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2016.07.08
『祭祀空間・儀礼空間』國學院大學日本文化研究所編(雄山閣出版)を読みました。平成11年(1999年)に刊行された「まつり場を考古学する」本です。國學院大學日本文化研究所が開催した公開学術講演会(市民講)ならびにこれらの講演を踏まえて開かれたシンポジウムの記録をとりまとめたもので、いずれも「祭祀儀礼空間の形成と展開」をメインテーマとしています。とても興味深く、面白い内容でした。
本書の帯
本書の帯には「考古学の遺跡・遺物から古代人の祭祀観・まつりの場を復原する」と書かれています。 また、帯の裏には以下のように書かれています。
「縄文モデル村の中央広場から、巨大祭殿、前方後円墳を経由して、飛鳥寺西の広場、そして藤原京大極殿へ。まつりの広場は古代人にどのように意識され、伝えられたか」
本書の帯の裏
本書の「目次」は以下のようになっています。
「発刊に寄せて」阿部美哉
「縄文世界における空間認識」小林達雄
コラム1「縄文人の大形建物」宮尾亨
「弥生時代の大型建物と祭祀空間」金関恕
コラム2「弥生集落と大型建物」粕谷崇
「古墳時代の宗教構造とその空間」水の正好
コラム3「豪族居館と祭祀」篠原祐一
「古代の祭祀空間」和田萃
コラム4「宮・都城と儀礼空間」平野卓治
シンポジウム「祭祀儀礼空間の形成と展開」
「あとがき」椙山林継
「執筆者紹介」
遺跡や古墳のカラー写真も掲載されています
「発刊に寄せて」の冒頭では、國學院大學日本文化研究所の所長を務める阿部美哉氏が、本書が世に出る経緯を以下のように紹介しています。
「本書は、國學院大學日本文化研究所が、平成8・9年の春と秋に開催した公開学術講演会、平成9年の秋に実施した「日本文化を知る講座」(市民講座)、ならびにこれらの講演を踏まえて平成10年の新春に行ったシンポジウムの記録をとりまとめたものである。いずれも『祭祀儀礼空間の形成と展開』をメインテーマとし、本研究所椙山林継教授が企画して推進した」
続けて、阿部氏は以下のように述べています。
「学術講演会は、当該分野の碩学である、縄文を小林達雄教授(國學院大學)、弥生を金関恕教授(天理大学)、古墳を水野正好教授(奈良大学)、古代を和田萃教授(京都教育大学)の4氏にお願いした。演題は本書の目次を御覧いただきたい。『日本文化を知る講座』は、新進気鋭の方々にお願いし、資料の提示に重点をおいていただいた。宮尾亨氏、柏谷崇氏、篠原祐一氏、平野卓治氏の4氏で、本書ではコラム欄に要旨を掲載している。シンポジウムは、学術講演をお願いした4教授にお集りいただき、加えて鈴木靖民教授(國學院大學)にコメントしていただき、椙山氏が司会した」
「縄文世界における空間認識」の冒頭では、國學院大學教授の小林達雄氏が、縄文文化について以下のように説明しています。
「縄文文化というのは、いまから1万2千年前ぐらいに始まるものです。ちょうどこのころは世界的な歴史の転換期にあたります。長い氷河時代が終わりまして、いよいよ現在のような気候に入ろうとしている、そういう境い目の時期です。そのころを境い目にしまして、その後世界中のあちらこちらでいろいろなことが起こります。たとえば、土器を作り始めるとか、弓矢を使うとか、犬を飼育するとか、さらに丸木舟を使って外海に漕ぎ出すというようなこと、そして定住的な村を営むということが始まるわけです。日本列島は大陸の一番東に位置していまして、しかも海の中に蹴り出されたような格好でぶら下がってるちっぽけな島国なんですけれども、たいへん興味深いことにそういった動きに少しも遅れをとることなく、むしろほかの地域に先んじて新しいことを始めたりする、そういういくつかのことがみられます。たとえば、土器を作るということは人類の歴史にとってたいへんな事件なんですが、それを逸早く作り始めるのも日本列島です。それから外海に漕ぎ出して、活発な航海活動をしています」
そういたことがなぜ日本で起こったのでしょうか。 小林氏はその1つの理由として、背景として、人口密度が高かったこと、これが非常に大きな問題ではないかとして、以下のように述べます。
「人口密度がどうしてわかるかということになりますが、実はほかの地域に比べて遺跡の数がたいへんに多いのです。遺跡の数はそのまま人口と正比例するというわけではないでしょうけれども、遺跡の数が多いということは人口とある程度比例していたと考えられるわけです。つまり小さな日本列島は、当時それだけ世界的に有数な人口密度を抱えていたということです。おそらくそれを可能にしたのは、現在でも私たち、日本の自然に育まれてきていますけれども、この豊かな自然というものを抜きにしては考えられないわけです。世界中のあちこちを見ていましても、やはり日本の自然というのはたいへん豊かで、そしてこれの潜在的な包容力といいましょうか、それは植物を、動物を、そして人間を、さらに人間の文化を育ててきた重要な要素になっているものだと思います」
こうして縄文時代が幕を開けます。このとき、それまでの日本列島の長い旧石器時代の歴史とはっきりと一線を引くことのできる大きな出来事がありました。土器を作り始め、使用したということ以外にも、犬を飼育するとか、新しいことを矢継ぎ早に行いました。しかし、特に重要なのはこのころを境い目として、定住的な村を営むようになったということであると小林氏は指摘し、以下のように述べます。
「この村をつくるということにより、それまで転々と居場所を移動していた生活から、1ヵ所に腰を落ち着けるということになります。そして今度は自然との付き合い方、関係の仕方が、腰を落ち着けたその場所を取り囲む自然と関係を密接にもっていくということです。それまでは1ヵ所ではなくて転々と移動する各場所におきましては仮の住まいといいましょうか、そういうことですから1回性の関係で終わってきたわけです。ところが今度はそういう1回性の関係から、恒久的な半永久的な関係をじっくりと結ぶという局面を迎えたということになります。こうした定住的な村の基礎になるのが、実は堅穴住居であり、家を造るということです」
この家を造るというのは重大なことでした。 ローマの建築史家のウィトル・ウィウスによれば、住居の建設に当って、その建築材にどれを選ぶかという種類、それとその種類の性質、それを1つの構造物の中に取り込んで、新しく家という人工的な空間をつくるというのは、画期的なことだそうです。彼は、紀元前22年頃に、これこそが人間が新しい知的世界を開いたきっかけになったと、紀元前の22年頃に指摘しています。小林氏は「家を造る」ことについて、さらに述べます。
「家というのはそうやっていままでに自然の中には全くなかったものを、人間が人工的につくり上げた空間なんです。そういう空間というのはそれまでの転々と自然の中を移動して回るような生活様式と比べると、自らの根拠地に一定の広がりの面積領分を確保する、というようなことになってきたわけです。それまでは自然界の中に自分だけの領分というものはなかった。けれども堅穴住居という人工的な建造物を造ることによって、堅穴住居が必要とする面積、そしてその周りを取り込んだ、私有的空間といいましょうか、そういう意識というものもこのとき同時に始まったとみることができるのではないかと思います」
小林氏はまた、「ウチとソト」として、以下のように述べます。
「家というものが一定の場所に限拠をもち、面積をもち、そして私有的なそういう土地を持つというようなところから、私はもしかしたら自分たちがよって立つところの家であるここ、ヒア(Here)と、その家の外の周りをゼア(There)、そことかあそことか、そういうものとの区別も竪穴住居なんかが出てきたときに、同時に意識されてきたという可能性を強く思います」
小林氏によれば、たぶんウチとかソトとかという日本語も、このときできたのではないかといいます。そういう観念を区別するというのには、それに対応する記号としての言葉がある、縄文日本語がある、おそらく縄文日本語の「ウチとソト」、そういうものではないかというのです。
「ウチ」という観念について、小林氏は以下のように述べます。
「この『ウチ』という観念は、とにかく壁で囲まれた、そして自分たちがつくった特有の空間ですけれども、それは家のソトにはない固有の機能と意味を持つ空間として、ますます意識がはっきりとしていきます。つまりそういう観念が確立していくわけですけれども、そのウチの中の機能というのは、もう少し目に見える形でいいますと、ウチの中における特有の行動、寝起きするというようなこと、あるいはそういうものを含めて寝にいくときの腰の屈め方とか、摺り足の具合とか、そういった振る舞い全体。家の中の振る舞いとソトの振る舞いがまた違ってくるから、単に壁で囲まれたからこれは囲まれた内側と、外側との違いなんだということではないのです。その囲まれた家の内側における振る舞いの種類と性格と、そうして、家のソト、そこにおける振る舞いの種類とその性質というものの違いが、ますます家の中の家のウチという観念というものを強めていった、と考えることができるのではないかと思います」
続けて、小林氏は以下のような具体例を示します。
「たとえば、これはその後日本家屋におきまして、襖の開け閉め、あるいは背をこごめて客のもとににじり寄るとか、畳の上を歩くときの歩き方とか、そういうものが小笠原流の礼法なんかを生み育てていくように、縄文時代におきましても堅穴住居内における振る舞いの作法みたいなもの、そういうものが堅穴住居のウチの観念の強調とともに、確立してきたとみることができます」
小林氏は、家というものの本質について以下のように述べています。
「家というのは極めて排他的な空間です。人工的な閉鎖的な狭い空間ですが、ここに排他的な空間としての意味もみていかなければいけません。つまりこれは家族、この家に入ることのできる人、つまりその空間を使うことのできる人は、原則としてその家の持ち主とその血縁、縁者ということになります。それが家族です。ですから堅穴住居ができたということ、縄文時代に家を造ったということは、家族というものの主体性がここでいよいよ確立した、少なくとも動かしがたい社会単位としての家族がここに成立したとみることができるかと思います。そういう家族は、あるいはそれに似たような性格、形の家族は旧石器時代にもあったかもしれません。ここで、少なくともと表現するのはそういうことです」
続けて、小林氏は家族について以下のように述べます。
「少なくとも堅穴住居というものによって家族というものは、もう動かしがたい社会的単位としてここに確立したということでして、この家族が竪穴住居の空間の中でいわゆる家族的連帯意識といいましょうか、それを持つ。それはここに一緒に住むということの連帯意識とともに、先ほど指摘しました炉であるとか祭壇であるとかというものをメディアとして、それを媒介にして、もしかしたらいま顔を突き合わせている親兄弟とかいう関係を超えて、ずうっと遠いご先祖様、その中でいま自分たち家族がいるというようなところにつながっていく可能性が高かった、とみることができるのではないかと思います」
「竪穴住居と聖性」では、家の中の聖なる空間について、「ついこの間までどこの家にもあった仏壇とか神棚的なあの性質というのは、実は縄文時代に根があるということです。しかし、事は単純ではなくて、弥生時代になると田圃作りに精一杯なんです。そうするとそういう聖なる性質というものが堅穴住居の空間の中から失われていきます」と指摘されています。
「ムラと家」において、小林氏は「なぜ円く家が並ぶのかということもたいへん重要なこと」として、以下のように述べています。
「おそらく彼らの世界観、宇宙観と深い関係があったというふうにみることができます。いろいろな世界の民族例をみましても、そういう例はたくさん挙げることができます。アメリカ大陸の先住民の人たち、そういう人たちが丸い広場を囲んで家を並べていきます。あるいは、アフリカのブッシュマンの人たちは円形に家を並べていきます。そしてそれは実は完全な形の円なんだという、そういう宇宙観、世界観に裏付けられておりまして、そしてそれはそのまま彼らの小屋の形を円くするというようなことにも連動しております。さらにモンゴルの穹盧、大きなテントのようなもの、あれも彼らの世界観ともかかわっているのです」
続けて、小林氏は古代人の世界観、宇宙観について言及します。
「これは鶏が先か卵が先か、あるいは両方お互いに関係している、テントというものの構造から、丸というものも技術的、構造的に出てくるというのも、確かに背景にあるでしょうけれども、一方ではそれが彼らの世界観となって、それでよしとする、納得を彼らはするわけです。さらにアメリカの先住民の中には、今度はそういう円形ではないけれども、大体円形に展開するときに、特別な星を自分たちの家族1つ1つが、1家族、1家族が星に対応させながら、全体として宙天に浮かぶ星座の位置をお互いに取り合うというような、そういう宇宙観もあったりします」
ここで、小林は古代人の世界観に関連して、以下のように非常に重要なことを述べています。
「群馬県安中市に中野谷松原遺跡というのがありまして、これは縄文時代前期の遺跡で、直径が数十メートルの円い中央広場を囲んで家が展開するのですが、最盛期でもせいぜい家は10軒程度です。だから10軒で数十メートル直径の輪を全部囲むことができません。そうすると彼らはどうしたかというと、空いてる場所に実は墓穴を掘っていくのです。家とお墓とが一緒になって手をつないで、そういう円い彼らの宇宙観に基づく広場を構成している。つまり縄文時代のムラというのは、生きている人だけではなくて、死者と一緒に経営していたということを読み取ることができます。いまわれわれがアパートの隣りの部屋は空部屋にしておくのではなくて、いろいろな人の納骨であるとかということは考えられないことですけれども、実はそういうことを縄文時代の村はやっていて、全体のムラが出来上がっているということもたいへん興味深いことです。これが縄文的な世界観です。縄文的なスペース・デザイン、そしてその背景に世界観があったということです」
縄文時代のムラは、生者と死者が一緒に経営していたというのです! まさに『唯葬論』(三五館)の世界そのものです。
「ハラとヤマ」として、小林が説明している内容も興味深いです。
「ムラの外は実は原っぱです。ムラができる前までは、恐らく『ムラ』という言葉もなかったし、『ハラ』という言葉もないのです。ずうっとムラもハラもいっしょくたに重なったものであった。彼らの人々の占めるスペースというのは点でしかなかった、自然の中の点です。ムラはなかった。だからムラという言葉、名前とかそういう観念もなかったでしょう。自然、そして自然はいいものだとか、美しいとか、自然を愛さなくては、保護しなければというのは、だから全く余計なことですけれども、そういう思想も生まれる余地がないような、自分たちと一緒の物我一如の世界であった」
続けて、小林氏は以下のように述べています。
「ところがいま申しましたように、家が群がって、そしてムラをつくって、ムラ特有の設計図をつくり、世界観に基づく設計をし、そしてそこにさまざまな彼らの生活に必要な、ムラの内容を整えるための施設というものをつくりあげることによって、ますますこれは自然にはない優れて人工的な空間というものをつくりあげるということになります。こうやってそのムラ空間と、そうではない人工の及ばないムラのソトとの関係というものが意識され出した。恐らく縄文モデルムラの成立の時をもって、『ムラ』と『ハラ』という言葉ができたのです」
小林氏は「実はハラの向こうにはヤマがあります」と言い、さらに以下のように述べています。
「日本の国土というのはたいていこういう構造をなしております。ヤマというのはこれは自然の世界です。つまりもう一度復習してみますと、ムラは人工の世界、人の世界、ハラは人と自然の共生の世界、そしてヤマは自然の世界です。山こそが自然一色の世界、それは生活領域を超えたものです。自分たちの生活領域を超えたものです。そこは自分たちのものにすることはできません。『ヤマ』もおそらく相当古い言葉だろうと思うのです。ヤマとハラとの違いは、ハラは至るところに名前が付いています。たとえば、北海道のアイヌの人たちは、日本の文化が入り込む前に彼らの世界をつくりあげていましたが、細かいところにまで名前が付いています。川の1つ1つの枝にまで付いています。大きな石があれば、石に名前が付いています。それから川の急流のところには急流、澱んだ淵には淵の名前が全部付いています。大きな木があれば木に名前が付いています。ちょっと不自然に窪んだ場所があると、そこにも名前が付いていて、あの世に行ったり来たりする出入口だというような、そういう伝説までそこに付け加えたりする。とにかく名前が付くのです」
小林氏は「ノラ」という言葉も取り上げて、以下のように述べています。
「ノラはあれは野良仕事という言葉によく表されているように、畑です。水田です。栽培作物、そういう特定の場所をハラの中から、実はハラというのは先ほど申しましたように、人と自然が共生する場なんです。ところがノラはハラの中にさらにムラから飛び出て、人工的な自分たち固有の場所を確保した、そういうハラの中の人工的な空間なんです。だからノラというのは特別に、ムラのソトなんだけれどもハラの中に設けられた人工一色の空間ということになろうかと思います。それはもちろん弥生時代になって水田作りが朝鮮半島から入ってきて、ノラというものがどんどん増えていくのです。こうして家とムラというものが人一色の空間、そしてそれが近景です。そしてハラというのは人と自然の共生する場であって、それは中景になります。そしてヤマが遠景になり、それは自然の世界です。そしてソラというのが背景となって、これはいわば神の世界、あの世。そうしてこことあそこと、そして天と、空と、要するにそういう日本人の原風景の構造というものが出来上がっていくのではないかというふうに思うわけです」
「記念物を造る」では、縄文人の人工的なモニュメントの建造について、小林氏は以下のように述べています。
「縄文人はムラというものを、すぐれて人工的なスペースにつくりあげていきます。そしてますます自然と対立させていくのですけれども、その中で最たる彼らの事業がございます、それが記念物造り、モニュメントを造るということです。記念物というのは、実は日常的な生活と直接に関わりを持たないようなものでいて、それでいて大変な人手と年月を必要とするそういう構造物です。いわば腹の足しにならないもの、腹の足しにならないものなのに、腹の足しにすべき日常的なそういう時間と人手の規模をはるかに超えた量を投入して造るものです。これをムラの中に造ることによって、ますますこれは全く人工的な性格を主張するのです、本当に造り物。こういう造り物を備えることによって、ますます縄文人は自分たちの人工的な空間と、そしてそのソトの自然的な空間との差をはっきりさせ、そしてムラはムラとしての主体性を主張していきます」
そして、「縄文世界における空間認識」の最後に、小林は以下のように述べるのでした。
「縄文人たちのアイデンティティーに安心感といいましょうか、記念物というのはそういう安堵を自分で持つためにやるのです。たとえば、エジプトのピラミッドとか、インドネシアのボロブドゥールとか、マヤの神殿だとか、ああいうものもわれわれが教科書で習ったときは、上に立つ独裁者がいて、そして鞭を振るわんばかりにして強制労働に駆り立ててああいうものを造ったとされています。しかし、事実はそうではない。たとえば、『仁徳天皇陵古墳』なんかでもそうです。私たちは古墳時代をイメージするときに、相当の権力者がいて、そして正直者の人民をこき使って、ああいう475メートルもの『仁徳天皇陵古墳』を築いたというふうに教えこまれてきたのですけれど、そうじゃない。あれは彼らの世界観の表現です。ちょうどストーン・サークルだとか環状の土手を造るのと同じです、あるいは、高い柱を立てるのと同じです。そういう大仕事、馬鹿みたいな仕事というのは、ことごとくそういった世界観にかかわって、そして腹の足しにもならないからこそ、みんな滅私奉公して造りあげた共同の記念物ということになるわけであります。そういう意味からしても記念物というのは、最も人間味あふれた人工的なものです。最も人工的なものなのに、それを自然の空間の中にうまくはめ込んでいる、組み込んでいる。そういうところをみていただきたいと思います」
コラム1「縄文人の大形建物」では、國學院大學講師(当時)の宮尾亨氏が縄文集落の構成について以下のように述べています。
「縄文集落は複数の施設によって構成されている。住居としては、地面を掘り窪め、そこに柱穴や炉などを造る堅穴住居が代表的な存在である。また、食料資源の季節的な偏りを克服することを可能にした貯蔵施設や、その他さまざまな用途の推察される穴がある。穴の中には死者を埋葬する施設、すなわち墓穴があり、葬送儀礼を伴う観念が発達していることを物語っている。このような穴を覆うように、あるいは独立して存在する立石や配石などと呼ばれる遺構があって、何らかの施設の用をなしている。墓穴に設けられた立石や配石は埋葬施設と評価できる。他に景観などに独自の意味を与えながら、特別の空間を形成していたと思われる記念物もある」
また、宮尾氏は縄文人の祭祀儀礼空間について、以下のように述べます。
「縄文人の祭祀儀礼空間を考えるにあたっては、縄文人の場所に対する観念に注意する必要がある。縄文時代は離合集散のある社会であったため、縄文人相互の関係を維持する場所を必要とした。そして、縄文人相互の関係を確認するためにこそ、祭祀儀礼という行為は要請されたのである。祭祀儀礼を行って、縄文人が相互の関係を確認する場所は、縄文人にとって格別の意味が与えられた場所であったと考えられる」
「弥生時代の大型建物と祭祀空間」では、天理大学教授の金関恕氏が、「宗教発展段階における弥生時代」として、弥生時代の人々の宗教段階を説明します。 金関氏はロバート・ベラの宗教段階説を紹介し、その仮説に基づいて考えを進めます。ベラは、新進化主義の系譜に連なる人ですが、彼の「宗教進化論」は『ソシオロジカル・レビュー』という雑誌に出されたものです。彼は進化について「環境の変化に対して組織を複雑化して抵抗力を強めようとする変化の方向である」という趣旨の定義を下しました。また「進化をもって価値の増大とは考えない」と述べ、進化と退化は可逆的であることも指摘しています。金関氏は、このベラの考えにそって、宗教を、原始、古拙、有史、初期近代、現代という5段階に分けています。ベラの宗教進化説が出されたのは1960年代のことですが、それ以来、宗教の発達を大きく把握した学説は出されていないそうです。金関氏は「ベラのように世界の宗教を広く見渡しうる大学者が少なくなってきたのでしょう。また社会進化論に対する疑問が続々と出て来たこともあります」と述べています。
5段階のうち、宗教的原始というのはどういう時代でしょうか。金関氏は述べます。
「ベラはオーストラリアの原住民の人たちの神観念が、非常に素朴で原始的であると考えました。その特徴は生活している人間と神の一体化であります。それに神話世界と人間世界が一体化していることです。その世界では神を祭るための専門的な役割をもった人はいません。社会の成員の誰でもが宗教人であり、神は常に人と共にいるというのがこの原始の世界であります」
この宗教的原始の世界がもう少し複雑化し、大部分の地域では「古拙」(アーカイク)の段階に入ります。金関氏は以下のように述べています。
「この段階の特徴は神の世界と人間の世界が分離することです。中国、日本、ヨーロッパでもそうなります。神は神の世界にいて、人間は必要に応じて神を呼んで来ます。用がすめば神を送り返します。そのためには、神を招き、送り返すような特別の力を持った人間が必要です。これは職業的、あるいは半職業的に神を扱う司祭、あるいは神主といった仕事を受け持つ人が出てこなければなりません。神をお招きするためにいろいろな工夫が必要であります。ですからこの段階で初めて犠牲、特定の選ばれた獣、が捧げられ、燔ったり煮たりして匂いを昇げ、香りの高いお酒を作って供えます。あるいは大きな音を鳴らします。集まった人々は神に願いごとをし、最後は神と人々が一緒に食事をし酒を飲み神を送り返すわけであります。これが古拙段階です」
ベラの宗教段階説の中で、弥生時代の宗教はどの段階に当たるかといえば、金関氏は宗教的古拙段階であろうといいます。縄文時代はおそらく原始の段階ではないかとして、金関氏は以下のように述べます。
「弥生時代には、神様は種蒔きから収穫までの年の半分はこの世にあり、残りの年の半分は神様の世界にいると、人々は信じていたのでしょう。神の送迎に必要な乗り物は人の世と神の世界を自在に飛ぶ、鳥であると信じられました。弥生時代の資料に鳥がしばしば登場するのはそのためです。木で鳥の形を作ったものを竿につけて代用品にしました」
続けて、金関氏は祖霊崇拝というものに言及します。
「その神様は穀物を発芽させる力、すなわち穀霊として、渡り鳥に運ばれて神の世界からやって来ました。弥生の人たちが神と信じていたのは、死んだご先祖の魂、つまり祖霊だったと考えられます。宗教学者で有名な古野清人先生が『東アジアの宗教の特色は祖霊崇拝である』ことを、以前に喝破しておられます。ある意味では祖霊崇拝はむしろ人間社会の共通現象であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の方がむしろ特殊な宗教であるかも知れません。日本の歴史の過程でさまざまな、いわゆる世界宗教を受け容れて来ました。しかしその一番根っこのところには、ご先祖様の魂を祭る祖霊崇拝があることは否定できません。弥生時代にはそういう信仰が、もっと純粋な形で躍動していたのではないかと思います」
「古代の祭祀空間」では、京都教育大学教授の和田萃氏が「雨乞い」について以下のように述べています。
「水源というのでしょうか、水分で水の祭祀が行われたわけですが、雨乞いの事例をみていきますと、川の上流で行われた事例がかなり多く見受けられます。古代の雨乞いを考えるきっかけになりましたのは、実はごく最近でありますけれども、京都市右京区の梅ヶ畑遺跡から陰陽道の雨乞い、『五龍祭』にかかわる遺構が見つかりまして、関西では少し大きく報道されたのですが、そのことをきっかけに、古代の雨乞いについて少し考えておりますことを、お話したいと思います」
和田氏によれば、雨乞いには3つの系統があるといいます。1つ目は、日本の基層信仰にかかわる雨乞いです。2つ目は仏教による雨乞い、仏教の場合も『大般若経』など、鎮護国家のための経典による雨乞いと、いわゆる密教による雨乞いです。3つ目は陰陽道による雨乞いであり、「五龍祭」と呼ばれるものです。これもかなり密教の影響を受けているといいます。
シンポジウム「祭祀儀礼空間の形成と展開」では、小林達雄、金関恕、水野正好、和田萃の4人のパネリストが議論を展開します。まず、司会を務める國學院大學日本文化研究所教授の椙山林継氏が、表題に「祭祀儀礼空間の」と6文字も漢字が並んでいるとの指摘があったことを明かし、以下のように述べています。
「祭祀も儀礼も同じではないかといわれればそれまでで、中国の『儀礼』という書物には『祭祀』のことがみな書いてあるわけですし、そういう意味では重複とも思います。 基本的にわれわれの先祖といいますか、われわれにつながってくる日本列島の人々の中で、どのような考えが持たれていたか、現代ですと『儀礼』と『祭祀』と分けられることもあると思いますが、古代においてはそれはほぼ分けられないわけで、その時にどういう所で、どのような場所で、どのようなことをして、どう考えていたのかということ、そしてそれが現代にどんな意味をもっているのだろうか、さらにわれわれのこれからの生活にどのように考えていかれるだろうかということも含めて、私は考えてみたい、整理しておいていいのではないか、と思ったわけでございます」
椙山氏は、続けて以下のように述べます。
「『儀礼』といいますと、近現代では、たとえば、皇居前広場があるとか、あるいは世界的には赤の広場とか、天安門前広場、そういう広場とか、あるいは凱旋行進をするようなストリート、通りがある。そういう場所、この場所は古代にだんだん遡っていったときには、どんな場所がそれに当たっていくのだろうかということも、考えてみても面白いのではないか」
さらに椙山氏は、「場所の問題、日常生活と全く重なるかもしれませんが、重ならない場所もあるだろうか、そう考えてみていくと、それは祭りの場所であり、あるいは葬式の場所である、墳墓の場所である。それを含めた空間、これをどう考えていくか」と発言して、問題提起します。
「縄文モデルムラと記念物」では、小林氏が以下のように述べます。
「ムラの中には、ムラの生活、彼らの生活を続けていくのに必要な施設が設けられます。食べ物を貯蔵する穴蔵、それからごみ捨て場、それから死者を葬る墓場、そのほかいろいろなものが展開していきます。そして面白いことに、その広場には大きいものは200メートルという直径の大きさもあるのです。その200メートルをちゃんと丸い円で囲もうとすると、何十軒も建たなければいけないのですけれども、実は当時のムラというのはそれほどの規模ではありません。三内丸山だけが何十軒もあったといってますが、私は認めていませんで、一部の人だけが飛び跳ねて、あそこに神殿までつくるわけですけれども、それはそれとしてせいぜい10軒です。10軒で丸いサークルをつくるということはとうてい無理です。面白いことに群馬県の『中野谷松原遺跡』にはその足りない部分に『墓』が並んでるんです。つまり1つのムラを経営するのは、生きてる人だけではなくて、死んだ人たちと一緒に『共同経営』しているんです、こういう空間です。これが縄文的なムラの特色ということになるかもしれません」
「弥生人の祭祀空間」では、金関氏が「祭り」について以下のように述べています。
「いま『お祭り』の点で申しますと、古い一番最初の弥生時代の始まりのころは、縄文的な祭りが残っておりましたけれども、しかし何といいましても弥生人は1つの賭け事に出発したわけです。彼らの生業を縄文と比べますと、主食がお米になり始めたということからわかりますように、その年の水田の実りが非常に大きな意味をもっております。これは縄文人が非常にたくさんの種類の生業をやっていた、もちろん森の中に木の実を拾い、そしてその灰汁を抜いて植物性の食糧を取る。あるいは、畑で雑穀も栽培していたかもしれない。それから山や森に獣を狩る、あるいは海に出て貝を拾う。彼らは縄文カレンダーに従いまして、四季それぞれの生業を分けてやっております。ある生業が壊滅的になりましても、別のところで補われることがあるということで、賭はそれほど大きくなかった。ところが弥生人にいたしますと、お米がもし実らなかったら、その1年、あるいはその次の年も彼らにとっては食物がなくなるわけですから、米が実るということ、豊作であるということには、縄文人以上に非常に真剣な祭りをしなければいけなかった、ここにかれらの 『生産儀礼』お祭り、特に生産の祭りに対する情熱が非常に高くなっていったということがわかるわけです」
また、縄文社会と弥生社会の違いについて、金関氏は以下のように述べます。
「弥生人の社会が縄文とどう違うか、先ほど小林先生は、縄文は中央に広場があって、周りにずっと堅穴住居が徐々に形成されていったんだと。もしその広場に対して住居の数が少ない場合は、死んだ人のお墓もその中に並べて、生者と死者が一緒に住みながらと、いわれました。ときには広場の中にお墓があることもあるのです。そういうふうに『死者の生活と生者の生活が一体になっている』これが縄文的でありますけれども、弥生時代の村落の1つの大きな特色は、生きている人の生活と死んだ人の生活をはっきり分けてしまう、ときには間に溝や川を挟んで、『死者の世界と生者の世界が分かれていく』のが弥生であろうと、考えられるわけであります」
これは非常に明確で、わかりやすい相違点の指摘であると思います。
続けて、金関氏は以下のように「死に対する恐怖」と「祭り」の関係について述べますが、これも大変重要な指摘です。
「以後、『死に対する恐怖』というものが非常に強くなっていく。死に対する恐怖というのは、ただ『死』という生理現象の停止ではなくて、何か死んだ者が持つ一種の穢れのようなもの、それに対する恐怖が非常に強くなっていく世界が始まっていくのだと思うわけです。これはおそらく日本の祭りの1つの大きな特色ではないかと思うのです」
また、金関氏は「聖なる場所」について以下のように述べます。
「地域も時代も非常に飛躍してしまいますけれども、私たちがイギリスや、あるいはヨーロッパの諸国にいきまして、『一番聖なる場所はどこだ』と聞きますと、おそらく教会のカテドラル、大きな教会の礼拝する場所と答えるでしょう。そこへいきますとなるほど素晴らしい音楽が聞え、神様がいらっしゃる、神の臨在感があるわけです。 ところが私たちが跪くその敷石の下にはお墓があるわけであります。彼らはその国を支えた名士、あるいは文化の英雄たちを教会の中に葬っております。そういう聖なる場所に死者を置くという意識はわれわれ日本人には考えられない。その後、おそらく弥生の1つの宗教的な観念から発達した、日本の神社神道におきましても『死の穢れ』に対する拒否感というのは非常に強い。こういうものが弥生時代にまず始まっている、弥生時代における「宗教的純化現象」ではないかと、私はいま小林先生のお話を聞きながら考えたわけです」
さらに続けて、金関氏は「祭り」について語ります。
「こういう宗教的な純化現象が、はたして縄文人のラインから始まっていくのか、あるいは大陸から伝えられた1つの別個の信仰によって、日本に始まったか、これはよくわかりません。しかし、私はおそらく弥生時代、水稲耕作の始まりとともに、両方が、つまり大陸的なものと、従来の伝統が、一緒になってこういう宗教的な純化現象、ピュアリフィケーションというものを起こしていったのではないか、と考えております。 それで彼らの『祭り』でありますけれども、この『祭り場』そのものも、ある時期になりますと、やはり住居の中から1つの『特別な地域』が設定される。これは縄文人の広場のようなものですけれども、もう少し純度の高い聖域が、しかし縄文人の広場ほど大きくなくて、弥生時代の生活空間の中に特別の空間をつくって、そこで祭りをする、こういう習俗が固定化してきます。そこに彼らは立派な『神祭りの社』を建てました」
「古墳のまつり」では、奈良大学の総長で教授の水野正好氏が、仁徳天皇陵について語ります。仁徳天皇陵に関して調べた大林組の所見によると、大林組は土曜日半ドン、日曜日1日休みという、少し古いやり方ですけど、そういう休みの日を設定して、あとの日は働くこととして、1日に2000人を動員すれば16年8ヵ月を要するというような計算をしているそうです。これを踏まえて、水野氏は以下のように述べます。
「そういう膨大な量をかけて『古墳』は完成するわけですが、それは生前に造られていまして、『古墳』が出来上がりましたときには、まだ天皇は在生中というケースが多いわけです。したがいまして、天皇が亡くなるのは、『古墳』完成より後ということになりますから、古墳は三段築成という形で造られたまま、しばらくの間、その形を維持する機関が置かれていると、思います」
続けて、水野氏は天皇の「殯(もがり)」について言及します。
「そして、天皇が亡くなられますと、実はここに1つ問題が生じてまいります。天皇が6月までに亡くなられた場合は、その方の埋葬は、その年の冬、10、11、12月です。また、天皇が6月以降に亡くなられた場合は、翌年の、10、11、12月に埋葬されます。ということで、埋葬する時期は自ずから10、11、12月に限定されているということが、『日本書紀』の記事を集めてみるとすぐわかります。埋葬の時期が10、11、12月であるということがわかってきますと、その間が「殯」の期間となるわけです。息を引き取られてから、埋葬に入る10、11、12月までの間が殯の期間です。したがいまして7月以降の方でしたら、殯の期間は長くなりますし、1月から6月までに亡くなられた方であれば殯の期間は短いということになります。こういう形で殯が行われて、その後、埋葬へ進むと、いうことです」
さらに、水野氏は「殯」について以下のように説明します。
「遺体は殯宮に長く置かれていますから、かなり腐乱状況になっているのかもしれませんが、そういう木棺から新しい木棺に遺体が移され、新しい棺という姿で運ばれてくるのか、あるいは殯宮以来の木棺で運ばれるのか、よくわかりませんが、ふつうは高野槇という非常に香りがいい木でつくられた木棺がそこへ据えられるわけです。黒塚古墳の棺材は桑材だという話もあります。その段階に蓋が開いているか、あるいはもう蓋は閉じられているのかはよくわかりません。たぶん一旦は開けて遺体が見えるような形をとるのかも知れません。その後改めて頭や胸に鏡を置きましたり、体の両脇に刀剣を置くという呪的な行為があります」
水野氏は、棺内の文物についても言及しています。
「棺内の文物は死者の形見の品物、遺愛の品物であり『霊代』ともいうべきもの、死者その人にかかわるものですが、木棺の周囲に置かれております文物は、少し性格が異ると思います。これらは棺内の死者霊魂、王霊といえばいいのでしょうか、そういう霊を護るためにこうした鏡を配置しているわけです。鏡はよりくるものを祓うという強い性格をもっているところから、よりくる邪悪なものを近づけない姿勢を示すものです。刀剣も同じようにそこに出てきますがこれも魔物を祓う、魑魅魍魎を倒す、そういう姿勢を示すものです」
水野氏は天皇陵について、さらに詳しく説明します。
「日本の天皇陵は、エジプトや中国の皇帝陵とは違いまして、僅か地上から3〜4メートルもいかないうちにもう天井石にぶつかってしまう、非常に浅い位置に埋葬されています。荒らされることなどは考えてもいないようですし、鬼や邪霊もここまでは近づかないと考えているようです。自ずから世界の他の王朝の王族がもっております死生観とはまた一味違う死生観が働いているということです」
続けて、水野氏は重要な「儀式」について言及します。
「そのようにして堅穴式石室の中に死者が葬られて、墓穴には土が入れられ完全に埋まります。埋まりました時点で大事なことがあります、まず、埋まりましたあと、1つの『儀式』が行われているだろうと考えています。その儀式は何かといいますと、『後円部の頂上で死者の霊魂を引き継ぐという儀式』と考えているわけです。この死者の霊魂は、『大王霊=天皇霊』といいますか、王霊といいますかそういうものであろうと思います。そういう霊をこの場で引き継ぐという儀式が行われると考えているのです。おそらく12月の末日のことであろうと思います、ここで王権と根本となる王霊が引き継がれると考えています。この祭は夜の祭儀ではないかと考えています。前方後円墳の後円部には列石で囲みました広い方形壇があり、そこから、焚き火跡が出てくることもしばしばです。そういう例からみますと大王霊を引き継ぐ祭りは夜の祭りではないかと思います」
また水野氏は、仁徳天皇陵について詳しく語ります。
「前方部の先端は、仁徳天皇陵の場合は前方部が壊されており、よくわからないのですが、たいていは一段高い壇になっています。時には徐々に高くなり先端は平坦につくられているものです。この前方部先端でも祭りが行われていることは確実です。この前方部の先端には、死者は葬られません。したがいましてここは何をする場所なのかということになりましたら、王位を継承した人物が『私はいま後円部で、位を継いだ、新しい王となった』と、宣言する場所ではないか、と考えています。興味深いことに後円部と前方部と家形埴輪や蓋・楯・勒形埴輪など共通する埴輪が、ともに同じ配置方法で場を構成していますから、前方部は後円部と同じような一連の機能を持つと考え、後円部が『践祚』の儀式の場、前方部は『即位』という儀式の場とみ、こうした践祚・即位という一連の流れをもつ祭りがとり行われているのではないかと考えています。践祚と即位といいますとこの前方部・後円部上にはたくさんの人が集って祭りに参加しているのかといいますと、決してそうではない、もしかすると天皇1人を中心にごく僅かの人で行われている祭りではないかとさえ考えているわけです」
さらに水野氏は、「前方後円墳」について以下のように述べています。
「『前方後円墳』をどのようにとらえればいいか、『践祚・即位の儀式』を表すものでありますけれども、実際に古墳の上で『践祚・即位』することはなく全体としては、天皇が『前方後円墳』を創出し、各地の天皇家からわかれた王家に最初のうちは配ったのだと思います。王家の人たちが、『践祚・即位』を古墳で実際にしたか否かは別として、天皇家としてはこういう形のもので王統のつながりを確認し合っているのだと考えています」
続けて、前方後円墳の謎がスリリングに語られます。
「では、実際に地方では『践祚・即位』の儀式をやらないのに、こうした前方後円墳を造らされるとすれば、一体前方後円墳とは、何なんだろうかということになります。私はこの前方後円墳は一種の『神話空間』とでもいうべきものではないかと考えています。神話空間というのは何か、日本の天皇家をめぐる神話空間とはどのようなものかといいますと、高天原で、天照大神は鏡・剣・玉を、『これを私の形見だと思え』、『これを私の御霊だと思え』『王統の根源だと思え』と称して天孫邇邇芸命に手づから渡す、そして高天原から天孫邇邇芸命は日本へ降りてくる、最初、高千穂峰に降りてくるのです。それから笠沙御崎へ出まして、初めて降りまして、人間の世界へ出てくるという構造になっています」
続けて、「神話空間」としての前方後円墳が語られます。
「そのように天皇家はこうした天孫降臨の神話伝承をもっておりまして、天皇家がよってたつ王権はそういう形で高天原から伝承するところと称しています。『前方後円墳』の場合、私は後円部頂上は『高千穂峰』に、前方部頂上は『笠沙御崎』に当たり、それをずうっと3重の埴輪で囲み神聖な神話空間を囲いこんで護っているのではないかと考えているわけです。各地の王家は、必ずしも『践祚・即位』式はやらないかもしれませんが、天皇家で行うそういう象徴性を帯びた祭式の場として、前方後円墳が造られているのだろうと考えています」
「ちまたと水辺の祭祀」では、和田氏が水辺の祭祀について以下のように述べます。
「水辺の祭祀の性格はいろいろ難しいところがあるわけですが、やはり1つにはミソギ(禊)があり、一方にはハラヘ(祓)がある。律令国家段階においても、ミソギの系譜を引くものでは、伊勢の斎王がミソギを重ねて伊勢へいくという事例。あるいは、大嘗祭における事例とか、出雲の国造の三沢でミソギをするという事例があります。またハラヘの系譜として、水野先生が精力的にお仕事をされている道教的な信仰に基づくハラヘにつながっていくものがあり、斎串とか人形、墨書人面土器が用いられているわけです」
続けて、和田氏は井泉祭祀について以下のように述べます。
「さて水の湧き出るところの祭祀、井泉祭祀を考えてみますと、そこから小川となって流れ出しているわけですが、小川のせせらぎの音が重要な意味をもっているのではないかと思います。たとえば、『万葉集』にみえる『象の小川』の事例、あるいは発掘調査の行われました京都の『糺の森』瀬見の小川の事例等を考えていきますと、小川のせせらぎの音が、おそらく神の示現、神の出現を示す、そういうものとしてとらえられていたと考えられます。すなわち水辺の祭祀における音の重要性ということを、やはり認識しておかなければならないと思います」
古代の祭祀空間とは、非日常空間にほかなりません。 和田氏は、その非日常空間について以下のように述べています。
「城之越遺跡にみられるように、森の内に泉の湧き出るところがあって、そこで神祭りを行っていた。そういう森が、古いタイプとしてあった。そして6世紀段階に群集墳が成立しますと、氏々の祖墓群集墳の営まれる墓域というものが、恒常的な、非日常的空間であるという意識が生まれた。たとえば、神社の社域とか、氏々の祖墓の中へ逃げ込めば、俗法を逃れられる、逮捕されないという伝承がいくつかみえている。これは古く『魏志』「韓伝」にみえる蘇塗などとも共通しているものだろうと思います」
そういう非日常的空間では、限られた日に、あるいは限られた時間に祭祀が行われる、いわば臨時の非日常的空間というものが考えられるわけです。和田氏はそれが「チマタ」に当たると指摘し、律令国家の成立にしたがって大極殿の前の空間で、1年のある決められた日時に、祭りが行われる、そういう空間になっていったと推測します。和田氏は以下のように述べます。
「それ以前の飛鳥初期の段階では、飛鳥寺西の広場でありますとか、各所でいろんな祭りが行われていた。ところが藤原宮段階で大極殿が成立しますと、大極殿の前庭で、あるいは神祇官の斎院でというふうに、祭りの空間が限定されていく。また、祭りの行われるのも当初は卯の日とか、辰の日といった、日の干支に基づくものであったものが、何月何日という形で祭日が決められ、また時間も限定されて行われるようになってくると思ってます」
「時間の流れと古代祭祀」では、コメンテーターである國學院大學教授の鈴木靖民氏が葬具について以下のように述べています。
「黒塚に代表されるような、鏡の祭り、三角縁神獣鏡は特殊な鏡だとすれば、あれはお葬式の道具です、葬具ですね。水野先生がおっしゃられたように、悪いものが死体にとりつかないように、死体を守るというそういう呪具です、呪術的な道具ですね。中国でももともと鏡はそういう意味があったわけです。日本では弥生時代以来そういうことをやってるわけです、それが非常に顕著になってきたのだと思うのです。ですから死体の周りに、両側に32枚もあるわけです」
そのような葬送儀礼は、後世の言葉でいえば「天皇霊」というか、首長位の、あるいは首長にとりつく首長霊の継承儀礼につながる気がするとして、鈴木氏は以下のように述べます。
「あるいはそこまでいかないで、一般化すれば祖先崇拝などにつながるような、今風にいえば葬礼、葬式というふうにとどめるべきなのか。埋葬者はたぶん豪族というか首長でしょうから、そういう人の葬儀だということは最低限、血縁原理にかかわるということです。そこに鏡がどういうふうに機能するのかというのはたいへん難しい」
また、鈴木氏は鏡についても言及し、以下のように説明しています。
「鏡というのは、『古事記』、『日本書紀』以下の後の文献から考えると、大体3つぐらいに機能というか意味が分けられると思うのです。1つは、神様を表すものです。たいへん典型的なのは、天照のような太陽神を表すもの。2つ目は、天皇が地方に征伐にいったときに、たとえば、九州の伊都の王様が、服属する印に自分の持っている鏡を献上するわけです。これはもとの意味は、そのまま統治権を譲るといいましょうか、あるいは自分がその地域の王様、首長であるということを意味していると思います。3つ目は、時代が下って7世紀中心になりますけれども、天皇が即位するときに臣下のまわりの者に、中臣氏とか忌部氏、特に忌部氏が臣下を代表して剣とともに鏡を差し出すという、これは明らかに王の位、後の言葉でいうと天皇の皇位の象徴というか、要するに『三種の神器』の神器です、そういうレガリアになるわけです」
シンポジウムの後半では、金関氏がこの読書館でも紹介した『古代芸術と祭式』に言及し、以下のように述べています。
「縄文と弥生はどう違うかというお話で、まず全体的に宗教史の学者たちが考えた図式からいいますと、たとえば、今世紀のはじめにジェーン・E・ハリソンという古典学者が、「古い時代は全員が参加するお祭りがあった」。すべての行動が実は宗教的な行動で、全員が祭りに参加する。「次の段階では、それを執行する、つまり司祭のような人と、それから参列する人が分かれる」。第3の段階では、『観客席に座る人と、それからパフォーマンスをする、祭をする人に分かれる』。それが演劇の起源であると考えています」
続けて、金関氏は以下のように述べています。
「それから1960年代になって、私がよく使いますロバート・ベラという人が、やはり同じように全員が参加する段階と、それから参加者と、司祭が分かれる段階といった宗教進化論を提唱しました。第1の縄文のような段階では人と神が密着している。第2の段階、弥生の段階になりますと、神は神の国に住み、人間が必要なときだけ、特別な技術を持った人が神を呼んでくる、そういう世界に変わっていく。つまり特別な技術、シャーマンとか、あるいは祭りをする司祭とか、そういう人たちが神を招き降ろす技術がある、そういう段階に変わる。これはおそらく縄文と弥生の大きな移り変わりだろうと思います」
さらに金関氏は、弥生の祭礼について以下のように述べます。
「弥生の祭礼を特色づけるもう1つの要素は男女の性の分化でしょう。弥生の農耕祭祀に、男女の生殖とそれから稲の実りというものがひっついていて、弥生の儀礼の中心には性的な所作があったと思います。そういうことを暗示するのは、おそらく『古事記』の八千矛神が登場する歌謡、神語歌とか天語歌です。これは鳥装のオペラでありまして、伊勢の海人がやってきて宮廷で上演するという筋書きになっています。その中で喜劇役者を演ずる男性は八千矛神、すなわち大国主命であります。最後はたいてい男女が抱き合って、いいことをして、ハッピーエンド、めでたしめでたしという筋書きでございますけれども。こういうものはおそらく弥生の儀礼、特に鳥を多く使った弥生の儀礼の残映であろうと考えております」
それから、話題は「死の世界」へ移ります。「生活している者、生きている者にとって、墓はどういうところにつくり、それはなぜなのか」という司会者の質問に対して、水野氏は以下のように述べています。
「死者が全員といってもいいほど墓をもつのは現代のみ、それも日本やアメリカ、フランス、イギリスなどかぎられた国だけではないでしょうか。縄文時代でしたら先ほど小林先生のお話にもありましたように、広場を中心に生きてる人の目の前の円形広場に墓がつくられています。しかし、その人数は極めて僅か。えらばれた人の墓とみてよいでしょう。供養などもこの広場で行われてますから本当に身近なところに村の有力者は墓を掘り、村の始祖、家祖として扱われているなと思えるのです。一般の死者は集落の外にすてられていると思います」
続けて、水野氏は弥生時代の墓について述べます。
「ところが、弥生時代になりますと、これは集落に接したり少し離れたり、時には広大な墓地を経営するようになります。道に沿うというような形の墓地も多いですね、明らかに少し違ってきています。縄文時代とちがい、毎日のように死者を思い出す位置ではなくて、忘れている日も多いということでしょうね。しかし、方形周溝墓などは家族の墓で戸主と妻、子供とその家族や縁者まで一墓内に葬り、小児も壺棺葬されています。家族内の序列が見事に棺の配置に表現されています。しかし、家族全てが墓をつくる訳ではないし、家族の中でも葬られないですてられる人々も多いということが判ります」
さらに水野氏は、古墳時代の墓についても述べています。
「古墳時代になりますと古墳時代前期の前方後円墳が生まれたころは、庶民の墓はほとんどみつかっていません。これは遺体を山野へ捨てたり、川へ流したりしているということです。古墳時代後期には『群集墳』が出てきます。群集墳は丘陵の一角に200-300基も群集していますけれども、近畿地方ではこの大半は渡来系の人たちの墓域として認定すべきだろうと考えています」
それでは、縄文時代ではどうだったのか。小林氏が以下のように述べています。
「縄文時代では手厚く葬っておりますので、とにかく自分たちが住んでいる世界とは違う世界にいくんだという意識はあったのではないかと思います。それからいろいろな研究者の論文にありますが、地下に埋めるということは、魂が地界に帰っていくんだという考え方と関係しているんだという、そういう意見もあります。いずれにしてもその世界というのは、手の届かないところ、足の及ばないところ、あるいは目に見えないところ、だから天界も当然縄文時代の時にもすでにあったのではないか、それが巨木を立てるというようなことで、自分たちの世界と天を結ぶ梯子の意味、機能というものにもかかわるのかもしれない、というふうに思いますが」
続けて、小林氏は縄文時代の埋葬について以下のように述べます。
「そうはいうものの実は非常にとても複雑な彼らは手続きしておりまして、時代によっても、地域によっても、縄文時代1万年の間にものすごいバラエティーがあります。埋葬の仕方だけでも、気をつけをした姿勢と、手足を曲げた姿勢のほかに、いったん埋葬しておいて、それを一定期間たってから掘り出して、その骨を大きな甕の中に入れるとか、いろいろなことをやっておりまして、このあたりが少なくとも他界観はあって、違うところの世界に送っているんだと、いえるのではないか。ただ、ムラを生者と死者とが協同経営しているみたいに、仲間としてちょっと呼べば戻ってくるし、うっかりすると死者が背中におぶさっているというような世界。いろいろな民俗例なんかにもあるそういう観念であります。だから縄文時代のことについても、それほど正確かどうかは別として、そんなふうなイメージとして見ておいてよろしいのではないかと思います」
「あとがき」では、シンポジウムで司会を務めた椙山林継が「祭り」について、以下のようにまとめています。
「祭りとは、人々が何とかして神に願い事を聞いてもらうため必死に祈ると共に、手を代え品を替えて努力する状であり、時に感謝、御礼の意があっても、次を頼むわけであり、夢中であり、必死であれば形にならない事もあろう。ところが繰り返し行われたり、1度成功した場合は、その方法が記憶され、型ができてくる。改善され、エスカレートしていくとしても基本は守られていく。神が聞き届けられた、そのやり方は、周囲で見ている人々にとって、あれならば神が納得されたに違いないと納得する、認める。足を踏むのも、手を挙げるのも型が定まってくる。場所も季節もきまってくる。祭式が整えられ、儀式が固定化してくる。しかし、新しい文化が流入し、価値観が変化した時、文化は断絶し、新文化の出現が興る。これまでの儀式は否定されるわけである。とは言っても行動する人々に相続する血が流れていたり、自然環境が変化しない一定地域内であった時、前文化が全く消しきれるであろうか。疑問が残る。日本列島という狭い、限定された地域に展開した人間文化は、常に流入する新文化を吸収し、混合し、時に覆われて経過して来た。時間の流れの中に失なわれていったもの、形を変えても、後から見れば同じ行動様式であるもの、伝統とも呼ばれて意識としても伝えられて来たもの、それらを整理し、紐解きながらまとめていかなければならないであろう」