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No.1706 プロレス・格闘技・武道 『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』 前田日明+藤波辰爾+大谷晋二郎+橋本大地ほか著(宝島社)
2019.04.06
『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』前田日明+藤波辰爾+大谷晋二郎+橋本大地ほか著(宝島社)を読みました。自分でも「さすがに、もうプロレス本はいいかな」と思っていました。しかし、一条真也の新ハートフル・ブログ『証言1・4橋本vs.小川 20年目の真実』が予想外の大反響で、未だに毎日のようにアクセスが集中しています。それで、同書の続篇ともいうべき本書をブログで取り上げることにしました。それにしても、「UWF」のような社会現象にまでなった団体とか、「1・4橋本vs.小川」のような歴史的一戦とかではなく、「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」という1つのテレビ番組をテーマに1冊の本が作られたことは驚きです。
本書の帯
カバー表紙には小川戦に敗れ、ガックリうなだれる坊主頭の橋本真也の写真が使われ、帯には「17人のレスラー、関係者が告白!」「破壊王の『解雇』と『死』」「瞬間最高視聴率24パーセント!『生放送』特番の大罪」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、以下のレスラー、関係者の言葉が並びます。
藤波辰爾「ノアとの交流は容認できない、だから橋本を切るしかなかった」/前田日明「橋本の死みたいな、悲劇の物語はいらなかった」/永島勝司「橋本の解雇は、藤波が独断で決めたこと」/金村キンタロー「薫さんとの交際が、ZERO-ONEをおかしくした」/大谷晋二郎「悪者にされても……なにひとつ後ろめたいことはない」/加地倫三(テレビ朝日)「(特番制作では)新日本との考え方の違いにイライラしました」ほか
カバー前そでには、こう書かれています。
「僕はあの時、橋本を生かすために解雇としたんだよね。あのまま彼を飼い殺しのような形で新日本に繋ぎ止めておいたら、またいろんな衝突が起こっていたと思う」(藤波辰爾)
アマゾンの「内容紹介」は、以下の通りです。
「プロレス『証言』シリーズ第5弾は、昨年末に発売され好評を博した『証言1・4橋本vs.小川 20年目の真実』に続き橋本真也がテーマ。今回は2000年4月7日に東京ドームで行われた小川直也との最後の対戦(テレビ朝日がゴールデンタイムで生放送し、視聴率は15.7%。瞬間最高視聴率は24%)の舞台裏を中心に、橋本の死までのエポックな出来事の『真相』を関係者に徹底取材。『引退特番』成立の裏事情、長州力との”不和”の真相、「OH砲」誕生の謎、三沢・NOAHとの蜜月、『ハッスル』参戦と『ZERO-ONE』の破綻、そして死の真相……平成プロレス界の異端児、”破壊王”の虚と実」
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」ターザン山本
第1章 破壊王の「引退」
藤波辰爾
「ノアとの交流は容認できない、だから橋本を切るしかなかった」
加地倫三(『橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!スペシャル』スタッフ)
「(特番制作では)新日本との考え方の違いに結構イライラしました」
米川 宝(折り鶴兄弟・兄)
折り鶴活動を通じてテレビの力を知り、テレビ朝日に入社
前田日明
「橋本の死みたいな、悲劇の物語はいらなかった気がするよね」
第2章 破壊王の「解雇」
金沢克彦(元『週刊ゴング』編集長)
橋本の解雇は馬場元子さんに対する新日本のケジメ
永島勝司(元新日本プロレス取締役)
「橋本が解雇という形になったのは、藤波の独断で決めたこと」
上井文彦(元新日本プロレス取締役)
「藤波さんの中で、〝解雇〟と〝退団〟の区別がついてなかった」
竹村豪氏
藤波からスポンサーを奪い、橋本は新日本を解雇に
第3章 破壊王の「素顔」
勝俣州和(タレント)
「想像以上に世間は冷たくて。心配で、毎日電話をしていました」
橋本大地
「あんなに強い男が病気ごときで死ぬわけがないと思ってました」
山中秀明(元新日本プロレス代表取締役専務)
「結局はテレビのほうが力関係は上なんです」
第4章 破壊王の「孤独」
大谷晋二郎
「悪者にされても……なにひとつ後ろめたいことはありません」
中村祥之(元ZERO1代表取締役)
「橋本さんからすれば、団体を潰したことにしたい張本人が僕でした」
第5章 破壊王の「最期」
金村キンタロー
「薫さんとの交際が、ZERO-ONEをおかしくしたのは間違いない」
X(元DSED、某プロレス団体幹部)
「新日本は、橋本さんの合同葬の運営費を出すことを渋ったんです」
伊藤博(元橋本真也代理人弁護士)
「亡くなって、マスコミが聞くんです。『自殺ですか?』と……」
高島宗一郎(福岡市長、元『ワールドプロレスリング』実況アナウンサー)
「橋本さんが亡くなったあと、人間不信で……12キロも痩せました」
【改訂版】橋本真也 小川直也 新日本プロレスvsUFO 完全年表
「はじめに」を、ターザン山本はこう書きだしています。
「人は亡くなった人間に対してどんな言葉をかければいいのだろうか? これは非常にデリケートなテーマだ。なぜならその時、死者は完全に沈黙しているからだ。なにも語らない。語れないのだ。だから本来、生き残った者は無力のはずだ。でも現実は違う。逆だ。生き残った者たちはある部分、雄弁である。それは生き残った者たちの特権なのか。彼らには死者に対する負い目はない。もちろん罪悪感とも無縁である。2005年7月11日、橋本真也は亡くなった。享年40。明らかに早すぎた死である。その死は偶然だったのか、それとも必然だったのか」
また、ターザン山本はこうも書いています。
「どうすれば”破壊王”になれるのか。なにを破壊するのか。なにを破壊すればいいのか。『破壊なくして創造なし』は橋本の代名詞。『破壊なくして橋本真也なし』だ。そのためには徹底的にバカになる。バカをする。そこにこそ自分のセールスポイントがある。ある種、橋本はピエロでもあった。即引退、解雇も橋本からすると望むところであったのだ。人々を巻き込む過剰な物語性が橋本にはよく似合った。まさしく時代の主役に躍り出た。
この男の面白さはそこにあった。死者・橋本vs生き残った者たち、の新たな闘いである。そのリングを考えたらこんなに興味深いことはない。いま、まさにそのゴングが鳴った。橋本という亡霊と向き合ったのだ。偉大なり、橋本。橋本という亡霊の百人組手みたいなものだ。亡霊はフォールされることはない」
「橋本こそ猪木イズムを丸ごと表現し切ったレスラーだ。猪木イズムとはリミッターを外すことなのだ。それは橋本流の破壊精神と通じるものだった」と言うターザン山本は、「はじめに」の最後にこう述べるのでした。
「それにしても、1人のレスラーがいまでもこれだけ語られるのは橋本が最後だろう。果たして、橋本は時代に狂わされたのか。プロレスに狂ったのか。新日本が狂っていたのか。なにより、橋本は誰よりも無邪気だった。生き残った者たちはそんな橋本真也がみんな大好きだったのだ。やはり、死者には誰も勝てない」
前作『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実』と同じく、本書もいろんな選手の発言集(証言集)です。その発言の中から、わたしが知らなかったこと、興味を引かれたこと、「なるほど」と思ったことなどを中心に抜き書き的に紹介していきたいと思います。
小川直也との”1・4事変”が起こった後、新日本プロレスのレスラー、関係者の中で、橋本真也と最も深く関わりを持ったのは藤波辰爾でした。あの一戦の半年後に新日本の代表取締役社長に就任した藤波は、絶縁状態だった新日本とUFOとの関係改善であり、1・4事変の後処理でした。そのため欠場中だった橋本と何度も個人的に会って話し合い、2000年4・7東京ドームでの「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!スペシャル」の跡は、橋本の引退を翻意させるために奔走しました。01年10・9東京ドームでの橋本復帰戦では自ら相手を務め、最後は橋本のチキンウィング・アームロックで敗れました。橋本の団体内独立への道筋をつけたのも、結果的に橋本を解雇したのも藤波でした。
小川による掟破りの”セメント暴走”と呼ばれた1・4事変について、藤波は「それを許してしまったのは、橋本に油断と過信があったためだ」ととらえ、以下のように語っています。
「あの時、橋本にちゃんと気構えができていたら、もし小川が仕掛けてきても咄嗟に自分の身を守ることはできたはずなんですよ。僕らの時代のプロレスはそうだったから。『なにかあったら行っちゃうよ』という感じがあったから、みんなそういう心構えをつくっていたのよ。だから僕が前田(日明)と大阪城ホールでやった時(86年6月12日)もそう。あの時の僕は、『もしかしたらなにかあるな』という思いがあったから、自分自身を守る防御策は、できる範囲で全部やった。まずはコンディションづくりですよね。自分が少しでも怯んでしまったり、動きが鈍くなったら、前田の思う壺でサンドバッグになってしまうから。あとは前田の様子を見ようっていうのがあったんだよね。どいうつもりでこの試合に臨んできたのか、序盤戦で警戒しながら探るというね」(藤波辰爾)
橋本のプロレス人生を振り返って、藤波がこう述べます。
「橋本自身にとってあの1・4というのは、決して悪いことだけだったとは思わない。橋本が独自にZERO-ONEという団体を興すことができたのは、あの試合があったからですよ。あの1・4以降、負けても這い上がってくる橋本の必死な姿をファンが見ていたから、新日本を離れてからも応援し続けたんだろうしね。
僕自身、夜中のファミレスで何時間も話し合って、本気で思い悩んでいた橋本の姿がいまだに忘れられないもん。だから、あの1・4以降というのは、橋本真也というプロレスラーが必死で生きた証。僕はそんなふうに捉えてるね」(藤波辰爾)
元祖セメントレスラーといえば、前田日明の名前が浮かびますが、彼は「物語」というキーワードを使って、以下のように語っています。
「闘魂三銃士でいうと、武藤敬司も蝶野正洋もキャラクターで一話完結の物語をつくろうとしたでしょ。使いまわしでボロボロで継ぎ接ぎだらけのキャラクターでさ。橋本も似たようなもんだよ。それで猪木さんが小川を使って『本当の劇場型プロレス、物語を見せなきゃいけない』と思ったんじゃないのかな。はっきり言って物語があったのは俺まででしょう。本来、日本のプロレスというのは、プレイヤー1人ひとりの中に体を張った物語があって、それを紡いでいくもんなんですよ。それは力道山やアントニオ猪木から繋がってきたもんなんだよね。だけど、俺のあとに誰に繋がってるか? 誰にも繋がっていないでしょ」(前田日明)
「とにかく物語をつくるということに関してはアントニオ猪木の右に出る人間はいないですよ。企画力に関して言えば、ワールドリーグ戦とかをやった力道山のほうが猪木さんよりも上なんだけど、猪木さんは力道山がやってきた企画に物語をつけたよね。だから猪木さんの試合って思わせぶりなセールがいっぱいあるじゃん。大木金太郎の頭突きを食らい続けてもなんとか踏ん張って立ち向かっていくあの姿とか。それを観た人たちが『絶対に効いているんだけど猪木は必死に耐えているな』と思って、そこに自分の人生の物語を被せていくわけでしょ。だからそういうのもあって、俺は闘魂三銃士とかにちゃんと興味を持ったことがないんだよね」(前田日明)
「タイガーマスクが出てくるまでは新日本のリングは物語全盛だったんですよ。そこで佐山(聡)さんが物語がなくても通用する動きを試合でやったもんだから、『プロレスには物語がなくてもいいんだな』って勘違いをする後輩が出てきた。しかも教育係となるべきだった俺らの世代がUWFにごそっとそれ以前と以降のプロレスが完全に断絶したんだよね。長州さんなんかも周りがつくった物語のなかで動く人でしょ。だから自分でアングルを考えて、体を張ってやるってタイプの人ではないんだよ。橋本は長州さんと仲が悪かったって聞くけど、本当はそういう意味ではあの2人は近親憎悪なんだよ。2人とも自分の物語のつくり方がわからない。だから橋本は小川にやられても自分でなんとかしようとせずに『これ、誰が責任を取ってくれるんだ? 誰かなんか考えろよ』みたいな感じだったでしょ、どうせ。あのね、自分で考えられない物語って突っ張り切れないんだよ。だからテレ朝に『即引退SP』っていう企画を勝手につくられるんですよ」(前田日明)
企画力ということでは、長州力がプロデュ―スした新日本プロレスvsUWFインターナショナルの対抗戦は大ヒットしました。そのメインイベントでUインターのエースであった髙田延彦は新日本の武藤敬司に完敗したわけですが、U戦士として髙田の先輩にあたる前田は、こう述べます。
「もし、俺が武藤とやったらハイハイと言いながらノックアウトするか、アイツが知らない技で足か腕を折ってたよ。なんでUインターは仕掛けなかったのかね? いくらカネがなかったからと言っても、そこからアングルができるじゃん。それでさらに注目をされて応援をしてもらえるよ。やったもん勝ちだよ。『ちゃんと真剣勝負をやったのになんでそれがダメなんだ?』ってさ、わかっていながら言っちゃえばいいんだよ。結局、ファンというか世間がついてきてくれればどうにでもなるんだよ。それは俺自身が経験してることだから。長州さんの顔面を蹴っ飛ばしたことだって、アンドレ戦だってそうでしょ。アンドレの時は向こうから仕掛けてきたからやり返しただけだけどさ、それがプロレスじゃん。その水面下の大きさというか広さがプロレスですよ」(前田日明)
前田は最後に、橋本の死因について、こう述べるのでした。
「レスラーの体を蝕む一番の原因ってね、受け身なんですよ。プロレスのリングにはスプリングが入っていて、100キロくらいの人間がなにしても大丈夫な構造になっているから、受け身を取った瞬間にはそんなにたいしてダメージはないんだけど、あのスプリングによる跳ね返りが徐々に体にダメージを与えていくんじゃないかなって思うね。あのスプリングがあるからこそ、年中試合ができるわけだけど、それゆえにっていうさ。受け身を一発取るにもダメージなんで、本来は体の休息期間っていうのがなければいけないのに、それがないからどんどんどんどんダメージが溜まっていくんだよ。橋本が死んだのは40歳だっけ? 早いよね。かわいそうに。そんな悲劇の物語はいらなかった気がするよね」(前田日明)
歯に衣を着せずに言いたい放題、橋本に対しても厳しい言葉を吐いた前田ですが、最後の「かわいそうに」の一言で救われた気がしたのはわたしだけではないと思います。
橋本のことを若手時代から「ブッチャー」と呼び、親しく交流を続けてきた元「週刊ゴング」編集長の金沢克彦は以下のように述べています。
「橋本が新日本から完全に離れて、勝負する気になった気持ちもわかりますよ。僕が知るかぎり、ZERO-ONE旗揚げ戦は史上最大の旗揚げ戦でしたからね。メインイベントで橋本&永田vs三沢&秋山というカードが組まれて、試合後には三沢と小川が交わってしまった。さらに藤田和之までリングに上がってきて、放送席には武藤もいたわけですからね。
あのZERO-ONE旗揚げ戦の成功が、翌年の武藤一派の全日本移籍にも繋がったと思うし。また、新日本は猪木さんの現場介入がますます進み、総合格闘技で結果を出した藤田や安田忠夫がIWGPチャンピオンになっていった。そして、その流れに長州が強烈に拒絶反応を示したことで、新日本における長州―永島体制まで猪木さんが壊してしまったという。だからもう、すべては99年の1・4橋本vs小川から始まってるんですよ。あれによって、橋本の運命だけでなく、新日本の運命も大きく変えてしまったんです」(金沢克彦)
橋本vs小川の5回目の対決は、テレビ朝日の企画により、橋本の「即引退SP」となりました。これについて、元新日本プロレス取締役の永島勝司は以下のように述べています。
「この試合の勝ち負けを決めたのは猪木。俺自身は橋本が負けることを、当日の試合前に橋本から直接聞いたよ。でも、あいつはとくに落ち込むこともなく、清々しい顔をしてた。負けるけど、引退する気なんてなかったってことだよな。猪木は、引退でもクビでもなんでもいいから、とにっかう橋本を新日本から辞めさせたかった。それでUFOに取り込むなり、新たな団体やイベントを仕掛けるなりして、小川と橋本の2枚看板でやろうと思ってた」(永島勝司)
その後、橋本と長州による、伝説の「コラコラ問答」を経て、2003年12月14日にZERO-ONEとWJの全面対抗戦が実現します。さらに04年2月29日には、橋本と長州のシングル戦も組まれました。この時期が橋本とのプロレスにおける最後の関わりになったという永島はこう語るのでした。
「俺が言うのもなんだけど、橋本は周囲に翻弄されすぎたよ。新日本の思惑や、猪木の思惑にね。でも、あの時、新日本に橋本がいたから、猪木からの影響を最小限に食い止められた。俺たちが、橋本に背負わせたんだよな……。実際、橋本を解雇したあたりから、猪木の思惑を受け止めるというか、防ぐ人間が誰もいなくなって、新日本という会社は変わっていったんだと思う。残念ながら、悪いほうにね」(永島勝司)
永島勝司と同じく元新日本プロレス取締役の上井文彦は、1・4事変について、以下のように語っています。
「橋本と小川の試合がなんであんなことになったかは、金本浩二が言ってたんだけど、選手がなんで思いっきり相手を攻められるのかと言ったら、それは道場で一緒に練習したり、巡業で旅をして、信頼ができるからなんだと。もちろんきつい練習に裏打ちされた選手たちの実力も当然あるんだけどね。そういう部分では、橋本と小川の試合は、あまりにも信頼が欠けていたよね。2人だけの関係じゃなくて、周りに翻弄されたというか、そう、当時の新日本とUFOの関係が、橋本と小川をああいう形にしてしまったんだろうね」
それは、小川個人の問題も大きかったと思います。小川は結局、プロレスラーではなかったのでしょう。小川と橋本の2人からスタートした「ハッスル」は、髙田延彦扮する髙田総統のブレイクもあって、次第に”髙田一座”と化してきました。当時のエピソードを、ハッスルの運営にか関わった元DSEのⅩが次のように述べています。
「そこは髙田さんの人間力なんですかねぇ。試合後にみんなで酒を飲むことで団結力が高まって、レスラーや運営もみんな髙田さんのことが好きになって。でも、飲みの場に小川さんはほとんど来なかったんですね。別にみんなと距離があったわけじゃないですけど。そういえば、ハッスル名古屋大会後の親睦会に珍しく小川さんが顔を出したことがあって。そこには長州さんや川田さんもいて、髙田さんは小川さんにガンガン飲ませようとするんですけど、小川さんは断るんですよ。理由はアスリートだから酒は控えたいって。そこはプロレスラーの気質じゃないんですよね。プロレスってみんなでつくり上げていくものですから、相手との信頼関係をつくっていくことも大事。もうちょっとレスラーたちとも踏み込んだ関係になっていてくれたら」(X)
橋本真也にとって親友のような関係であったタレントの勝俣州和は、プロレスラーとしての橋本についてこう語っています。
「橋本の魅力は負けても負けても何度も立ち上がるところでした。数少ない、負けて人気の上がるプロレスラーでした。ドラマを見せることのできるプロレスラーでした。そして、花道で絵になるプロレスラーでした。東京ドームの長い入場も保たせられる数少ない華のあるプロレスラーでした。昔のプロレスラーのような、豪快伝説を持っていたところも好きでした。銀座で豪遊したり、大御所のタレントと交友したり。だから、彼の周りには、いつも多くの人が集まっていました」(勝俣州和)
そして、勝俣は橋本の生涯をこう総括するのでした。
「いま思うとね。橋本は小川を使って、猪木さんを消そうとしていたんだと思います。『闘魂伝承』を背負い猪木イズム継承者のトップを走っていた橋本が、猪木さんのつくり上げた小川に負ける。つまりそれはプロレスこそキング・オブ・スポーツであると叫び続けた猪木プロレスの終焉を世間に知らしめることになり、猪木の呪縛からプロレス界を解き放つことになったんです。そして橋本の去ったあと、新日本本隊で猪木イズムを声高に言う選手自体がいなくなりました。猪木が語られる機会がまったく新日本の中でもなくなっていきました。新日本での猪木の火が消えたあと、橋本はZERO-ONEという大きな花火を打ち上げたんです。古くは猪木が日本プロレスを飛び出し、長州が新日本を抜け出し、前田もUWFをつくったという、打ち上げ花火的な歴史的ストーリーが起きていたのがプロレス界です。小川によって目を覚ました橋本は、あのアントニオ猪木さえも利用して己の脱皮を計ったんです」(勝俣州和)
勝俣州和というタレントは、あの前田日明も一目置いている存在ですが、彼の発言には説得力があります。そして、橋本への熱い友情を感じて、読んでいてこちらも胸が熱くなってきます。本書は、読む前に思っていたように、単に「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」という1つのテレビ番組をテーマにつくられたわけではなく、橋本真也という1人のプロレスラーの短い人生を通じて、「プロレスとは何か」「人生とは何か」を問う内容でした。
その意味では、一条真也の新ハートフル・ブログ『三沢と橋本はなぜ死ななければならなかったのか』で紹介した本の内容に通じる部分が多かったです。2005年7月11日、多くのファンから愛されたプロレスラー・橋本真也は横浜市内の病院で、脳幹出血で死去しました。あれから、プロレス業界が急激に衰退し、プロレス・ファンたちはかつての熱量を失っていたように思えてなりません。現在、新日本を中心に隆盛をきわめているというエンターテインメント色の強いプロレスを、わたしは観たいとは一切思いません。橋本が活躍していた頃、わたしにとってのプロレスが最後の輝きを放っていました。最後に、橋本真也選手の御冥福を心からお祈りいたします。合掌。
「令和」への改元まで、あと25日です。