- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
No.1282 心理・自己啓発 『コンプレックス』 河合隼雄著(岩波新書)
2016.07.20
『コンプレックス』河合隼雄著(岩波新書)を読みました。1971年に刊行された本ですが、今日まで版を重ねています。著者は日本を代表する心理学者として知られ、京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授などを務めました。文化功労者であり、元文化庁長官でもあります。
著者は1928年兵庫県に生まれました。52年京都大学理学部卒業。65年ユング研究所(スイス)よりユング派分析家の資格を取得。専攻は臨床心理学で、その立場から88年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献しました。2007年、脳梗塞のため、奈良県天理市内の病院で逝去。79歳でした。
本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「『コンプレックス』という言葉は日常的に用いられるが、その意味を正確に理解している人は少ない。それは、現代なお探険の可能性に満ちている未踏の領域、われわれの内界、無意識の世界の別名である。この言葉を最初に用いたユングの心理学にもとづいて、自我、ノイローゼ、夢、男性と女性、元型など、人間の深奥を解き明かす」
本書の「目次」は以下のようになっています。
第一章 コンプレックスとは何か
1 主体性をおびやかすもの
2 言語連想検査
3 自我
4 コンプレックスの構造
第二章 もう一人の私
1 二重人格
2 二重身(ドッペルゲンガー)
3 劣等感コンプレックス
4 心の相補性
第三章 コンプレックスの現象
1 自我とコンプレックスとの関係
2 ノイローゼ
3 人間関係とコンプレックス
第四章 コンプレックスの解消
1 コンプレックスとの対決
2 トリックスター
3 死の体験
4 儀式の意味
第五章 夢とコンプレックス
1 コンプレックスの人格化
2 夢の意味
3 男性像と女性像
4 夢の中の「私」
第六章 コンプレックスと元型
1 エディプス・コンプレックス
2 文化差の問題
3 元型
4 自己実現
「引用・参考文献」
「あとがき」
第一章「コンプレックスとは何か」の4「コンプレックスの構造」では、著者はコンプレックスの中核に1つの外傷経験が存在しているのもあるとして、それをユングの報告している例で以下のように示しています。
「ユングがある若い女性のヒステリー患者と散歩しているとき、その女性が上衣をおとしたので、ユングはそれを拾いあげ、手でほこりを払おうとした。すると、その女性は上衣をユングの手からひったくり、それを守ろうとしたのである。その荒々しい行為に対して、ユングはどうしてかを尋ねると、彼女は困惑してしまって、ともかくこのようにして上衣のほこりを払われるのをみるのは非常に不愉快なのだと言った。ところが、実は、その女性のヒステリーの原因となっていることは、彼女が父親にひどくなぐられたことであった」
続けて、著者はこの若い女性の例について以下のように述べます。
「父親になぐられて口惜しく思いながらも、反抗することができない。その経験がひとつの中核となってコンプレックスをつくりあげてゆく。そこで、ユング(父親像を思わすもの)が彼女の上衣を『たたく』のをみると、コンプレックスが活動して、それに耐えることができない。そこで、そのようなコンプレックスの中核となるような外傷経験を探し出すことによって治療する」
第四章「コンプレックスの解消」の3「死の体験」では、著者は「コンプレックスの『解消』は、何らかの意味で死の体験を伴っている。われわれが、コンプレックスの解消を成し遂げた患者に接するときに感じる、あの淋しさと悲しさは、死の体験を背景にもつからであろう。そこで、われわれの慰めとなるのは、死んだコンプレックスの内容が、どれ程自我の中に再生しているかという点にある」と述べています。
4「儀式の意味」では、「コンプレックスの解消に、死の体験が伴うとのべたが、このような体験が容易なことではなく、危険に満ちたものであることは想像に難くない。死の体験を内面化してゆくためには、それにふさわしい自我の強さを必要とするが、それが不可能なとき、時として、それは外的な自殺や他殺の行為を引きおこすことになる」と述べています。
本書を読んだのは『儀式論』を執筆する上で「儀式の心理的機能」について知る必要があり、参考文献を探しているうちに本書にたどり着いたのです。実際、本書には「儀式の心理的機能」が見事に説明されていました。たとえば、以下のようにユングの「儀式」についての考えが紹介されています。
「自我が、コンプレックス内の内容とエネルギーとを、自分のものとするために必要な水路づけの機能を果すものとして、儀式というものがあると、ユングは考える(「心的エネルギー」)。その例として、ユングは未開人の行なういろいろな儀式をあげている。たとえば、狩猟や戦闘などに出発するとき、いろいろと複雑な儀式を彼等が行なうことは、もちろん他の目的も有しているが、ひとつは、そのような儀式によって、狩猟や戦いを行なうに必要なエネルギーに水路を与え、それによって有効なエネルギーを引き出そうとしていると考えるのである」
ここで「水路づけ」という重要なキーワードが登場しました。
続けて、著者は以下のように述べています。
「このような『水路づけ』の機能をもつものとして、儀式を考えるとき、それはある意味では直接体験の危険性を防ぐものとも考えることができる。われわれが何かを体験するためには、それが自我の機能を破壊するようなものであってはならない。たとえてみれば、大量の水が一時に流出すると洪水になるだけであるが、われわれがそれを川に流しこみ、必要な水路へと導くとき、それは灌漑や発電などに利用できるのである。ここに水路の役割は、水を防ぐものであり、水を導くものである。ここに、儀式の両面性がある。それは体験に導くものであり、体験から身を守るものでもある」
続けて、著者は儀式について以下のように述べます。
「人間が、自我の力を超越するものとしての神に向うとき、多くの儀式を必要とするのもこのためである。人はできるだけ神に近く接したいと思う。しかし、その直接体験はおそらく人間を死に到らしめる程の力をもつであろう。命を失うことなく、出来る限り近く神に接しようとする、その最善の方法として多くの儀式が生み出されてきた。しかし、このような意味が不明となったとき、儀式は神に近づく手段としてよりは、人間と神との間の障壁としてのみ作用する。つまり、儀式は形骸となってしまう」
著者は当読書館の『初版 金枝篇』で紹介したジェームズ・フレイザーの著書の内容に言及しながら、以下のように述べます。
「未開人の間において、王を殺害することによって王位継承が行なわれることが制度として存在することを、フレイザーは多くの例をあげて示している。これはつまり、王が衰弱して自然死をとげるまでに、その健全なる魂を後継者に転移せしめねばならないという考えに基づいている。王は絶対完全でなければならず、若し王が病気になったり、その多くの妻妾の欲望を満足させる力がなくなったりすると、直ちに王位継承の儀式、つまり、王の死刑執行がなされる」
著者は、儀式のプラスの側面をあげるだけでなく、そのマイナスの側面についても以下のように述べています。
「困ったことには、儀式はともすると、その中に流れる精神が忘れられ、様式だけが継承される。つまり、儀式が形骸化する。『儀式ばった行為だけで、精神がない』などという場合の儀式は、形骸化されたものであり、本来の儀式の意味とは異なっている。生命をもたぬ儀式の無意味さは、中学生でもすぐ発見できる。形骸化されたことを自ら認めながら、その儀式を破壊することに、低級な儀式的意味を見出して喜んでいる人もあるが、問題は、われわれにふさわしい儀式の創造にある。われわれの自我を、――その合理性や同一性などを――破壊することなく、それに新しい生命を吹きこむ儀式を見出すこと。これが現代人に課せられている責務のひとつである」
それでも、著者は儀式の心理的機能を認め、儀式そのものの必要性を訴えます。人間が儀式を否定した場合はどうなるか。著者は述べます。
「形骸となった儀式のみならず、全ての儀式を否定した若者は、再生のエネルギーの流出の道を自ら断ち、そこには著しいエネルギーの沈滞が生じる。水路を失ったエネルギーが暴発するとき、自分か他人かの血が流され、儀式はひとつの『事件』になり下ってしまい、20世紀の若者の中にも、未開人の血が流れていたことを実証するのみとなる。このような悲劇を克服するためには、われわれは、個人にふさわしい儀式を創造してゆかねばならないと思う。このような点で、分析家というものは、儀式の準備を手伝うものとなったり、司祭となったり、あるいは参列者となったりして、その個人の儀式の創造に参加してゆくものと考えることも出来る」
第五章「夢とコンプレックス」の1「コンプレックスの人格化」では、著者は神話学者カール・ケレニーの考えに言及し、以下のように述べています。
「自立してゆくためには、われわれは火を盗まねばならない。それはケレニーの指摘するように(ケレニー『プロメテウス』)、『避け難い盗み』なのである。子供が自立してゆく過程において、避け難い『火遊びの年齢』がある。父の目を盗み、危険を犯して、子供達は親と同じことをやろうとし、秘密を知ろうとする。人は幼児期、青年期の『火遊びの年齢』をすぎて、40歳前後にまた、それを迎える。ところが、われわれの事例の場合、その人があくまでも社長のいうとおりに仕え、片腕となっていたということは、青年期の火遊びをせずに、避け難い盗みを避けて通ってきたことを意味するのではないか。彼は40すぎになって、20歳のときにするべきであった火遊びをしなくてはならない。それが40歳の火遊びと重なるとき、『火傷』の危険は余りに大きい」
この「火遊びの儀式」について、著者は以下のように述べます。
「『火遊びの儀式』を通過せずに成人になる人は多い。これらの人は、盗みや火遊びをせず、父のいいつけをよく守る人として、『エリート』と見なされているときさえある。40歳近くなって、これらのエリートの心の中にプロメテウスが動きはじめるとき、避け難い盗みへの衝動と、それに伴う父親に対する罪責感の板ばさみとなり、自殺する人は多い。最近問題とされている、エリート社員の理由なき自殺の背景には、このような状態が存在していると思われる」
2「夢の意味」では、著者は、同性愛に悩む男子高校生の例をあげながら、夢について以下のように述べています。
「われわれの行動は、コンプレックスの影響を多く受けてきている。しかし、自我はコンプレックスの実態が把握できないので困っていることが多い。この例であれば、この少年は同性愛という症状に悩まされているのである。ところが、睡眠中には、自我の力が弱まるので、コンプレックスの活動が活発となり、その動きを自我は夢として把握することになる。このような意味で、夢の内容は自我の把握し得ていない心の動きを、しばしば伝えてくれるわけである。つまり、夢によって、われわれはコンプレックスの状態を知ることができるのである」
またユングのいう「夢の補償作用」について、著者は述べます。
「自我が体験の限定を余りにも極端に行ない、一面的になるとき、残された体験はコンプレックスをつくりあげてゆくが、それは夢という表象を通じて、自我に再体験を要求するのである。このような意味で、ユングは夢の補償作用ということを強調する。つまり、自我が余りにも一面的になるとき、それを補償するような働きを夢がもつというのである。この夢であれば、本人が新車を買う喜びのみを感じているとき、その補償としてこのような夢が生じると考えるのである」
第六章「コンプレックスと元型」の1「エディプス・コンプレックス」では、著者は本書あげた多くの例はエディプス・コンプレックスの問題として考えると了解できるものが多いとして、以下のように述べています。
「確かに、男性にとって父親というものは対処するのが難しい相手である。勝ち目がないと思って屈服してしまうのも残念であるし、反抗し続けたり、あるいはエディプスのように完全に打ち負かしてしまうと悔が残る。このように考えると、人間の自我はそのエディプス・コンプレックスをどのように取り扱うかということを、その一生の課題としているとさえいうことができる。実際、フロイトは人間のもつ文化が、このような努力の所産であると考え、宗教や芸術の背後に存在するエディプス・コンプレックスを、明るみにさらすことに努めたのである」
2「文化差の問題」でも、エディプス・コンプレックスについて述べます。
「抑圧し切れなかったエディプス・コンプレックスによる行為に対する罪の意識を基とし、それ以後、エディプス・コンプレックスを昇華してゆく手段として、トーテム宗教が生まれ、宗教儀礼が発生したとフロイトは考えた。つまり、その儀礼において、トーテム動物を聖餐用として殺し、それを共同で食べるのも、エディプス・コンプレックスによる衝動を儀式化し、反覆しているものと考えたのである」
ユングは、深い意味をもったイメージは、ある人の個人的体験をはるかにこえ、「母なるもの」と呼ぶべき存在を予想せしめると述べました。これを踏まえて、著者は以下のように述べています。
「ユングはこのような観点から、ある個人の体験をこえて、人類共通に基本的なパターンが存在するとし、前述のような『母なるもの』の元型を『太母』と名づけた。つまり、すべての人間の無意識の奥深くに、太母という元型が存在すると考えるのである。この元型は、全てのものを産み養育するというプラスの面と、あらゆるものを呑みつくしてしまうというマイナスの面とを有している」
また著者は、神話を例にして西洋人と日本人の自我の違いに言及します。
「人間の自我の確立を象徴的に示す「火」の神話において、プロメテウスは大神ゼウスの火を盗み出す。これに対し、わが国の神話においては、グレートマザーとしての女神伊邪那美が自ら火を産み出し、その火傷のために死んでゆくのである。男性神から人間の犠牲によって盗み出した火をもつ民族と、女神自らの犠牲によって得た火をもつ民族との差は、どのようなものであろうか。このような観点を押しすすめてゆくならば、西洋人の自我と、日本人の自我とはそのあり方が相当異なっていることに注目しなくてはならなくなってくる」
3「元型」では、著者はこの途方もない思想について説明します。
「ユングが元型という言葉を始めて用いたのは、1919年に発表した『本能と無意識』においてであるといわれているが、それまでは、ヤコブ・ブルクハルトの言葉を用いて、原始心像と呼んでいた。
ここに、元型と訳した言葉は、わが国においては、『原型』『神話類型』『太古型』などとも訳されている。コンプレックスはある人の個人的体験と関連して、自我によって抑圧された内容のものが多く、これをユングは個人的無意識の層に属するものと考え、元型はこれに対して、それよりも深く、普遍的無意識に属すると考えた」
元型は、各民族の神話の中にたくさん豊かに潜んでいます。
著者は、神話というものの必要性を以下のように述べています。
「神話はいろいろな意味をもっている。それはひとつの物理学でもあった。しかし神話の中から物理学的側面を取り去ってもまだ残されるもの、つまり、内界の生き生きとした把握という機能こそ重要なものではないだろうか。神話学者のケレニーが、真の神話は事物を説明するのではなく、事物を基礎づけるためにあると説いているのは大切なことである(『神話の科学についての論考』)。人間がどうして生まれ、どうして死ぬかは、科学的に説明される。しかし、『私は一体どこから来て、どこへゆくのか』という点について、心の中に納得のゆく答を得るためには、つまり、心の奥深く基礎づけるためには、神話を必要とする」
「人間は神話と儀式を必要とする」というのは、満月のたびに「ムーンサルトレター」を交わしている宗教哲学者の鎌田東二先生とわたしの合言葉ですが、本書には神話と儀式の必要性が見事に述べられていました。わずか220ページの新書本ですが、その内容はあまりにも広く、深いです。
ちなみに、鎌田先生は今年の3月末に定年退職するまで「京都大学こころの未来研究センター」の教授を務めておられました。じつは、同センターは本書の著者である故河合隼雄氏の構想から生まれました。 鎌田先生は、きっと故人の魂に呼ばれたのではないでしょうか。 そういえば、今夜は満月です。「ムーンサルトレター」を書かなければ!