No.1407 宗教・精神世界 『般若心経は間違い?』 アルボムッレ・スマナサーラ著(宝島SUGOI文庫)

2017.03.30

『般若心経は間違い?』アルボムッレ・スマナサーラ著(宝島SUGOI文庫)を読みました。2007年8月に刊行された『般若心経は間違い?』(宝島新書)を改訂し、文庫化したものです。

著者は、いわゆる「上座仏教」として知られるテーラワーダ仏教の日本における代表的人物です。1945年、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニア大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、80年に国費留学生として来日。駒澤大学博士課程で道元の思想を研究。2005年、スリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリア大寺にて日本大サンガ主任長老に任命されました。06年、日本国内三ヶ所に戒壇を設立。現在は、日本テーラワーダ仏教協会の長老として伝道と瞑想指導に従事しています。著書多数。

本書の帯

本書の帯には、以下のように書かれています。

「『般若心経』はわからなくて当たり前! なぜか? 初期仏教のスマナサーラ長老が解読・解説するブッダの教え」 また、カバー裏には以下のような内容紹介があります。 「日本で一番知られているお経といえば『般若心経』。流行の写経でもまず第一に選ばれるのがこれです。では、この般若心経って、いったいなんなのでしょうか? 初期仏教のテーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、ブッダの教えをもとに、一行一行、順を追って解読していきます。なぜ難解なのか、どこがおかしいのか。・・・般若心経がここまで裸にされたことは、かつてなかったと斯界を騒然とさせた話題の書」

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

はじめに「般若心経は難しい?」
第一章 色即是空と空即是色
第二章 呪文と真実語
第三章 生き方を語る仏教
第四章 無我問答
おわりに「まことの般若心経」

はじめに「般若心経は難しい?」の冒頭で、著者は「般若心経」をいろんな人々が解説しているが、どれもイマイチ納得できないと述べます。みなが好き勝手な解釈をして「私の『般若心経』」を語っているといいます。それが日本の「『般若心経』文化」になっているというのです。著者は述べます。

「文化を楽しむのはいいことですが、『般若心経』のことを本当に知りたいと思っている人には困りものですね。じつは『般若心経』は、わからなくて当たり前なのです。それはお釈迦さま、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。『般若心経』をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦さまが涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを、私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦さまが説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです」

著者によれば、このジレンマを解決する方法が一つだけあります。 それは、どのような方法か? 著者は以下のように述べます。

「『般若心経』を読んで、わからないところは、直接、お釈迦さまに聞くことです。お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち『普遍的で客観的な事実』を完全に語りました。ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。完全たる悟りに達していない人々は、たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、言葉という不完全なものを駆使して『完全に語る』ことはありえないのです。正等覚者でない限りは、真理は完全には語れないのです。どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです」

続けて、著者は以下のように述べています。

「このようなわけで、ブッダのあとに作られた大乗経典には、不完全な言葉で表現するというハンディがつきまとっているのです。その不完全な言葉の前でいくら悩んでも答えは出ません。しかし、お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、それまでわからなかった経典の教えもたちどころに理解できるようになります。『般若心経』の作者がお釈迦さまの教えのどこにヒントを得て、どんな真理を教えようとしたのか、明確にわかります。『般若心経』の欠点もわかりにくさも、なるほどと俯瞰できます。そこではじめて、出口のない『「般若心経」文化』の迷路から抜け出て、『般若心経』をきっかけとして、お釈迦さまの説かれた真理へとアクセスするための道のりも描けるのです」

そんな狙いで、著者はブッダの言葉から抽出して本書を書いたとか。

第一章「色即是空と空即是色」では、「経典とは何か」として、著者は以下のように述べています。

「テーラワーダ仏教の世界では、文字どおり『ブッダの教え』を経典といいます。お釈迦さまの言行を記録したものが経典です。お釈迦さまの直弟子たちが書いたものも経典といいます。それらは、お釈迦さまが涅槃に入られた直後に、直弟子たる阿羅漢(最高の悟りに達した聖者)の集会で厳密に確認され、教えを変化させないようにと細心の注意を払いながら、守られてきました」

続けて、著者はテーラワーダ仏教について以下のように説明します。

「テーラワーダ仏教は、ブッダの入滅後100年くらいから現われた分派(部派仏教)の中でも、常に最も保守的に厳密にお釈迦さまの教えを守ってきたと自負している宗派です。その経典はパーリ(pali 聖典)語という言語で伝承されてきましたが、このパーリ語はお釈迦様が実際に説法されたインドのマガダ国の言語であると伝えられています。ですからパーリ語の経典を口ずさめば、お釈迦さまと同じ言葉を話したことになるのです」

「大乗仏教の三蔵」として、著者は以下のように述べています。

「ブッダの入滅後数百年経ってから徐々に創作された大乗仏教の経典では、『如是我聞(かくのごとく私は聞いた)』という経典の形式を取りながらも、経典製作者が自らの禅定体験や神秘体験などをもとにして、ブッダの名前を使って自由に物語を作り、独自の思想を語ったもののようです。自由にといっても、一応、従来のお釈迦さまの教えに着想を得てアレンジした形をとっています」

続けて、著者は大乗経典について以下のように述べています。

「『大般若経』『法華教』『大乗涅槃経』『維摩経』『無量寿経』、そして本書で取り上げる『般若心経』など、インド各地や中央アジア(一部は中国大陸)で雑多に製作された大乗経典は、従来の三蔵の上に覆いかぶさるように追加されていきました。お釈迦さまは次第に宇宙に遍在する神のような存在となり、その教えも神秘的なものに変質していきました」

また、「般若心経は日本仏教の心臓部」として、著者は述べています。

「日本の仏教は、そのほとんどが大乗仏教に属します。荒海を渡って大量の経典が日本にもたらされましたが、なかでも最もポピュラーな経典が『般若心経』です。『心経』という名前のとおり、日本仏教の心臓部のような存在です。その内容は、大乗仏教が最も重視する『空』思想を解説した長大な経典『大般若経』から要点を抜き出し、前後に文章を付け足して作られたようです。日本の法隆寺には、世界最古のサンスクリット語写本として、『般若心経』が保存されています。歴史的には、最澄さんや空海さん、一休さんや自隠さんといった有名なお坊さんが、こぞって『般若心経』を注釈した本を書いてきました」

すべての日本仏教が「般若心経」を重視しているわけではありません。 宗派によっては『般若心経』に一切触らないという宗派もあります。 たとえば、日蓮系の創価学会や、「南無阿弥陀仏」の称名念仏をもっぱらとする浄土真宗では『般若心経』を使いません。 著者が信仰するテーラワーダ仏教でも「般若心経」は重視されません。 その代りに「慈経」が根本経典として重視されています。

「スリランカの般若心経『慈経』」として、著者は以下のように述べます。 「自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として、『慈経(Metta-sutta メッタ・スッタ)』という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦さまが『慈しみ(慈悲)』の実践について説かれたものです」

わたしにも、『慈経 自由訳』(三五館)という著書があります。

ここで著者は大乗仏教の修業について言及し、「菩薩の修業が波羅蜜」として以下のように述べています。

「大乗仏教になると、仏道修行の目的も、それまでの『ブッダの教えを実践して完全に悟る(阿羅漢の悟りを得る)』ことから『菩薩行をして自分がブッダ(正等覚者)になる』という途方もないものに変わってしまいます。ブッダたるお釈迦さまの教えを実践することはダサい小乗(劣った教え)で、自分がブッダになって人々を救うことを目指すのがカッコいいということになってしまったのです。それで大乗仏教の具体的な修行法は『六波羅蜜』として整備されました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つです」

著者は「般若心経」の内容について、「弟子に守られる師匠」として以下のように述べます。

「『般若心経』は、作品として矛盾だらけでガタガタで、前後がつながっていません。主観を入れない限り、まともな理解が成り立たないので、解説する方々はなんとか理屈をつなげてあげよう、ありがたい経典を助けてあげようとする。だから『般若心経』の本を書く人々は、経典をおのおのの主観でしっかり固めてあげて、『私の「般若心経」』にすることで、『般若心経』を助けてあげているのです。『般若心経』は、そうやって主観という接着剤で固めないと成り立たない経典です。それで現代人の頭である程度論理的にしっかり理解できるようになりますが、原典の内容そのものは理解できていないのです」

第二章「呪文と真実語」として、著者は以下のように述べています。

「『般若心経』は自画自賛して『これこそ無上の呪文である』と宣言するのですが、それならあらゆる呪文と効き目を競争してもらわなくてはなりません。この呪文が勝ち抜いて、ようやく『無上呪』杯の優勝を認定できるのですが、作者はそこまで気にしません。『法華経』と同じですね。他の経典は法華経が王様だと認めていないのですが、自分で勝手に『「法華経」こそが経典の王様だ』と威張るのです」

しかし、著者は「宗教は呪文願望を支えてはならない」として述べます。

「宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。これは仏教に限った話でなくて、宗教一般の基準です。『裏道を通って楽々と最高の結果を出してやろう』というのは明らかに不公平でしょう。呪文の力で誰かが合格して、必死に努力して勉強した人がそのおかげで落第するとしたら、あまりにも不公平です。宗教家ならば、『試験に合格したければ勉強しなさい』と言うべきなのです」

また、著者は「お釈迦さまを元気づけた『呪文』」として述べています。

「インド文化では、『呪文でなんでも希望がかなうんだそ』というところまでは持っていったのですが、さすがに『呪文で悟りに達するぞ』とまでは言わなかったのです。インド人はヒンドゥー教で、『梵我一如』を究極としていますが、『呪文を唱えて梵我一如できるぞ』と、そこまでは言わなかったのです。『希望をかなえるくらいはできますよ』と、そこで上限をつけていたのですが、『般若心経』やらチベット密教の経典になると、悟りまで呪文で達成してしまう。呪文をあまりに過大に評価し過ぎなのです」

さらに「『般若心経』の作者も真剣ではなかった?」として、著者は以下のように述べています。

「おそらく『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師、祈祷師のような人が書いたのでしょう。知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈禱師程度だと思います。呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き写されて書き写されて、残っただけのことなのです」

さらには「中身の勉強は不要」として、著者は述べます。

「『般若心経』は、仏典ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。『般若心経』は大乗仏教の空思想とは関係がありません。龍樹が確立した空思想は大乗仏教の大事な教えで、それは別のところでそれなりに頑張って成立させています」

そして、著者は「理論、実践、向上への躾が必要」として述べます。

「ブッダのパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には『これが真理です』という理論、メッセージがないのです。『このようにしなさい』という実践論もありません。『私たちは確実に、人間として成長しなくてはいけないのだ』という向上への躾も欠けています。それは先に紹介した『慈経 Metta-sutta』と比べれば歴然としているでしょう? 『向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない』これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。ブッダの生の教えなら、たとえ4行であっても、『頑張りなさいよ』というひと言が、成長するための方法が、必ず入っているのです」

第三章「生き方を語る仏教」では、著者は「空ではなく無常を語れ」として以下のように述べています。

「人間は何をやっても結局は死にますよ」というのは事実です。それだけを極論にして1つの哲学体系を作ったとしましょう。『何をやったって結局死にますから』と極論に浸ってしまうと、『何もやらなくていい』という結論になるでしょう。そういう方向に持っていけます。『勉強しなくたって、仕事しなくたって、どうせ死にますから』と。もしお母さんが病気で倒れて看病しなければならない状況でも、『どうせ死ぬんだからいいや。意味がない。今は風邪で倒れているけど、いつか死ぬからまぁいいや』ということになってしまう。そうしている間に、風邪をこじらせたお母さんが肺炎になって死んでしまうかもしれません。道徳が木っ端微塵になってしまっているのです。そのように、事実であっても、『どの程度で言うのか』という実践的なアプローチがあります。それは一般人には語れないのです。ブッダ以外には無理です」

第四章「無我問答」では、著者は「修行者の心の振動はトップレベル」として以下のように「心」について述べています。

「『心』は巨大なエネルギーです。「生きている」ということは、心の仕事で、それはすごいエネルギーなのですね。『足を上げる』というだけのことにしても、意思がなければできません。体温を保つのも、食事するのも、会社に行くのも、あれやこれやと考えるのも、全部『心』がやっているのです。それはすごいエネルギーです。みんな自動的にやってしまっていますが、実際には『この指を持ち上げるぞ』という意思がなければ、指1本動かせないのです。私たちを支配しているのは、心なのです」

そして、著者は「阿羅漢には『自分』がない」として述べるのでした。

「悟りを目指す本来の仏教を『衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ』と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。悟った人には、欲も怒りも無知もありません。『自分のために』の『自分』がありません。無我なのです。だからこそ、衆生に限りない慈しみを注ぐことができるのです」

この一文は、テーラワーダ仏教のプレゼンテーションとして読めますね。

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