No.1289 哲学・思想・科学 | 死生観 『象徴交換と死』 ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳(ちくま学芸文庫)

2016.08.01

  『象徴交換と死』ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳(ちくま学芸文庫)を再読しました。著者はフランスの哲学者、思想家で、1929年に生まれました。70年に発表した『消費社会の神話と構造』は現代思想に大きな影響を与え、ポストモダンの代表的な思想家の1人とされました。2007年に逝去しています。本書では「死」について語られています。

 1976年に刊行された本で、82年に筑摩書房から邦訳が出て話題となりました。わたしは92年に文庫化されたときに初めて読んだのですが、非常に感銘を受けました。20世紀の終わりの日に「私の20世紀」を振り返ったとき、「20冊の海外思想」の最後の20冊目に選んだ本が本書でした。最近、「ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す」というサブタイトルを持つ『死者とともに生きる』林道郎著(現代書館)を読む機会があり、せっかくなので本書を再読した次第です。

 本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「マルクス主義と資本主義擁護論の両者に共通する生産中心主義の理論を批判し、すべてがシミュレーションと化した現代システムの像を鮮やかに提示した上で、〈死の象徴交換〉による、その内部からの〈反乱〉を説く、仏ポストモダン思想家の代表作」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
[序文]
第一部 生産の終焉     
1 価値の構造的革命     
2 生産の終焉     
3 シミュレーション・モデルとしての経済学     
4 労働と死
第二部 シミュラークルの領域     
1 シミュラークルの3つの領域     
2 漆喰の天使     
3 自動人形とロボット     
4 産業段階のシミュラークル     
5 コードの形而上学     
6 触覚性と二進性     
7 シミュレーションのハイパー・リアリズム     
8 クール・キラー、または記号による反乱
第三部 モード、またはコードの夢幻劇     
1 既視感の軽薄さ     
2 モードの「構造」     
3 記号の浮遊性     
4 モードの「欲動」     
5 変質したセックス     
6 モード―この覆せないもの
第四部 肉体、または記号の屍体置場     
1 印つきの肉体     
2 二次的裸体     
3 「ストリップ・ティーズ」     
4 管理されたナルシシズム     
5 近親相姦的操作     
6 肉体のモデル     
7 〈男根交換基準〉     
8 肉体のデマゴギー     
9 寓話    
10 荘子の肉屋
第五部 経済学と死     
1 死者の売渡し     
2 未開社会における死の交換     
3 経済学と死     
4 死への欲動     
5 死、バタイユの場合     
6 いたるところに私の死、夢みる私の死
第六部 神の名の根絶     
1 アナグラム     
2 言語学の想像界     
3 機知、またはフロイトにおける経済的なものの幻覚
文庫版解説(今村仁司)

 [序文]の冒頭を著者は以下のように書きだしています。

「近代の社会形成体においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴界は、死がとりつくように近代社会にとりついている。象徴界が社会形式をもはやとりしまらないからこそ、近代社会は象徴界の強迫観念しか知らず、象徴界への要求もたえず価値法則によってさえぎられてしまう」

 また、著者はソシュールのアナグラム論とモースの交換=贈与論に言及した後、「われわれにとってアナグラムや交換=贈与と同じ程度に重要な理論的事件がひとつだけある。それは、死への欲動というフロイトの命題である。ただし、この命題はフロイト自身にさからってラディカルにしなくてはならない」と述べます。

 第一部「生産の終焉」の2「生産の終焉」では、著者はサーヴィスについて以下のように述べています。

「サーヴィスを提供することは、身体・時間・空間・脳みそをひとつにすることである。それが生産するか否かは、このような人格の指数化からみればどうでもよい。剰余価値はきっぱりと消え去り、賃金も意味をかえるが、これについてはまたあとで論じよう。こうしたことは封建主義への資本の『後退』ではなく、現実的支配への移行であり、人びとを誘惑して全面的に登録することへの移行なのである。労働を『再全体化する』あらゆる努力がめざすのも、まさにこのことである。こうした努力は労働をことごとくサーヴィスとすることであり、かくして提供者はますます不在であるわけにはいかなくなり、ますます人格もろともにのみこまれてしまうことになる」

 第一部の3「シミュレーション・モデルとしての経済学」では、著者は「必要なことは、挑戦・取り戻し・せり上げが掟となっている象徴界の方へすべてを移すことである」とした上で、以下のように述べています。

「死はそれに等しいあるいはそれにも優る死によってのみ応えられるといった掟がある。そこでは現実的暴力も現実的な力も問題ではない。挑戦と象徴的論理だけが問われるのだ。システムの支配は、システムが対抗贈与なき贈与を排他的に独占していることから生まれている。仕事の贈与、これにたいしては消費によるのでなければ、破壊や犠牲で応えるわけにはいかない。消費はといえば、それも出口のない恩恵制度の上昇螺旋であり、したがってより一層の支配の螺旋にほかならない。メディアとメッセージの螺旋、これにたいしてもコードの独占があるために反駁することができない。いたるところで、またいかなる時にでも、社会問題の贈与、保護・保障・恩恵・社会問題への促しといった審級の贈与、この贈与は誰もがのがれるわけにはいかない。事態がかくのごときものであれば、ありうべき唯一の解決は、システムにたいしてそれの権力原理そのもの、すなわち返礼と反駁の不可能性をふり向けることだけである。システムが自分自身の死と解体によるのでなければ返礼することができない贈与によって、システムに挑戦すること。なぜなら、何ものも、システムでさえ、象徴的義務を免れることはできないからである。そしてこの罠のなかにこそ、システムの破局の唯一のチャンスがある。死の挑戦で包囲してシステムをムチ打つこと。なぜなら、システムが返礼することを催促されているが、もし返礼しないと面目を失うという贈与は、明らかに死の贈与以外にはありえないからである。システム自身は、死と自殺の多面的な挑戦に応えて自殺しなければならない」

 第一部の4「労働と死」では、著者は以下のように述べています。

「すべての企ては象徴的である。象徴的でない企てはかつてなかった。いたるところで構造的価値法則の背後に透けてみえるもの、いたるところでコードのなかに切迫しているもの、それがまさに象徴的次元である。 労働力は死とひきかえに、つくりあげられる。人間が労働力になるためには、死なねばならぬ。彼はこの死を賃金という形で貨幣化する。しかし賃金と労働力との不等価性の面でみられるような、資本が人間におしつける経済的暴力は、人間を生産力と定義することで人間に加えられる象徴的暴力に比べればとるに足りない。経済的等価性のもつまやかしも、賃金と死との記号としての等価に比べればとるに足りないものだ」

 第二部「シミュラークルの領域」の8「クール・キラー、または記号による反乱」では、著者はグラフィティを取り上げ、「これこそは、象徴的儀式のもつ真の力である。そして、この意味で、グラフィティは、メディアや広告のためのあらゆる記号とはまったく逆のことをやっている」とした上で、以下のように述べます。

「そういう記号が、われわれの都市の壁の上に書かれると、グラフィティと同じ呪文のように見えるかもしれない。広告については、その祝祭的性格が指摘されてきた。広告がなければ、都市をとりまく環境は陰気なものになってしまうだろう。しかし実をいえば、広告とは、冷やかな活気、呼びかけと熱っぽさのシミュラークルにすぎず、誰にも真の合図を送ってはいないので、自立した個人や集団の読みとり行為によって、再びとりあげられることはできない。広告は、象徴の網の目をつくりださないのである。広告が貼りつけられる壁と同じで、広告そのものもまた、ひとつの壁、解読されるためにつくられ、解読されたとたんに効果を失う機能的な記号の壁にすぎない」

 第三部「モード、またはコードの夢幻劇」の2「モードの『構造』」では、著者は以下のように述べています。

「モードの方は、科学と革命にいたるまでのあらゆる現代的なものの中心に位置している。セックスからメディア、芸術から政治にいたる現代の全領域が、モードの論理に貫かれているからだ。だが、儀礼的なものにいちばん近く、まだそうした領域との差異を際立たせようとはしていないようなモード―見世物や祭りや浪費としてのモード―の側面については、そうはいえない。なぜなら、モードと儀礼を同種のものとみなしうるのは、まさしくその美的遠近法のせいなのである(現代社会のある種の過程を未開社会の構造と同一視できるのが、まさしく祭りの概念のためであるのと同じことだ)」

 第五部「経済学と死」の1「死者の売渡し」では、その冒頭を著者は以下のように書きだしています。

「未開人が部族のメンバーだけを『人間』とよんだときから、『人間なるもの』の定義はとほうもなく拡がってしまった。その定義は普遍的な概念になった。まさにそのことをひとは文化とよぶ。今日ではすべての人びとが人間である。実は普遍性というものはどこにも根拠をもっておらず、根拠があるとすれば同義反復やくりかえしのなかにしかない。まさにその点に『人間なるもの』は道徳的掟と排除原則の力をえるのである。なぜなら『人間なるもの』は、はじめからそれの構造的分身、つまり非人間的なものをつくりだすことであるからだ。人間的なものとはたかだかそれしきのことでしかなく、人間性とか文化とかの進歩は、『他者』を人非人とか無能者よばわりをするあいつぐ差別の連鎖にすぎない」

 著者は『狂気の歴史』を書いたフーコーに言及し、述べています。

「ミシェル・フーコーは西洋近代の夜明けの時代におきた狂人の追放を分析したが、子供たちの追放についても同じ事態が生じたこともわれわれは知っている。すなわち子供たちは、理性の流れに沿って、子供らしさという観念化された身分、子供の宇宙のゲットー、無邪気さというみじめさのなかに徐々に閉じこめられていった。同じく老人たちも非人間的なものになり、正常性の周辺へと追放された。そしてこれ以外の多くの『カテゴリー』(社会層)も同様の運命を被るが、それらがまさに『カテゴリー』になるのは、文化の発展をきわ立たせるあいついでおこなわれた隔離のしわざによる。貧民、開発のおくれた住民、知能指数の低いもの、倒錯者、性転換者、知識人、女性―これらは恐怖のフォークロアであり、『正常な人間』というますます人種差別化する定義に基づく破門のフォークロアである。正常性の本質―つまるところ、すべての『カテゴリー』は、正常と普遍とがついに人間的なものの名の下に合体してしまうであろう普遍的な社会のなかで、排除され、隔離され、追放されるであろう」

 フーコーが分析したように、狂人の歴史は差別の歴史でした。19世紀以降になると、労働と生産そのものが決定的な位置を占めることになります。しかしながら、ボードリヤールは「他のすべての排除に先行し、狂人・子供・劣等人種の排除よりも根源的な排除がある。それらすべての排除に先行し、それらのモデルになり、西欧文化の『合理性』の土台にある排除がある。それが死者と死の排除である」と述べました。狂人や子供や劣等人種よりも、誰よりも死者は排除され、差別されている! この著者の指摘を初めて読んだとき、体中が震えるほど感動しました。

 続けて、著者は以下のように述べています。

「未開社会から近代社会へとすすむ進化は不可逆的である。少しずつ死者たちは実在しなくなる。死者たちは集団の象徴的循環の外へと追放される。彼らはもはや独立の存在、交換にふさわしい当事者ではない。死者たちは生者たちの集団からますます遠くへ、家庭的親密さから墓場へと追放されるが、そのことで右の事態は瞭然となる。墓場は、最初はまだ村や町の内側での配置替えであったが、ついでに中心から周辺へとますます遠ざけられる最初のゲットーであり未来のすべてのゲットーの前駆となり、最後には新設都市や現代の首都にみられるように消滅する。これらの都市では、物理的空間の面でも心理的空間の面でも、死者たちのためにとっておかれる余地はなくなった。狂人、犯罪者、異常者たちですら新設都市、すなわち近代社会の合理性のなかに受け入れ構造を見いだすことができるのに、死という機能だけが計画にも入れられず、位置づけもされない。本当のところは、人びとは死をどう扱っていいのかわからなくなっているのだ。なぜなら今日では死者であることは正常ではないからである。これこそ新しい事実である。死者であることは考えようもない異常なことであって、これに比べれば他のすべてのことは無害なものだ。死とはひとつの犯罪であり、癒しがたい異常なのである。死者たちに与えられるべき場所も空間―時間もないのだから、死者のすみかが見いだされるわけもなく、だから彼らは根源的なユートピアへと追放される―以前にもまして囲い込まれ、そして蒸発させられる」

 「死は最大の平等である」とはわが信条ですが、死者こそは最も差別される対象であるというのは、なんとも皮肉な話です。 さらに、著者は以下のように述べています。

「墓地がもう存在しないというのは、近代都市全体が墓地の機能をひきうけるからである。近代都市は死んだ都市であり、死の都市である。そしてもし機能的な大首都がある文化の完成された形式であるのなら、端的に言ってわれわれの西欧文化とは死の文化なのである」

 著者は、「死」の本質について以下のように述べています。

「死は結局のところ『死者』と『生者』とを分かつ社会的分断線にほかならない。だからこの境界線は等しく両者に影響を及ぼす。死者を排除して生者たらんとする生者たちの不健全な幻想、死を切り離して生を絶対的剰余価値にしようとする幻想にたいして、象徴交換の不壊の論理は生と死との等価を再建する―生き残ることの無差別的な運命という形で。生きのびることのなかで抑圧された死、それが生そのものであるが、それはよく知られた反転作用にしたがえば、死によって規定された死後の生にすぎない」

 「死後のゲットー」についても、著者は以下のように述べます。

「死者たちの隔離がすすむにつれて、不死の概念がふくらむ。なぜなら、死の彼岸というこの際立った資格は『魂』と『高級な』精神性のしるしであるが、それは死者たちの現実の追放や死者との象徴交換の断絶をおおい隠す筋立てにすぎないからである。死者たちがさまざまであっても生き生きと目の前におり、多面的な交換のなかで生者たちのパートナーである場合には、彼らは不死である必要はないし、またそうあってはならない。なぜかといえば、このような幻想的な性質は相互性をこわしてしまうからである。死者たちが生者たちによって排除されるにつれてはじめて、彼らはまことに静かに不死となっていくが、こんな観念化された死後の生は、彼らの社会的流謫のしるしでしかない。 諸宗教がアニミズムから多神教へ、ついで一神教へと進歩するにつれて不死の魂も徐々に姿をあらわすといった進歩の観念とは手を切らなくてはならない。死者たちの監禁がすすむにつれて、不死性が彼らに与えられるのだが、それは、われわれの社会で生の希望と非社会的な存在としての老人の隔離とが同時的に増大するのと幾分似ている」

 著者は「死の権力」についても言及し、以下のように述べています。

「生から死を取り除くことは、経済的なものの働きである。その死は余分の生であり、今後は計算や価値といった操作的用語で読みとられる。『自分の影を失った男』(シャミッソー)がそうだ。ひとたび影を失うと(死が奪われると)、ペーター・シュレミールは金持ちでたくましくなり、そして資本家になる。悪魔との契約は経済学との契約にほかならない。死に生が返されること、それが象徴的なものの働きである」

 第五部の2「未開社会における死の交換」には、こう書かれています。

「われわれは、死を生物=人類学的法則の方へおし戻し、死に科学の特典を与え、死を個人的運命として自立化させることで、死を脱社会化してしまった。死の肉体的物質性は、われわれがそれにみとめる『客観的』信用でわれわれを麻痺させるが、未開人をたじろがせはしない。彼らは決して死を『自然化』しなかった。彼らは死が(肉体や自然的出来事と同じく)ひとつの社会関係であり、死の定義が社会的であることを知っている。その点で、彼らはわれわれよりもはるかに『唯物論者』である。それというのも、彼らにとって死の真の物質性は、マルクスにとって商品の物質性と同じく、形式のなかにあり、その形式とはつねに社会関係の形式であるからだ。われわれの観念論のおもむくところは死の生物学的物質性という幻想であり、『現実性』についての言説は事実上想像界の言説である。これに反して未開人たちは象徴界の介入のなかでこうした言説をのりこえてしまうのである」

 続いて、著者は「加入儀礼」について以下のように述べます。

「象徴的効果の強い時間は、加入儀礼である。それは死を悪魔祓いしたり『のりこえ』たりするのではなく、死を社会的に統合しようとする。R・ジョーランが『死―サラ』のなかで述べているのによれば、先祖の集団は『コイたち(加入への若い候補者たち)を食う』、そして青年たちは再生するために『象徴的に』死ぬ。これをわれわれの堕落した意味で理解しないようにとくに注意すべきだ。反対につぎの意味で理解すべきだろう―彼らの死は先祖と生者との相互的/敵対的交換の賭金となり、切断ではなく当事者間の社会関係、つまり貴重な財や女の流通と同じほど強い贈与と対抗贈与の流通をつくりあげる」

 さらに著者は「加入儀礼」について以下のように述べます。

「加入儀礼がなまの事実しかないところに交換を設定することにあることは明らかである。ひとは、自然的・偶然的・不可逆的な死から、与えられ、受けとられる死へ、したがって社会的交換のなかで可逆的な、交換によって「解決可能な」死へと移行する。同時に、誕生と死との対立は消えうせる。それらもまた象徴的可逆性の種々相の下で交換されあうことができる。加入儀礼は、決定的瞬間、社会的結節点であり、生と死が生活の諸項であることを止めて、一方から他方へ陥入しあう暗箱である。それは何らかの神秘的な融合に向かうといったものではなくて、加入者を真の社会的存在につくりかえることである。加入儀礼を施されていない子供は単に生物学的に生まれたにすぎない。彼は「現実の」父や母をもっているにすぎない。彼が1個の社会的存在になるためには、儀礼的な誕生/死という象徴的出来事を経なくてはならず、生と死を経めぐって交換の象徴的現実に入りこむのでなくてはならない」

 そして、著者は「象徴交換」について以下のように述べます。

「〔近代〕政治経済システムを通りぬけながらも、象徴交換は何ひとつ変化しなかった。死者たちは否定され居住禁止をくらってはいるが、われわれはその死者たちと交換しつづけている。ただわれわれは、死者たちとの象徴交換の断絶を、われわれ自身の連続的な死と死の苦悩をもって支払っているのだ。生命を奪われた自然や獣についても根本的には同じことがいえる。ばかげた自由論だけが、われわれが象徴交換を免れていると主張することができる。負債は普遍的でとだえることはない。われわれは、獲得したこの『自由』とひきかえに何かで『返済』しつくすことは決してない。われわれが論難してきた義務や相互性からなる巨大な係争問題とは、厳密にいえば無意識であるが、それを説明するにはリビドー、欲望、エネルギー論、欲動の運命などは要しない。無意識とは、社会的あるいは象徴的に交換されえなかったものから成るという意味で、社会的である。死についても同じことだ。死はいずれにせよ交換される―最良の場合で、死は、未開人の場合と同様、社会的儀礼にしたがって交換されるだろう。最悪の場合には、死は個人的な服喪のなかで贖われるだろう。無意識は、死が象徴過程(交換、儀礼)から経済過程(贖い、労働、負債、個人)へとさまざまに歪められるなかで全面的に生ずる。そこから享受の面で途方もない相違が生まれる。われわれは、憂うつ症状の死者たちと取引する。未開人は、儀礼と祝祭のおかげで死者たちとともに生きる」

 第五部の3「経済学と死」の冒頭では、本書のメインテーマである「死」について以下のように述べられます。

「人間の条件の普遍態としての死は、死者たちの社会的差別が生じて以降にはじめて実在する。死の制度は、彼岸の生と不死の制度と同じく、司祭層と教会の政治的合理主義の遅ればせの勝利である。死の想像的領域を管理することに、司祭や教会の権力の基礎がある。宗教的な彼岸の生の消滅はどうかといえば、それは、国家の政治的合理主義の―時代をずっと下った―成果である。彼岸の生が『唯物論的』理性の進歩を前に消え去るのは、ごく単純なことで、それが〔現実の〕生そのもののなかに移行したからだ。国家権力の基礎は、生を客観的な彼岸の生として管理することにある。この管理は教会よりもずっと強力なものだ。彼岸の想像界ではなくて、この生そのものの想像界の上でこそ、国家とその抽象的権力は強大になる。国家は、世俗化された死、社会的なものの超越に依拠し、国家の力は国家が体現する死の抽象から由来する。医学が屍体の管理であるのと同じく、国家も社会体の死せる身体の管理である」

 著者はまた、「死の廃棄」について以下のようにも述べます。

「われわれの文化はことごとく、ただひたすら価値としての生および一般的等価物としての時間の再生産のために、生と死を切り離し死の両義性を悪魔祓いする巨大な努力にすぎない。死を廃業することは、あらゆる方向に枝分かれするわれわれの幻覚である―宗教の場合では彼岸の生と永遠の幻覚、科学の場合では真理の幻覚、経済の場合では生産性と蓄積の幻覚である」

 「文庫版解説」では、訳者の今村仁司氏が以下のように書いています。

「象徴交換は必ず『死』の交換である。それは、トロブリアンド島民のクラ交易を説明する時に強調されるような『象徴的物財の交換』に限定されるのではなくて、バタイユが洞察したように、物の象徴的な破壊的交換と同時に『象徴的な死の交換』でもある。象徴的な死の交換という原理は、いわゆる未開社会では集団と集団の安定的な秩序を形成することができたのだが、現代では生産原則と真向から敵対するがゆえに、それはシステムを揺るがし、ついには破壊する原理になるほかない」

 象徴交換とは、何らかの商品を現実的な物質として交換することではありません。そうではなく、象徴的な記号として交換することを意味しています。そして現代における死の意味が浮き彫りになってきます。それは、大量消費社会において交換されうる象徴的な記号のひとつであるとともに、大量消費社会そのものに反乱を起こしうる可能性になるのです。象徴交換の死は「死の象徴交換」においてこそ可能なのです。
 

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