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2016.09.29
『死ぬ前に後悔しない読書術』適菜収著(KKベストセラーズ)を読みました。著者は、1975年山梨県生まれの作家、哲学者です。フリードリヒ・ニーチェの思想を解説する著作を多く発表しています。最近では、三島由紀夫に関する著作が多いです。
本書の帯
本書の帯には「ゲーテ、ニーチェ、ヘッセ、アレント、小林秀雄、三島由紀夫・・・偉人に学べば人生は確実に変わる!」「『情報を仕入れるための読書』から、いい加減、卒業しよう」と書かれています。
本書の帯の裏
また、カバー前そでには以下のように書かれています。
「なぜ、人間はとりかえしがつかないことになってしまうのか? 私は読書に対する姿勢が大きくかかわっていると思います。彼らに共通するのは、『子供の読書』を大人になっても続けていることです。つまり、 合理的に、理性的に思考を重ねていけば答えにたどり着くと深く信じている。『正解』が存在するなら、それを効率よく、短期間で、手に入れようという発想になる。だから、速読法を学んで短期間でスキルを身につけようとか、最先端の情報により知的に武装しようとか、そういう方向に行ってしまう。はっきり言ってくだらない。今の世の中、ここまでおかしくなったのは、本ひとつ、まともに読めない大人が増えたからではないでしょうか」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに「生きているだけでダメになる時代」
第一章 とりかえしのつかない人
第二章 「子供の読書」と「大人の読書」
第三章 「多読」か「精読」か
第四章 本の読み方
おわりに「死ぬ前に後悔しないために」
はじめに「生きているだけでダメになる時代」では、著者は「今の世の中、ここまでおかしくなったのは、本ひとつ、まともに読めない大人が増えたからではないでしょうか」と問いかけ、以下のように述べています。
「特に今は急速に世の中が悪くなってきています。会社に依存もできないし、リストラされたら立ち直れない。将棋でもフットサルでも趣味があればまだマシですが、1人になったら何をしていいかわからないという人も多い。個人も社会も、袋小路に迷い込んでしまっている。そこから抜け出す方法は、ただひとつ、本を読むことです」
また著者は、読書について以下のようにも述べています。
「読書なんてどうでもいいと思っている人間は、世界なんてどうでもいい、社会なんてどうでもいいと思っている人間です。もっともかかわってはいけない人間です。結婚相手だって、本を読まない人間はダメですね。たとえ、目と鼻と口がついていたとしても、それは生物としてヒトなだけであって人間とは呼べない。なぜなら、本書で示すように、読書は人間であることの前提条件であるからです。大事なことは、真っ当な世界に連なる意志をもつことです」
さらに著者は、読書について以下のように述べます。
「読むべき本を読めば、人生は確実にかわります。近代とは何もしないでも人間が汚れていく時代です。コタツに入って、みかんを食べながらワイドショーを見ているだけで、人間は腐り果てていく。正気を維持し、人間として生きるのにも努力が必要です。単にヒトとして生き延びることが目的なら、餌としての『情報』を摂取するだけで十分かもしれません。でもそれでは、家畜と同じです」
第一章「とりかえしのつかない人」では、著者は「マクドナルド的人間」として、以下のように述べています。
「本を読んでいない奴は、ほとんどが薄っぺらい。 じゃあ、本を読んでいない奴は全員ダメなのか? 全員ダメです。とにかくそういう奴は、あらゆる文化に対して薄っぺらいんですね。きちんとした映画も見ないし、きちんとしたレストランにも行かない。マクドナルドみたいな本を読み、マクドナルドみたいな映画を見て、マクドナルドみたいな音楽を聴き、マクドナルドに家族で通う政治家に投票してしまう」
また著者は、「バカ」について以下のように述べます。
「バカとは価値判断ができないことです。価値判断ができないから変なものを取り入れてしまう。そしてますます変になっていく。真っ当な価値判断を身につけるには、真っ当な価値判断のできる人から学ぶしかありません」
さらに著者は「価値判断ができる人が書いた本を読むことが、なによりも大切なのです」として、以下のように述べています。
「人類は過去、ありとあらゆることを考えてきました。その歴史につながる作業をしないとまずいわけですね。人間とは人間の歴史に連なることです。価値の連鎖に身を置くことです。『今はそんな時代ではない』『時代のスピードに取り残される』『自分には自分なりの価値基準がある』こういう人は、結局、取り残されていきます」
著者は、「ギターのチューニング」として、以下のようにも述べています。
「今の世の中には『人間は個として独立しており、生まれつき備わっている才能を育てていけば開花する』という幻想があります。学校の先生は『自分の力で考えることを身につけましょう』と言います。しかし、自分の力で考えることなどできるわけがない。人間はただ他人が考えたことを引き継いているだけです。生まれたときにはすでに母国語があり、すでに五感により、世界が立ち現れている。そこに理由を見いだすのは不可能です」
続けて、著者は「あらゆる前提が存在することを教えるのが、本当の教育です」として、以下のように述べています。
「読書によりに過去の軸とつながらないと、刹那的に今を生きるようになり、人間はダメになります。水を飲まないと死ぬのとほとんど同じレベルで、読書をしないと人間は確実にダメになる」
読書といえば「速読」がよく話題になりますが、著者は「速読バカになるな」として、以下のように述べています。
「料理と同じで、きちんとしたものは、ゆっくり味わわなければ意味がありません。レストランにいる時間にも意味があるのです。ビュッフェや食べ放題に行き『元をとる』とか『コスパがいい』などと言いながら、むやみに腹をふくらませているのが現代人です。 文学作品や思想書を速読するのは、映画を2倍速で見るのと同じです」
著者は、「正解を暗記する人たち」として、以下のようにも述べます。
「きちんとものを考える人は、『自分の立場』『自分の主張』『自分の意見』『自立した個人』とは何かと疑いをもつ。わかりやすく説明できる問題は、もともとたいした問題ではありません。ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883〜1969年)が言うように、そもそも答えが見つからないからこそ問題になっているわけです」
著者は「とりかえしのつかない人」はどんな問題に対しても、すぐに答えを出せと言うとして、以下のように述べます。
「人間にはわからないまま考え続けなければならない問題があります。しかし、社会全体が薄っぺらなものになるにつれ、『答えを出さない』『自分の足場を固めない』『考え続ける』という真面目な態度は軽視されていく。そして脊髄反射のように『対案を示せ!』と騒ぎ出す。要するに、恥知らずが増えた。自分が何ほどの存在かもわからないまま、はっきり意見を表明することに恥じらいを覚える。自分の意見を主張するのではく、偉大な先人の意見に学ぶ。それが正常な人間です。しかし、今の世の中は、誰もが自分たちが信奉する正義を騒ぎ立て、罵倒を繰り返しています。サル山でサルが吠えている」
「価値判断の基準をどこに見いだすか」という問題については、著者は「知的武装でバカになる」として、以下のように述べます。
「それは歴史に見いだすしかありません。その歴史も長くなければ意味がない。2日、3日ではダメです。2年、3年でも短い。200年なら近代で、2000年ならキリスト教です。人類社会の歴史ということなら、少なくとも1万年は遡る必要がある。それが逆に短くなると、最終的に脊髄反射になる。昆虫が液体を出すのと同じです。特定のワードに反応して、覚えた正解をピッと出す。こうした傾向を早めたのはインターネットかもしれません」
第二章「『子供の読書』と『大人の読書』」では、著者は「燃えるトゲ」として、以下のように述べています。
「よく、戦後の保守は文学者が多かったといわれます。たとえば、小林秀雄(1902~83年)、福田恆存(1912~94年)、竹山道雄(1903~84年)、三島由紀夫(1925~70年)、江藤淳(1931~99年)・・・・・・。一方、政治運動ばかりしている「保守」は薄っぺらい。なぜか? それは文学が人間を扱うものであるからだと思います。人間を扱うということは、人間の存在の矛盾を扱うということです。だから一筋縄ではいきません」
なぜ優れたものに触れないといけないのか? 著者は、「幼児の舌と大人の舌」として、以下のように問いに答えます。
「価値判断能力を身につけるためです。暗い場所でも、道を間違えずに歩くことができるようになるためです。夜、照明を落とせば、真っ暗になりますが、そのうち目が慣れてくる。同様に、古典に接近する中で、次第に見えてくるものがある。見えてくることが歴史的に証明されているからこそ、古典は残っているのです」
それでは、文学とは何か。著者は「三島由紀夫の読書論」として、以下のように文学について語ります。
「一流の文学は読者に媚びるのではなく『ノウ』を突きつける。文学は美しい物語ではありません。三島は『純文学には、作者が何か危険なものを扱っている、ふつうの奴なら怖気をふるって手も出さないような、取扱いのきわめて危険なものを作者が敢て扱っている、という感じがなければならない』と言います。小説の中にピストルやドスや機関銃が現れても、何十人の連続殺人事件が起こっても、作者自身が身の危険を冒して『危険物』を扱っていなければならない」 さらに著者は、文学の本質について以下のように述べます。 「文学は本質的に危険なものです。自分の足場を破壊する。自分の主張を温かく包み込んでくれるものではなく、作家の目を通して捉えた世界をそのまま見せつける」
著者は「高い次元から見る」として、優れた文学は読者を強制的に高い次元に連れていき、そこから見える景色を読者に呈示すると述べます。読者は「自分がこれまで見てきた世界はなんだったのか」と驚きますが、著者は以下のように書いています。
「一流の文学はすべてこれです。面白かったとか、泣けたとか、スリリングだったとか、オチに工夫があったとかは表層的な話であり、その小説でしか表せない世界が示されているかどうかです。どうでもいいようなストーリーを次々とひねり出す作家が重宝されるのは、映画やドラマ化もしやすいし、時間つぶしに都合がいいからでしょう。自分の足場を根底的なところで揺るがす一流の文学を読まないと、人間はとりかえしがつかなくなります。そのためには、いつでも自分の足場を破壊する覚悟がなければならない」
第三章「『多読』か『精読』か」では、「世界で一番すごい本」として、著者は以下のように述べています。
「『これまで読んだ本の中で1番すごい本はなんですか?』と訊かれることがあります。私が迷うことなく答えるのは、ヨハシ・ペーター・エッカーマン(1792~1854年)が書いた『ゲーテとの対話』です」
著者は、『ゲーテとの対話』は人類の必読書であるとして、以下のように述べています。
「私だけではなくて、ありとあらゆる人が、『ゲーテとの対話』を薦めています。森鷗外(1862~1922年)も芥川龍之介(1892~1927年)も太宰治(1909〜48年)も三島由紀夫も水木しげる(1922~2015年)もトーマス・マンも『ゲーテとの対話』を愛読した。あらゆる本読みが、偉大な書として『ゲーテとの対話』を挙げています」
哲学者のニーチェは、以下のように述べています。
「この世紀のもので後世に残るであろう書物、より正しくは、この世紀のうちにその根をもっていない樹木として、その枝々でもってこの世紀を越えてかなたへと達する2、3の優れた書物―私が考えているのは、セント・へレナ島における[ナポレオンの]回想録とゲーテのエッケルマンとの対話とである。(『生成の無垢』)」
著者は「ゲーテを読めば、人間の精神の病は治ります」として、以下のように述べます。
「ナポレオンは遠征するときに戦地にたくさんの本を持っていった。その図書目録にゲーテは注目します。 ところで、この目録を見て注目すべき点は、書物をさまざまな項目に分類する方法だ。たとえば、「政治」の項目には『旧約聖書』『新約聖書』『コーラン』などがあげられている。このことから、ナポレオンが宗教的なものをどういう観点から眺めていたかが、わかるね。(『ゲーテとの対話』)」
第四章「本の読み方」では、新聞の社説を読めば確実にバカになるとして、著者は以下のように述べます。
「社説がくだらないのは、書いている人間の能力が低いからではありません。逆です。きわめて能力の高い職人のようなライターだから、ああいう反吐がでるような文章を毎日量産できるのです。特に大手新聞の読者は、数百万人単位です。子供から老人までいる。その大多数から苦情も反論も来ないような、毒にも薬にもならないような文章を書く必要がある。そんなものを読む暇があるなら、寝ていたほうがましです」
トクヴィルは、新聞が世論を煽る危険性を指摘した上で、それでも「社会の紐帯を維持する装置」として重要視したとして、著者は述べます。
「日本の新聞と海外の新聞を一概に比較することはできない。日本の新聞は毎朝宅配されますが、欧米の新聞は基本的に駅や街角の売店で手に入れるものです。だから新聞ごとに主張がはっきりしている。記事も専門家が書くことが多く、投書欄には著名人や大学教授などのきちんとした意見が並ぶ。日本の新聞の目的は愚民をつくることとまでは言うつもりはありませんが、読まないに越したことはない」
そして著者は以下のようなオルテガの言葉を紹介します。
「大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである」(『大衆の反逆』)
ベストセラーについては、著者は「ベストセラーは時間を置いてから読む」として、以下のように述べています。
「価値基準が崩壊すれば、世相に迎合するものが持て囃されるようになる。ベストセラーとは『隣の人が読んでいる本』です。ふだん本を読まない人が買うからベストセラーになるのです。本読みが見向きもしないような本だからよく売れるのです。行列ができるラーメン屋に『行列ができているから』という理由で並ぶような奴が買っているわけですね」
最後に、「引用が大事」として、著者は「私が書く本は引用が多い」と述べ、その理由を以下のように書いています。 「私が書くべきことなど1行もないからです。ごちゃごちゃ書いてあるのは、あくまで補足です。これまで述べてきたように、すでに思考回路は出揃っています。大事なことは言い尽くされています。新しいことを言うのは、それを消化した後でいい。そして普通の人間にはそれは無理です」
さらに引用について、著者は以下のように述べるのでした。 「この世界は、現在では老年期に達していて、数千年このかたじつに多くの偉人たちが生活し、いろいろと思索してきたのだから、いまさら新しいことなどそうざらに見つかるわけもないし、言えるわけもないよ。私の色彩論にしてからが、完全に新しいものだとはいえない。プラトンやレオナルド・ダ・ヴィンチや、その他たくさんの卓越した人びとが、個々の点では私よりも前に、同じことを発見し、同じことを述べている。しかし、私もまたそれを発見し、ふたたびそれを発表して、混迷した世界に真理の入っていく入口をつくろうと努力したこと、これが私の功績なのだよ」