劇の中では、神々と人間は祭りをともに祝う。この劇によって、古代人は見えない世界を見える世界に降し、それを現存させその中に入ろうとした」
さらに、古代の演劇について、著者は以下のように述べます。
「古代人にとって劇は神聖な行為であった。見える形で行動するのは人間であるが、真の行為者は列席している神々である。神々が人間を通じて劇を行う。それゆえ劇において表現されることは、真に現実化するのである。
これらすべてのことは、より高く深い意味において、キリスト教の奉献秘義にあてはまる。この神聖な劇では、見える形で行動するのは人間であるが、キリストが見えない姿で救いのわざを完成する。キリストは『祭り仲間』であり、真の行為者である。われわれが行うことは、実はキリストが行うのである。からだが頭と全く一体であって同じ行為を行うように、われわれはキリストとともに行動する。神聖な洗礼によって、われわれはキリストの枝体となり、受肉した子とともに、ひとりのキリストになる。こうしてキリストの行為はわれわれの行為となる。キリストは、秘義において、自分のからだである教会(エクレシア)とともに行動するのである」
2「秘義共同体である教会」では、著者はキリストによって定められた「神聖な秘義の体系」について以下のように述べています。
「秘義の体系は、常に繰返し行うことのできる目に見える儀式から成立しているが、その背後には、目に見えない神的な現実がある。たとえば降誕祭には、救いをもたらす神の子の誕生が、新たに神秘的に描き出されることによって現存する。救いが生じるのは、まさにこの神的な現実によるのであって、単なる追憶や、大昔の歴史的な事実の効果によるのではない。この救いは、からだの救いではなく、死後にも残る人間のより高い部分に及ぶ救いである。この部分こそが、秘義の力によって彼岸においても生き続けるのである。しかし、この救いを未来のことに限定しないよう、再び注意しておきたい」
続けて、著者は以下のように述べています。
「キリスト者は、秘義によって天上のことに『今すでに参加している』のである。秘義の内容は、『清め』『更新』『『食べること飲むこと』でもあるし、また『照明』つまりより高い光の知(グノーシス)でもある。おそらく秘義の本質を表わす最も意味深いことばは『参加』(participatio,consortium)であろう。この概念は、古代の秘義のみでなく、古代の宗教哲学や神秘観の深さを思い起こさせる。プラトンは、地上のものが天上のイデアに『あずかる』こと、地上のものが、単に天上のものにぶつかり動かされるだけではなく、本質として、天上のものに『あずかる』と言っている』
そして、著者は「観る」ことの重要性を訴えます。
この読書館でも紹介した『神話と古代宗教』では、古代ギリシャ人の宗教の本質は「観(テオーリア)」であると指摘されていましたが、本書の著書も以下のように述べるのでした。
「古代の秘儀について論じる際に、ひとつ注意を払わなければならない点がある。『観る』ことは秘儀の中心であって、『観る』人を、『観る』ものへと変える力をもつ。人間は神に同化する。しかしそれは自分の力によるのではなく、神を『観る』ことによる。これは深い神秘観である。古代人はこのことをすでに予感していた。キリスト教の秘義は、それに最高の客観的現実性を与えた。神は感謝の祭儀(エウカリスチア)において見える姿で現われる。―アプレイウスの『転身譚』に出てくる入信者ルチウスは、『観る』ことによって自分が太陽神となり、翌日にはその姿で現われ、神として崇拝された。キリスト者も、同じようにこう言うことができる、『わたしはキリストである』と」
最後に、キリスト教の秘儀というと、わたしたち日本人にはあまり馴染みがありません。しかし、その本質はイエス・キリストの言行録である『新約聖書』に依拠しています。イエスの生涯やその言葉を意味を知ることがキリスト教秘儀の理解に役立ちます。わたしのブログ記事「パゾリーニの世界」で紹介したピエル・パオロ・パゾリーニ監督(1922-1975)の代表作である「奇跡の丘」(1964年)という映画は、キリストの生誕から磔刑、そして復活までを丁寧に描き、数々の映画賞に輝いたパゾリーニの出世作です。
パゾリーニ自身は無神論者でしたが、彼は『新約聖書』の冒頭に置かれている「マタイによる福音書」に基づいてキリストの生涯を忠実に映画化しています。この作品は、1964年の第25回ヴェネチア国際映画祭審査委員特別賞と国際カトリック映画事務局賞をダブル受賞しています。無神論者が作った映画でありながら、とはいえ、カトリックの国イタリアでカトリック映画として認められたわけです。わたしも「奇跡の丘」を観て、キリスト教の秘儀が少しは理解できたように思えました。