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2018.02.07
『教養として知っておきたい二宮尊徳』松沢成文著(PHP新書)を読みました。「日本的成功哲学の本質は何か」というサブタイトルがついています。 著者は参議院議員で、1958年神奈川県川崎市生まれ。82年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、松下政経塾に第3期生として入塾。84年、米国連邦下院議員スタッフを経て、87年、神奈川県議会議員に初当選。93年、衆議院議員に当選し3期務めました。2003年、神奈川県知事に当選し2期8年をまっとう。13年に参議院議員選挙に当選し、国政に復帰。
本書の帯
本書の帯には尊徳の幼少時代、すなわち二宮金次郎の銅像の写真とともに、「渋沢栄一、安田善次郎、御木本幸吉、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫・・・・・・。偉大な成功者たちは、実は、尊徳を信奉していた!」「道徳、勤労、積小為大、推譲・・・・・・。今、見直されている『日本の強み』」と書かれています。
本書の帯の裏
また、帯の裏には著者の写真とともに、「尊徳は、どこまでもポジティブで、合理的だった。」として、以下のように書かれています。
「たとえば・・・・・・尊徳は困った人々にお金を貸す時、必ず『知恵を働かせる生き方』も教えた。ある女中にお金を貸した時は、どうすれば燃料の薪を節約できるかを事細かに教え、考えて銭を生む楽しさを教えて、生活を立て直した。彼は人々の心を燃え立たせる徳の人であると同時に、世界に先駆けてマイクロクレジットの仕組みを生み出した創意工夫の人でもあった。こんな人物の哲学を知っていれば、成功しないはずがない。本書は、二宮尊徳の生涯と哲学、そしてその影響力をわかりやすく解説。すべての人を劇的に変える『不滅の成功哲学』を解き明かす」
さらに、カバー前そでには以下のような内容紹介があります。
「二宮尊徳といえば、薪を背負って書を読む『二宮金次郎像』ばかりが有名かもしれない。だが彼は、幕末期に、一農民の出身でありながら、600を上回る荒れ果てた農村や諸藩の再建に見事に成功した人物である。明治以降、近代日本を創り上げていった人々が『師』と仰ぎ、戦後進駐してきたGHQの高官も『真の自由主義者』と激賞した尊徳。彼は人々の心を燃え立たせる徳の人であると同時に、世界に先駆けてマイクロクレジットの仕組みを生み出した創意工夫の人でもあった。二宮尊徳の生涯とその『不滅の成功哲学』をわかりやすく紹介する」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに―今なぜ、二宮尊徳か」
第一章 困苦のなかからつかんだ成功哲学の萌芽
第二章 「心」の荒廃を変えねば再建はならない
第三章 各地に広がり受け継がれてゆく報徳仕法
第四章 報徳思想―二宮尊徳の成功哲学の神髄
第五章 実践で培い、発揮した七つの力
第六章 思想の系譜―尊徳の思想はいかに継承されたか
第七章 尊徳を師と仰いだ日本資本主義の立役者たち
第八章 現代に受け継がれ、世界に広がる報徳思想
「おわりに―報徳仕法とマニフェスト改革&そして歴史教育」
「二宮尊徳年表」
「参考文献一覧」
「はじめに―今なぜ、二宮尊徳か」では、この読書館でも紹介した『代表的日本人』で紹介した内村鑑三の名著で、西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮と並んで二宮尊徳が取り上げられていることを紹介し、今の若い人が尊徳の実像を知らないことが悔しくて残念でならないという著者が「忘れ去られてしまった『二宮尊徳』」として、以下のように述べています。
「尊徳は『忘れ去られていい』人物などではない。むしろ、現代の日本人にも多くの『成功のヒント』を与えてくれる人物だ。
尊徳は自らの実践を通じて『至誠』『勤労』『分度』『推譲』『積小為大』『一円融合』などの改革理念や思想哲学を生み出し、人々を導いてきた。これらの教えは、日本人の社会規範や道徳としての精神的価値の基盤になっているといっても過言ではない。尊徳ほど、独創的な考え方や創造的な生き方を通じて社会を変革した人はいない。
尊徳の生きざまや思想を学ぶことは、混迷を続ける世相のなか、私たちが日常の家庭や職場、地域社会で生きていくうえで、あるいは日本や国際社会にとっても、有益な指針を得ることになるはずである」
また、尊徳の時代の日本は天変地異と政情不安によって、幕藩体制にほころびが生じ、農村は全国的に疲弊していたことを紹介し、著者は述べます。
「尊徳は、このような農村を救済するため、強い信念と理想を掲げ、道徳と経済を両立させ、高い水準の改革運動を展開し、600を上回る農村の再生を果たした。生家を再興したノウハウを活かし、現地現場主義によって生産能力が阻害されている原因を探り出し、それを是正することで潜在していた高度な生産能力を呼び覚ましたのだ。
尊徳がやったことは、経営学の祖・シュンペータやドラッカーのいうところの個々の事例に即した問題発見と問題解決の手法にほかならない。江戸時代の後期という時代にすでに、現代経営学が編み出した手法を実践していたのだから、尊徳は時代のはるか先を行っている人物だったといえよう」
さらに、著者は「『報徳思想・報徳仕法』の六つのキーワード」として、以下のように述べるのでした。
「農村の復興・改革という報徳仕法の実践面は、勤労、分度、積小為大、そして、推譲から成っていると考えられる。つまり、まず分度を立て、その分度を守りつつ勤勉に働く。最初は小さな成果しか得られないかもしれないが、それを継続し、積み重ねれば大きな成果が生まれる。成果が生まれたら、いたずらに浪費するのではなくそれを家族や子孫、他人や社会のために役立てる。一言に集約すると『勤倹譲』(勤労、倹約、推譲)と表現されることになり、これらが報徳仕法の実践である」
第一章「困苦のなかからつかんだ成功哲学の萌芽」では、絵本や偉人伝でもおなじみの金次郎としての幼少時代が描かれていますが、中でも父親の利右衛門が亡くなったときに母親よしとともに葬式に参列したときの以下のエピソードが印象的です。
「曽我別所村に駆けつけたよしと3人の子供たちの服装があまりにもみすぼらしいのを見て、葬式に集まった親戚たちから、こう宣言されたのである。 『あんたたちは、葬式に出るのを遠慮してくれ』
よしの心は打ちのめされ、実父の葬式の直後、病の床に伏してしまった。そして4月、あっけなく亡くなってしまう。尊徳は16歳にして、愛する両親を失い、一家を守らなければならない立場に立たされたのである」
尊徳は孤児となり、伯父の万兵衛に養われる身となりました。終日、万兵衛の家業を勤めてから、夜に入って寝ずに勉学に励みました。これに対して、万兵衛は激怒し、「わしはお前を養うのに多分の費用を費やしている。そのことも思わずに、子供のお前の働きで灯油を費やすなど、恩知らずだ。学問をして何の役に立つか。早くやめろ」と言い放ったといいます。このことについて、著者は「決して万兵衛が強欲非道だったというわけではなく、普通の農民としての経験から学問そのものの必要性を認めていなかった万兵衛は、尊徳を勤勉な農民に育てようとしたのだろう」と述べています。
また、「不用の土地から一俵の収穫―見出した積小為大の理」として、著者は以下のように述べています。
「尊徳は勤労というものが知恵を生み、価値を生むということを、小さい頃から体得していたのではないかと思う。当時の世の中では、農民が働くということは重い年貢に耐えるための苦役であった。ところが尊徳は、体験のなかから新しい発想に変えたのである。勤労は知恵を作り出す。こういう積極的な価値を見出したのではないかと推察できる。
また、尊徳は現場に行って観察することを重要視している。世の中をしっかりこの目で見て観察していくことによって、新しい発想につなげていく。非常に卓越した独創性と向上心を持った少年だった」
著者は「画期的な相互扶助金融制度としての『五常講』」として、文化11年(1814)、尊徳が28歳の頃に、服部家中の中間若党、下男下女はもちろん、士分の者までも含む「五常講」という組織ができあがったことを紹介します。人倫五常の道によって積立・貸借をし、「五常講真木手段金帳」という帳簿の名が示すように、薪の節約、鍋炭払い、夜遊びの中止など、工夫をこらし、連帯して生活を向上するよう、尊徳が指導したものでした。
「五常講貸金」は、簡単にいえばこの制度に加わった人々による相互扶助金融制度です。五常とは、「仁」「義」「礼」「智」「信」という儒教が重んじる5つの徳目を意味します。五常について、以下のようにまとめています。
●仁・・・金に余裕のある人がこの「講」に貸し出し基金を寄せる。
●義・・・この講から借りる人は約束を守って確実に返済する。
●礼・・・こ借りた人は貸してくれた人(基金を寄せた人)に感謝する。
●智・・・借りた人は確実かつ1日でも早く返済できるように努力工夫する。
●信・・・金の貸し借りには相互の信頼関係が欠かせない。
これら5つの徳目を守る人たちだけによって構成される講が「五常講貸金」という相互扶助の金融制度なのです。
五常講では、尊徳個人の金を皆に貸すのではなく、皆の金を皆に貸すという相互扶助金融制度に発展しました。以下のように説明されています。
「尊徳は、『五常』を守る人だけがメンバーになれるということを周知徹底させたうえで、服部家の内部に『五常講貸金』を開設し、最終的には17人の奉公人がこの講に参加した。1300石の服部家には30名前後の奉公人がいたはずだから、過半数が参加したことになる。当時は、今日でいうリテール・バンキングと呼ばれる個人向けの小口金融業務を担う銀行などなかった時代だけに、極めて重宝な存在だったからであろう」
著者は、「世界に先駆けた信用組合、協同組合モデル」として、五常講について以下のように述べています。
「五常講は、後に報徳思想を実践するために設置される『報徳社』の礎となっていく。ここで注目していただきたいのは、五常講は今日の信用組合や協同組合と大変似た内容だということである。協同組合といえば、農業協同組合(農協)や消費生活協同組合(生協)の姿を思い浮かべる人も多いと思う。 1844年、イギリスのマンチャスター近くで、ロッチデール公正先駆者組合(消費組合)の『ストア』が生まれた。これが生協のルーツといわれる。農協のそれはドイツで1862年にライファイゼンが設立した『救済貸付組合』(農村信用組合)といわれている」
つまり、五常講は、ヨーロッパで生活協同組合、農業協同組合が設立されるより、20年も前に設立された信用組合なのです。著者は、「尊徳は、世界で初めて信用金庫や協同組合の原型となるビジネスモデルを創りあげたといっても過言ではない。その証拠に、明治の初期、ドイツに学んだ品川弥二郎と平田東助は、帰国後、内務大臣や法制局長官として、日本での協同組合の必要性を認識し、尊徳の高弟の1人である福住正兄に五常講や報徳社の教えを請うている。そして、明治33年(1900)、ライファイゼンの救済貸付組合と尊徳の五常講をモデルにした「産業組合法」ができあがった」と述べています。
わたしの本業である冠婚葬祭互助会は「一人は万人のために、万人は一人のために」を基本理念としていますが、これは相互扶助の思想にほかなりません。著者は、五常講の理想について以下のように述べます。
「ラグビーの『1人はみんなのために、みんなは1人のために』の精神は、もともとは古代ゲルマン人の古くからの言い伝えであり、アレクサンドル・デュマの『三銃士』においては友情を表すモットーとして使われていた。その後、協同組合運動においては、このライファイゼンが『信用組合論』第2版序文(1872)にそれを引用したことから、現在でも信用組合の精神として語り継がれている。また、この『五常講』の仕組みは、バングラデシュのグラミン銀行でマイクロクレジット(無担保少額融資)と呼ばれる融資を展開してノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の手法を先取りしているともいえる」
第二章「『心』の荒廃を変えねば再建はならない」では、「成田山での断食から『一円融合』の哲学へ」として、「見渡せば敵も味方もなかりけり おのれおのれが心にぞある」という歌が紹介されています。この歌は、尊徳が得た「一円融合」の新しい心境を余すところなく語っているものです。後になって、大久保忠真にこの自分の心構えを話したところ、「汝のやり方は、論語にある以徳報徳(徳を以って徳に報いる)であるなぁ」と感嘆され、以後、尊徳の思想も仕法も「報徳」の名をもって呼ばれるようになったといいます。
第四章「報徳思想―二宮尊徳の成功哲学の神髄」では、「『徳を以って徳に報いる』―報徳とは何か?」として、著者は以下のように述べています。
「尊徳は『世の中のあらゆるものには、それぞれ固有の長所や価値がある』と認識し、それを『徳』と表現した。また尊徳は、その恩徳に報いるためには、毎日よく勤め、万物の価値を生かすことが大切だと考えていた。毎年米の収穫を得ることができるのも、土、日光、水、気候、こやし、そして種まき、草取り、稲刈りのそれぞれの徳が相和して大きな成果を生むからである。尊徳は、このように農民たちを指導した」
続けて、著者は尊徳の「報徳の道」について述べます。 「天地万物にはそれぞれ固有の徳が備わっていることを認識していた尊徳は、人間社会は天地万物の徳が相和することによって成り立ち、自己が生存できるのもそのおかげであると考えた。そのことに感謝の念を持ち、自己の徳を発揮するとともに、他者の徳も見出し、それを引き出すように努め、万人の幸福と社会・国家の繁栄に貢献すること、これが尊徳の考える『報徳の道』である」
また、「『道徳経済一元論』―経済なき道徳は戯言、道徳なき経済は罪悪」として、いわゆる「道徳経済一元論」と呼ばれるものを紹介し、著者は以下のように述べています。
「儒教の教義のなかに『利は義に反する』とある。つまり、経済よりも道徳を上位に置いている。孔子は『論語』において、国のリーダーたる者の心得を説いているわけで、治世の学として道徳を経済より重視したのは当然である。しかしながら尊徳は、儒教の教義に屈しなかった。尊徳は生産する農民こそが最も尊い存在であるとして、生産すなわち経済の重要性を的確に認識していた。つまり、儒学が非生産者である武士のための治世の学であるのに対し、報徳学は生産者である農民領民のための実学なのである」
さらに、「『一円融合』―対立を超えた融合こそが成果を生み出す」として、著者は「一円融合」について以下のように説明します。
「一円融合とは聞き慣れない言葉だが、一言でいえば、この世の中にあるものは、すべてが互いに関連して働きあって一体となっているから、別々に切り離して考えるのではなく、全体として円のように一体的に捉えるべきという思想哲学である。
すべてのものが互いに働きあい、1つの円のように融合することで成果が生み出される。一方ともう一方が、あたかも『半円』と『半円』のようにバラバラとなり、敵対しあっていたら、成るものも成らない。それらが合わさって完全なる『一円』となったときに初めて結果が出るという考え方である」
この「一円融合」の哲学は、報徳思想の全体像を考えるときに、なくてはならないものであるとして、著者は述べます。 「実践的改革理念である『至誠』『勤労』『分度』『推譲』は、お互いに深く結びついて1つの円の中に融合する概念になっている。そして尊徳は、『天道と人道も、経済と道徳も、双方がバランスよく共存し融合することで社会は発展し、人々に幸福をもたらし、新たな価値を創造する』と考えるのである。そうした意味で『一円融合』は『徳を以って徳に報いる』という報徳の道が到達した至高の思想哲学といえるのではないか」
第五章「実践で培い、発揮した七つの力」では、「尊徳は神道、儒教、仏教の書物を読み、その思想・哲学を学びとったが、学者や僧侶を尊敬しなかった。なぜなら、彼らは説教するのみで、世直しのための実行が伴わないからである。そのことを厳しく批判すらした。人間は実行するために学ぶ、これが尊徳の信念である」と述べられています。
名言ブログ「二宮尊徳(1)」でわたしが紹介したように、尊徳は「神仏儒正味一粒丸」という言葉を残しています。尊徳は、石田梅岩が開いた「心学」の流れを受け継ぎました。 心学の特徴は、神道・仏教・儒教を等しく「こころ」の教えとしていることです。日本には土着の先祖崇拝に基づく神道がありました。インドでブッダが開いた仏教、中国で孔子が開いた儒教も日本に入ってきました。しかし心学では、この3つの教えのどれにも偏せず、自分の「心を磨く」ということを重要視したのです。
尊徳の代表作である『二宮翁夜話』第231条には、以下の言葉があります。
「神道は開国の道なり。
儒教は治国の道なり。
仏教は治心の道なり。
ゆえに予は高尚を尊ばず卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。 正味とは人界に切用なるをいう。
切用なるを取りて切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ、これを報徳教という。戯れに名付けて神儒仏正味一粒丸という。その効用の広大なることあえて数うべからず」
尊徳の言葉の意味は、以下の通りです。
「神道は開国の道、儒学は治国の道、、仏教は治心の道である。 わたしはいたずらに高尚を尊重せず、また卑近になることを嫌わずに、この三道の正味だけを取ったのである。正味とは人間界に大事なことを言う。大事なことを取り、大事でないことを捨て、人間界で他にはない最高の教えを立てた。これを『報徳教』という。
遊び心から『神仏儒正味一粒丸』という名前をつけてみた。
その効用は広大で数えきることができないほどである」
尊徳は思想家として偉大であっただけでなく、経営者としても偉大でした。
「金融システムを構築・駆使する驚くべき『経営力』」として、著者は「尊徳の改革が大きな成果を上げることができたのは、農民、家老、藩主が自分のためだけでなく、農村や藩、ひいては社会全体のためを思って協働したからである。『分度を実行し推譲する』とを改革の基本に置いたことは、尊徳の経営力の神髄であろう」と述べています。
また著者は、五常講貸金について以下のように述べています。
「五常講貸金は、モノを担保にするのではなく人の心を担保に金を貸すという、人間の信頼関係を基にした金融システムで、多くの奉公人たちは借金を返済し、生活を建て直すことができた。働く者は互いに助け合って生活を向上させていくという尊徳精神の象徴であり、日本の信用金庫制度の原型ともされている」
第六章「思想の系譜―尊徳の思想はいかに継承されたか」では、石田梅岩やその教えを学ぶ人たちのなかには、至誠も積小為大(浄財を集める)も、さらには勤労も推譲も見て取れるとして、著者は以下のように述べます。
「江戸思想史の研究のなかには、『石田梅岩は町人(商人)思想の代表者で、二宮尊徳は農民思想の代表者である。分野は違うが、この2人はほぼ同じことを考え、実行した』と解説する人がいるが、私もそのとおりだと考える」
第七章「尊徳を師と仰いだ日本資本主義の立役者たち」では、「なぜ、偉大な実業家、経営者の多くが二宮尊徳を師と仰ぎ傾倒していったのか」という問いを立て、著者は以下のように述べています。
「ヨーロッパで資本主義が発展した背景について、よく、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が取り上げられる。一言でいえば、プロテスタンティズムの勤労に価値を置く倫理性が欧米の資本主義の発展に寄与した、という議論である。同じように明治以後の財界の指導者たちにとって、『経済を伴わない道徳は戯言であり、道徳を伴わない経済は罪悪である』という『道徳経済一元論』、さらに『至誠』『勤労』『分度』『推譲』という思想と仕法は、日本型資本主義経済を発展させる精神的バックボーンとなったのだと私は考える」
「経営の神様」あるいは「昭和の二宮尊徳」と呼ばれた松下幸之助について、著者は以下のように述べています。
「松下の経営哲学は、様々な面で報徳思想の影響を受けている。
『二宮翁夜話』のなかにある、江戸へ出てきた2人の田舎者が水売りを見て、1人は江戸では水すら買わねば暮らせぬと驚いて故郷に帰ってしまい、もう1人は江戸では水を売っても商売になると喜んで江戸に残ったという話を例に引いて、松下はこう語っている。
『一杯の水を売っているという事実は1つですが、その見方はいろいろあり、悲観的に見ますと、心がしぼみ絶望へと通じてしまいます。しかし、楽観的に見るなら、心が躍動し、さまざまな知恵や才覚がわいてくる、ということを尊徳翁はいいたかったのでしょう。ぼくもその通りだと思います。(中略)大阪に奉公に出てきてから今日まで、意識的にも無意識的にも、水売りの姿を見て江戸に残った若者のように、ものごとを積極的に明るく見てきた』
この積極志向、つまり、いかなる困難に出合おうとも前向きに挑戦するという松下の姿勢は尊徳譲りのものであろう」
また、「メザシの土光」というニックネームで親しまれた臨時行政調査会で財政再建、行政改革に辣腕をふるった土光敏夫について、著者は以下のように述べています。
「昭和56年(1981)には、当時の中曽根康弘行政管理庁長官に要請され、『第二次臨時行政調査会長』に就任する。就任にあたって次の4条件を提示している。(1)補助金の廃止、(2)国鉄等、公社に対する国庫助成廃止と独立経営化、(3)政府の権限の発揮による答申の実行、(4)国民の信頼を得るための公正な政治。
驚くことに、これは尊徳が桜町領復興を引き受ける際に提示した条件と共通する内容である。尊徳を信奉する土光は、最大の難関である臨調行革に挑むにあたって、尊徳がすべてを投げうって挑んだ桜町仕法と重ね合わせたのではないだろうか。特に尊徳が藩主大久保忠真からの補助金を断ったように、土光も補助金の廃止を第一に掲げ自立化の重要性を説いているのは興味深い」
さらに、京セラや現KDDIを創業し、日本航空の再建にもあたった「平成の経営の神様」こと稲盛和夫氏が著者『生き方』(サンマーク出版)で述べた内容を以下のように紹介しています。
「江戸時代中期、資本主義の萌芽が見られた頃、京都にて石田梅岩という思想家が『商いにおける利潤追求は罪悪ではない。武士が禄をはむのと商人が利潤を得ることは同じことである。ただし、商いは正直にすべきで、けっして卑怯な振る舞いがあってはならない』と商いにおける倫理観の大切さを教えています。また、農村においては、江戸時代末期、二宮尊徳が村民に勤勉と倹約の重要性を教えることによって、多くの荒廃した村々を復興させています。尊徳は人々の心を立て直すことにより、貧困にあえいでいた村を富める村に変えていったのです。日本で資本主義が生まれようとするとき、このように日本社会においても、勤勉、正直、誠実さというような倫理観が何よりも大切だということが広く教えられていたのです」
尊徳は、常に「人道」のみならず「天道」を意識し、大いなる「太陽の徳」を説きました。それは大慈大悲の万物を慈しむ心であり、尊徳の「無利息貸付の法」も、この徳の実践なのです。わたしが社長を務めるサンレーはその尊徳の心の中心にあった「天道」の名を冠した「天道館」という施設を2013年9月26日に作りました。天道思想は太陽の徳の如く、あらゆる人々、いや人をも超えた万物を慈しむ思想です。わたしは、ぜひ、この「天道館」を拠点に何事も「陽にとらえる」明るい世直しを推進したいと思います。
「天道館」の前で
わが書斎の二宮尊徳(銅像のミニ・レプリカとスマホ・ホルダー)