No.1300 人生・仕事 | 哲学・思想・科学 | 心理・自己啓発 『嫌われる勇気』 岸見一郎・古賀史健著(ダイヤモンド社)

2016.08.18

『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健著(ダイヤモンド社)を読みました。
SMAPの解散が日本中の話題を集めていますが、メンバー間のドロドロの人間関係の中でのキムタクの立場を知り、この本を読みたくなったのです。 「自己啓発の源流『アドラー』の教え」というサブタイトルがついています。 哲人と青年の対話篇形式によって、平易かつドラマチックにアドラーの教えを伝えています。著者の岸見氏は日本におけるアドラー心理学の第一人者であり、古賀氏は 臨場感あふれるインタビュー原稿を得意とするライターです。100万部以上売れたミリオンセラーを今さら紹介するのも少々気が引けますが、たいへん面白い本でした。

本書の帯

本書の帯には「自由とは他者から嫌われることである」として、作家の伊坂幸太郎氏の推薦文が以下のように書かれています。

「この本には、僕が今まで小説を書きながら考えていたこと、知りたかったことがたくさん、書かれていました。たくさんのはっとさせられる言葉にうなずかされ、もしくは、驚かされ、何より読み物として面白くて、だんだんと純粋に小説を読んでいる気分になり、最後にはなぜか泣いていました」

本書の帯の裏

また帯の裏には「人生を一変させる新しい古典誕生」とあります。 そして、以下の言葉が並んでいます。

なぜ、あなたはいつまでも変われないのか?
なぜ、あなたは劣等感を克服できないのか?
なぜ、あなたは他人の人生を生きてしまうのか?
なぜ、あなたは幸せを実感できないのか?

さらにカバー前そでには、「すべての悩みは対人関係の悩みである」「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」というアドラーの言葉に挟まれる形で、「フロイト、ユングと並び『心理学の三大巨頭』と称され、世界的名著『人を動かす』の著者・D.カーネギーなど自己啓発のメンターたちに多大な影響を与えたアルフレッド・アドラーの思想を、1冊に凝縮!! 悩みを消し去り、幸福に生きるための具体的な『処方箋』が、この本にはすべて書かれている」と書かれています。

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第一夜 トラウマを否定せよ
第二夜 すべての悩みは対人関係
第三夜 他者の課題を切り捨てる
第四夜 世界の中心はどこにあるか
第五夜 「いま、ここ」を真剣にいきる

本書はアドラーの思想(アドラー心理学)を「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめているので、非常に読みやすいです。第一夜「トラウマを否定せよ」の「知られざる『第三の巨頭』」では、フロイトやユングと並ぶ心理学の巨人としてのアドラーが紹介されます。この「未知の大物」感が本書を開いたばかりの読者の期待を大いに盛り上げてくれます。

フロイトが主宰するウィーン精神分析協会の中核メンバーとしてアドラーが活躍したことを知った青年は「そのアドラーなる人物は、フロイトのお弟子さんなのですね?」と問いますが、哲人は以下のように答えるのでした。

「アドラーとフロイトは比較的年齢が近かったこともあり、対等な研究者として関係を結んでいました。この点、フロイトのことを父親のように慕っていたユングとは大きく異なります。また、わが国で心理学というとフロイトやユングの名前ばかりが取り上げられますが、世界的にはフロイト、ユングと並ぶ三大巨頭のひとりとして、アドラーの名前もかならず言及されます」

哲人は、また自己啓発の源流としてのアドラー心理学について述べます。

「世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーも、アドラーのことを『一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者』だと紹介していますし、彼の著作にはアドラーの思想が色濃く反映されています。同じく、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。つまりアドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく、人間理解の真理、また到達点として受け入れられている。しかしながら、時代を100年先行したともいわれるアドラーの思想には、まだまだ時代が追いつききれていません。彼の考えは、それほど先駆的なものでした」

「トラウマは、存在しない」では、哲人はアドラー心理学の特徴について以下のように述べています。

「アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。ここは非常に新しく、画期的なところです。たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな『物語』としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。 しかし、アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。『いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである』と」

「過去に支配されない生き方」では、「過去は変えられないからこそ、この生は苦しいのです!」と言う青年に対して、哲人は次のように述べます。

「苦しいだけではありません。過去がすべてを決定し、過去が変えられないのであれば、今日を生きるわれわれは人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう。その結果、どうなりますか?世界に絶望し、人生をあきらめるようなニヒリズムやペシミズムに行き着くことになるでしょう。トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口なのです。あなたはそんな価値観をお認めになりますか?」

「人は常に『変わらない』という決心をしている」では、「勇気」がアドラー心理学のキーワードであるとして、哲人は以下のように述べています。

「アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ”勇気”が足りない。いうなれば『幸せになる勇気』が足りていないのです」

ここで登場した「幸せになる勇気」は、本書の続編のタイトルになりました。

第二夜「すべての悩みは対人関係」の「なぜ自分のことが嫌いなのか」では、哲人が青年に対して以下のように語っています。

「わたしにできることとしては、まずは『いまの自分』を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気を持ってもらうことです」

アドラー心理学では、こうしたアプローチのことを「勇気づけ」と呼びますが、哲人はさらに次のように言います。

「対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。アドラーはいいます。『悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない』のだと。しかし、そんなことはできないのです」

さて、劣等感という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは アドラーが最初だそうですが、「自慢する人は、劣等感を感じている」では、哲人は以下のように述べています。

「わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。アドラーは、はっきりと指摘しています。『もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない』」

「もしほんとうに自信を持っていたら、自慢などしません。劣等感が強いからこそ、自慢する。自らが優れていることを、ことさらに誇示しようとする。そうでもしないと、周囲の誰ひとりとして『こんな自分』を認めてくれないと怖れている。これは完全な優越コンプレックスです」

哲人は「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」というアドラーの言葉を紹介し、さらに「わたしたちの文化のなかで、誰がいちばん強いか自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。赤ん坊は支配するが、支配されることはない」という言葉を紹介します。赤ん坊は、その弱さによって大人たちを支配しています。そして、弱さゆえに誰からも支配されないというのです。

「お前の顔を気にしているのはお前だけ」で、哲人が語ります。

「わたしの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。すると彼は、祖母からこういわれました。『お前の顔を気にしているのはお前だけだよ』と。それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます」

「『人々はわたしの仲間なのだ』と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。世界を危険な場所だと思うこともなく、不要な猜疑心に駆られることもなく、世界は安全で快適な場所に映ります。対人関係の悩みだって激減するでしょう」

「非を認めることは『負け』じゃない」では、哲人と青年は「怒り」について語り合います。哲人は「怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ」と言いますが、青年は「相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮蔑的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?」と問い返します。そのとき、哲人は次のように言うのでした。

「怒ってはいけない、ではなく『怒りという道具に頼る必要がない』のです。 怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、『ついカッとなって』などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう」

「直面する『人生のタスク』をどう乗り越えるか」では、哲人はアドラー心理学における人間の行動面と心理面のあり方についての明確な目標を掲げ、これを人生の課題(タスク)としています。行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。

そして、「では、その『人生のタスク』とは?」と質問する青年に対して、哲人は以下のように答えるのでした。

「人生という言葉を、子ども時代からさかのぼって考えましょう。子ども時代、われわれは親から守られ、とくに働かずとも生きていくことができます。しかし、やがて『自立』するときがやってくる。いつまでも親に依存し続けるのではなく、精神的に自立するのはもちろん、社会的な意味でも自立し、なにかしらの仕事―これは企業で働くといった狭い意味ではなく―に従事しなければなりません。さらに、成長していく過程でさまざまな交友関係を持つことになります。もちろん誰かと恋愛関係を結び、それが結婚にまでつながることもあるでしょう。そうなれば夫婦関係が始まりますし、子どもを持てば親子関係が始まるわけです。 アドラーはこれらの過程で生まれる対人関係を『仕事のタスク』『交友のタスク』『愛のタスク』の3つに分け、まとめて『人生のタスク』と呼びました」

哲人は「仕事のタスク」を取り上げる中で、ニートや引きこもりに言及し、以下のように述べています。

「本人がどこまで自覚しているかどうかは別として、核にあるのは対人関係です。たとえば、求職のために履歴書を送り、面接を受け、何社も不採用となる。自尊心を傷つけられる。そんな思いをしてまで働く意味がどこにあるのかわからなくなる。あるいは、仕事で大きな失敗をする。自分のせいで会社に巨額の損失を出してしまう。目の前が真っ暗になって、明日から会社に行くのも嫌になる。これらはいずれも、仕事そのものが嫌になったのではありません。仕事を通じて他者から批判され、叱責されること、お前には能力がないのだ、この仕事に向いていないのだと無能の烙印を押されること、かけがえのない『わたし』の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。つまり、すべては対人関係の問題になります」

「赤い糸と頑強な鎖」では、哲人は次のように喝破します。

「あなたが変われば、周囲も変わります。変わらざるをえなくなります。アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。他者が変わるのを待つのではなく、そして状況が変わるのを待つのではなく、あなたが最初の一歩を踏み出すのです」

第三夜「他者の課題を切り捨てる」の「ほんとうの自由とはなにか」では、哲人は「自由とは、他者から嫌われることである」というアドラーの考え方を紹介し、さらに以下のように述べます。

「他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです」

第四夜「世界の中心はどこにあるか」の「対人関係のゴールは『共同体感覚』」では、青年が哲人に対して「対人関係の「ゴール」はどこにあるのです?」と問い、哲人は「結論だけを答えよというのなら、『共同体感覚』です」と答えます。共同体感覚とは何か。哲人は「他者を仲間だと見なし、そこに『自分の居場所がある』と感じられることを、共同体感覚といいます」と説明します。 青年は「まあ、家庭や学校、職場、地域社会といった枠組みですよね」と言いますが、それに対して哲人は次のように述べます。

「アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています」

これを読んで、ブッダが考えた仏教の宇宙観に似ていると思いました。

「叱ってはいけない、ほめてもいけない」では、コミュニケーションについてのアドラーの考え方を哲人が「アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について『ほめてはいけない』という立場をとります」と説明します。
「ほめてはいけない?」と驚く青年に対して、哲人は「無論、体罰はもってのほかですし、叱ることも認めません。ほめてはいけないし、叱ってもいけない。それがアドラー心理学の立場です」と述べます。 なぜか。アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しているからだというのです。ここは、アドラー心理学の根本原理だと言えます。哲人は以下のように述べます。

「そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。あらゆる人に対して『同じではないけれど対等』という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります」

「自分には価値があると思えるために」では、哲人は次のように述べます。

「いちばん大切なのは、他者を『評価』しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう」

人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。これがアドラー心理学の考え方だといいます。

「ここに存在しているだけで、価値がある」では、「誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できる」というアドラー心理学について、青年は以下のように述べています。

「逆にいうと、他者に役立てない人間に価値はない。そうおっしゃっているのですよね? 突き詰めるとそれは、生まれて間もない赤ん坊、そして寝たきりになった老人や病人たちは、生きる価値すらないことになってしまう」

それに対して、哲人は次のように述べるのでした。

「あなたはいま、他者のことを『行為』のレベルで見ています。つまり、その人が『なにをしたか』という次元です。たしかにその観点から考えると、寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで、なんの役にも立っていないように映るかもしれません。そこで他者のことを『行為』のレベルではなく、『存在』のレベルで見ていきましょう。他者が『なにをしたか』で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです」

第五夜「『いま、ここ』を真剣にいきる」の「信用と信頼はなにが違うのか」では、哲人が「信じる」という行為について以下のように述べています。

「ここでは『信じる』という言葉を、信用と信頼とに区別して考えます。まず、信用とは条件つきの話なんですね。英語でいうところのクレジットです。たとえば銀行でお金を借りようとしたとき、なにかしらの担保が必要になる。銀行は、その担保の価値に対して『それではこれだけお貸ししましょう』と、貸し出し金額を算出する。『あなたが返済してくれるのなら貸す』『あなたが返済可能な分だけ貸す?』という態度は、信頼しているのではありません。信用です」

では、「信頼」とは何か。信用とどう違うのか。哲人は言います。

「これに対して、対人関係の基礎は『信用』ではなく『信頼』によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります」 「その場合の信頼とは?」と問う青年に対して、哲人は「他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です」と答えます。

青年は「先生は性善説に立たれているのかもしれませんがね、わたしは性悪説に立ちます。赤の他人を無条件に信じたところで、利用されてお終いです!」と言い放ちますが、哲人は動ぜずに以下のように述べます。

「アドラー心理学の考えはシンプルです。あなたはいま、『誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ』と思っている。しかし、裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ『わたしがどうするか』だけを考えればいいのです。『相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう』というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません」

さらに「仕事の本質は、他者への貢献」では、哲人が「他者貢献とは、『わたし』を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ『わたし』の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです」と述べています。

「ワーカホリックは人生の嘘」では、哲人は「人生の調和」について言及し、以下のように述べています。

「ユダヤ教の教えに、こんな話があります。『10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ』と。このとき、あなたを嫌う1人に注目するのか。それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスをあてるのか。あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て『世界』を判断してしまいます」

それから吃音が話題になり、「あれは当人も家族もつらいでしょう」と言う青年に対して、哲人は次のように述べます。

「アドラー心理学では、吃音に悩まれる方々は『自分の話し方』にだけ関心を寄せ、劣等感や生きづらさを感じている、と考えます。おかげで自意識が過剰になり、ますます言葉を詰まらせてしまうのだ、と」

「少しくらい言葉を詰まらせたところで、それを理由にして笑ったり小馬鹿にする人は、ほんの少数でしかありません。先の言葉でいえば、せいぜい『10人のうちの1人』の範疇でしょう。しかも、そのような態度をとる愚かな人間など、こちらから関係を断ち切ってしまってかまわない。ところが、人生の調和を欠いていると、その1人にだけ注目して『みんなわたしを笑っている』と考えてしまうのです」

さらに哲人は、以下のように述べています。

「対人関係がうまくいかないのは、吃音のせいでも、赤面症のせいでもありません。ほんとうは自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルなのです」

そして、「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」では、哲人は「もうあなたもお気づきですよね?」として、「すなわち『幸福とは、貢献感である』。それが幸福の定義です」と喝破するのでした。

「無意味な人生に『意味』を与えよ」では、「人生の意味とはなにか?」「人はなんのために生きるのか?」という質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものだったことが紹介されます。哲人は、これについて以下のように説明しています。

「たとえば戦禍や天災のように、われわれの住む世界には、理不尽な出来事が隣り合わせで存在しています。戦禍に巻き込まれて命を落とした子どもたちを前に、『人生の意味』など語れるはずもありません。つまり、人生には一般論として語れるような意味は存在しないのです。しかし、そうした不条理なる悲劇を前にしながら、なにも行動を起こさないのは、起きてしまった悲劇を肯定しているのと同じでしょう。どんな状況であれ、われわれはなんらかの行動を起こさねばなりません。カントのいう傾向性に立ち向かわなければなりません」

また、われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきだとして、そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語った後、続けて「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と述べたことが明かされます。 「旅人が北極星を頼りにするように、われわれの人生にも『導きの星』が必要になる」というのがアドラー心理学の考え方であり、その星とは「他者貢献」にほかなりません。哲人は「あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、『他者に貢献するのだ』という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない」と述べるのでした。

哲人は長年アドラーの思想と共に生きてきて、「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということに気づいたそうです。 哲人は、その意味を次のように述べています。

「『わたし』が変われば『世界』が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ『わたし』によってしか変わりえない、ということです。アドラー心理学を知ったわたしの目に映る世界は、もはやかつての世界ではありません」 「わたしが変われば、世界が変わる。わたし以外の誰も世界を変えてくれない・・・・・・」と呆然とする青年に対して、哲人は述べます。

「これは長年近視だった人が、はじめて眼鏡をかけたときの衝撃と似ています。不鮮明だった世界の輪郭が明らかになり、その色までも鮮やかになる。しかも視界の一部がクリアになるのではなく、見える世界のすべてがクリアになる。わたしはあなたが同じような体験をしてくれたら、どんなに幸せだろうと思います」

青年はすっかりアドラー心理学を理解し、哲人の家を出たのでした。
「世界はシンプルであり、人生もまた同じである」と言いながら・・・。

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