No.1530 日本思想 | 評伝・自伝 『日本人のこころの言葉 本居宣長』 吉田悦之著(創元社)

2018.01.27

『日本人のこころの言葉 本居宣長』吉田悦之著(創元社)を読みました。
著者は1957年、三重県松阪市生まれ。國學院大學文学部卒業。本居宣長記念館研究員などを経て、現在、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会常任理事。本居宣長記念館館長。編著に『21世紀の本居宣長』(朝日新聞社)、『本居宣長事典』(東京堂書店)、『本居宣長の不思議』(本居宣長記念館)などがあります。

 本書の帯

本書のカバー表紙には「本居宣長六十一歳自画自賛像」(本居宣長記念館蔵)が使われ、帯には「”物のあわれ”とは何か。日本とはどういう国か」「心を大切にした思索者の思考の軌跡」と書かれています。

アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。

「日本とはどういう国か―。江戸時代中期、医学修行のために伊勢松坂から京に上った本居宣長は『源氏物語』などの古典研究を通して、日本のアイデンティティを探っていく。それは『物のあわれ』論や『古事記伝』に結実する。そのような偉業を成し遂げた宣長の生き方は、世界が不思議に満ちていることに驚き、自分の目で見て考えることを丁寧に誠実に続けるというものであった。学問大成の秘密を、膨大な著作や書簡から発見する」

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

言葉編
1 生きる信念
キーワード(1)「お蔭」
2 「物の哀れを知る」
キーワード(2)物のあわれ
3 「心」と「事」と「言葉」
キーワード(3)『古事記伝』
4 「物学び」の力
キーワード(4)大和心
生活編
「略年譜」
「本居宣長の生涯」

本書には全部で47の宣長の言葉が紹介され、現代語訳と解説が書かれています。2「お蔭と感謝」では、宣長の養子である本居大平が描いた「恩頼図(みたまのふゆのず)」が取り上げられています。著者は解説します。

「『恩頼』とは、本来は神のご加護、お蔭のことですが、その観点から眺めた宣長の系譜です。上段中央には、水分の神、その左右に両親、その脇には師の契沖や賀茂真淵、それから孔子や紫式部など先人やライバルの名前が挙げられています。この人たちのお蔭で宣長が生まれ、成長したという意味でしょう。中段は宣長、下段には子ども、弟子、著作が列挙されます」

続いて著者は、この図が日本人の心性を解き明かす壮大なアトラスでもあるとして、以下のように述べています。

「私たち一人ひとりはみな自分の『恩頼図』を持っています。神々や先祖、出会った人たちなどから、たくさんのお蔭をこうむって生まれ、次へとつないでいくのです。そのように考えると、次の身の処し方が決まります。『感謝』です。宣長は、このお蔭と感謝の連鎖の中に日本人の生はあると考えたのです」

14「まずきちんとした人間であれ」では、宣長が詠んだ「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」という歌が紹介され、以下のように解説されています。

「学問で心がけることがあれば教えてほしいとの門人の願いに応えた歌です。読書や歌も結構だが家業だけは決して怠ってはいけないという、拍子抜けするような一首ですが、取り上げた言葉に通じるものです」

また宣長は、「学問は継続が第一だ」とも語ったとして、著者は述べます。

「その学問を続けるためには、身体はもちろん、経済的にも社会的にも健全でなければならないのです。だから薬箱をぶら下げて歩く医者を生業とする身で、患者が少なければ本が読めると喜びながらも、収入の減じるのを憂えていたのです。これが宣長という人です」

21「心と姿」では、「姿は似せがたく、意は似せ易し」という宣長の言葉を紹介し、わたしにとっての最重要問題である「礼」について述べます。

「武道や芸事では型を重視します。たとえば茶道のお点前では、所作(動作)が美しいことが求められ、実践されています。意味がわからないと真似もできませんが、意味がわかっているだけではだめなのです。
儒教で尊ぶ『礼』も、礼儀作法ですから、型が大事です。だから孔子はわざわざ、『礼は玉や絹布のように外見ではないぞ、その精神が大事なのだ』と小言を言わねばならないのです。外見と中身の関係は、なかなか微妙なのです」

この言葉が有名になったのは、小林秀雄が著書『考えるヒント』取り上げ、「ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである」と解釈してからです。小林は、宣長の真意は「本当の事を言ってやろう、言葉こそ第一なのだ、意は二の次である」と述べています。これについて、著者は以下のように述べます。

「やはり宣長は『言葉』なのです。深い思いで相手を感動させることもあるでしょうが、誠意のない人だとわかっていてもその声や言葉が聞き手の心をとらえることもあるということでしょう」

26「遠い祖先の声を聞く」では、『古事記』はただ天武天皇が編集を命じただけでなく、自身の口で昔の伝承記録を音読し、それを稗田阿礼に聞かせて、その言葉をそのまま声として記憶させたという『古事記伝』二の巻の記述を紹介し、著者は以下のように述べます。

「天武天皇は、東アジアの中での日本という問題と正面から向きあわざるをえませんでした。672年、壬申の乱に勝利して即位した天皇は、緊迫する東アジア情勢、とりわけ朝鮮半島への備えもあり、新しい国づくりを急ぎます。皇后(後の持統天皇)と2代で大きな改革がいくつもなされました。『天皇』という称号や、『日本』という国号が定まったのもこの頃でしょう。律令制度や、藤原京の建設、また伊勢神宮の制度が整ったのもやはりこの時期です。いよいよ国としての形が整い始めました」

続けて、著者は以下のように述べています。

「そして最も大きな変革といえる、『文字の文化』への移行が進んでいきます。支配地域が拡大し複雑化する政治や経済を記録するには、『声の文化』では限界が生じてきたのです。出土する木簡の量が天武朝から急増していることからもわかるように、律令国家がいよいよ動き始めたのです。
歴史書の編纂もその流れの中で行われました。まず、対外向けに漢文で書かれ史書としてのスタイルを重んじた本の編纂が始まりました。それが720年に完成する『日本書紀』ですが、そこに伝えきれないものが阿礼によって記憶され、それが、712年、元明天皇の代に太安万侶によって『古事記』としてまとめられたのです」

31「自国のことを知らない人たち」では、本(もと)と末(すえ)をきちんと区別することが宣長の基本であるとして、著者は以下のように述べます。

「まず日本語をきちんと使えること、歴史を知ることが最初なのです。失われつつある民俗行事はともかくも、日本の伝統文化、あるいは作法や所作の洗練された感覚は、いま世界から注目されています。しかし、優れているから学べというのではありません。自分の国のことだからなのです。判断基準、あるいは思考形式は借りてくることはできません。自分の生まれ育った国を離れることはとても難しいことです」

42「学ぶことが生きること」では、宣長の著書『家のむかし物語』に出てくる「物まなびの力」という言葉を紹介し、著者は以下のように述べています。

「突飛なことをいうようですが、宣長は『物学びの化身』だったのかも知れません。奈良朝頃に始まった日本の学問(物学び)が、長い年月を経ていく中で、100年を経た器物が『付喪神』という精霊になるように、あるときとうとう人の形を借りて『物学びの化身』としてこの世に姿を現した、それが本居宣長だった。そんな思いに駆られることがあります」

本書は、現役の本居宣長記念館の館長が書いただけあって、宣長の言葉の紹介や現代語訳もいいですが、何よりも解説が素晴らしいです。宣長のことをそれほど知らない現代日本人にもわかるように平易な言葉で書かれています。本書によって、宣長という江戸時代を代表する「知の巨人」を親しく感じる人も多いのではないかと思います。

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