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No.1400 宗教・精神世界 『ブッダが説いたこと』 ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳(岩波文庫)
2017.03.14
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳(岩波文庫)を読みました。これまでに岩波文庫に収められた『ブッダのことば』、『ブッダの真理のことば・感興のことば』、『ブッダ最後の旅』、『ブッダ 神々との対話』、『ブッダ 悪魔との対話』を読んできましたが、本書はその流れにある「ブッダ本」の最新刊です。
最近、わたしの名前をグーグル検索すると、なぜか仏教系の某宗教団体名が補助ワードで表示されます。その教団の信者ではないかなどと誤解されて困惑していますが、わたしは特定の宗教団体の信者でも会員でもありません。日本仏教でいえば空海をリスペクトしていますが、さらにはその源流たる仏教の開祖であるブッダの教えを人生の指針としています。
本書の表紙
カバー表紙には仏坐像の写真が使われています。
ロリアン・タンガイ(パキスタン)出土の仏坐像で、クシャーン朝(2世紀頃)のものです。インドのコルカタ博物館に所蔵されています。
そして、カバー表紙には以下のように書かれています。
「人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている」。スリランカ出身の学僧ワールポラ・ラーフラ(1907―97)は、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説いた。究極真理をめざす実践の本質とは? 近代精神を意識して書かれた英語圏最良の仏教概説書。1959年刊。本邦初訳」
本書の帯
また、本書の帯には「真に幸福に生きるとは、”今”を全力で生きること――」と大書され、続いて「ヨーロッパで、半世紀にわたり、最も読まれてきた仏教概説書。本邦初訳」と書かれています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「序言」ポール・ドゥミエヴィル
「まえがき」
「ブッダとは」
第1章 教的な心のあり方
第2章 第一聖諦 ドゥッカの本質
第3章 第二聖諦 ドゥッカの生起
第4章 第三聖諦 ドゥッカの消滅
第5章 第四聖諦 ドゥッカの消滅に至る道
第6章 無我(アナッタ)
第7章 心の修養(バーヴァナー)
第8章 ブッダの教えと現代
「用語集」
「解説」
「訳者あとがき」
「序言」の冒頭で、ポール・ドゥミエヴィルは以下のように述べます。
「この本は、自らが立派な仏教修行者であり、仏教を語るのにもっともふさわしい人の一人が、近代精神をはっきりと意識して著した仏教概説である。著者ワールポラ・ラーフラ師はセイロン〔現スリランカ〕で伝統的な僧侶教育を受けたのち、島内の代表的な僧院の要職を歴任した」
第1章「仏教的な心のあり方」では、その冒頭で著者は「ブッダ『目覚めた人』は一人の人間であった」として、以下のように述べています。
「ブッダを、一般的意味での『宗教の開祖』と呼ぶことができるとすれば、彼は『自分は単なる人間以上の者である』と主張しなかった唯一の開祖である。他の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在である〔か、そうであると主張している〕。ブッダは、人の人間であったばかりではなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。彼は、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものであると主張した。人間は、そして人間だけが、ブッダ『目覚めた人』になれる。人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている。ブッダとは、『卓越した人間』と呼ぶことができる。ブッダは完璧な『人間性』を実現したがゆえに、後世に至って一般的には『超人』と見なされるようになった」
また、「人間存在こそが至高」として、著者は以下のように述べます。
「ブッダによれば、人間存在こそが至高である。人間は自らの主であり、それより高い位置から人間の運命を審判できる〔神のような〕存在や力はない。『自らが自らのよりどころであり、自分以外の誰をよりどころとすることができようか?』とブッダは述べた」
さらに「疑いの除去」として、著者は以下のように述べます。
「ブッダは次のような助言を授けたが、これは宗教史上唯一の例外的なものである。
『カーラーマたちよ、あなたたちが疑い、戸惑うのは当然である。なぜなら、あなたたちは疑わしい事柄に疑いを抱いたのであるから。カーラーマたちよ、伝聞、伝統 風説に惑わされてはならない。聖典の権威、単なる論理や推理、外観、思弁、うわべ上の可能性、「これが私たちの師である」といった考えに惑わされてはならない。そうではなく、カーラーマたちよ、あなたたちが自分自身で、忌まわしく、間違っており、悪いと判断したならば、それを棄てなさい。あなたたちが自分自身で、正しく、よいと判断したならば、それに従いなさい』
ブッダはさらに、修行者は、自らが師事する人の真価を十分に得心するために、ブッダ自身のことさえも吟味すべきである、と言っている」
「疑い」について、著者は以下のようにも述べています。
「疑わずに、信じるべきであるというのは、的を射ていない。ただ単に『私は信じる』というのは、本当にものごとを理解し、ものごとが見えているということではない。たとえば数学の問題を前にした生徒が、ある時点でそれ以上どう進んでいいかわからなくなり、疑問が生じ、戸惑うことがある。彼に疑問がある限り、彼は先に進めない。先に進みたければ、彼は疑問をなくす必要がある。そして、疑問をなくす方法は1つではない。ただ単に『私は信じる』あるいは『私は疑わない』というのは、問題を本当に解決することにはならない。理解することなく、自らに無理強いしてなにかを信じたり、受け入れたりすることは、政治的にはよくても、精神的に、あるいは知的にはよくない」
続けて、著者は以下のように述べています。
「ブッダはたえず疑問をなくすことを心がけた。死の直前になっても、ブッダは弟子たちに向かって、あとになって疑問が晴らせなかったことを悔いることがないように、今まで自分が教えたことに関して何か疑問があるかどうかを質した。しかし、弟子たちは黙して答えなかった。そのときのブッダのことばは感動的である。
『弟子たちよ、そなたたちはもしかしたら、師への敬意ゆえに質問しないのかもしれない。もしそうなら、それはよくないことだ。友人に問いかけるように質問するがいい』
著者は「仏教王アショーカ」として、以下のように述べます。
「紀元前3世紀にインドを支配した偉大な仏教王アショーカは、この寛容と相互理解の崇高な手本に倣って、広大な帝国内のすべての宗教を尊重し援助した。今日も現存する石碑の1つには、次のように記されている。
『人は、自らの宗教のみを信奉して、他の宗教を誹謗することがあってはならない。そうではなくて、他の宗教も敬わねばならない。そうすることにより、自らの宗教を成長させることになるだけではなく、他の宗教にも奉仕することになる。そうしなければ、自らの宗教の墓穴を掘り、他の宗教を害することになる。自らの宗教のみを崇め、他の宗教を誹謗する者は、自らの宗教に対する信心から「自分の宗教を称えよう」と思ってそうする。だが実際には、そうすることで自らの宗教をより深刻に害している。それゆえに、和合こそが望ましい。誰もが、他の人びとが信奉する教えを聴こう、聴くようにしよう』」
続けて、著者は以下のように述べています。
「この共感的相互理解の精神は、今日宗教の分野に限らず、他の分野においても適用されるべきである、と付け加えておこう。この寛容と相互理解の精神は、仏教の最初期からそのもっとも大切な思想の1つである。2500年という長い歴史を通じて、人びとを仏像に改宗させ、多くの信者を得て伝播していく過程で、一度たりとも弾圧がなく、一滴の血も流されなかったのは、まさにこの思想のおかげである」
著者は「仏教」という名称は重要でも本質的でもないと喝破し、「真実に名称は付けられない」として以下のように述べています。
「人間はものを識別しようとする傾向が強いあまり、誰にでも共通する性質とか感情にまで個別的名称を付けて識別している。たとえば『慈善』という行為にしても、『仏教的』慈善と『キリスト教的』慈善とまるで2つが異なったものであるかのように呼び、他の個別的名称が付けられた慈善を見下したりする。しかし慈善には宗教による違いなどありえない。慈善はキリスト教のものでもなく、仏教のものでも、ヒンドゥー教のものでも、イスラム教のものでもない。母親の子供に対する愛は、仏教的でもキリスト教的でもなく、母性愛である。愛、慈善、慈しみ、寛容、忍耐、友情、欲望、憎しみ、悪意、無知、うぬぼれといった人間の資質と感情は、ある宗教に特有のものではなく、個別的名称が付けられるものではない」
著者によれば、仏教で強調されているのは「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではありません。著者は「盲信を棄てる」として、以下のように述べます。
「信仰は、ものごとが見えていない――『見える』ということばのすべての意味において―場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が『私は掌の中に宝石を隠しもっている』と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない」
著者は「苦しみの消滅」について、以下のブッダの言葉を紹介します。
「宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。私が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの『消滅』である。それゆえにマールンキャプッタよ、私が説明したことは説明されたこととして、説明しなかったことは説明されなかったこととして受け止めるがよい。マールンキャプッタよ、私は、宇宙が有限か無限か、といった問題は説明しなかった。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明しなかったのかというと、それは無益であり、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繋がらないからである。それゆえに私は説明しなかったのである」
第3章「第二聖諦 ドゥッカの生起」では、「死後のエネルギーの継続」として、著者は以下のように述べています。
「この肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは何か別なかたち、姿をとって継続するが、それが再生と呼ばれる。子供の肉体的、心的、知的能力は幼くて弱いが、成人となる可能性を秘めている。存在を継続する肉体的、心的エネルギーは、自らのうちに新たなかたちをとり、次第に成長し、成熟する力を内在している」
第4章「第三聖諦 ドゥッカの消滅」では、「ニルヴァーナはことばを超えたもの」として、著者は以下のように述べています。
「ことばは、一般の人たちが感覚器官と心で体験するものごとや考えを表わすために考案され、使われているものである。しかし、絶対真理の体験といった超世俗的なことがらは、その類いには属さない。それゆえに、その体験を表現することばはない。あたかも、魚は固い陸地の性質を表現することばをもたないのと同じである。
陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。魚は『陸ではもちろん、泳いできたのでしょう?』と言った。そこで亀は陸地は固く、その上では泳げないので歩くのだ、ということを説明しようとした。しかし魚は、そんなことはありえない、自分のすむ池と同じく陸地も液体で、波があり、潜ったり、泳いだりできるに違いないと言い張った。
ことばは、既知のものや考えを象徴するシンボルである。こうしたシンボルもごくありふれたものごとに関してすら、その本質を伝えることができない。まして真実を伝えることに関しては、ことばは不十分で、誤解を招くものである」
第5章「第四聖諦 ドゥッカの消滅に至る道」では、「倫理的行動」として、著者は以下のように述べています。
「『倫理的行動』は、ブッダの教えの基盤である、生きとし生けるものへの普遍的愛と慈しみという広大な概念の上に構築されている。多くの学者が、ブッダの教えのこの偉大な理念を忘れ、仏教に関して無味乾燥な哲学的、形而上学的論議に没頭しているのは悔やまれることである。ブッダは、『多くの人の利益のために、多くの人の幸せのために、世界に対する慈しみから説いた』のである」
続けて、著者は以下のように述べています。
「ブッダによれば、人間が完全であるためには、注意深く啓発しなくてはならない2つの資質がある。1つは慈しみであり、1つは叡智である。慈しみは、愛、慈善、親切さ、寛容といった情緒的な気高い資質であり、叡智とは、人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させ、知的側面を無視すれば、人は心やさしい愚か者となりかねない。その逆に知的側面だけを発達させ、情緒的側面を無視すれば、他人を考慮しない無情なインテリとなりかねない。それゆえに、完全な人格を養成するためには、両者を発達させねばならない。これが仏教的生き方の目標である。この先説明するように、そこでは慈しみと叡智は不可分に結びついている」
また著者は、「叡智」として、以下のように八正道について語ります。
「八正道とは、一人ひとりが、自らの人生において、歩み、実践し、開発する道である。それは、身口意の自己規律であり、自己啓発であり、自己浄化である。それは、信仰、崇拝、儀礼とは無関係である。この意味において、それは一般的に『宗教的』といわれるものとは無縁である。それは道徳的、精神的、知的完成を通じての、究極の実存、完全な自由、幸せ、平和に至る道である」
第6章「無我(アナッタ)」では、「我の概念の否定」として、著者は以下のように述べています。
「この魂、自己、アートマンの存在を否定するという点で、仏教は人類の思想史の中でユニークである。ブッダの教えによれば、自己という概念は実体に該当しない想像上の誤った考えである。それは、『私』、『私の物』、利己主義的欲望、渇望、執着、憎しみ、悪意、うぬぼれ、傲慢、エゴイズム、不純さ、不浄さ、その他さまざまな問題を生み出す。それは、個人的いざこざから国家間の戦争に至るまで、世界のあらゆる問題の源である。突き詰めていえば、世界における諸悪の根源はこの誤った考えに辿り着く」
また、「二種類の真理」として、著者は以下のように述べています。
「仏教用語としての『ものごと』ということばは、『条件付けられたもの』ということばよりもずっと広い意味をもっている。『ものごと』は、ただ単に条件付けられたものとその状態を指すだけではなく、絶対とかニルヴァーナといった条件付けられていないものをも含む。宇宙の内であれ外であれ、善悪を問わず、条件付けられている・いないを問わず、相対的・絶対的を問わず、このことばに含まれないものは何もない。それゆえに、『すべてのものごと(ダルマ)は、無我である』という句によれば、五集合要素の内に限らず、その外であれ、どこであれ、自己はなく、アートマンはない、ということは明らかである」
第6章の「まとめ」として、著者は以下のように述べています。
「ブッダの教えによれば、『私には自己がない』という考えも、『私は自己をもっている』という考えも、ともに間違っている。なぜなら、両者ともに『私は存在する』いう誤った感覚から生起する足枷だからである。アナッタ(無我)の問題に対する正しい見解は、いかなる見解にも見方にも固執せず、心的な投射を行なわずにものごとをありのままに見ようとすることである。私たちが『私』『存在』と呼んでいるものは、各々が独立に、因果律に従い刻一刻と変化する物質的、心的要素の結合に過ぎない。そうした存在には、恒久で、永続し、不易で、永遠なものは何もない」
第8章「ブッダの教えと現代」では、儀式の問題が取り上げられます。
わたしは『儀式論』(弘文堂)でさまざまな仏教儀式に言及しましたが、著者は「仏教徒の生活様式」として以下のように述べています。
「仏教徒には、これといった決められた儀式はない。仏教は生活様式であり、本質的には八正道を守ることである。もちろんどの仏教国にも、シンプルで美しい儀式がある。寺院には、仏像を安置した伽藍があり、仏塔が建立され、菩提樹が植えてあり、そこで信者は礼拝し、花を捧げ、灯明を灯し、お香を焚く。しかし、神を祀る他の宗教と結びつけてはならない。それは、道を教えてくださった師を追憶し、敬意を捧げているだけである。こうした伝統的な慣習は、本質的なことではないが、知的、精神的に初期段階の人びとの宗教的感情と必要を満足させ、徐々に道を歩む手助けをする意味においては意義がある」
ブッダは、この世で人を幸せにする4つの項目があるとしました。
「今生の幸福の四因」として、以下のように紹介されています。
(1)どんな職業に就こうとも、自分の職業を熟知した上で、技術を身に付けており、手際がよく、熱心で、エネルギッシュであること。
(2)まっとうに、汗水たらして得た収入を守ること(盗難に遭わないようにすることの意。当時の社会背景を考慮に入れる必要がある)。
(3)忠実で、徳があり、自由で、頭がよく、悪事を避け、正しい道を歩むように助けてくれるいい友だちをもつこと。
(4)収入に見合うように、多すぎもせず、少なすぎもせず支出すること。言い換えれば、貪欲に富を蓄えたり、派手に浪費しないこと。すなわち、身の丈に沿って生きること。
次にブッダは、あの世で人を幸せにする4つの項目を挙げました。
「来生の幸福の四因」として、以下のように紹介されています。
(1)信頼(サッダー)。道徳的、精神的、知的価権を確信すること。
(2)規律(シーラ)。命を害したり、殺めたりせず、盗みを働かず、嘘をつかず、不倫をせず、酒を飲まないこと
(3)喜捨(チャーガ)。自らの財産に執着せずに、慈善、施しを行なうこと。
(4)叡智(パンニャー)。苦しみの完全な消滅、すなわちニルヴァーナの実現に至る叡智を発達させること。
また、普通の家庭生活を営む者にとっては4つの幸せがあります。
「四種類の幸せ」として、以下のように紹介されています。
(1)まっとうな手段で得た十分な富と経済的安定を享受すること。
(2)自分のため、家族のため、友だちと親族のため、そして慈善事業のために自由に支出できること。
(3)借金がないこと。
(4)身口意の悪業を犯さずに過ちのない、清らかな生活を営むこと。
このうちの3つが経済的なことであることは注目すべきことですが、忘れてはならないのは、ブッダは経済的、物質的幸せは、過ちのない、清らかな生活から生まれる精神的幸せの「16分の1にも満たない」とも言っていることです。
「現代の国際情勢」として、著者は以下のように述べています。
「人類は、自らが作り出した状況に怯え、そこから逃れる何らかの解決策を模索している。それにはブッダが説いた解決法しかない。すなわち非暴力、平和、愛、慈悲、寛容、理解、真理、叡智、あらゆる命の尊重、利己主義、憎しみ、暴力からの解放のメッセージである」
そして著者は以下のように、ブッダの考えを紹介するのでした。
「隣人を征服し、服属させようとする欲望と渇望がある限り、平和と幸せはない。ブッダが言う通り、『勝者は怨みをかい、敗者は苦しみを味わう。安らかな人は勝敗を捨て、幸せに生きる」
本書の「結び」として、著者は以下のように述べています。
「仏教は、自滅的な権力闘争が放棄され、征服と敗北がなく、平和と平安が持続し、罪のない人たちに対する迫害が断固として糾弾され、軍事的、経済的戦争において何百万という人びとを征服する者よりも、自らを制する者の方が尊敬され、憎しみが親切により、悪が善により征服され、敵意、嫉妬、悪意、貧欲が人の心を侵食せず、慈悲が行動の原動力であり、生きとし生けるものがすべて公正さと配慮と愛情でもって扱われ、平和で調和のとれた生活が、物質的にも恵まれた状態で、最高の、もっとも高貴な目的すなわち究極の真理であるニルヴァーナに向かって前進する社会を作り上げることを目指している」
「解説」では、訳者の今枝由郎氏が、著者ラーフラについて述べます。
「ラーフラ師はまず自らがテーラワーダ仏教の立派な実践者である。かつ研究者として、テーラワーダ仏教のみならずマハーヤーナ仏教の経典にも精通しており、それらを科学的視点と方法論でもって検討している。そして仏教の伝統的視点にとどまることなく、ヘラクレイトス、デカルトなど西洋古今の哲学者との比較も視野に入れている。その上で、多くの経典を原典から正確無比に翻訳しながら、ブッダの説いたことを体系的に説明しているが、『それらは明晰で、シンプルで、直截的であり、衒学的なところがいささかもない』「序言」)。現在でも本書が『現時点で入手できる最良の仏教入門書』と評価され、読まれ続けている所以であろう」
そして、今枝氏はブッダその人について、以下のように述べるのでした。
「ラーフラ師によれば、ブッダは、人間は自らの努力と知性によってあらゆる束縛から自らを自由にすることができる至高の存在であることを説き、誰に対しても自らの努力により自分を啓発し、自分を解放する道を示した。その意味において、ブッダは『救済者』であり『人類の師』である。しかしブッダは道を示したに過ぎず、その道を歩むか否かは、ひとえに私たち一人ひとりの選択・努力にかかっている」
わたしには『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)という著書がありますが、本書の内容は非常に勉強になりました。
仏教を学びたい方は、ぜひ一読をおススメします。