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No.1891 民俗学・人類学 『悪魔祓い』 ル・クレジオ著、高山鉄男訳(岩波文庫)
2020.06.03
わたしが住む北九州市は現在、新型コロナウイルスの第2波の真っただ中にあります。そのような状況の下で、わたしは毎日、疫病と儀式の関係について考えています。そして、「悪魔祓い」というものに非常に注目しています。じつは、わたしは、「悪魔祓い」と「悪疫退散」と「グリーフケア」の本質には密接な関係があると考えているのです。これから、関連する書籍を連日ご紹介していきたいと思います。
まずは、『悪魔祓い』ル・クレジオ著、高山鉄男訳(岩波文庫)を紹介いたします。原著の題名は‟Hai”で、インディオ語で「活動と精力」を意味します。本書はもともと1975年に新潮社からハードカバーで出版されており、わたしはすでにそちらを読んでいました。本書には、インディオの世界をはじめて眼にしたときの驚きと、無文字社会に生きながらも、あらゆる書字言語(エクリチュール)に先行する叡智を保持し、近代人の病である〈所有〉という概念に抵抗するインディオ社会の宇宙観が描かれます。
カバー図版に使われている木彫りの像は、百人隊長の1人をかたどった魔法の棒(パナマ、エンベラ族、高さ77センチ)の頭部です。右下の肉筆はル・クレジオのもので、「タフ・サ、ベカ、カクワハイを病気と死から奪い返すためのこれら3つの段階は、あらゆる創造の小径の道しるべそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟るにちがいない」という意味になります。
カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「西欧世界とはまったく異質な輪郭と色彩をもつインディオの世界認識のありかたを称揚し、ヨーロッパ文明とインディオ社会のヴィジョンの対立をストレートに描く、ル・クレジオの記念碑的著作。失われた土着の宇宙観とその残照を擁護する、現代文明批判の書」
本書の「目次」は、以下の通りです。
タフ・サ――すべてを見る目
ベカ――歌の祭り
カクワハイ――悪魔を祓われた肉体
「図版目録」
「解説」
「タフ・サ――すべてを見る目」では、著者は「声高なあいさつの言葉、呼びかけ、名前で人を呼びとめること、こういうものほどインディオが嫌うものはない。儀礼や親愛のこれらの形はインディオを不安にする。それは必然的にやかましく、ぶしつけなものだから。インディオがどうしても叫ばなければならないときは、声を変えて、鳥や猿の鳴きまねをする。なぜなら、人間の声には、危険と死がこめられているからだ。人間の声は、それだけですでに殺害する。インディオは、沈黙の世界の内側で人生を過ごす。樹木、植物、動物、河、空、昆虫。なにものも語らぬ。ところどころに喧噪の小島がある。祭り、わずかな言葉、歌、太鼓と笛の音。しかし人生の大部分を、インディオは押し黙って、音のない所で過ごす」と述べています。
また、著者は「呪術だけが唯一の演劇である。生活上の動作、言葉、思想などは自由ではない。それらは、共同体意識の高度な監視のもとにある。実際を言えば、一人一人の男や女の目は、たいして重要なものではない。重要なもの、劇的なものは、社会が自分自身に向ける目である。これらの音楽や、歌や、絵や、舞踏や、詩は、それ自身ではなにものでもなく、それらは自由へ通じる道でもない。しかしこれらの表現によって、人間の社会は自分の生きる姿を見、感動し、自らに語りかける。自分を知る」とも述べます。
そして、著者は以下のように述べます。
「要するに変容がなしとげられて、悪霊や呪われたものが、人間の道理に屈服することを承知し、もはや怪異なものはなく、名づけがたいもの、近づきがたいものはなにもなくなったとき、カクワハイ、すなわち悪魔祓いの祭りが完成する。この祭りは、悪霊の力を払いのけて非人間的な世界に追いやり、同時に人間の体に自然の保護を与えるのだ。人間の体を神聖なものにし、以後は傷つけられることのないものにするのだ」
続けて、著者は「タフ・サ、ベカ、カクワハイ。妖術の祭典における知の爆発。表現、人間の言葉、音楽、絵画が突如として燃えあがる。インディオの全生命がそこに向かっていく必然的な燃焼だ。個人の表現と歩調を同じくしつつ、用意され、完成される有効な集団芸術。耐えがたいほどの緊張。人々の身振り、言葉、思念は、しだいに積み重ねられて、ついに創造の陶酔にいたる」と述べるのでした。
「ベカ――歌の祭り」では、著者はこう述べます。
「インディオたちは楽器というものを知らないし、それを欲しいとも思っていない。アコーディオン、横笛、竪琴、それらは輸入されたものだ。インディオたちにとって、本当の楽器は、音楽的でない楽器である。単音の竹筒、穴の2つあいている鳥笛、太鼓、撥。ほら貝、鈴。こういうものによって音楽が奏でられるわけではない。インディオたちは旋律に興味がない。旋律は彼らを退屈させる。旋律は罠であって、自己愛にもとづく。インディオの音楽は、美しくあろうとするものではない。それはただ他の声との唱和のうちにある1つの音である。他の声、すなわち、鳥の鳴き声、吠猿の叫び声、犬やてんじくねずみや大豹(ジャガー)の啼き声。単音の楽器によって、もっと荒々しく、もっとす早いもう1つの言語を人間は発見する」
続けて、著者は「それは人間の言葉を、動物や植物の世界、もしくは悪霊の世界に聞かせる。この言語はもはや論理的なものではない。反復的なものだ。この言語は大いなる変貌をめざす。人間を人間という牢獄から解放してくれるはずのこのような変貌を、人間は心の底では絶えず願っているものだ。人間は、人間たちの祖先が世界を創造したときのあの奇蹟的、かつ神話的な瞬間に近づく。あらゆる存在形態の扇動者として、あらゆる言語の発明者として」と述べます。
また、著者は「人間は自分のつくりだしたものをよく知らない。人間は儀式の力を知らない。もしも知っていたら、もはやあえて音をたてることもなく、言葉は、ただちに喉のなかで消えるだろう。インディオは、音楽によっていかなる知的な作業を行なうわけでもない。音楽はただちに有用なものだ。言葉は、それ自体として認識のうちに固定される必要がなく、それは共通の働き、統一性、絆である。今となっては他にどんな音楽を想像し得ようか。他にどんな詩を想像し得ようか。言葉は個人のためにつくられたものではない」とも述べています。
歌について、著者は「人間の歌は、過去の深みから直接に伝わって来たもので、変貌することも変質することもなしに、時間をよぎって来たものだ。歌は、言葉を話す能力、狩猟の能力、絵、治療のための呪術、木の彫刻、籠作りなどの能力が伝わって来たのと同じようにして、伝わって来たものだ。ある種の細部は、時代から時代へと変化したろう。しかしそれは大したことではない。唯一の歌しか存在しないのである」と述べます。このあたりは、一条真也の読書館『歌と宗教』で紹介した宗教哲学者の鎌田東二氏の著書の内容にも通じます。
歌うことについては、著者は「インディオは、人間が歌うことのできる唯一の存在であることを発見した。鳥は歌いはしない。鳴くだけだ。笛、太鼓、ほらがいなども歌わない。音をたてるだけである。自然に対する人間の力は、ただ言語の力によるだけではなくて、歌の力でもある。歌うとは、音楽を奏することではない。それは理解不能なある言語の助けを借りて、目に見えない世界と連絡することである。声と声が、お互いの声を聞く必要さえもなしにこのようにして結びついてしまう不思議な力。夢想の世界、ひそかな欲望、恐怖、酩酊と死の世界。その世界が、現実とほとんど分かちがたいほどごく間近に、そこにある」と述べるのでした。
「カクワハイ――悪魔を祓われた肉体」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「絵画への憎しみ! 起伏もなければ運動もなく、匂いもなければ、熱もないこれらの凍りついた像。裸の女の死骸や、果物や花や、風景の堆積。これらはなんの役に立つのだろう。どうしようというのだろう。これらは、個人の無力さと支配欲、死への恐怖を証明するためにのみある。創造の力という観点から見れば、人間どうしのあいだには不平等があるという、いとうべき幻想を維持するのに役立っているだけだ。これらの像は、《天才》というこの醜く、滑稽な言葉を、必死で、そして憎しみをこめてくり返している」
また、著者は「インディオが絵を展示せず、独立したものとしないのは、たぶん表徴するということの危険を知っているからである。像は死んだものではない。それは、幽霊と同じで、魔的なものの証拠であり、悪魔憑きを発生させるかも知れないものだ。幽霊を祓うには幽霊をもってするしかない。世界は弱みにつけこみ、いつも様子をうかがっている。世界は、断層や裂け目や欠陥を発見するや、たちまち攻撃の力を発揮して、侵入し、むさぼりつくしてしまう」と述べます。
さらに、著者は「感嘆するとは、白人の愚かしい感情であって、この感情は閉じ込め、無機化し、殺す。インディオは感嘆されるためになぞ、なにもつくりはしない。彼はなにものもひけらかさない。大声で叫びたてたりしない。大仰な身振りは彼を微笑させる。子供っぽいものに見えるのだ。魔的なもの、秘密なもののしるしを、偶像に仕立てあげようとはしない。象徴は存在しないことをインディオはよく知っている。痕跡があるだけなのだ」と述べるのでした。
「解説」の冒頭で、訳者の高山鉄男氏は述べています。
「かつてはマヤ、インカなどのすぐれた文明を残したインディオも、いまではアメリカ大陸の『山や砂漠に遁れ、森の奥深くに隠れつつ』(ル・クレジオ『メキシコの夢』)、少数民族としてひっそりと暮らしているにすぎない。だが、古い習俗と信仰は、いまなお確かなものとして受けつがれている。本書『悪魔祓い』は、このようなインディオの生活と習俗に捧げられたオマージュである。と同時に、インディオ世界の対極にある現代文明への批判を記したものでもある」
ル・クレジオによれば、インディオはつねに神々とともにあって、だれでも、いつでも超自然的なものに触れることができるとして、高山氏は「インディオの生活が呪術的なものによって支配されているとはそういうことである。死は生の終わりではなく、生の成就である。なぜなら死によって、人間はふたたび聖なる宇宙と合体するからである。生と死は、対立するものではなく、互いに補いあうものだ。また、人間は自然と対立するものではなく、自然に依存している。自然とは聖なる神の世界なのだから」と述べます。
そして、高山氏は「人間にとって、地上の時間は、超自然の永遠の時間の一部をなすもので、現代人にひろく見られる死への不安をインディオは知らない。要するに、ル・クレジオがインディオ文化に見たものは、絆であり、調和である。すなわち人間を宇宙に結びつける絆、人間と神々を結びつける絆、人間と人間との絆、人間と時間との調和、人間と自然との調和である。それは現代の技術文明のもたらした孤独と断絶の対極にあるものにほかならない」と述べるのでした。本書は読み進むうちに「人間とは何か」という問いとその答えが断続的に浮かんでくる魔術的な書物でした。多くの図版も美しかったです。