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No.1825 プロレス・格闘技・武道 『実録・国際プロレス』 Gスピリッツ編(辰巳出版)
2020.01.27
『実録・国際プロレス』Gスピリッツ編(辰巳出版)を読みました。ストロング小林、サンダー杉山、グレート草津、ラッシャー木村、マイティ井上、アニマル浜口、寺西勇、剛竜馬、阿修羅・原らが活躍したプロレス団体について証言したインタビュー集で、624ページの大冊です。
本書の帯
本書の帯には、「今、埋もれた昭和史が掘り起こされる―。パイオニア精神で突き進み、最果ての地・羅臼で散った悲劇の”第3団体”」と書かれています。また、アマゾンの「内容紹介」は、以下の通りです。
「プロレス専門誌『Gスピリッツ』の人気連載『実録・国際プロレス』が遂に書籍化! 今から36年前に消滅した”悲劇の第3団体”に所属したレスラー及び関係者(レフェリー、リングアナ、テレビ中継担当者)を徹底取材し、これまで語り継がれてきた数々の定説を覆す。あの事件&試合の裏側では何が起きていたのか……驚愕の事実が続出するプロレスファン必読の一冊。今、埋もれた昭和史が掘り起こされる――」
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに」
「国際プロレス~設立から崩壊までの軌跡~」
ストロング小林
マイティ井上
寺西勇
デビル紫
佐野浅太郎
アニマル浜口
鶴見五郎
大位山勝三
稲妻二郎
米村天心
将軍KYワカマツ
高杉正彦
マッハ隼人
長谷川保夫(リングアナウンサー)
菊池孝(プロレス評論家)
石川雅清(元デイリースポーツ運動部記者)
森忠大(元TBSテレビ『TWWAプロレス中継』プロデューサー)
茨城清志(元『プロレス&ボクシング』記者)
田中元和(元東京12チャンネル『国際プロレスアワー』プロデューサー)
飯橋一敏(リングアナウンサー)
根本武彦(元国際プロレス営業部)
遠藤光男(レフェリー)
門馬忠雄(元東京スポーツ運動部記者)
「はじめに」の冒頭は、以下のように書きだされています。
「『インターナショナル・レスリング・エンタープライズ(IWE=通称・国際プロレス)』は、日本プロレスの営業部長だった吉原功とアメリカで活躍していた日本人レスラーのヒロ・マツダによって、1966年10月に設立され、81年8月に興行活動を停止したプロレス団体である」
最後の年となる81年は、日本マット界にとって大きなターニングポイントだった。国際プロレスが崩壊する3カ月半前、新日本プロレスのリングで初代タイガーマスク(佐山聡)が鮮烈なデビューを果たしたのである。以降、金曜夜8時に始まるテレビ朝日の中継『ワールドプロレスリング』でタイガーマスクの試合が映し出されるようぬなると、華麗な四次元殺法に魅せられた少年たちが会場に殺到し始めた。これは国際プロレスをリアルタイムで知らないファン層が一気に増えたことを意味する」
また、当時の新日本プロレスブームについて、こうも書かれています。
「団体崩壊後、新日本プロレスに乗り込んだラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の『新国際軍団』は、アントニオ猪木と抗争を展開し、ファンの憎悪を一身に集めた。この時期の新日本プロレスは『黄金期』と称されるが、タイガーマスクとはまったく異なる立ち位置で視聴率&観客動員に貢献したのが、この3人だったことは言を待たない」さらには、外国人選手について、以下のように書かれています。
「”鉄人”ルー・テーズ、”人間風車”ビル・ロビンソン、 “大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアント、”プロレスの神様”カール・ゴッチ、”狂乱の貴公子”リック・フレアー、”爆弾小僧”ダイナマイト・キッド、”暗闇の虎”初代ブラック・タイガーなど国際プロレスを通過した著名レスラーは数多い。つまり団体崩壊後にファンになった世代でも、どこかで『国際プロレス』に触れているのだ」
そして、ジャイアント馬場とアントニオ猪木(BI)がエースを務めた日本プロレスや新日本プロレスや全日本プロレスが「本流」だとしたら、国際プロレスは最後まで「傍流」であったとして、以下のように書かれるのでした。
「力道山門下ながら、BIの入門2日前に日本を発ち、海外マットに活路を求めたマツダ。幹部と意見が合わず、日本プロレスを飛び出した」吉原功。そんな2人が創った団体だけに、初めから『傍流』であることを運命づけられていたのかもしれない。しかし、『本流』だけを追いかけていると、見えてこないこともある。国際プロレスを抜きに昭和のマット界の全体像は掴めないというのもまた事実であり、BIを主軸にせずに日本のプロレス史を深く掘り下げたのが本書である」
1967年9月11日、TBSが「来年1月から国際プロレス中継をレギュラー番組として放映する」と発表。団体運営の主導権を握ったTBS側は、従来のマツダのルートでは日本プロレスに対抗する大物外国人選手を呼ぶのは不可能と判断し、4年前に日プロと絶縁していたグレート東郷に協力を依頼。これに態度を硬化させたマツダは、国際プロレスからの撤退を決意。外国人昇平ブッカーの権限を独占した東郷は、まず当時カナダの大プロモーターだったフランク・タニーと連絡を取ってTWWA(トランス・ワールド・レスリング・アソシエーション)なる新団体を設立し、”鉄人”ルー・テーズを初代世界ヘビー級王者に認定しました。さらに同年12月には団体名を国際プロレスから『TBSプロレス』に改称すること、海外で修行中だったグレート草津とサンダー杉山の凱旋帰国決定も発表されました。
「我々の力をもってすれば、スターは分単位、秒単位で作ってみせる」と自信満々に豪語するTBSは、この旗揚げ戦でスター候補生の草津をTWWA世界王者テーズに挑戦させる。だが、1本目で草津はテーズのバックドロップを食らって失神。2本目開始のゴングが鳴っても立てず、そのまま試合放棄となり、2-0のストレート負けを喫しました。こうしてTBSが描いていたシンデレラ・ストーリーは無残な結果に終わったのでした。その後、国際プロレスのエースは外国人のビル・ロビンソンを経て、ストロング小林が務めました。この小林をはじめとする多くのレスラーの証言によれば、草津という人は酒ばかり飲んでいて練習しない、相当な怠け者だったようですね。
1974年、国際プロレスのエースだったストロング小林が退団します。彼はフリーランスとして活動していくことを宣言し、さらに馬場と猪木に対して挑戦を表明したのです。この小林の動きと連動するかのように、TBSは国際プロレスのテレビ放映打ち切りを決定します。小林の挑戦を猪木が受諾したことから、両者の一騎打ちが3月19日に蔵前国技館で行われることになりました。「力道山vs木村政彦以来の超大物日本人対決」として大きな話題を集めますが、結果は猪木がジャーマン・スープレックスで勝利しました。
「初めて触れたアントニオ猪木というレスラーの印象は?」という質問に対して、小林が以下のように答えています。
「最初の試合は、猪木さんの方がやりにくかったんじゃないかな。僕はそういうのは感じなかったね。ただ、試合中に1発(顎にパンチ)もらって全然わかんなくなった。夢を見ているような……脳震盪が起きたんじゃないかな。あのパンチの意味は、何なのかわからないけどね。2戦目(同年12月12日=蔵前国技館、猪木が卍固めでレフェリーストップ勝ち)はビデオで観ると、僕の方が有利だったね。この試合の前にはニューヨーク(*当時はWWWF、79年にWWFに改称)でずっと上を取っていて、チャンピオンのブルーノ・サンマルチノとも試合をして金を稼いでいたし、”俺の方が上だ!”という気持ちだったから、試合中は、猪木さんを引っ張っているような感じだったよ」
話は1968年に戻りますが、4月開幕の「日・欧チャンピオン決戦シリーズ」に、ヨーロッパ・ヘビー級王者の”人間風車”ビル・ロビンソンが初来日して、日本のファンに衝撃を与えます。ロビンソンは若手レスラーの指導もしましたが、当時の思い出を寺西勇が「ロビンソンは最高だったね。丁寧な指導で、あとはあの人の試合を観て勉強すればいいわけだから。ロビンソンと試合をして、”お前、凄く良くなった。イギリスに来いよ”と言われた時は嬉しかったな。国際時代の一番の思い出は、ロビンソンと戦ったことになるかな」と語っています。
「ロビンソンは、通常の試合では使わないような技術も教えてくれました?」というインタビュアーの質問に対して、寺西は「運、関節の決めね。試合で”いざ!”という時に仕える技術を持っているのが俺らにとっては一番大事でしょ。他の団体に行ったりとかした時にね。新日本プロレスに上がった時もそうだし、ジャパンプロレスとして全日本プロレスに上がった時もそうだしさ。実際、”もうセメントでやっちゃえ!”って話になったこともあるしね。だから、相手を極める関節技を知っているのは大事ですよ」と答えます。
また、1971年に1度だけ参加したカール・ゴッチについての印象を聞かれた寺西は、「ロビンソンは柔らかいけど、ゴッチはカタイ(笑)。ロビンソンは流れるような試合展開で、テクニシャンだったでしょ。でも、ゴッチは自分本位だから、自分の思い通りにやらないと気が済まない。強引というか、無理やり自分の流れに持っていっちゃうの。それにロビンソンと比べると、不器用だった。俺の中では、ガイジンのベストはロビンソンになるね」と答えています。
じつは、千葉の富津に住んでいた父方の祖父が大のプロレス・ファンで、居間に置いてあったテレビで身体を震わせながらプロレス中継を観ていましたが、それが国際プロレスでした。わたしが小学校の低学年で田舎に遊びに行っていたとき、祖父と一緒にテレビ観戦した記憶があります。第3回IWAワールドリーグ戦で、ゴッチとロビンソンとモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)の3人が優勝を争っていました。そこでゴッチとロビンソンのシングル戦が行われたのですが、どう見ても、ゴッチよりロビンソンのほうが強そうでした。結局、そのリーグ戦はロシモフが優勝したことも憶えています。
国際プロレスといえば、アニマル浜口を忘れることはできません。「プロレスは肉体はもちろんですが、心の部分も鍛えないとファンを感動させるレスラーにはなれないですからね」と言うインタビュアーに対して、浜口は「僕にとって大きいのは、プロレスが人気絶頂の時代に自分でそれを経験しているし、見ているということなんですよ。そういう時代を知っている人間じゃなければ、プロレスラーの本当の魂は伝えられないと思うんです。だから、僕はまだ死ねないんですよ」と語っています。
続けて、浜口は以下のように語るのでした。
「昔はね、100キロというのがプロレスラーのひとつの基準だったから、僕も無理して食って必死に身体を作った。いまの人には”無理して食べて、内臓を壊したらどうするんですか?”と言われるかもしれないけど、そうじゃないんですよ。山本小鉄さんは、亡くなる直前でも身体をパンパンに張らせていたじゃないですか。プロレスラーはゴツくて、強くて、人がやれないことをやるんだ、というプロレスラー像を貫いた心意気は素晴らしいと思います。プロレスラーというのは不思議でね、徹底して馬鹿になることも必要だし、狂うことも必要。その一方ではピエロというかね……華やかなんだけど、一抹の寂しさを帯びているというか、そういうところも必要なんですね。スターなんだけど、背中に哀愁を帯びている。それがプロレスラーだと僕は思うんですよ」
まさに、そんなプロレスラーが国際プロレスには揃っていたように思います。外国人レスラーもテーズ、ゴッチ、ロビンソン、ゴーディエンゴ、アンドレ、フレアー、キッドといった正統派の大物はもちろん、マッドドッグ・バション、ジプシー・ジョー、オックス・ベーカー、アレックス・スミルノフ、キラー・カール・クラップ、キラー・ブルックスといった悪役レスラーたちも個性派がたくさんいました。すでに故人となったラッシャー木村、グレート草津、剛竜馬、阿修羅・原らのインタビューが掲載されていないのは残念ですが、多くのレスラー・関係者の証言で当時の国際プロレスがわたしの心に蘇った気がします。