- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
2019.09.09
『ベストセラー伝説』本橋信宏著(新潮新書)を読みました。出版界を震撼させたウルトラCの企画や奥の手の販売戦略の数々が興味深かったです。著者は1956年、埼玉県生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学政治経済学部卒業。ノンフィクション・小説・エッセイ、評論と幅広い活動を展開。著書に『裏本時代』『AV時代』『高田馬場アンダーグラウンド』『全裸監督 村西とおる伝』など。
本書の帯
本書の帯には、「『冒険王』『少年画報』『「科学」と「学習」』『平凡パンチ』『ノストラダムスの大予言』etc.」「昭和だから許された!?裏技、秘技の数々!」と書かれています。カバー前そでには内容紹介があります。
「『科学』と『学習』はなぜ校内で販売されていたのか。『平凡パンチ』で素人を脱がせていたのはどんな人か。世間を震撼させた『ノストラダムスの大予言』の著者は今何を考えているのか……。60年代から70年代にかけて、青少年を熱中させた雑誌や書籍には、前代未聞の企画力や一発逆転の販売アイディアに溢れていた。その舞台裏を当時の関係者たちから丹念に聞き出した秘話満載のノンフィクション」
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第1章 「冒険王」と
「少年チャンピオン」
――手作り感があった付録と漫画
縁日の夜店風の雑誌
ブローカーが買い占めた紙で出版業に
泥臭く作れ
付録は社員が作っていた
みんなが面白いと言うものはつまらない
「ブラックジャック」で手塚治虫を再生
「サイボーグ009」を初コミックス化
第2章 「少年画報」と
「まぼろし探偵」
――オリンピック直前に戦記物大ブーム
1963年の躁状態
「黄金バット」と「赤胴鈴之助」
新社屋落成にザ・ピーナッツ
表紙のモデル江木俊夫は今
駆け出し時代の梶原一騎
撮影用の軍服はアメ横で調達
第3章 「科学」と「学習」
――みんな実験付録に夢中になった
校内で直販されていた学習雑誌
公職追放の元校長を販売部長に
実験機材を付録につけることで大成功
寝ても覚めても付録のこと
「学研のおばちゃん」の登場
「科学」から「大人の科学」へ
第4章 ポプラ社版
「少年探偵シリーズ」
――学校図書室に「怪人二十面相」が置かれていた謎
あれは夢か幻か
なぜ小学校に必ず置かれていたのか
なぜポプラ社版が刊行されたのか
なぜ挿絵の少年が魅力的なのか
なぜ乱歩は洋館で創作するのか/
なぜ自作の評価に厳しかったのか
第5章 「平凡パンチ」と
「週刊プレイボーイ」
――ヌードグラビアが元気だった頃
ナンパが編集者の仕事
日活ともめた浅丘ルリ子のヌードイラスト
編集にも口を出すデザイナー
人生は運と縁/ 胸は大きく、写真は〝明るく〟
ヘアヌード解禁!
第6章 「豆単」と「でる単」
――受験生なら一度は使った英単語集
1700万部以上売る驚異的ロングセラー
愛すべきマスコット
元は日比谷高校のプリント
単語集にエンターテインメント性を
著者の絶大なる自信
「老舗」のリベンジ
「でる単」に感じる俳句のセンス
第7章 「新々英文解釈研究」と
「古文研究法」「新釈現代文」
――復刻までされた伝説の受験参考書
未来のエリートのための参考書
行間からにじみ出る毒舌
復員した教え子のためにひと肌脱ぐ
近代文学が入試問題に出始める
名著の意外な結末
第8章 「ノストラダムスの大予言」
――子供から大人まで世紀末を予感した
空から恐怖の大魔王が降ってくる
格下扱いだった光文社
「日本沈没」も担当していた
タイトルが一番大事
「サソリの勉」というあだ名
「おわりに」
「はじめに」で、著者は「私が長年抱いていたベストセラーの謎がある」として、以下のように述べています。
「犯罪をテーマにしたポプラ社版江戸川乱歩の探偵小説が、なぜ小学校の図書室に置かれていたのか。極度のスランプに陥った手塚治虫が完全復活した『ブラック・ジャック』がなぜ『少年チャンピオン』で連載されたのか。私が小学1年生になった1963(昭和38)年当時、『少年サンデー』『少年マガジン』『少年キング』といった少年漫画週刊誌でなぜ戦記物が誌面を占領していたのか。石油ショックのときに刊行された『ノストラダムスの大予言』の著者・五島勉はいまどうしているのか。受験生のバイブル『試験にでる英単語』と『豆単』のライバル争いは結局どうなったのか。『8マン』『まぼろし探偵』『月光仮面』の桑田次郎(現・二郎)はいまどうしているのか。学研の『科学』と『学習』はなぜ学校内で直接生徒に販売できたのか」
これらの疑問は、かつて自分自身が抱いた疑問ばかり。「これは面白そうな本だな」と、わたしの胸は高鳴りました。
第1章『『冒険王』と『少年チャンピオン』」では、極度のスランプに陥った手塚治虫に「ブラック・ジャック」を描かせて完全復活させた「少年チャンピオン」(秋田書店)の編集者・壁村耐三を取り上げ、著者はこう述べています。
「秋田書店の編集者たちは、皆、怒鳴られ、殴られ、蹴られ、コンパスを投げつけられても、壁村耐三を語るとき、真底嬉しそうな顔をする。こんな師弟愛を私はうらやましく思った。壁村耐三こそ、少年漫画の主人公を地で演じた男だった。『ブラック・ジャック』、『ドカベン』、『魔太郎がくる!!』(藤子不二雄A)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)、『キューティーハニー』(永井豪)、『恐怖新聞』(つのだじろう)、『百億の昼と千億の夜』(原作・光瀬龍/作画・萩尾望都)、『750ライダー』(石井いさみ)、『エコエコアザラク』(古賀新一)、『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら)……。壁村編集長率いる『少年チャンピオン』は1977年5・6合併号で、少年誌初の200万部を突破、遂に少年誌トップに躍り出た」
わたしは小学生時代に「少年ジャンプ」と「少年チャンピオン」を毎週定期購読していましたので、当時のチャンピオン黄金期のラインナップを見て、なつかしかったです!
第2章「『少年画報』と『まぼろし探偵』」では、「1963年の躁状態」として、以下のように書かれています。
「東京オリンピックを目前に控えた1963年という年は一種の躁状態にあった。この年、大人の読み物から伝播して少年漫画誌で戦記物が大ブームとなり、漫画も付録も軍事物が氾濫した。終戦から月日がたち戦火の忌まわしい記憶が薄れ、零戦や大和、紫電改といった兵器物が少年たちのメカニック好きの嗜好を刺激したのだろう。そう、私にとって太平洋戦争ははるか大昔の出来事であったが、1963年は終戦からわずか18年、いまよりもずっと戦火の匂いが残っていたのだ」
わたしも1963年生まれなのですが、日本社会が躁状態にあったなんて、まったく知りませんでした。1963年は終戦からわずか18年であり、今よりもずっと戦火の匂いが残っていたというのです。
元フォーリーブスの江木俊夫も、戦艦上の海兵の恰好をして「少年画報」1964年1月号の表紙になっています。当時の江木俊夫は超売れっ子の子役で、「少年画報」1964年8月号では、巨人軍の3番、4番を打っていたON(王、長嶋)の2人をバッターボックスに迎え、江木少年がキャッチャーとして構えている豪華版です。しかし、このどちらも、現在の江木俊夫は憶えていませんでした。著者は「よっぽど特殊な体験でないと、記憶に残らないんでしょうね?」と本人に向かって言い、以下のように述べます。
「江木俊夫が最も特殊な体験だったであろうある悲劇について語り出した。1961年2月14日、映画「激流に生きる男」に出演する予定だった江木俊夫は昼休み、主演の赤木圭一郎に誘われてゴーカートに一緒に乗ろうとした。『小林(旭)さんに、「昼ご飯食べなきゃだめだよ」って言われて、連れていかれた。その18秒後に赤木さんが乗ったゴーカートがドン! だから。あのままだったら俺、死んでたもん』トニーこと赤木圭一郎は日活撮影所で起きたゴーカート事故による硬膜下出血のため21歳の若さで死去した」
いやあ、「マグマ大使」にも出演した江木俊夫の子役としての人気のすさまじさも凄いですが、この体験も特殊すぎるというか、凄い話ですね。
第3章「『科学』と『学習』」では、「公職追放の元校長を販売部長に」として、以下のように書かれています。
「発行元の学習研究社(学研)は、終戦の翌年4月、福岡県出身の創業者・古岡秀人が起ち上げた。小倉師範学校(現・福岡教育大学)を卒業し、小学校教師を務めた後に小学館へ入社、終戦後、東京都大田区南千束で学習研究社を創業、男性5名、女性2名の小所帯からはじまった。出版と教育事業に情熱を燃やす古岡秀人社長は、東急地上線の長原駅近くのそば屋を間借りして事業を始めた。吹けば飛ぶような小さな出版社だったために、取次店が相手にしてくれない。出版業界というのは、分業体制で成り立っている。出版社が企画編集した雑誌や書籍は印刷・製本会社で製品化され、取次店に通され全国の書店に配本される。大量消費社会を前提にする資本主義下において、一気に商品を消費地に届けることができる流通こそ肝心になる。取次店を通すことができない学研はスタート時点ですでに最大のピンチに直面していた。しかし、ピンチは時にチャンスに転じる。終戦直後、軍国主義に荷担していたとみなされ、公職追放された校長たちがたくさんいた。古岡秀人社長は元校長たちに目を付け、子どもの教育に役立つ本の普及に同志として力を貸して欲しいと協力を求め、彼らを『学習』の販売部長として各小学校への営業を委託したのだ。元校長の営業は絶大な威力を発揮し、『学習』は学校内で児童に直接販売する直販制度をとり、順調に売れた」
わたしも母校の桜ケ丘小学校で、いつも『科学』と『学習』を買うのが楽しみでした。『科学』のほうはもっぱら付録だけが目当てで、内容は『学習』だけを読んでいたように記憶しています。なつかしいですね。
第6章「『豆単』と『でる単』」では、「1700万部以上売る驚異的ロングセラー」として、こう書かれています。
「『豆単』の正式名称は『英語基本単語熟語集』、発行元は旺文社。『赤尾の豆単』とも呼ばれ、旺文社の創業者赤尾好夫が編纂した暗記用の英単語集であり、1942(昭和17)年の初版から21世紀の現在も9度目の改訂を経て現役である。71年間(2013年当時)で累計1700万部超(!)という驚異的ロングセラーだ。『試験にでる英単語』、通称『でる単』(関西以西ではもっぱら『しけ単』と呼ばれていた)も1967(昭和42)年初版から現在に至る46年間で累計1500万部以上というこれも超弩級のロングセラーである」
わたしは高校時代に『豆単』の存在は知っていましたが、収録語数が多いのと、訳語が多いのと、編集が古臭い感じなので馴染めず、もっぱら受験時には『しけ単』を使っていました。『しけ熟』(『試験にでる英熟語』)も愛用していました。なつかしい思い出です。著者は説明します。
「『試験にでる英単語』が画期的だったのは、ABC順に並んでいた英単語集ではなく、重要度順に並べ替え、原則として一単語一訳語に絞り込んだことだった。さらに豆単が3800語だったのに比べ、『でる単』は1800語に絞った。(中略)『豆単』の最初がAdeはじまるabandon(見捨てる、断念する、ゆだねる)だったのに比べ、『でる単』の最初は、intellect(知性)という一訳語に絞られていた。abandonよりはintellectのほうが知的で抽象度が高く、長文読解の語彙としては重要な単語だと実感できた。しかも覚える訳語はひろつでいい」
第8章「『ノストラダムスの大予言』」では、光文社から祥伝社へと渡り歩いた伊賀弘三良が『ノストラダムスの大予言』『日本沈没』という日本出版史に残る1970年代の二大ベストセラーを担当したことが紹介されます。伊賀と同期だった櫻井秀勲は、「あの男は世界でも稀有な部数を出したんですよ。1年間で出した総部数が1千万部。彼にかなう編集者はいません。『ノストラダムス(の大予言)』を出した1973年に、小松左京に9年間かかって書かせた『日本沈没』が側にいた光文社から出て大ベストセラーになっていますから(380万部を超えた)。しつこいというかすごいというか、それを置き土産にして光文社を退社したんです」
二大ベストセラーについて、著者は述べます。
「『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉は昭和4年生まれ、『日本沈没』を書いた小松左京は昭和6年生まれ。両者を担当した編集者の伊賀弘三良は昭和3年生まれ。いずれも昭和一桁世代である。この世代は10代の思春期のときに、親や教師が8月15日を境に180度主張を反転させた姿を目撃してきた。国家、体制に対してどこか不信感を持っている。1973年の2冊の大ベストセラーも、いまの泰平を信じるな、という昭和一桁世代からのニヒルな警醒の書ではなかったか」
「おわりに」で、著者は以下のように述べています。
「本書ではベストセラーの作り手による、ベストセラーの極意とでも言うべき金言を収録することができた。
『ベストセラーを作るのは、目に見えちゃダメなんだよ。目に見えないけど、無いと困る本こそベストセラーになる。だから空気なんだ。空気は目に見えないけど吸わないと死んじゃう。それが本当のベストセラー』(「試験にでる英単語」著者・森一郎)
『タイトルが一番大事。(タイトル会議は)しつこくやれ、著者だけでなく社内的にも』(伊賀弘三良・祥伝社社長)
『雑誌は格調が必要。床の間が必要、そういうのがあればあとは何をやっても様になるんだな』(島地勝彦・週刊プレイボーイ元編集長)
ベストセラーの要諦がここにある」
最後に、著者はこう述べるのでした。
「物書き稼業をしてきた私の第一番のテーマがある。芥川龍之介、太宰治といった文豪の白黒写真につくキャプションに、『1人おいて』という記述が目に付く。1人おかれてしまった人物の人生を追うのが、私が自分に課したテーマであった。そして『1人おいて』いかれてしまった人物の多くが、編集者である。今回、黒子であるべき編集者でも、1人おかれてしまった人物を特定して記録することに努めた。ベストセラー書に人間の顔をつけたかったのだ」
この視点には「うーん、さすが!」と唸りましたね。
本書には知らなかったことがたくさん書かれていて勉強になりましたし、なによりも、物心ついてから本ばかり読んできたわたしにとって、これまでの人生を振り返ることができました。ますます本が好きになりました。