No.1702 歴史・文明・文化 | 民俗学・人類学 『忘れられた日本人』 宮本常一著(岩波文庫)

2019.03.27

『忘れられた日本人』宮本常一著(岩波文庫)を再読しました。もうすぐ平成が終わって時代は大きく変化しますが、そんな中で、ふと昭和以前の日本についての本が読みたくなったのです。民俗学者にして農村指導者、社会教育家であった著者は、1907年、山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになりました。1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残しました。
岩波文庫カバー表紙の内容紹介

岩波文庫のカバー表紙には、以下の内容紹介があります。
「昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907-81)が、文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーをまじえて生き生きと描く。辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた宮本民俗学の代表作」

本書の「目次」は、以下の通りです。
「凡例」
対馬にて
村の寄りあい
名倉談義
子供をさがす
女の世間
土佐源氏
土佐寺川夜話
梶田富五郎翁
私の祖父
世間師(一)
世間師(二)
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)「あとがき」
「注」(田村善次郎)
「解説」(網野善彦)

「対馬にて」では、対馬の北端に近い西海岸にある伊奈の村の寄り合いについて、著者は以下のように書いています。
「私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは200年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても3日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。1つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう」

著者は、対馬の北部の道を伊奈に向かって歩きますが、そのときの思いを以下のように綴っています。
「こうして道をあるいていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものであっただろう。細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。おなじ道を何回も通っても迷うということはよくわかる。狐狸の人を化かす話も、こういう道をあるいてみないとわからない。また夜はまったくあるけるものではない。まだ日は山の7合目から上あたりを照らしているはずだが、谷間の樹下の細道はすでに夜のように暗い」

そのうち、著者は峠の上で三人組に出会います。三人は、馬をつないで休んでいました。そのときのことを、以下のように書いています。
「私もそこで一息いれて、こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、『それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ』と一行の中の70近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った」

また、著者は以下のようにも書いています。
「対馬でも宿屋へとまるのならば朝昼晩と食事をするが、農家へとめてもらうと、朝と晩はたべるけれど、とくに昼飯というものはたべないところが多い。腹のすいたとき、何でもありあわせのものを食べるので、キチンとお膳につくことはすくない。第一農家はほとんど時計をもっていない。仮にあってもラジオも何もないから一定した時間はない。小学校へいっている子のある家なら多少時間の観念はあるが、一般の農家ではいわゆる時間に拘束されない。私は旅の途中で時計をこわしてから時計をもたない世界がどういうものであったかを知ったように思った」

対馬には島内に6つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになりました。著者は述べます。
「男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく」

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。そのときには嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった」

そして、著者は昭和26年に対馬を訪れ、佐護に近い佐須奈というところで一ばん民謡を聴きますが、それは歌舞伎芝居関係のものが多く、必ず手ぶりがともなったそうです。著者は述べます。
「腰をうかし、膝で立って、上半身だけの所作が見ていてもシンから美しい。これがただの農家のばァさんとはどうしても思えない。座にいる若い男たちはばァさんたちにぼろくそにやっつけられる。この方は全くの芸なし猿だからである。きいて見ると、対馬は盆踊りの盛んなところで大てい各浦に盆踊りがあり、その中で歌舞伎の一こまもやり、盆踊りの場が民謡など身につける重要な機会の一つになっているのであるが、佐須奈ではどうしたわけか、盆踊りが早く止んだのだそうである。そういうことが年寄たちの持っているものを若いものにひきつぐ機会をすくなくさせたのであろう。
相手がうたうとこちらにも歌を要求する。私はそんなに知っているわけではないけれど、とにかく、すすめられると3度に1度はうたう。歌合戦というものはこうしておこるものだと思った。とにかくだんだん興奮して来ると、次第にセックスに関係の歌詞が多くなる」

「村の寄りあい」では、長野県諏訪湖のほとりの村で、著者は農地解放の指導をしている友人から次のような面白い話を聞きます。
「60歳をすぎた老人が、知人に『人間1人1人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間3代の間には必ずわるい事をしているものです。お互にゆずりあうところがなくてはいけぬ』と話してくれた。それには訳のあることであった。その村では60歳になると、年より仲間にはいる。年より仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話しあわれる。かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。知人も40歳をすぎるまで年より仲間にそうした話しあいのあることを知らなかった。老人から話の内容については一言もきかされなかったが、解放に行きなやんでいるとき『正しいことは勇気をもってやりなさい』といわれて、なるほどと思った」

そこでの村の人間関係について、次のように述べられます。
「他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。そして年とった物わかりのいい女の考え方や見方が、若い女たちの生きる指標になり支えになった。何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた」

また、著者は次のように書いています。
「そうした生活の救いともなるのが人々の集りによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果そうとする世界を見つけることであった。前者は祭とか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れた馬鹿さわぎになり、後者は狭い村の中でなお人に見られぬ個人の行為となって来る。とくに後者の場合は姑と嫁の関係のようなものの外に、物ぬすみとなったり男女関係となってあらわれる。
若い男女の性関係は今よりもルーズであったと思われるが、それが婚姻生活の後までもながく尾をひくことがあって、女一人でさばききれなくなると、世話焼きばっばのたすけを借らねばならぬことが多かったのである」

さらに、著者は次のように観音講に言及します。
「福井県敦賀の西にある半島の西海岸をあるいていた時のことであったが、道ばたの上に小さいお堂があって、しきりに人声がするのであがってみると、10人ほどの老女がせまいお堂の中で円座して重箱をひらいて食べているとこであった。きけば観音講のおこもりだとのことで、60になるとこの仲間に入って、時々こうしておこもりしたり、また民家であつまって飲食をともにして話しあうのだという」

観音講について、著者は次のように述べています。
「観音講のことについて根ほり葉ほりきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという。
ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であった時があるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げの口されたことはないという。つまりこの講は年よりだけの泣きごとの講だというのである。私はこれをたいへんおもしろいことだと思った。自らおば捨山的な世界をつくっているのである」

年齢階梯制のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところです。無論村の中に血をおなじくする同族集団が内在しているのではあるが、1つや2つではなくていくつもあります。そして同族の者が1つの地域に集って住むのではなくてむしろ分散し、異姓の者と入交っている所が多いとして、著者は以下のように述べます。
「そういう傾向は瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく見られる。姓を異にした者があい集って住む場合には村の中で異姓者の同業または地縁的な集団が発達して来る。そういう社会では早くからお互の結合をつよめるための地域的なあつまりが発達した。この集りを寄りあいといっている。寄りあいのもっとも多いのは宗教儀礼にちなむものであるが、その外にもいろいろの村仕事の際にもおこなわれている」

著者は「衆」という瀬戸内地方の下級武士、または農漁民町人など生産者の間でつくられる同業者の集団を取り上げ、以下のように述べています。
「三島衆・塩飽衆などといわれるものがこれであり、その衆という文字はすでに鎌倉時代の文献にもみえる一結衆などにつながるものであろう。一結衆というのは今日の講仲間のことであり、地蔵講・念仏講など、比較的古くから各地で発達をみており、瀬戸内海西部にある小島の八島においてすら、地蔵の一結衆が至徳4年(1387)にみられている。そのほかこの地方に中世に書写された大般若経などのたくさんのこっていることから考えても、般若講など古くからおこなわれていたものと思われる」

村の寄りあいについて、著者はこう述べます。
「寄りあいというものは戸主の集るものとされているものが多いようであるが、そういう席へ女が代理で出て来ることは少くない。そんな時には女はほとんど発言しないで片隅にいて話だけきいているのが普通のようであるが、女だけの寄りあいもまたおこなわれることがある。これは村こぞっておこなうというようなことはすくなく、たいてい有志の集りである。そしてそれも村の慣行自治に関するものではなく、親睦か信仰または労作業を主としたものであり、そのうち茶飲みという集りはきわめて頻繁にくりかえされて来たのが瀬戸内海地方では一般に見られたところである。お茶に漬物程度のごく粗末な食物で、ごく狭い範囲の女が集ってほんの1、2時間おしゃべりをして別れるのである。子供の髪洗い、名付け、宮参り、百ヵ日をはじめ、家々の招宴の場合にも男が集るほどのこともないような披露を主とする招客はしばしばおこなわれるもので、そういう時にはたいてい女があつまる。そのほか灸すえとか、女だけのいろいろの作業のはじめまたは終には集って簡単な飲食をすることが多い」

また、著者は以下のようにも述べています。
「そういう集りがもとになって作業などきめる集りもおこなわれる。作業の中では田植の早乙女や養蚕の盛んなころには共同飼育の当番ぎめなどたいてい女の集りによっておこなわれていたし、また家普請や葬儀などにも女だけの協力作業はあるもので、そういう事を中心にした集りもおこなわれていた。そうした主婦連中の集りの上に、隠居した年よりの集りが別にあったのである。隠居の場合は男または女で別々に集る場合もあるが、講会のようなものには男女ともに集ることが多かった。
同様に、結婚以前の青年男女も若衆組、娘仲間をつくって集りをすることは多く、こうした多くのグループが村の中に層序をなしているところは中部地方の西半から西にかけては少くないのである」

著者が名倉村で年よりたちに集ってもらって座談会をしたとき、老人たちがみんなでまず面白そうに話し出したのが万歳峠のことでした。著者は以下のように述べます。
「はじめは何のことかよくわからなかったのだがききただしてみると、村から山をこえて田口の方へ出ていく峠のことである。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみの中に姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より5丁あまり手まえの所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、5丁あまりを歩いて峠の向うへ下っていくのである。こうして万歳峠が、峠の頂上から5丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる」

年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通ですが、隠居制度はその起源や起因についてはここにしばらくおくとしても、これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われるとして、著者は次のように述べます。
「そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多かった。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕など、古風を多くのこす対馬の場合など、こうした共同事業・一斉作業・公役などについやす日数が年間百日内外に達するかと思われる。それ以外の日で自分の家の農作業にしたがわねばならないのであるから、自家経営は自ら粗放にならざるを得ないのである。そして、このうち公役は時代をさかのぼるほど多かったと見られる」

そして、著者は寄りあい制度について述べるのでした。
「この寄りあい制度がいつ頃完成したものであるかは明らかでないが、村里内の生活慣行は内側からみていくと、今日の自治制度と大差のないものがすでに近世には各村に見られていたようである。そしてそういうものの上に年より衆が目付役のような形で存在していた。ただ物のとりきめにあたって決定権は持っていなかった。と同時に寄りあいでのはなしあいには、お互の間にこまかな配慮があり、物を議決するというよりは一種の知識の交換がなされたようであり、個々の言い分は百姓代や畔頭たちによって統一せられて成文化せられたのである」

「名倉談義」では、金田茂という人物が、万歳峠について以下のように述べています。
「万歳峠というのはな、村の者が兵隊を見送っていくのに、峠の上までいうて万歳をとなえたのではまことに愛想がない。皆さん行って来ますいって、峠をおりたのではすぐ姿が見えなくなる。そこで峠の上から6、7丁もこちらへ下った市場口の北のはずれで見送ることにした。そこで万歳をとなえる。行くものはそれからあるきながら手をふる。こちらも立って手をふる。道が曲って姿が見えんようになるまで、しばらくは時間もかかる。まァ、名残りをおしむというようなわけで。日露戦争のときも、日独戦争のときも、今度の戦争のときも、入営兵士のあるときは、みんなそこで送ったもんです。村を出ていくのにもおもむきのあったもんです」

「土佐寺川夜話」では、土佐山中の農民の生活について紹介されます。ちょうど戦争が始まったばかりというから昭和20年の12月9日のこと、著者は伊予の小松から土佐の寺川という所に向かいました。途中、原生林がありました。著者は以下のように述べています。
「その原始林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道一本です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました」

続いて、著者は以下のように述べています。
「私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分らないと答えました。そのうち少し気持もおちついて来たので『婆さんはどこから来た』ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました」

「私の祖父」では、著者の祖父である宮本市五郎について書かれています。弘化3年(1846年)山口県大島に生まれ、昭和2年(1927年)にそこで死にました。中農の次男に生まれましたが、兄が早くから大工として外に出たため、家で百姓をしたそうです。著者は述べます。
「仕事をおえると神様、仏様を拝んでねた。とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず、1日1日を無事にすごされることを感謝していた。市五郎のたのしみは仕事をしているときに歌をうたうことであった。歌はその祖父にあたる人から幼少の折おしえこまれたのがもとになっているらしい。田植、草刈、草とり、臼ひきなどの労働歌をはじめ、盆踊歌やハンヤ節、ションガエ節のようなものをも実によくおぼえていた。祖父にあたる人は長男であったのが伯父の家へ養子に来た。気らくな人で、生涯めとらず、すきな歌をうたいのんきに仕事をして一生をおわったらしい。田植時期になると太鼓1つをもって方々の田へ田植歌をうたいにいった。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった。旅人はまた誰でもとめた」

著者は、世間のつきあい、世間態について、以下のように述べています。
「世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。会津盆地の片田舎の貧農の家に育った蓮沼門三の自伝をよんでみて、家族内での人々の生き方をみると、われわれの家とほとんどかわっていない。こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、やっと近頃になって「物いわぬ農民」や「民話を生む人々」のような書物がではじめたにすぎないが、いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や悲痛感がでていないと承知しなかったものである」

著者の祖父と祖母は50年つれそって、喜の字の祝と金婚の祝を子供たちからしてもらって、貧乏はしても自分の歩いて来た道に満足したそうです。著者は述べます。
「その年の3月のある宵、祖母は前の家へもらい風呂にいって、そこでしばらくはなし、家へかえって隠居部屋へはいろうと縁へ手をついたまま、脳出血で死んだ。祖父がねようと思って、便所へ行くために縁へ出ると祖母がうつぶしている。声をかけても返事がない。ゆすぶっても動かない。そこで母をよんだ。母がいって見ると、もうこときれていた。嫁に手をやかせず、自分もくるしまずに死んだのだからこれほどしあわせはないといって村人からは徳人といってうらやましがられた」

祖父が死んだあくる日、近所の老人が祖父名義の貯金通帳をもって来たそうです。著者は、「それは自分の葬式の費用にするためのものであった。この通帳をあずかっていた老人は、その昔私の家をやいた少年であった。青年のころにはすこし気が変になっていたのを祖父はよくめんどうを見てやった。青年はそれから四国巡礼に出て長い間かえらなかった。もどってくるとすっかり元気になっていた。そして小商売をはじめた。正直で親切で貧乏人にはよい味方であった。祖父にとっては自分の家へ不幸をもたらした人だったけれど信頼してずっと年下なのにかかわらず何事も相談していたようである」と述べています。

「あとがき」の冒頭で、ここに収められたもろもろの文章の大半は雑誌『民話』の第3号から隔月に1回ずつ10回にわたって「年寄たち」と題して連載したものであると紹介されています。著者の民俗学はいわゆる「フィールドワーク」で知られていますが、どのような方法で行ったのでしょうか。著者はこう述べます。
「私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書のあることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい1軒に半日かける。午前・午後・夜と1日に3軒すませば上乗の方。仲間にたのむと、その人たちはもっと能率をあげる」

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には村の古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかって来る。と同時に実にいろいろな事をおしえられる。『名倉談義』はそうした機会での聞取である。その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会の形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている」
もうすぐ平成が終わろうとしている現在、「日本人」について知るために、本書の持つ意義は限りなく大きいと思います。改元まで、あと35日です。

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