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2020.05.30
29日、東京都が確認した新型コロナウイルスの感染者数は22人。20人を超えるのは、今月14日以来だそうです。「東京も大変だな」と思っていたら、第2波が襲来したとされる北九州市では、なんと26人でした。参りました。
『疫病と世界史』上・下、ウィリアム・H・マクニール著、佐々木昭夫訳(中公文庫)をご紹介いたします。1974年に書かれた本ですが、翌75年に黒死病の伝播について訂正されています。著者は1917年カナダ・ヴァンクーヴァ生まれ。シカゴ大学で歴史学を学び、1947年コーネル大学で博士号取得、同年以来、長い間シカゴ大学で歴史学を教えました。現在では引退し、コネティカット州のコールブルックに在住しています。シカゴ大学名誉教授。著者の本を読むのは、一条真也の読書館『世界史』で紹介した名著以来です。
上巻の帯
上下巻ともにカバー表紙には骸骨が描かれ、上巻の帯には「今ここにある危機を乗り越えるために」「『世界史』のマクニールが解き明かす」「感染症と人類の攻防」「紀元前500年から期限1200年まで」と書かれています。
上巻のカバー裏表紙には、「アステカ帝国を一夜にして消滅させた天然痘など、突発的な疫病の流行は、歴史の流れを急変させ、文明の興亡に重大な影響を与えてきた。紀元前500年から紀元1200年まで、人類の歴史を大きく動かした感染症の流行を見る。従来の歴史家が顧みなかった流行病に焦点をあてて世界の歴史を描き出した名著。(全二巻)」との内容紹介があります。
下巻の帯
下巻の帯には、「現代までの感染症の歴史」「人類は、いかに克服したか」「疫病に焦点をあてたマクニールの世界史」「期限1200年以降」「巻末に『中国における疫病』を付す」と書かれています。下巻のカバー裏表紙には、「かつてヨーロッパを死の恐怖にさらしたペストやコレラの大流行など、歴史の裏に潜んでいた『疫病』に焦点をあて、独自の史観で現代までの歴史を見直す名著。紀元1200年以降の疫病と世界史。『中国における疫病』を付す。詳細な註、索引付き(全二巻)」との内容紹介があります。
本書の「目次」は以下のようになっています。
上巻
「謝辞」
「序」
「序論」
第一章 狩猟者としての人類
第二章 歴史時代へ
第三章 ユーラシア大陸における
疾病常生地としての各文明圏の間の交流
紀元前500年から紀元1200年まで
「原註」
下巻
第四章 モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変
紀元1200年から1500年まで
第五章 大洋を越えての疾病交換
紀元1500年から1700年まで
第六章 紀元1700年以降の医学と
医療組織がもたらした生態的影響
付録「中国における疫病」
「原註」
「訳者付記」
「文庫版訳者付記」
「索引」
「序」では、今日の飛行機による旅行が、疾病の均質化の過程を加速させ続けているとして、著者は「その意味するところは、あるひとつの新しい、そして特に適応のうまくいった感染症が出現すると、それはまたたく間に地球全体に広がるということだ。インフルエンザ・ウイルスはそうした性質を持ち、ほとんど毎年新しい変種を進化させているから、まさに典型的と言えるが、ほかにも普通はまだ同定されていないウイルスが沢山あって、われわれ人類を絶え間なく苦しめている。ヒトの(そしてヒト以外の)疾病が異常なスピードで進化しつつあるのは明らかで、その理由は単に、われわれ人類の行動の変化が、異なる系統の微生物間の交雑をかつてないほど容易にしているということであり、一方、奔流のように次から次へと生み出される新しい医薬品そして殺虫剤の、厳しく様々に変化する攻撃を受けて、感染微生物の側も存亡の危機にあって抵抗を続けているということである」と述べています。
著者によれば、植物も動物もこの疾病均質化の過程をわれわれ人類と共にしているといいます。おそらく、各地の野生動物のポピュレーション(訳註 ひとつの種の生物の群れ。また群れに属する個体の総数)が最も危険にさらされているのだろうと推測しています。その理由は簡単で、「スピードを増し激化している地球大的な人間の往来がもたらすいくつかの感染症に、彼らは今まで出遭ったことがないから」です。その他にも、部分的にあるいは完全に人間の活動によって生息地に様々な変化が生じ、野生の動植物のポピュレーションに影響していますが、著者は「すべてをひっくるめて言えるのは、孤立した多くの種の大量絶滅という事態であり、長い年月の間にその結果がどうなるのか、われわれには予見することが出来ない」と述べています。
そして、著者は「われわれは依然として地球のエコシステムの一部であり、食物連鎖に参加し、それゆえ、様々な植物や動物を殺して喰らい、一方われわれの身体は、多種多様の寄生生物に対し、食い物に満ち溢れた沃野を提供している。地球のエコシステムにいかなる変化が起ころうとも、人類のこの本質的条件は変わらない。たとえわれわれの知識と行動が進歩して、病気の発生を防ぎ、食べ物の種類が豊かになろうとも関係ない」と述べるのでした。
「序論」では、「若干の基本概念」として、著者は以下のように述べています。
「疾病や寄生という現象は、生物界全般にわたって、重要な役割を演じている。ある生物体にとっての食物獲得の成功が、そのままその宿主にとっては、いまわしい感染あるいは発病を意味するのである。そしてあらゆる動物が食物を他の生物に依存している。人類も例外ではない。食物の獲得という問題と、これまで人類の共同体が採ってきた種々様々なその方法とは、経済史でおなじみの題目である。ところが、どうすれば他の生物体の食物にされないですむかという問題はそれほどなじみ深いとは言えない。それは要するに、人類はごく初期の段階で、ライオンやオオカミなどの大型肉食動物を恐れなければならない理由が、あまりなくなってしまったからである。にもかかわらずわれわれは、大部分の個々の人間の生命を、病原体による微寄生と大型肉食動物による巨寄生のはざまで、辛うじてつかの間の無事を保っているに過ぎない存在として捉えることができる。そしてこの後者の代表格は、古来一貫してほかならぬ人間仲間に決まっていた」
病気とは何か。それは社会的・歴史的産物としての概念であると見る著者は、「言葉が社会的・歴史的産物であるように、広い意味で病気という概念そのものもそうなのである。昔の聖者の中には、今日のアメリカ人が出会ったなら精神病院に送り届けてやりたくなるに違いないような人物も、歴史の記録に無数に見出せる。逆に、近眼とか嗅覚の鈍麻とかいうことは、われわれにとってはいくらでも健康と両立し得るけれども、狩猟人だったわれわれの先祖たちならおそらく致命的な障害と判断したに違いない。だが、このような多様性にもかかわらず、病気の概念には普遍的な硬い核のようなものがある。身体的不調のために期待された仕事ができなくなった人間は、常に仲間から病気と見なされるだろうということである。そしてこの身体的不調の多くが、寄生生物との遭遇から生じる」と述べています。
第一章「狩猟者としての人類」では、アフリカで猖獗をきわめている蠕虫や原生類の寄生生物の多くは、免疫反応を生じさせないことが紹介されます。血液中に抗体を形成しないのですが、この事実は、きわめて精妙で自律的な生態的バランスが保たれることを可能にするとして、著者は「つまり、ヒトの数が増えると感染の度合いも高くなる。人口密度が高くなるに従って、寄生体が宿主から宿主に移動する機会が増大するのだ。そこで、ある決定的な限界を突破すると、感染症は奔流のように過剰感染となって爆発する。こういう、疫病の名に値するような状況は、通常の社会活動を阻害する。慢性の疲労、身体の痛み等の症候は、共同体全体に広がった場合、食物の獲得とか、出産、子育てなどの活動に重大な障害となる。これは直ちに人口の減少を招き、やがて、その地域の人口密度は、過剰感染が発生する危険度以下に低下してしまう。その後、この感染症に侵されない元気な個人が増えるにつれて、人間社会は活力を取り戻し、食物獲得やその他の活動が以前の通り繰り返され、やがて別な感染症が力を振るい始めるか、人口密度が危険な一線を突破して過剰感染が再発するまで続く」と述べています。
人類は地球上で覇者となりましたが、このように、一種類の大型動物が地球全体に展開するということはそれまで一度もなかったとして、著者は「人類がこの離れ業をなし遂げたのは、大幅に異なる種々様々な自然環境のもとで、熱帯生まれの生物たる彼らが生存できるような、ミクロの環境を作り出すことを覚えたからである。各種の衣類と家屋の発明ということがその秘訣で、これが極端な気候から人体を隔離し、氷点下での生存さえ保障したのだ。言葉を換えて言えば、様々な環境に対処する文化的適応と発明が、生物的適応の必要度を軽減してしまったわけである。そこで、地球上の陸地の主要部全体を通じて、生態系のバランスのうちに、破壊性をその本質とし、かつ変動してやまないひとつの重大な要素が導入されることになった」と述べるのでした。
第二章「歴史時代へ」では、著者は以下のように述べます。
「ちょうどよい程度に病気にかかった社会、つまりウイルスとバクテリアによる感染症が風土病として恒常的に根を下ろし、絶えず感受性のある個体に侵入して抗体を形成し続けるといった社会は、単純にして健康な社会と対比するとき、疫学的に言ってこれまた恐ろしく強力な存在なのである。それゆえ、強大な軍事的政治的組織を拡大してゆくことになるマクロ寄生は、バクテリアとウイルスによるミクロ寄生と合した時、ヒトのポピュレーションが生み出す生物学的防衛機能を、有力な援軍として持っていると言える。要するに、戦争と疫病には単なる比喩以上の深い関係があるのであり、悪疫はしばしば軍隊と共に、あるいは軍隊のあとに付いて行進したのだ」
著者によれば、旧世界の主な文明のすべてが、都市文明の発生期から紀元前500年までの間に、それぞれ独自の、ヒトからヒトへうつる感染症のひとそろいを備えてしまったということは、記録上のあるいは考古学上の決定的証拠は欠くものの、確実と思われます。そして著者は、「生活用水を通じて、あるいは昆虫を媒介とし、また直接の皮膚の接触等によってうつる感染症も、住民が密集した都市、それにかなりの人口密度の近郊農村地帯に、大規模に広がっていた。このように、病気に侵されていると同時に病気への抵抗力をもっている文明圏の住民は、それほどの恐ろしい感染症群に馴れていない隣人たちにとって、生物学的に危険な存在だった。この事実のおかげで、文明圏の住民は、おのれらの領土の拡張を、その条件が無かったと仮定した場合に比べ、はるかに容易に実行することができた」と述べるのでした。
第三章「ユーラシア大陸における疾病常生地としての各文明圏の間の交流」では、2世紀のローマに起こった疫病について言及しています。ローマにおける疫病の突発は、決して史上初めての事件ではないとして、著者は「リヴィウスは、共和制時代に、紀元前387年のそれを皮切りに少なくとも11回の悪疫の災厄があったことを記している。紀元65年にもローマ市は悪疫に見舞われた。だがそれらの体験も、紀元165年からローマ帝国全域に広がった疫病の前には色褪せる。これは、最初メソポタミアでの軍事行動から帰還した軍隊によって地中海世界にもたらされ、その後数年のうちに全帝国に伝播した。この悪疫の正体は、天然痘あるいはその祖型ではないかとこれまでしばしば言われてきたが、実際のところ、例によって、現存するどんな病気にも当てはまらない。そして、少なくとも15年間猖獗を極め、毎年毎年異なる地方に突発し、時には、かつて一度侵した都市に舞い戻ってくることもあった」と述べています。
また、著者によれば、ローマ帝国の境界内で継続的に人口が減少していった理由のひとつは、重大な未知の悪疫の発生・流行が繰り返されたことであるといいます。「その規模において、紀元165~180年のアントニヌス朝時代の疫病と完全に比肩し得る新しい流行が、251年から266年にかけてローマ世界を襲った。この時の方がローマ市で報告された死亡数ではむしろ多い。最盛期には1日5千人が死んだとされている。そして、地方の人口が受けた打撃は、前の大流行の際よりもむしろ大きかったと信ずべき理由がある」というのです。
ここで、著者はきわめて重要なことを述べます。
繰り返される蛮族の侵入、それに伴う都市の荒廃、職人たちの地方への逃散、読み書きのわざを含めて様々な技術の衰微、国家行政機構の崩壊――、これらが、西ヨーロッパにおけるいわゆる暗黒時代の、誰でも先刻御承知のしるしであることは明らかですが、時を同じくして、キリスト教の発展と確立が、旧来のもろもろの世界観を根底から一変させることになったというのです。著者は「キリスト教徒が同時代の異教徒に対して持っていたひとつの大きな強みは、悪疫の荒れ狂っている最中であろうとも、病人の看護という仕事が彼らにとって自明の宗教的義務だったことである」と重要な指摘を行います。
このキリスト教の宗教的義務について、著者は述べます。
「通常の奉仕活動がすべて絶たれてしまった場合には、ごく基本的な看護行為でも致死率を大きく引き下げるのに寄与するものである。例えば食べ物と飲み水を与えてやるだけでも、体が衰弱していて自力ではそれを手に入れることができず、空しく死を待つほかなかった病人を、快方に向かわせることが大いにありうるのだ。そして、こうした看護によって一命を取り留めた者は、以後、自分の命を救ってくれた人びとに対する感謝の思いと温かい連帯感を抱き続けるであろう。だから、災厄的な疫病は、ほとんどすべての既存の諸制度が信用を失墜したまさにその時代にあって、キリスト教の教会を強化する結果をもたらした。キリスト教徒の著述家たちはこの力の源泉をよく意識していて、異教徒が病人を避け無情にも見捨てて逃げる悪疫流行の日々に、キリスト教徒がいかにお互い同士助け合ったかを誇らしげに記している」
さて、当時の数世紀間におけるローマと中国の歴史には、さまざまな類似の現象が見られるとして、著者は「中国の帝国行政機構は220年漢王朝の滅亡とともに崩壊した。大草原からの蛮族の侵入と統治の細分化がそれに続き、4世紀には中国の北方諸州の覇権を争って16もの群小国家が対峙した。この極度の政治的分割状況と時を同じくして、317年における天然痘とはしか、あるいはそのいずれかの中国への到来と推定される出来事があった」と述べています。また、宗教史の面でも、ローマと中国の間には驚くべき並行現象が見られるとして、「仏教は1世紀に漢帝国に浸透し始め、間もなく高い階層に信者をどんどん増やしていった。仏教が宮廷内の諸集団において公的な支配力を持ったのは、3世紀から9世紀にも達する長い期間だった。明らかにこれは、まさに同じ時期、ローマ帝国においてキリスト教が勝ち得た成功と並行している」と指摘しています。
さらに、仏教について、著者は以下のように述べます。
「キリスト教と同様、仏教も、現世の苦しみを人びとに対して納得いくよう説明することができた。中国に根付いた形の仏教は、近親の多くを失って生き延びた人びとや暴力と病気の犠牲者に対して、ローマ世界のキリスト教と同様の心の慰めを与えたのであった。言うまでもなく仏教はインド生まれの宗教だが、インドという国は、もっとおだやかな気候帯に位置する諸文明と比較すると、病気の発生率が極度に高かったはずである。そしてキリスト教も、寒冷の人口希薄な土地に比べれば常に感染症の発生が著しかったイェルサレム、アンティオキア、アレクサンドリアなど大都市の環境において形成された。つまり、そもそも誕生の当初から、この2つの宗教はともに、病気による突然の死を人間の生の重要な事実のひとつとして扱わねばならなかった。そこで、両者ともに死を苦しみからの解放と説き、死こそ、祝福された者だけが集まり地上で受けた不当な仕打ちや苦痛が充分に償われる至福に満ちた死後の世界への、喜ばしき入り口であると教えたのは、なんら驚くに当たらないのだ」
では、日本ではどうだったのでしょうか。
日本列島は13世紀になって、中国のそしてその他文明世界の疾病パターンに、ほぼ追いつきました。しかし、それに先立つ600年もの間、繰り返される疫病流行のために日本は、世界のもっと人口密度が高くまたあまり孤絶していない場所に比較して、恐らくずっとひどい被害を受けたとして、著者は「列島の人口が、天然痘とはしかというような恐るべき殺戮者を恒常的な小児病として根付かせてしまうだけの規模に達する以前には、この2つあるいはそれ以外の似たような感染症はほぼ1世代ごとに到来し、繰り返し日本の人口に深い傷を与え、列島の経済的・文化的発展を根底から阻害したのであった」と述べています。
第四章「モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変」では、地上で最も古く、また最も広く偏在している細菌である結核菌について言及されます。結核感染の危険は、人類の出現よりはるか以前から存在していたとして、著者は「石器時代やエジプト古王朝時代の人骨も、結核に侵された痕跡を残すことが、調査の結果分かった。もっとも、肺結核に侵されていた証拠となると、ことの性質上きわめて乏しいのは当然である。現代の諸条件のもとでは、都市的環境が結核菌の伝播に最も好都合である。見知らぬ他人同士が頻繁に接近し、咳やくしゃみで感染が人から人へと移行しやすいからである。もちろん、町という存在は西ヨーロッパで1000年ごろから次第に重要性を増していたが、14世紀よりかなりあとになっても、ヨーロッパ大陸のあらゆる地方で、町の住民が人口に占める割合はごく低かった。だから中世に町が発展した事実は、ハンセン病が肺結核に取って代わられたという推定を説明するには、まるで不充分なのである」と述べています。
興味深かったのは衣料についてのくだりです。
黒死病の大流行の後、ヨーロッパ人の間で感染の道筋を変えた病気は、1つではなく2つありました。その原因について、著者は「皮膚と皮膚の接触が生じる度合いは、住民一般とくに貧しい階層が衣類と燃料を充分に手に入れることができるかどうかに、大きく左右される。冬に暖かい衣料が無く、居住空間を暖める燃料にも事を欠く場合、体の熱を保つ唯一の方法は、特に冬の夜、皆がかたまって体を密着させ合うことしか無い。13世紀に西ヨーロッパの多くの地方で森林がひどく乏しくなったとき、農民が冬の夜の厳しい寒さを生き延びるには、これがただひとつ残された尋常な手段だったであろう」と述べています。
ところが、14世紀に大勢の人間が死んだため、1400年には、1300年に比べ同じ地理的スペース内で生命を保つ手段を見出さなければならなかった人は、40パーセントも減っていました。著者は「平均すればこの事実は、木材と羊毛がそれだけ多く出回るようになったことを意味する。さらに、気候が寒冷化して14世紀にははっきり冬の気温が下がったので、体を寄せ合うくらいでは体温を維持するに足りず、13世紀の暖冬のころよりもはるかにちゃんとした衣類を身に付けなければならないことになったのだ」と指摘しています。
さらに、著者は衣料と疫病との関係について述べます。
「毛織物の供給が増えたことは、一面、シラミと南京虫にとってまことに好都合だったろうから、発疹チフスのような病気が蔓延しやすいことになった。発疹チフスは1490年、ヨーロッパ各国の軍隊に大きな打撃を与える形で初めて出現したと見られている。もうひとつの大事な副産物は新しくたしなみの観念が生まれたことで、誰もが常に体の大部分を覆って生活しなければならなくなった。周知のように、16、17世紀には、新教国と旧教国とを問わずあらゆる国でピュリタン的風潮が一斉に強まり、性も他の肉体的機能もできるだけ隠蔽することを目指すようになった。これは裸体を隠すに足るだけの衣服が貧困者にも行き渡り得ることを前提とする。このような運動がしきりに進められたということ自体、1347年以後のヨーロッパで衣料が事実豊かになったに違いないという筆者の最初の推定に対する、間接的ではあるが有力な証拠なのだ」
ヨーロッパはペストによって大混乱に陥りました。時と共に、大混乱は次第に鎮静していきましたが、それでも、ヨーロッパ全体の文化と社会に、2つの大きな価値の転換が生じたことがはっきり認められました。それは絶えず更新される恐るべきペスト体験と深い関連を有するとして、著者は「ペストが猖獗を極めているときには、完全な健康を保っている人物が24時間も経たないうちに悲惨な死を遂げてしまうということはざらにあった。このことは、世界の神秘を説明しようとする人間のいかなる努力をも、疑わしいものとするに足りた。トマス・アクイナス(1225~74年)の時代を特徴づける主知的神学への信頼は、このような試練に耐えて生き延びることができなかった。気まぐれで説明のつかぬ破滅をも視野に入れた世界観だけが、ペストの冷厳な現実と両立し得た。常に一部の少数者の間でのことではあったが、刹那的享楽主義、また諦観的ないくつかの異教の哲学の復興は、共に当然の反応だった。だが、それよりずっと一般的かつまともとも言えたのは、澎湃として起こった神秘主義の潮流で、これは、説明も予測もできぬ、深刻で純粋に私的なやり方で神との霊的合一を目指すのである」
それから、儀式も大きな役割を果たしました。
教会の既存の儀式と聖礼典の手法は、前代未聞のペストの出現に対処するにはあまりに不充分で、むしろ信仰心をぐらつかせる結果を広げるほどだったとして、著者は「14世紀には大勢の僧侶が死んだ。そして後継者たちはまだよく訓練されていず、しかも彼らが相手にしなければならなかった群衆は、公然と敵意をむき出しにしてくることこそなくとも、これまでになく冷笑的になってしまった連中だった。ペストが或る人間を斃し他の者を見逃すその不条理のうちには、神の正義など到底求むべくもなかった。秘蹟によって神の恩寵を授ける通例の儀式は、たとえ聖別された高僧が生き残っていてそれを執り行った場合でも、高致死率の感染症と突然の死の統計学的気まぐれには、心理的にとても釣り合いの取れるものではなかった。もちろん、反教権主義はキリスト教のヨーロッパで何ら新しいことではなかったが、1347年以降、これはより公然とまた広い範囲に浸透してゆき、後代のルターの成功を準備するひとつの要因ともなった」と述べています。
拙著『儀式論』(弘文堂)において、わたしは儀式の役割について、不安定な「こころ」に「かたち」を与えて安定させることだと訴えましたが、本書を読んで疫病流行の際にも儀式が大きな意味を持ったことを知りました。
すなわち、著者は「致死率の高い悪疫の繰り返しにも心理的に充分対抗できるだけの式次第とシンボルが出来上がったのは、主として対抗改革運動の時代に入ってからだった。聖セバスティアヌスは、初期キリスト教の数世紀間に、昔のアポロ神の属性の多くを既に身に集めていたが、ペストの予防を目的とするカトリックの儀式では聖セバスティアヌスへの祈りが中心となった。矢に射抜かれた瀕死の聖人は、その死がペスト感染の見えざる矢による死の象徴とされ、宗教芸術でも描かれることが多くなった。もう1人重要な聖人は聖ロクである。彼は聖セバスティアヌスとは全然違う性格の聖人で、公的な慈善行為と看護活動のお手本であり守護聖人だった。そうした行いは、ペストに曝されることの最も多い地中海ヨーロッパの諸都市で、ペスト流行の打撃を和らげるものだったのだ」と述べるのでした。
儀式を重んじるのは宗教の信仰者が代表的です。
彼らは聖地を訪れる「巡礼」という行為も重視します。第六章「紀元1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響」では、巡礼という行動は疫病の流行を引き起こす点で戦争と同列であるとして、著者はこう述べています。
「病気は神慮によるとする教義は、病気を避けようと意識的に用心するのは神の御意志を妨げる不敬な行為であるという解釈を導きやすい。それにもともと、巡礼の旅に出ることの意義は、聖なるものを求めて敢えて危険を冒そうとするにあった。途中で死ぬとすればそれは神慮であり、斃れた巡礼を神は地上の生の苦しみから救い出され、御許へと運ばれるのである。こうして、病気と巡礼は心理的にも疫学的にも相補うものとなる。戦争についても同じことが言えよう。そこでは、自分にせよ敵にせよ突然の死を遂げることが、そもそも事が起こされた目的の中心なのだ」
こうして、習俗や信仰には、人間の共同体を病気から守ってくれそうなものが一方にあれば、他方には病気の突発を招来し接触させるたぐいのものもあるといった具合でしたが、ごく最近まで、医学の理論と治療法はこの矛盾し錯綜した行動様式の編み目にぴったりと納まっていたといいます。「つまり、或る療法は効果があり、或るものはなんの効果もなく、また或るものは、熱病に対して広く行われた瀉血のように、ほとんどの患者にとって害を与える一方だった。民俗的な方法と同じで、医学理論もひたすら経験主義的かつ極度に教条主義的だった。わずかばかりの有名な書物に記載された教義が、動かすべからざる権威あるものとして扱われた」と、著者は述べます。ヨーロッパとイスラム世界におけるガレノスとアヴィケンナ、インドにおけるチャラカがそれであり、中国では、数人の著者の書物が正典としての地位を分けあっていました。実際の経験によって得られた知識も、そうした理論に合わせて解釈され、治療が施されたのです。
わたしは儀式の研究が専門なので、どんな本を読んでいても、そこに関心が集中するのですが、本書にも儀式に言及しているくだりが多々ありました。1700年以前の何世紀もの間、中国を初めとするアジアの各地で種痘が人口増に大きく影響していたとしても、それは飽くまで民間の習俗に属する事柄であり、人類が到る所で作り出し、素朴かつ巧妙な多種多様の神話で正当化してきた衛生上の習慣や規則と同類だったとして、著者は「当然ながら小アジアの民間療法でも、ヨーロッパ人が研究し始めるころまでには、人痘種痘という単純な施術にさえ一連の神話と祭儀がたっぷり付着していた。種痘を受ける人物は天然痘を購う者であるとされ、取引きを有効にするため、種痘を施す人物に祭儀的な贈り物をしなければならなかった」と述べているのです。
また、種痘は親指と人差し指の間に施したのでその痘瘡ははっきりと誰の目にも見え、その人物は以後、一種の儀礼通過者として遇されることとなったとして、著者は「儀式全体は一種の演じられた商取引きの観を呈したというが、民衆レベルで種痘の普及したのが隊商のメンバーを通じてだったということは、誰でも容易に理解できよう。隊商を組む貿易商人たちは、天然痘への防御ができていればはっきり有利だったからである。だから、種痘が普及していった地方では、彼らが最初まずそれを耳にし、自ら試み、隊商交易が長距離通商の主な形をなしていたユーラシアとアフリカの各地に、民間療法としての種痘を広めていったであろうことは、容易に想像できる」と述べています。
今回の新型コロナウイルスによるパンデミックにおいては、WHO(世界保健機関)が重要な役割を果たしていますが、本書はWHO誕生に至る歴史にも言及しています。正式で公的な性格の国際医療組織の創設は1909年にさかのぼります。「国際公衆衛生局」(International Office of Public Hygiene)がこの年パリに設立され、ペスト、コレラ、天然痘、発疹チフス、黄熱病の発生を監視することになったのです。「衛生局」はまた、ヨーロッパ諸国に共通の衛生規定や隔離検疫制度を決定しようとしました。さらに、20世紀の2度の大戦の間に、国際連盟は保健部門を設けました。そこではいくつかの特別委員会が、マラリア、天然痘、ハンセン病、さらに梅毒などの世界における発生状況について討議しましたが、この時期のもっと大きな成果は、ロックフェラー財団によるマラリア・黄熱病制圧の事業でした。その後1948年には、新たにもっと野心的な「世界保健機関」WHOが設立されました。著者は、「国連当局の大きな援助を受けてWHOは、世界のいかなる発展途上の地域といえども、その地方の行政当局が協力を惜しまない限り、最新の医学の恩恵に浴させる仕事を開始した」と述べています。
さらに、過去2、3世紀間の真に驚くべき成果を考えれば、予期しなかった飛躍的進歩が再び実現し、現在考え得る限界を超えて可能性の幅を広げるということが、起こらないとは決して言えないとして、著者は「いつの日か、産児制限による生の統制が死の統制と見合うようなことになるかも知れず、そうなれば、人間の数と資源との間の安定した均衡が見えてくるかも知れない。だが現在のところ、また近い未来にあっても、人類は地球という惑星がいまだかつて経験したことのない巨大な生態的大変動のさなかにある。だから、遠くない過去におけると同様、ごく近い未来に予想されるものは、決して安定などではなく、ミクロ寄生とマクロ寄生の間の現存するバランスに生じる、一連の激しい変化と突発的な動揺に外ならない」と述べています。
そして本書の最後で、著者は「過去に何があったかだけでなく、未来には何があるのかを考えようとするときには常に、感染症の果たす役割を無視することは決してできない。創意と知識と組織がいかに進歩しようとも、寄生する形の生物の侵入に対して人類がきわめて脆弱な存在であるという事実は、覆い隠せるものではない。人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるであろう」と述べるのでした。これは、新型コロナウイルスに苦しめられている現在の人類へのメッセージにほかなりません。
「訳者付記」の冒頭を、佐々木昭夫氏は「専門の医者が語るところによると、今日人びとが恐れている癌や心臓病は遠からず完全に制圧されるという。その暁に、人類が恐れねばならぬ病気はやはり疫病であり、また、人類がその叡智によって核戦争の危機を乗り越えたとしても、予想もつかぬ突然変異を遂げたインフルエンザ菌が、何十パーセントという高死亡率で人類に襲いかかる可能性は充分にある。人類の手による環境汚染もそうした変異を容易にするだろう、と」と書きだしています。
また、佐々木氏は「文明圏が周囲の小共同体を飲み込んで広がっていくときの大きな要因として感染症なるものに着目し、世界全体の歴史に視野を広げたのが本書である。その際、単に従来見逃されてきた歴史の一面に光を当てるというのではなく、微生物による微寄生としての感染症とともに、軍事的侵略や経済的収奪も人間による巨寄生と見、両々相まって歴史を進めていくという卓抜な創見が、本書を正統な歴史書たらしめていると言えよう」と述べて、本書を高く評価するのでした。
本書を読み終えて、いかに人類の歴史が疫病に支配されてきたかを痛感しました。マクニールには『戦争の世界史』という大著もありますが、まさに疫病と戦争は人類にとって最重要の二大テーマといえるかもしれません。しかし、戦死した人の数よりもはるかに多くの人々が疫病で命を落としたこともまた明らかな歴史的事実です。疫病の発生によって終結が早まった戦争も多く、「唯病史観」とか「史的唯病論」という言葉を思い浮かべてしまいます。すなわち、「唯病論」とでもいうべき概念が成り立つのではないでしょうか。
もっとも「病」は「死」に直結しているので、「唯死論」が次に控えていますが、死なない人間はいないので、問われるべきは「死」ではなく「葬」というのがわが持論です。ということで、最後は「唯葬論」に行き着くのであります。本書には古今東西の多くの疫病の記述がありますが、いずれの時代も死者の埋葬が重要な問題でした。歴史上、疫病で亡くなり、人間らしく埋葬されなかった膨大な死者がいました。現在も、人類は新型コロナウイルスの感染による死者の葬送に苦慮しています。なんとか、亡くなった方々の尊厳を守らなければなりません。本書を読み、その想いを強くしました。