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No.1895 宗教・精神世界 『ザ・ライト―エクソシストの真実―』 マット・バグリオ著、高見浩訳(小学館文庫)
2020.06.14
『ザ・ライト―エクソシストの真実―』マット・バグリオ著、高見浩訳(小学館文庫)を紹介します。一条真也のハートフル・ブログ「ザ・ライト」で紹介した映画の原案です。原作ではありません。映画は、本書からインスパイアされて作られたフィクションです。著者は、サンディエゴ生まれ。1996年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で英文学の学士号を取得。ライターとして活躍した後、2000年に伊ローマに活動の拠点を移す。2005年から3年に渡り米国人神父やエクソシストたちに取材を重ね、2009年に本書『ザ・ライトーエクソシストの真実ー』を発表、高い評価を得ました。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「二十一世紀のいま、”悪魔憑き”の犠牲者はイタリアだけで年間五十万人以上にものぼるという。その悪魔に心身を蝕まれていく人々を救うため、ヴァチカンでは、エクソシスト(悪魔秡い師)を養成するための講座が行われている。2005年、米カリフォルニア在住のゲイリー神父は司祭の指示により、講座受講のためローマへ渡った。そして実践法を手ほどきしてくれるカルミーネ神父を訪ねた彼は悪魔秡いの儀式に立ち会い、衝撃的な場面を目にする。知られざるエクソシストの実態を赤裸々に描いた話題のドキュメンタリー。A・ホプキンス主演の同名映画原案」
また、アマゾンの「内容紹介」では、「A・ホプキンス主演映画原案、驚愕の真実!」として、「かつて映画によって日本でも知られるようになったエクソシスト(悪魔払い師)。エクソシズム(悪魔払い)はキリストが12使徒に託した使命であり、儀式としては西暦500年ごろに体系化されたが、実はヴァチカンでは現在もエクソシスト養成講座が行われている。本書はエクソシスト養成講座受講のために留学したアメリカ人神父の1年間を追い、その実態を赤裸々に描いたドキュメンタリー。2005年、カリフォルニア在住のゲイリー神父(当時52歳)は司祭の指示によりヴァチカンに留学、『エクソシズム(悪魔払い)と悪魔払いの祈祷』という講座を受け始める。聖職者のみならず精神科医、看護師、心理学者などさまざまな受講者が参加し、現代的な教室で行われる講座を受けたゲイリー神父は、自分が悪魔払いについての知識をほとんど持っていないことに気づき、文献をあさるようになる。そして、実践法を手ほどきしてくれるカルミーネ神父を訪ねたグレゴリー神父は、実際のエクソシズムに立ち会い、衝撃的な場面を目にすることに……。2011年3月公開予定、アンソニー・ホプキンス主演映画『ザ・ライト -エクソシストの真実ー』原案」と書かれています。
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第1章 ローマ
第2章 天職
第3章 学校に帰る
第4章 なんじの敵を知れ
第5章 扉をひらく
第6章 わが名において
第7章 エクソシストを探す
第8章 最初の夜
第9章 識別
第10章 境界の向こうへ
第11章 転落
第12章 魂の受難
第13章 聖職としてのアプローチ
第14章 魂の窓
第15章 解放
第16章 聖職の再編
第17章 エクソシスト
「著者覚え書き」
「感謝の言葉」
「訳者あとがき」
映画「ザ・ライト」には、2人のエクソシストが登場します。アンソニー・ホプキンス演じるルーカス神父と、コリン・オドノヒュー演じる神学生のマイケルです。2人とも実在の人物をモデルにしており、ルーカス神父のモデルはシチリアで2000回を超える悪魔払いを行い、現在も健在だそうです。また、神学生から神父となったマイケルは、最初は神も悪魔もともにその存在を疑っていましたが、次第に一人前のエクソシストになっていきます。その姿は、ある職業人の成長ストーリーでもあります。
そして、マイケルは葬儀業者の息子であり、父親の手伝いをずっと務めてきていました。いきなり映画の冒頭で、遺体安置所で遺体をきれいに整えるシーンが出てきたので、驚きました。マイケルの父は「おくりびと」でしたが、マイケル自身はエクソシストという「はらいびと」になったわけです。そして、「おくりびと」と「はらいびと」は、とても似た職業なのです。マイケルのモデルはゲイリー・トマスという人物で、本書には実名で登場します。
さて、題名の「ライト」という言葉ですが、その響きから多くの人は「正しい」という意味のRIGHTや「光」のLIGHTを連想するかもしれません。しかし、本書や映画の原題はRITEとなっており、すなわち「(宗教上の)儀式」という意味なのです。もちろん、「儀式」とは人間を「正しい」方向に向ける「光」を当てる営みであると考えることもできますが……。
「プロローグ」で、著者は「現実のエクソシズムとは、ちょうど歯科医の診断を受けるような、ありふれた出来事なのである――待合室でつぶす時間や、次の予約日時が記されたカードのことまで含めて。エクソシズムの儀式ではどういうことが行われるのか、本当にわかっている者はごく限られている」と述べています。
第3章「学校に帰る」では、「エクソシズムの重要性は、ごく初期の洗礼の儀式にはっきり現れていた。そこで洗礼を受ける者は、数日間にわたって悪魔を弾劾しながら――悪魔の弾劾は今日の洗礼においても行われているが――一連の公式の悪魔祓いを受けたのだ。初期のキリスト教徒のあいだでエクソシズムが重要視されていたのは間違いない。ところが時代がずっと下って1960年代に入ると、悪魔の姿をそっくり認めるかどうかをめぐって、”リベラル派”の神学者と”保守派”の神学者のあいだで激しい論争が行われた。教会は元来2つの明瞭な要素、すなわち聖書と伝承を通して真理を規定する。それは教会の教導権によって最終的に決定される。したがって、リベラル派も保守派も歴史的証拠と聖書にもとづく証拠をないまぜにしながら自説を主張した。リベラル派に言わせれば、科学と理性の進歩によって悪魔などもう時代遅れになったのに、教会がいまだに”目に見えない霊”だの、”人格”を備えた悪魔の存在などを信じているのは理解できない、ということになる」と書かれています。
第4章「なんじの敵を知れ」では、デヴィルについて、「全能にして愛に満ちた神の創造した世界に、なぜ悪が存在するのか。その理由を説明する手段として深化してきたのが、悪魔(デヴィル)という概念である。デヴィルという言葉は、ギリシャ語のディアボロスからきている。敵、中傷者、反抗者、という意味だ。紀元前200年にヘブライ語の聖書がギリシャ語に翻訳された際(”七十人訳聖書”として知られる)、ギリシャ人は”告発者”を意味するヘブライ語のサタンの代わりにこの言葉をよく用いた」と述べられています。
紀元前1000年から100年にかけて書かれたとされる『旧約聖書』には、悪魔はほんの数えるほどしか登場しません。登場しても、具体的な形態を持つ存在にはほど遠いです。なぜか。著者は「たぶん、モーゼは”まだ未開の人々に語りかけていた”ので、偽りの偶像崇拝に誘導する恐れのある信仰を広めたくなかったからだろう。トマス・アクィナスはそう推測した。旧約聖書に具体的な悪魔像が登場しないのは、イスラエル人が魔術を厳禁する法律を施行していたからだ、と見る神学者たちもいる。サタンが歴然とした形で現れるのはヨブ記だが、数人の学者が指摘しているように、そこではサタンの名は単なる称号にすぎない。彼はまだ神の宮廷に出入りすることができて、神の代理人、一種の”検察官”として働いているかのようである。その権能において、サタンは神を説得し、ヨブの忠誠心を試すために彼を苦しめる権限を与えてもらうのだ(ヨブ記1:6-12)」と推測しています。
しかし、『新約聖書』になると、悪魔はもっと大きな役割を果たします。著者は、「キリストがこの世に到来する以前、全世界は邪悪なるものに支配されていた。その亀裂を埋めるために、神はただ1人の子を地上に送るのである。マタイ、マルコ、ルカによる3つの福音書は、この見解を明快に、くり返し述べている。神の子はこの目的を果たすため、悪魔の仕業を滅ぼすために、つかわされたのだ」と述べています。
著者はトマス・アクィナスに言及し、「アクィナスの解釈のうち、おそらくエクソシストの聖務にとって最も肝心なのは、天使(もしくはデーモン)は一定の空間を占有できないので、人間のようにある場所に物理的に存在することはあり得ない、という点だろう。逆に言えば、彼らはどこにもいないことになる。一方、デーモンが――たとえば、ドアをばしんと閉めたり、椅子を引きずったりして――物体を動かしている疑いがあるときは、彼が積極的にその物体に働きかけていると見ていいのだ。天使が物質ではないということは、彼らがA点からB点に、何の移行努力もせずに移れることを意味する。彼らはある点から別の点に、瞬間的に活動の場を変えるのだ。この動きを、遠方のものに瞬時に思いをめぐらせたり、脈絡のない事柄を同時に考えたりできる人間の頭脳にたとえた神学者もいる」と述べます。
第5章「扉をひらく」では、オカルトに関する著作もあるバモンテ神父によって、悪魔崇拝には2つの流れがあり、「「1つは”人格派”として知られるグループで、サタンは物理的な存在であると信じている。彼らによれば、サタンは祈りの対象になりうる神であって、もし生贄が捧げられれば、名声や富といった見返りまで授けてくれる。
もう1つの流れは”非人格派”として知られるグループで、サタンはもっと抽象的な力やエネルギーの保持者なのだ、と信奉者たちは主張する。彼らによればサタンは宇宙の一部であり、信仰しだいでより大きな存在に発展し、信奉者たちのために役立ってくれるという」という説が紹介されます。悪魔崇拝の”人格派”、”非人格派”、いずれのグループでも個人の願望が最優先され、”七つの大罪”が祝福されるといいます。バモンテ神父は、「彼らを理解する鍵は、”自分のしたいことをしろ、それが唯一の法則だ”という彼らのモットーを知ることだろうね。共通項はそれだけで、あとはみんなバラバラなんだ」と述べています。
エクソシストたちは、「人が悪魔にとり憑かれる際はさまざまな要素が作用する」と言います。著者は、「最初に留意しなければならないのは、神の許しがない限り悪魔憑きは起こらない、という点だと神学者は指摘する。これは一見矛盾するようだが、教会は次のように説明する――つまり、神はもちろん、人間を苦しめたくはないのだが、善き目的のために敢えて悪魔憑きを許すことがある。たとえば聖人のようにかなり高度な霊的生活を送っている人物に限って、その魂が肉体的な試練を克服して恩寵を得られるよう、悪魔がその人物を試すのを神は見逃すのだという」以下のように述べています。
第6章「わが名において」では、最近、国際エクソシスト協会が、『儀式書』の祈りを忠実に守るように会員のエクソシストたちに警告したことが紹介されます。「『儀式書』の祈りをただひたすらとなえる――それだけに留めたほうがいい場合があるんだ」とグラモラッツォ神父も述べています。また、エクソシストは魔術の儀式と混同されるような流儀でエクソシズムを実施してはなりません。この戒めが重要である理由を、ナンニ神父は「それは魔術を別の魔術で駆逐する、あるいは、悪魔を別の悪魔で駆逐するようなことになりかねないからね」と説明しています。それは教会の信用を失墜させるばかりか、エクソシズムの目的そのものを否定することにも通じてしまうのです。
続けて、著者は「もう1つ留意すべき点として、挑発の問題がある。エクソシズム自体に挑発的な性質を認めて、儀式を実施する際は婉曲な表現を用いるエクソシストはすくなくない。たとえば、エクソシズムという言葉の代わりに、彼らは”祝福”という言葉を用いる。請願者に対し、悪魔にとり憑かれている、とは言わずに、ある種困難な問題に悩まされている、と言う。同じ理由から、儀式の挑発性を緩和するため、祈りをラテン語でとなえる神父も多いようだ」と述べています。
第9章「識別」では、著者は以下のように述べます。
「人がエクソシストを頼る理由はいくつかある。当人(もしくは当人の知人)は、さまざまな問題をすべて悪魔のせいにしたがる。『そう、”あたしのなかには悪魔がいるんです。どうぞ悪魔祓いをしてください!”と訴える人が大勢いるね。その必要がないケースが大部分なんだが』と、カルミーネ神父は言う。
『そういう人たちはえてして、精神のバランスが狂っているか、本を読んだり、映画を見たりして、急に恐くなった連中なんだな。これは実にデリケートな問題で、事実は告げる必要があるけれども、断定的な審判は避けないといけない』
エクソシストたちに言わせると、彼らに会いにくる人々の大多数はこのカテゴリーに入るという。別に悪いところはないのですよ、と彼らにわからせるために、エクソシストは多くの時間を費やす。それは容易なことではないらしい。多くのエクソシストたちを嘆かせるのは、何の問題もない人物に、自分には悪魔が憑いているのかもしれないと思わせてしまう、善意の、お節介好きな人間がいるという事実だ」
著者は、悪魔憑きと間違われる精神障害の例は数多いと指摘し、「だからこそ、エクソシストは儀式に進む前に、精神科の診断を完全に受けてほしいと当人に言う必要があるのだ。が、当人はすでに何人もの医師の診断を受けてきていて、はかばかしい結果を得られなかったというケースがすくなくない。その場合、エクソシストは儀式に進んでいいと判断するかもしれない。しかし、その前に、精神科医、臨床心理士、それに神経医から成るチームの助けを借りて、本当の悪魔憑きかどうかの識別にあたることが望ましい。とはいえ、現実には精神科医ならだれでも協力してくれるとは限らない。偏見を持たずに悪魔憑きという現象に対峙できる精神科医がいてはじめて、協力は可能になる。その精神科医が、同時にカトリックの信徒(もしくはキリスト教徒)であれば、なおいいだろう」と述べています。
偽の悪魔憑きを見抜くためのちょっとしたトリックを考案したエクソシストもいるとして、著者は「本来のエクソシズムでは聖水を用い、『儀式書』の祈りをとなえるのだが、その代わりに普通の水を使って、ラテン語の散文を読みあげるのだ。本物の悪魔なら、普通の水には無反応のはず。だから、たとえば、普通の水を体にかけられた人物が、『熱い、熱い、水が熱い!』などと叫んだら、偽の悪魔憑きと見ていいことになる。いずれにせよ、人が本当に悪魔の攻撃を受ける例はきわめてすくない、とエクソシストたちは見ている」と述べます。
エクソシストたちが一致して指摘するいちばん厄介なケースは何か。著者は、「それは、当人が精神障害と悪魔憑きの双方を背負っている、もしくは悪魔が精神障害と見まがうような徴候を発現させて自分の存在を隠しているケースだ。悪魔が犠牲者の頭脳を攻撃する憑依のケースなどに、それはとくに顕著のようである。バモンテ神父は書いている――”憑依現象が、純粋に病理的な原因で起こる場合がある。悪魔の異常な行動が引き金となる場合もある。それからまた、ふつうなら特に異常とも思われないような固定観念や衝動が、悪魔の異常な活動によって拡大され、当人の心に侵入して執拗に責めさいなみつづける場合もあるのだ”」と述べています。
ときに幻覚や偏執性妄想を伴う幻聴を生むとされているのが、〈統合失調症〉です。著者は「この病いを患っている人は、テレビが自分に話しかけているとか、UFOから信号が送られてくるといった妄想にとらわれる。厳格な宗教的雰囲気の中で育った人なら、こうした”声”を悪魔のものと見なすかもしれない。同様に、〈身体化障害(かつてヒステリーと呼ばれていた症状)〉を患う人々は、これというはっきりした病因もないのに、さまざまな肉体的不調を訴える――吐き気、鬱、さらには聴力の喪失までも。潜在意識は、ありもしない肉体的不調を脳に感じさせることができるのだ。〈双極性障害〉の人々も偏執性妄想にとりつかれることがあるし、気分が――ときに激しく動揺することがある。〈強迫神経症(OCD)〉にかかった人々は、偏執的想念や強迫衝動に苦しめられた結果、ふつうでは考えられないような行動に走ることがある」と述べます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「歴史的に、〈癲癇〉は憑依と関連づけられてきた。〈ジル・ド・ラ・トゥレット症候群〉も同じである。これは、自分の話し方や仕草をコントロールできなくなる病気だが、いまでは、脳内の異常な電気活動によって起こる神経障害が原因だとわかっている。おそらく、悪魔にとり憑かれた、と人に感じさせる最もありふれた現象は〈解離〉だろう。簡単に言うと、〈解離〉とは、本来統合されているはずの心理プロセスがバラバラになってしまうために起きるさまざまな行動形態をさす」
悪魔憑きの科学的解釈としていちばん妥当なのは解離性同一性障害(DID)――かつて多重人格障害(MPD)と呼ばれた疾患――だろう、と考える科学者たちは数多くいるとして、著者は「DIDの特徴は、それにかかった人物が、自分の中には1人、ないしそれ以上の別の人格がいる、と主張するところにある。それらの人格は別の名前と別の声を持ち、個性も、筆跡すらもちがう。記憶をはじめ、当人の意識のさまざまな側面が異なる人格に分け与えられており、それらが自発的に顔を出す。だが、この疾病についてはかなりの議論があって、治療法についても心理療法士たちの見解は割れている」と述べます。
では、DIDはどうして生まれるのか。著者は「その見方は2つに分かれている。1つは伝統的な疾病観に基づくもので、DIDの病因は明瞭だと見る。それは幼児期のトラウマ、とりわけ性的、心理的虐待に対する防衛反応にほかならない、とする。もう1つの見方は社会認知的モデルと言われており、DIDとは、人が一定の目的と制約下で、多重的な役割を演じることから生じる病状とする。その役割とは、社会的な重圧によって生まれ、正当化され、維持されるものなのだ。その場合、人は、あたかも自分の中に異なる人格があるように振る舞うわけである」と述べます。
さらに、著者は「エクソシズムの社会認知的な見方の中で、いちばんわかりやすい解釈の1つは、”ロール・プレーイング(役割演技)”だ。つまり、エクソシスト、悪魔に憑かれた人物、いずれかが悪魔祓いの儀式にたびたび参加するうちに、期待されている振る舞いを演技するようになる、とするものだ。人類学者たちはその具体的な実例を数多く見ている」と述べるのでした。
エクソシズムでは、悪魔のその名を告白させることが最も重要だとされています。しかし、第13章「聖職としてのアプローチ」には、「もっとも、あるイタリア人エクソシストに言わせると、悪魔の名前はさほど重要ではないのだという。それはただ単に、その悪魔が属している”軍団”を意味しているにすぎないというのだ。つまり、ある悪魔が”アスモデウス”を名のるのは、第2次大戦中にG.I.が”おれは海兵隊員だ”とか、”おれはアイゼンハワーの指揮下にいる”とか言うのと変わらないらしい。『重要なのは、彼らが”儀式”に反応して、つい名前を明かしてしまう、ということなのさ』と、そのエクソシストは言う」と書かれています。
エクソシズムとは一発勝負だ、という大きな誤解を世間の人が抱いていることも、ゲイリー神父は知っているとして、著者は「ひとたびエクソシストが『儀式書』の祈りをとなえはじめたら、闘いはそのまま何日もつづき、最後にどちらか一方が倒れて終わる、と大方の人間は思い込んでいる。ペンシルヴァニア州スクラントンで活動するアメリカ人エクソシストは、マスコミとハリウッド映画が広めたこのお手軽なエクソシズムのイメージを評して、”ドライヴ・スルー・エクソシズム”と呼んだ。エクソシストを頼る人々の多くが、そのイメージを抱いているのは驚くにあたらない。彼らの大半は速戦即決を望んでいるのだ」と述べます。
グラモラッツォ神父は、「実のところ、エクソシズムとは旅に似ているんだ」と説きました。その旅の”霊的なリーダー”がエクソシストであって、彼は祈りと秘跡を通して請願者が”神の恩寵を再発見する”手助けをするのだというのです。彼は、「そもそも、人が悪魔に憑かれるのを神が黙認する理由はそこにあるのだ」として、「このメッセージはきわめて重要でね。だからこそ、悪魔から解放されるまでには長い時間を要するのさ。それは、当人と家族と教区、それぞれにとっての、長い信仰の旅にほかならないんだ」と言うのでした。
第15章「解放」では、著者は「人は祈りやエクソシズムのような儀式によって”癒やされる”という考えに、科学界や医学界は長年白い目を向けてきた。しかし、今日では、治癒を目的としたある種の儀式が真正の回復をもたらし得るということに、疑問をさしはさむ者はいない――鬱、異様な常習行為、過度の不安、そして生命を脅かすほどの病気に至るまで、さまざまな問題がその種の儀式を通じて克服された例を、多くの人類学者が記録している。では、この種の”変則的な治癒”を科学はどう説明するのだろうか?」と述べています。
その根底には、”治癒”と”治療”の相違が横たわっているとして、著者は、
『変則的治癒の種類――科学的証拠の検証』の著者、スタンリー・クリップナーとジャンヌ・アフターバーグの「多くの先住民族にとって、”治癒”とは肉体的、精神的、感情的、霊的な能力の回復を意味するのに対し、”治療”とは生物学的な病いを克服することを意味する」という見解を紹介します。
変則的な治療の効果を解明するにあたって、科学者や医師はさまざまな手法を試みてきたと指摘し、著者は以下のように述べます。
「ハイチにおける霊的な憑依現象を観察した学者スティーヴ・ミツラクは、ヴードゥー教の憑依現象は心理療法、もしくは”民間療法”の一種と考えられるという結論に達した。また、『恍惚の宗教――シャーマニズムと霊的憑依の研究』の著者I・M・ルイスは、その種の儀式の”心理的に高揚した雰囲気”が、ある種の神経症や心因性の病気の治療に効果的なのではないか、と述べている。そして、彼はこう付け加えているのだ――器質的な病気の場合でも、その種の儀式は、患者の回復意欲を強めることによって治療効果を発揮するのではなかろうか、と」
続けて、著者は「DID(解離性同一性障害)の患者の治療面では、多くの認知科学者がエクソシズムの持つメリットを指摘している。たとえば、マンツォーニ博士の見解はこうだ――障害の原因は外部の存在であって、病んでいる当人ではないのだ、と指摘することによって、エクソシストは安心感を与える。『それを聞くと――』と、博士は言う。『人は悩みから解放されるのです・・・・・・悪魔憑きから解放されるのも、基本的には神父がセラピストの役割を果たすからなのですね。その人の悪い部分を治療する役目を神父が担うわけです』」と述べています。
DIDの治療法として、エクソシズムと科学的なアプローチを比較すると、エクソシズムのほうがずっとメリットが大きいと言うスティーヴン・ジェイ・リン博士は、「ある意味で、エクソシストの儀式のほうがずっと簡略だと思うのです。西洋医学のセラピストは、患者のすべての潜在意識を把握し、記憶を掘り起こし、それらすべてを統合できないと患者を治療できないと考えています。患者のほうでは記憶をとりもどそうとして多大な心理的苦痛に耐えなければならない。それが真の記憶でない場合は、なおさらです。その点、エクソシズムは患者の膨大な過去の記憶に依存する必要がないので、実に簡略な方法と言えます。ですので、こちらのほうが、患者を助ける上でずっと有効ではないかと思います」と語っています。
そして、著者はこう述べるのでした。
「治癒をもたらす儀式が有益なのは、プラシーヴォ(偽薬)効果のせいもあるのかもしれない。イギリスのプリマス大学の心理学者マイケル・E・ハイランド博士は偽薬効果の広範な研究を行ってきた。が、プラシーヴォ効果による治療のことを、博士はむしろ”儀式的治療”と呼びたいと言う。『プラシーヴォという言葉が、わたしは好きではないんですね。1つには、”偽”と呼ぶ以上、われわれは真の病因を知っていることを示唆するでしょう。そして2つには、この病気のメカニズムのこともわれわれが知っていることを暗示するからです。本当は知らないのにね』」
さて、本書を再読して、わたしはあることを再確認しました。それは、葬儀も悪魔祓いも、ともに「物語の癒し」としての儀式だということです。拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書いたように、葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。大事な人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになりますこれは非常に危険なことなのです。
古今東西、人間はどんどん死んでいきます。
この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心にひとつの「かたち」を与えることが大事であり、ここに、葬儀の最大の意味があります。この「かたち」はどのようにできているのでしょうか。昔の仏式葬儀を見てもわかるように、死者がこの世から離れていくことをくっきりとした「ドラマ」にして見せることによって、動揺している人間の心に安定を与えるのです。
ドラマによって形が与えられると、心はその形に収まっていき、どんな悲しいことでも乗り越えていけます。つまり、「物語」というものがあれば、人間の心はある程度、安定するものなのです。逆にどんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもグラグラ揺れ動いて、愛する肉親の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬式というものはあるのです。
悪魔祓いも、まったく同じです。
悪魔が実在するのか、実在しないのかは置いておくとしても、悪魔が人間に憑依したものとして、周囲の人間は行動しなければなりません。そして、悪魔と対決し、それを追い払う物語を演じる必要はあります。このあたりはブログ『スリランカの悪魔祓い』で紹介した本に詳しいですが、悪魔と対決して追い払ったというドラマを演じることによって、病気だった患者や精神が衰弱しきっていた者が元気になったという実例はたくさんあるのです。葬儀と同じく、悪魔祓いもまた、「物語の癒し」なのです。
実際に、物語は人間の「こころ」に対して効力があります。いや、理論の正しさや説得などより、物語こそが「こころ」に対して最大の力を発揮すると言ってもよいでしょう。葬儀や悪魔祓いの儀式という「かたち」には「ちから」があるのです。いっぽうで、「物語の癒し」といった考え方は、文化人類学や民俗学や心理学といった近代的学問の生んだ概念にすぎず、悪魔は実在するし、よって悪魔祓いとしての「エクソシスズム」も実在すると考える人々もいます。その考えは、宗教的でありオカルト的であるとも言えますが。
最後に、映画「ザ・ライト」の中に印象深いシーンがありました。父親が危篤になったという連絡を受けたマイケルが、すぐに父のもとに駆けつけようとします。しかし、イタリアの火山が噴火したために22カ国の飛行機が欠航となって、彼は父親の死に目に会えませんでした。そして、そのことが彼の大きなトラウマとなるのです。
ここで、わたしは「もし富士山が噴火したらどうなるか?」ということを考えました。富士山の麓には人家がないため、噴火しても人は死なないと言われていますが、その煤煙で飛行機や列車などの交通機関が完全に不通になるそうです。すなわち、東日本と西日本が真っ二つに分断されるわけです。当然、親などの死に目に会えない人も増えてくるでしょう。葬儀という「物語」によって、こころを癒すことができない人も多いでしょう。映画「ザ・ライト」を観て、そんなことを考えました。