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No.1904 プロレス・格闘技・武道 『平成維震軍「覇」道に生きた男たち』 越中詩郎&小林邦昭&木村健悟&ザ・グレート・カブキ&青柳政司&齋藤彰俊&AKIRA(辰巳出版)
2020.06.25
『平成維震軍「覇」道に生きた男たち』越中詩郎&小林邦昭&木村健悟&ザ・グレート・カブキ&青柳政司&齋藤彰俊&AKIRA(辰巳出版)を読みました。一条真也の読書館『私説UWF 中野巽耀自伝』で紹介した本と同じく、「G SPIRITS BOOK」シリーズの1冊です。中野巽耀(当時は龍雄)が活躍したUインターが全盛の頃、新日本プロレスのリングでは平成維震軍が暴れまくっていました。
本書の帯
本書の表紙カバーには赤と黒の地の上に「覇」という字が大きく書かれ、帯には「誠心会館との抗争、選手会vs反選手会同盟、WARとの対抗戦、頓挫した2部リーグ構想、そして、現場監督・長州力と俺たちの関係……」「‟本体”とは真逆の視点から90年代の新日本プロレスを紐解く」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「『おい、お前! ドアくらい閉めていけ!』全ては1991年12月8日、後楽園ホールの控室で起きた‟殴打事件”から始まった――」と書かれています。さらに、アマゾンの「内容紹介」には、「G SPIRITS BOOKシリーズ第10弾は、1990年代の新日本プロレスで人気を博したユニット『平成維震軍』のメンバーによる初の共著になります。小林邦昭&越中詩郎と空手・誠心会館の抗争に端を発し、『反選手会同盟』結成、天龍源一郎率いるWARとの対抗戦、そして『平成維新軍』に改名して独立興行を開催するまでに至る流れを各メンバーがそれぞれの視点から回想。1999年の解散宣言から20年……7人の男たちがあの熱い時代を本音で振り返る!」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の通りです。
「‟維震魂”の轍――まえがきに代えて」
「平成維震軍の軌跡」
第1章 小林邦昭
第2章 齋藤彰俊
第3章 越中詩郎
第4章 青柳政司
第5章 木村健悟
第6章 ザ・グレート・カブキ
第7章 AKIRA
すべては、1991年12月8日、後楽園ホールから始まりました。当時、新日本プロレスに参戦していた空手団体・誠心会館の青柳政司館長はこの日、門下生の松井啓悟を伴って会場に入りました。ところが、その松井が控室のドアを閉めた瞬間、「ドアの閉め方が悪い」と小林邦昭が激昂しました。松井が口答え(一説では、小林の言葉が聞こえなかったので、松井が聞き返したとも言われる)したため小林は殴りつけて制裁。後日、松井の親友だった齋藤彰俊と小林の空手vsプロレスの異種格闘技戦が組まれましたが、齋藤が小林をTKO。これが後に平成維震軍へとつながる全ての発火点となりました。ここでは、7人の発言の中でわたしのハートにヒットしたものをご紹介したいと思います。
こんなことを言うのは大変おこがましいのだが、アントニオ猪木さんが行った異種格闘技戦の中でも本当に殺伐とした試合だったのはモハメド・アリ戦とウィリー・ウィリアムス戦くらいだったように思う。彰俊とは、そうした試合と比べられても、全く見劣りしない異種格闘技戦ができた。ファンの声を聞いても、この初戦と俺がチキンウィング・アームロックで彰俊にリベンジした4月30日の両国国技館の試合が特に記憶に残っているようだ。俺自身がといえば、彰俊との試合自体も忘れられない思い出だが、この直後にかつてライバルだった初代タイガーマスクこと佐山サトルと再会する機会があった。当時、修斗(シューティング)という格闘技を立ち上げてプロレス界とは一線を引いていた佐山に「小林さん、凄い試合をしたみたいですねぇ。俺の周りでも話題になってますよ」と言われたことが今でも強く印象に残っている。(小林邦昭)
普段からベタベタするような関係ではないが、唯一頻繁に会う師匠のカブキさんは「維震軍の時代ほど面白いものはなかった」と言っている。あれほどのキャリアを持つ人がそう言うのだから、やはり長いプロレスの歴史の中でも稀有なユニットだったのではないだろうか。蝶野さんが立ち上げたnWoジャパンはオシャレな軍団だったが、それに対して平成維震軍は「商店街のオヤジの集まりだ」と言われたことがある。その泥臭さが今でも支持を受けている理由なのだとしたら、それはそれで満更でもない。(齋藤彰俊)
95年のG1初日、公式戦で俺は当時IWGP王者だった武藤に勝利した。あいつが仕掛けてきた雪崩式フランケンシュタイナーを俺がそのままパワーボムで切り返した試合だ。3カウントが入った瞬間、セコンドに就いていた維震軍のメンバー全員がリングに上がってきて、彰俊が俺を肩車してくれた。リング上では、「覇」と描かれた旗がはためいていた。
「ああ、景色が違うなあ。高いところはいいなあ」
彰俊の肩の上で、俺はそんな感慨にふけっていた。良き仲間たちに恵まれたと実感した日でもあった。(越中詩郎)
ある日、山本小鉄さんから「青柳、ちょっと来い!」と呼ばれて、こう言われた。「お前、プロレスラーをナメるなよ」
「ナメていません。どういうことですか?」
「バカ野郎! お前、全力で蹴ってないだろう? プロレスラーはな、五段、六段持っている空手家が蹴ったって我慢するんだ。急所以外なら、お前がどれだけ蹴っても壊れやしない。だから、遠慮せずにガンガン行け!」
小鉄さんは、私が蹴りを躊躇しているのを見逃さなかったのだ。「分かりました。押忍!」
私はそう答え、それ以降はレスラーの分厚い胸板に思い切り蹴りを叩き込むようになった。(青柳政司)
平成維震軍は、ある意味で寄せ集めのメンバーだったため年齢もキャリアも出身団体もみんなバラバラだった。例えば越中は維震軍のリーダーだが、年齢もキャリアも俺のほうが上。カブキさんは年齢もキャリアも一番上だったが、後から加わった助っ人的なポジションだったので俺や越中を支える立場に回ってくれた。
もちろん、リングを降りれば、越中は俺を「木村さん」と呼び、俺は「越中」と呼び捨てにしていた。そういった一般社会と同じ先輩後輩の関係、年功序列は守られていたが、リングに上がってしまえば、そんなことは関係ない。みんながそれぞれの立場で、それぞれの役割を果たしていたのが平成維震軍の強みだったと思う。(木村健悟)
平成維震軍は本当に心地のいい空間だった。日本プロレス時代は上下関係で頭を悩ますことが多く、全日本プロレス時代は口うるさい元子さんがいて、SWS時代は自分勝手なレスラーたちによって散々引っ掻き回された。しかし、平成維震軍ではそういた余計なストレスから一気に解放された。メンバーは気を遣わなくていい気さくな連中ばかり。試合になれば、何も言わなくても自分のやるべきことが分かっている仕事人の集まりだ。「俺が! 俺が!」と出しゃばるような奴もいない。54年にわたるプロレス人生の中で最も楽しかった時間を与えてくれた仲間たちには、本当に感謝している。試合をするのはもう無理だが、俺が必要ならばいつでも声をかけてくれ。まだまだ毒霧を噴くくらいなら、お安いご用だ。(ザ・グレート・カブキ)
格闘技志向が強かった90年代の新日本で、平成維震軍のようなユニットが7年間も続いたことは奇跡的なことだったかもしれない。その歴史はプロレスvs空手の異種格闘技戦から始まったが、それはきっかけでしかなく、進退を懸けながら、プロレスならではの、プロレスでしかできないことを全身全霊で向かい合ったユニットが平成維震軍だったと思う。現在の日本のマット界を見渡すと、俺が違和感を覚えていた格闘技路線は時代の流れの中で、ほぼ姿を消してしまった。だが、それとはある意味で真逆に位置していた平成維震軍は今もこうして生き残っている。永遠に正解が見つからないであろうプロレスという難解な世界において、俺はそこに1つの「答え」があるように思えてならない。(AKIRA)
「平成維震軍」という名称は大前研一氏の「平成維新の会」からインスパイアされたそうで、「プロレス界に激震を起こす」「プロレス界を震撼させる」という意味が込められているとか。新日本プロレスの‟平成・黄金期”と呼ばれる90年代に大暴れしましたが、その頃の新日マットはアントニオ猪木こそリタイア同然だったにせよ、長州力や藤波辰爾を筆頭に、武藤敬司&蝶野正洋&橋本真也の「闘魂三銃士」に馳浩&佐々木健介の「馳健コンビ」、それに獣神サンダーライガー&エル・サムライ&金本浩二&大谷晋二郎&ケンドー・カシンといった「新日ジュニア最強戦士」の面々が活躍していました。そんな中でくすぶっていた存在だった小林邦昭・越中詩郎・木村健悟・野上彰・後藤達俊・小原道由らが結成した「平成維震軍」には、レスラー過剰の新日本プロレスにおける別動隊の意味がありました。実際、彼らは平成維震軍として自主興行も行い、WARやUWFインターナショナルなどの他団体にも参戦しています。
別動隊が成立しうるということは新日本プロレスにとっても最も良い時代であったということでしょうね。本書には、当時の平成維震軍の人気を物語るエピソードが2つ紹介されています。1つは、小林邦昭が以下のように語っています。
「後楽園大会の試合後、控室に戻ってきたら、セコンドの彰俊が50万円ほどの札束を握っていた。
『お前、それどうしたんだ?』
驚いた俺たちが聞くと、『いや、知らないオジサンが……』と彰俊自身も戸惑っているようだった。どうやら俺たちの試合を観て、エキサイトした観客がご祝儀として手渡してきたらしい。もしかしたら、後楽園ホールの隣の馬券場で大勝ちでもしたのだろうか。その日の帰り、俺たちは好きなだけ飲み食いし、残ったお金はみんなで山分けした。きっとメンバーの誰もが『そのオジサン、また来ないかな?』と期待していたはずだが、残念ながら我々の前に二度と姿を現すことはなかった」
もう1つのエピソードは、青柳政司が「我々を応援してくれるファンも増え、詳しい日付は忘れてしまったが、確か大宮の会場で思わぬプレゼントをいただいたこともある。会場に来ていたお客さんから渡されたのは、現金100万円。「みなさん、これで食事でも……」という意味合いでプレゼントしてくれたのだと思うが、あまりにも大金だったため私は木村さんに『会社に話しますか?』と相談した。『いや、みんなで分けようよ』だが、木村さんは維震軍のメンバーだけで山分けするのではなく、当日会場にいたリング屋さんや新日本の社員も含めて100万円を均等に分けた。自分たちを裏から支えてくれているスタッフに対し、感謝の念を忘れない木村さんの人間性を垣間見た瞬間だった」と述べています。いやあ、いい話ですね! それにしても、あの頃の新日本プロレスは最高でした!