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2017.10.23
『身体能力を高める「和の所作」』安田登著(ちくま文庫)を読みました。
この読書館でも紹介した『身体感覚で「論語」を読みなおす』の著者であり、1956年生まれ。能楽師にして、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)でもあります。
本書の帯
カバー表紙には、面をつけて舞う能楽師が描かれています。
帯には「身体感覚に共感し同期することにこれほど情熱を傾ける人を他に知らない」という内田樹氏の言葉が紹介されています。
カバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。
「能楽師が、80~90歳になっても颯爽と舞っていられるのは、表層筋だけに頼らない独特の『所作』による。『すり足』『新聞パンチ』『ストロー呼吸』などのエクササイズによって、大腰筋を鍛え、呼吸を深くすることで、集中力がつき、持久力のある身体になる。心と体を変えるエクササイズ。文庫化にあたり、新たに呼吸法を加筆した」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第一章 なぜいま「和の所作」なのか
第二章 深層筋の働きと呼吸
第三章 姿勢を整える「和の所作」
コラム(1)「能を始めて子供たちの姿勢もシャンとしてきた」
第四章 身体能力を高める「和の所作」
コラム(2)「足振りで体に竹のようなしなりができた」
コラム(3)「集中力がつく新聞パンチを空手に活用」
コラム(4)「新聞パンチで剣道の打ち込みが鋭くなった」
コラム(5)「新聞パンチで私はランニングタイムが上がり 息子は集中力がついた」
第五章 心を鍛える「和の所作」
「解説」内田樹
「はじめに」を、著者は以下のように書きだしています。
「子供は無限の可能性に満ちている、といいます。それは確かです。
しかし、同時に無限の『不可能性』にも満ちています。
何かを『自分はできない』と思い込んでいる子は、どんなに一生懸命教えてもなかなかできるようになりません。たとえば逆上がり、たとえば速く走ること。もちろん、勉強も、歌や楽器もそうです」
著者は「子供とは、無限のアクセルと無限のブレーキとをあわせ持った存在」と定義し、「私たち大人の罪深い善意は、彼らのブレーキをはずさずに、そのアクセルだけを吹かすことだけを奨励することです」と述べます。
第一章「なぜいま『和の所作』なのか」では、「子供たちの様子がおかしい」として、著者は、最近の小学生、それも小学校の低学年でも授業中に居眠りをしていることを紹介し、以下のように述べています。
「勉強や習い事などで疲れているのかもしれません。また、身長や体重など体格はよくなっているのに、体力が落ちているという理由もあるかもしれません。しかし、少し前までは、小学生が授業中に眠るなどとは、あまり考えられませんでした」
続けて、居眠り以外にも、腰痛持ちの子供がふえ、学校にある木やスチールのイスでは座っていられず、ソファーに座って授業を受ける子供もいることを紹介し、著者は「自分のことは話せるけれども、『いつ、誰が、何を、どうして、どうなった』や、話の起こしがあって結論があるといった、文脈の中で話をしていくことができないという傾向もあるようです」と述べています。
また、「衰える一方の子供の運動能力」として、最近の子供たちは、みな体格は良くなっている一方で、体格に見合った体力や、走る、蹴る、投げるといった運動能力と、それに加えて、体の柔軟性も低下していることが指摘されます。この事実を受けて、著者は以下のように述べています。
「体格がよくなっているのに体力や運動能力が低下している理由は、生活環境の変化に伴う筋力の低下も確かにあるでしょう。しかし、何よりも大きいのは、走り方を知らない、つまり、『体の使い方を知らない』ことではないかと思うのです」
「体を動かす」とは、どのようなメカニズムから成立するのでしょうか。著者は、「脳神経システムが体を動かす」として、以下のように述べています。
「人間の運動は脳によってコントロールされています。走るときには脳が『走れ』という命令を出して、さらに『こうやって筋肉を動かせ』『体の姿勢をこう保て』と指示を与えています。脳が出した命令は、神経を伝わって各筋肉に動かし方を指示します。この仕組みを『脳神経システム』といい表します」
続けて、体の使い方を知らないということは、この脳神経システムの問題でもあるわけであるとして、著者は「こういう問題が発生するのは、運動をするための神経回路(仮に運動神経としておきます)が間違って形づくられたケースと、ストレスによって回路の流れが妨げられているケースが考えられます」と述べます。
著者は、「神経システムは子供のうちにほぼ完成する」として述べます。
「子供のころに自転車に乗れるようになれば、その後、何年、何十年、自転車に乗らなかったとしても、体は自転車の『乗り方』を忘れていません。しかし、大人になって初めて自転車の練習をしても、乗れるようになるまでにかなりの時間が必要になります。
鉄棒の逆上がりや、走ることも同じです。
これらは体力や筋力が関係してくるので、大人になってうまくいかないこともあるかもしれません。しかし、筋力がなくなって逆上がりができなくとも、あるいは速く走れなくなったとしても、逆上がりの『やり方』や速く走る『走り方』は体(脳)が覚えているのです」
著者は子供たちに能の稽古をさせているそうですが、稽古を重ねるうちに、教室の子供たち全員が、まず姿勢が良くなり、それに伴うように正座や立てひざができるようになるといいます。さらに、深い呼吸が身について、おなかから大きな声を出せるようにもなり、精神的にも落ち着き、話もしっかりと聞くことができるようになるとして、著者は「子供たちの神経システムを整え、彼らが本来持っている心身の能力を引き出すカギは、能の動き、すなわち、『和の所作(身のこなし)』にあるかもしれないことを思い出したのです」と述べています。
著者は、現役の能楽師です。「いまも能が興行として成り立つ理由」として、以下のように述べています。
「現在も、日本には能をはじめ歌舞伎、狂言、文楽、落語、浪曲、講談などといったさまざまな伝統芸能が残っています。これらは数百年の歴史と伝統を綿々と受け継ぎ、以前のまま、あるいは少しずつ形を変えながら現在に至っています。なかでも能は、それまでのさまざまな芸能を集大成して誕生し、約650年前の室町時代に完成したといわれています(これには異説もあります)。猿楽のスターだった観阿弥が猿楽に曲舞をとり入れ、息子の世阿弥が芸術として磨き上げたものです」
著者は、能の誕生には武士が深く関わっていることを指摘し、述べます。
「能と武士の関係は江戸時代まで続き、江戸時代の300年間、能は武士のための正式な芸能として大切にされ、武士にとっての教養とまでされました。江戸時代の武士は能を舞えること、能の歌である謡を謡えることが要求されたため、ほとんどすべての武士は能を学び、修練しました。士農工商の身分制度が厳しい時代にあって、能を教える能楽師たちは士分、つまり武士として扱われたのです」
江戸時代において総人口のほんの数パーセントにすぎなかった武士について、著者は以下のように述べています。
「武士は生まれてから死ぬまで、起きてから寝るまで、さらには寝ている間も『武士らしさ』が要求されます。立ち居振る舞いや言葉遣い、日課とすべき物事から声の出し方まで、『武士』というものを辱めてはいけません。もし恥ずかしい振る舞いがあったときには切腹となるわけですが、そこにもまた様式があり、武士らしさが要求されるのです」
続けて、武士と能の関係が以下のように述べられます。
「現代からするとバカバカしく見える1つひとつのことが、すべて備わって、やっと武士なのです。その武士たちの身体性と精神性を養い、それを表現する芸能として、能は武士たちに尊ばれてきました。このように、能は武士にとって神聖なものであるため、勝手にアレンジしたり、つくり替えたりすることはできませんでした。このことは、能が誕生から650年もの間、一度も絶えることなく伝わってきた理由の1つといえるでしょう」
また、アメリカのボディワークである「ロルフィング」の専門家でもある著者は、能が身体能力を向上させると訴えます。「和の所作に隠された秘密」として、以下のように述べています。
「能の舞台では、能楽師は正座や下居など座った状態から立ち上がり、すり足で移動して『カケル』や『ネジル』などの方法で向きを変えます。また、足拍子を打ったり、『サシ込ミ』や『開キ』といった動作を行ったりします。これらの動きの1つひとつのなかに、さまざまな深層筋が巧みに使われているのです」
続けて、能と深層筋について、著者は以下のように述べます。
「もちろん、能では『深層筋を使え』などということはいいません。しかし、稽古の過程で、知らず知らずのうちに深層筋群が活性化され、体の『芯』への意識が開発されていくのです。和の所作の秘密とは、体の芯に潜む深層筋を活性化することだったのです」
第二章「深層筋の働きと呼吸」では、「表層筋と深層筋」として、表層筋について説明がなされます。
「表層筋は、読んで字のごとく、体の表面近くにある筋肉です。代表的な表層筋の名前をあげると、胸にある大胸筋、おなかにある腹直筋(いわゆる腹筋)、腕の力こぶである上腕二頭筋、太ももの前側にある大腿四頭筋などがあります。いずれも体や関節を動かすときに使われる筋肉で、ウエイトトレーニングなどで鍛えやすいのが特徴です。見た目で量がふえたことがわかるので、鍛えがいのある筋肉ともいえるでしょう」
また、深層筋についても、以下のように説明されます。
「一方、深層筋は体の奥のほうにある筋肉です。筋肉はいくつかの層になっており、そのなかでいちばん奥、つまり体の芯に近い部分にあるのが深層筋です。深層筋の代表的なものには、肩甲骨の奥にある菱形筋、肋骨の近くにある小胸筋、太ももの内側にある内転筋群、背骨の下のほうから股関節の内側に伸びる大腰筋などがあげられます。深層筋は、安定した姿勢を維持し、動作の基本的な部分を担っています。安静にしているときも、動作をするときもバランスを保持する役割を果たすのです」
興味深く読んだのは、武士と深層筋についての以下のくだりです。
「能楽師や、能の動きを日常の立ち居振る舞いにとり入れてきた武士は、活性化された深層筋を持ち、深層筋を使うことに長けた人々といえます。とくに武士は、能を作法の1つとしていた以外にも、どうしても深層筋を使わなくてはならない理由がありました。それは、彼らが腰の左側に大小2本の刀を差していたからです。刀は、長さによって差はあるものの、1本の重さが750~1500グラムあります。武士が誕生した鎌倉時代から、彼らはこの重い刀を2本も差して生活をしなければなりませんでした。そのために、すり足などの深層筋を使った動作をしていたのです」
第三章「姿勢を整える『和の所作』」では、「正しく立つためのエクササイズ」として、著者は美しい立ち方のヒントを世阿弥が述べた言葉に見出します。
「その1つは『たおやかさ(しなやかさ)』です。『たおやかさ』は、ただ優美に、しなやかにするだけではありません。『腰、ひざは直に、身はたおやかなるべし』といい、腰とひざはまっすぐに、全身はたおやかにするのです。柔らかさのあるスッとした美しさが姿勢の美だといいます。
もう1つは『体心捨力』という言葉です。『体心』とは、『芯を自分の体とすること』で、深層筋(体の奥深くにある筋肉)を使って体幹を充実させることです。この『体心』ができれば、体のムダな力を抜く『捨力』が自然にできるようになるといっています」
第四章「身体能力を高める『和の所作』」では、「腹筋の鍛えすぎに用心」として、著者は以下のように述べています。
「出っぱったおなかをどうにかしたい人は、よく腹筋運動を行います。しかし、現実には、いくら腹筋を鍛えてもおなかがへこまないというケースも少なくありません。実は、おなかの出っぱりと腹筋は、直接的な関連性がないのではないかといわれています。それどころか、最近では、腹筋を鍛えすぎるとおなかが引っ込みにくくなるという説さえあるほどです。やはり大切なのは、深層筋と表層筋のバランス、ここでは大腰筋と腹筋のバランスなのです。過酷な腹筋運動で腹筋を硬くしすぎると、大腰筋と腹筋のバランスがくずれてしまいます」
第五章「心を鍛える『和の所作』」では、「日本人の心は腹にあった?」として、著者は以下のように述べています。
「現代の日本人にとっても腹は重要です。腹に関する慣用句を調べてみると、心と関係のある言葉がたくさんあります。たとえば、心を開いて話すことを「腹を割って話す」といいます。また、『腹を探る』ことで相手がどんな考えや気持ちでいるのかを見きわめます。怒ったときは『腹が立つ』わけで、さらに怒りが大きくなると『腹わたが煮えくりかえる』ことになります」
続けて、著者は「腹をくくる」という言葉を取り上げ、以下のように述べます。
「何か決心したときは『腹をくくる』といいますが、これは武士の作法からきた言葉です。武士は自分の命をかけて目上の人をとがめようとするときは、陰腹といって先に切腹をしておいて、腹をサラシでくくって目上の人のところに行きました。武士が目上の人をとがめることは、当時は大きな覚悟がいることだったのです。その精神が、同じ意味で切腹のなくなった現代まで生きているというわけです」
また、「声はよくも悪くも『越える』こと」として、著者は述べます。
「『声』の語源は『越ゆ(越える)』だという説もあります。
人間がこの世に生まれて最初になす行為も、声を発することです。この『産声』は、赤ちゃんが安心して暮らせるお母さんのおなかの中から、厳しい現実世界へ生まれ出てくるときに発するものです。母親の胎内の記憶を断ち切り、一個の人間としてある一線を越えたときに産声を発するように、私たちは何かを越えるときに声を使うといえるでしょう」
著者は、「呼吸と声で心が変わる」として、以下のように述べます。
「武士の修身の流れをくむ能や武道では、腹に力をためることを重要視します。日本人は昔から、腹に力をためることで、さまざまな能力を発揮してきました。そのためには、やはり胸を使った浅い呼吸ではなく、腹を使った深い呼吸が基本になります。浅い呼吸から深い呼吸へ、そして腹からしぼり出すような声を出すことで、私たちの心も変わるのです」
さらに、呼吸の「呼」とは、息を「吸う」ことを「呼ぶ」行為であり、呼吸とは、息を「吐く」のが本来の行為であるとして、著者は述べます。
「赤ちゃんは生まれたときに『オギャーッ』と泣き声をあげ、まずは息を吐いて呼吸を始めます。反対に人が亡くなるときは『息を引き取る』、つまり吸って終わります。『吐いて』人生を始め、『吸って』人生を終えるのです」
続けて、呼吸の基本としての「吐く」について、著者は述べます。
「世の中にはさまざまな呼吸法がありますが、そのほとんどに共通しているのは、息を『吐く』ことを基本としている点なのです。束ねたワラを居合いで切るときも息を吐いてから刀を振り下ろすといいます。居合いも能と同じく武士のたしなみです。したがって、和の呼吸法は吐くことで始まり、しかも呼吸とともにおなかをふくらませたりへこませたりする腹式呼吸が基本です」
解説「『うまく歩けない』けれど、『開かれている』ことについて」では、哲学者の内田樹氏が、「『歩く』というのは、根源的・基礎的な身体運用である。身体技法のすべてはその上に築かれると言って過言ではない。にもかかわらず、その『歩く』について、万国共通の『正しい歩き方』がない」と述べています。内田氏は、どういうことなのだろうと沈思しているうちに、「うまく歩けない」という身体条件に言及したクロード・レヴィ=ストロースのオイディプス神話研究のことを思い出したそうです。
内田氏は、「オイディプス神話に出てくる王たちの名はどれも『うまく歩けない』という含意を有している。よく知られているように、オイディプスは『腫れた踵』を意味する(神話によれば、彼は捨てられた時に両踵を針で貫かれた)。父の名ライオスは『不器用』を意味し、祖父の名ラブダコスは『足を引きずる人』を意味する」と述べています。
その名前の選び方について、レヴィ=ストロースは「神話学において、多くの場合、人間は大地から誕生したとき、出生の時点においては、まだうまく歩けないものとして、あるいは脚をもつれさせながら歩くものとして表象される」と書いています。これについて、内田氏は「うまく歩けないもの。それが世界の神話に共通する人間の条件なのである」と述べています。
また、内田氏は「この本は、お読みになればわかるとおり、『どうして日本の子どもたちはうまく走れなくなったのか?』という問いから始まる」として、以下のように述べています。
「この問いは『どうしてうまく歩けなくなったのか?』という問いと本質的には同一のものだ。だとすれば、この問いの答えは、神話学的には自明である。それは『子どもたちは人間だからだ』ということである」
続けて、内田氏は以下のように述べるのでした。
「彼らはある世界を生きており、安田さんは別の世界に生きており、私もまたいずれとも別の世界に生きている。それぞれは『服も違うし、喋り方も違うし、考え方も世界観も全然違う』。それでも、みな人間である。というより、それだから、みな人間である。
自分とは違う生き方を許容すること、それが人間の人間性の基礎部分をかたちづくる。そういうことではないかと私は思う」
内田氏も合気道家ですが、能楽師である著者と身体論において共通する考えも多いように思います。武士の身体に関する論考も非常に興味深かったです。この読書館でも紹介した『身体感覚で「論語」を読みなおす』と同様に、「身体」というフィルターを通すと、これまで見えなかった多くのものが見えてきたように思います。本書を読むと、日々の生活の中でのさまざまな所作の意味がよくわかります。