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No.1916 小説・詩歌 『呪文』 星野智幸著(河出文庫)
2020.07.19
俳優の三浦春馬さんが亡くなられました。クローゼットの中で首を吊って死亡していたそうですが、一条真也の映画館「東京公園」で紹介した映画を観て以来のファンでしたので、かなりショックを受けました。まだ30歳と若く、これからが楽しみだったのに残念でなりません。彼は生真面目な性格で、ネットでの誹謗中傷などを憎んでいたとか。
今年1月、スキャンダルを報じられるなどした有名人に対するネット上のバッシングが激烈を極める現状に「立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか」との思いをツイッターで綴っていました。故人の御冥福を心よりお祈りいたします。
さて、少し前に、ネットでの悪意などをテーマにした小説を読みました。『呪文』星野智幸著(河出文庫)です。著者の小説を読むのは、一条真也の読書館『俺俺』で紹介した作品以来です。著者は1965年ロサンゼルス生まれ。97年「最後の吐息」で文藝賞を受賞してデビュー。『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、『ファンタジスタ』で野間新人賞、『俺俺』で大江健三郎賞、さらに『夜は終わらない』で読売文学賞を受賞しています。
本書の帯
本書の表紙カバーにはどこかの商店街の写真が使われ、帯には「その伝染が、人を殺す――。」「『この本に書かれているのは、現代日本の悪夢である。』桐野夏生氏」と書かれています。カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「さびれゆく松保商店街に現れた若きカリスマ図領。クレーマーの撃退を手始めに、彼は商店街の生き残りを賭けた改革に着手した。廃業店舗には若い働き手を斡旋し、独自の融資制度を立ち上げ、自警団『未来系』が組織される。人々は、希望あふれる彼の言葉に熱狂したのだが、ある時『未来系』が暴走を始めて……。揺らぐ『正義』と、過激化する暴力。この街を支配しているのは誰なのか? いま、壮絶な闘いが幕を開ける!」
「毎日新聞」電子版より
この小説を読もうと思ったのは、毎日新聞が5月28日に配信した「この国はどこへ コロナの時代に 作家 星野智幸さん 『自粛警察』の悪夢」という記事を目にしたからです。記事には、「緊急事態宣言下では、営業を続ける店に対し、度を過ぎた表現で休業を求める張り紙をするなどの『自粛警察』が横行した。そんな報道にふれた時、作家の星野智幸さん(54)は『あたかも自作の世界に閉じ込められたような奇妙な悪夢感を覚えた』と振り返る。星野さんは5年前、小説『呪文』で、寂れた商店街に突如現れた若きリーダーと『正義』を掲げる自警団が街を変貌させていく物語を書いた。今回の新型コロナウイルス禍で、悪夢が現実に、小説は『予言の書』のようになった」
記事には「コロナがもたらしたのは、未知のウイルスへの恐怖や不安感にとどまらない。感染者やその家族への中傷、医療従事者への偏見など、隠されていた排外主義を白日の下にさらした。営業を続ける施設に対する嫌がらせが相次ぎ、『死ね』『潰れろ』といった暴力的なメッセージも目立つようになった。『呪文』のストーリーさながらに――」とも書かれています。自粛警察については、「正義の暴走」や「歪んだ正義」と批判的な見方が大方ですが、彼らがなぜそのような行動に走るのか、その心理状態について『呪文』という小説は見事に言語化しています。物語の舞台となる松保商店街は、「住んでみたい憧れの街ベスト5」にランクインし、おしゃれで感じの良い飲食店がある「夕暮が丘」の隣の駅にある商店街です。どうも「自由が丘」という実在の場所をイメージさせる「夕暮が丘」には店を出せなくても松保商店街なら何とか出せる。そう思って出店したものの、店は定着せずに、次々と潰れます。これは日本全国で見られる光景ですが、そこに救世主ともいうべきリーダーが出現します。
そのリーダーとは、商店組合理事長の娘の夫で、若くして組合の事務局長になった図領という男です。彼は、女性が1人で飲みながら夕食のとれる「麦ばたけ」という上品な居酒屋を経営していますが、事務局長として、潰れていく店舗を継ぐ者を外部から探し出し、店を再生させていきます。それゆえ、商店組合からの信頼も厚いのですが、そこに「佐熊」という客が現れてトラブルが発生します。佐熊は「麦ばたけ」で不当な扱いを受けたことを恨み、「麦ばたけ」および松保商店街を誹謗中傷する文章をネットにアップし、炎上させます。図領のほうも泣き寝入りはせず、ブログを立ち上げて、佐熊のクレームにネット上で反撃します。そのブログの内容や彼の行動は絶賛され、不当なクレーマーに敢然と立ち向かった彼は「現代のサムライ」と呼ばれるようになるのでした。
このあたりは、読んでいて非常にワクワクしました。もちろんネットでの誹謗中傷に反応することにはリスクがあることは百も承知ですが、自分の店や商店街を守るためには戦わなければならないこともあります。わたしもブログを10年以上続けており、それなりのアクセス数もありますが、基本的に他人を攻撃する文章は書かないことにしています。それでも、わが社やわが業界が一方的な誹謗中傷を受けた場合はブログで応戦する態勢はいつも整っています。以前、大手の専門葬儀社の社員が互助会を中傷する内容をブログに書いていたことがありました。その人間の氏名も職場も特定でき、なんとも間抜けなことに彼は某テレビ局の葬儀特集に出演したので顔の画像もバッチリ押さえることができました。
わたしは「さあ、これから退治するか!」と意気込んでいたのですが、社内に「相手にしないほうがいいですよ」と説得してくる者がいて、そのままになっています。その後、彼は葬儀関係の本を出版してまったく売れなかったので意気消沈したのか、ブログの内容もトーンダウンしていきましたが、また変な真似をしたときは、いつでも迎撃ミサイルを発射する用意はできています。ちなみに木村花さんの件もあり、これからは一切、ネットで匿名での発信ができないように法整備をすればいいと思います。名前を隠し、顔を隠すから、みんな平気で卑怯な真似ができるのです。実名でブログを立ち上げ、クレーマーと正面から対決し、喝采を浴びて「現代のサムライ」と呼ばれるようになった図領は、その後も数々の仕掛けを打ち、ことごとく成功を収めます。彼の元にはシンパというか、彼を支持する者が集い始め、彼らによって結成された自警団「松保未来系」が誕生します。
この「松保未来系」の姿が現在の「自粛警察」に重なるのですが、未来系のメンバーの1人である犬伏についての次のような描写があります。
「災害や天変地異、巨大な事故やテロが起きると、犬伏は普段の無気力から一変して活性化するのだった。悲劇のにおいがすると元気になる。それほど、自分は人間が嫌いなのだと思っていた。自ら破壊する行動を取り続ける愚かな人間という種族を、軽蔑していた。戦争などという究極の破壊行動が起こったら、誰よりも忌み嫌いながら、同時に生き生きとするかもしれない。そしてそんな自分こそ、愚かな人類の代表だった。自分が滅びることは、象徴的に人類の滅亡を意味している。だから犬伏は自分が滅亡することを目指していた」(『呪文』P.137~138)
また、未来系の中心人物である栗木田についての次のような描写もあります。
「少々いかがわしい携帯電話の販売店に勤務し、うだつの上がらない仕事ぶりに自分でもうんざりしつつ、でもこれが俺だからと諦めていたが、その日の帰宅時、乗っていた電車が線路上で止まってしまって、車掌からは何の説明もなく30分以上が経ち、車内に怒りが渦巻いたとき、佐熊は突発的に非常コックを使ってドアを開けると線路を走って車掌室に乗り込み、車掌を絞め上げ、停車の理由と見通しを車内放送で説明させたのだった。人生であれほどの充実感と有能感を覚えたことはなかった。こんな取り柄が自分にはあったのかと、生まれ変わったような気分だった。そうして『世直し』に手を染め始めると、自信ができて仕事のほうもほんの少しうまくいくようになった。世直しをしていれば、職場の理不尽は耐えられた。それでにわかに世直しにのめり込んでいった。同じようなことをしている連中が他にも大勢いることをネットで知り、気分の上でつるむために『世直し同盟』を結成した。お互いの手柄を競い合うようにして、世直しを過激化させていった」(『呪文』P.168)
まさに、自粛警察の人々の心情を語っているかのような文章です。未来系の人々は自身が「クズ」であることを自覚し、激しい罵倒による徹底的な自己否定を受けることで覚醒し、その過程で「クズ道というは死ぬことと見つけたり」という金言に行き着くのでした。まるで、かつての連合赤軍を連想してしまいますが、クズたちは最後に救いのないカタストロフィーを迎えます。読んでじつに嫌な気分になる小説ですが、その一方で現在の日本社会を活写していることに驚きます。『呪文』が発表された2015年は、近隣国や在日外国人へのヘイトスピーチが頻発した時期と重なります。寛容さが失われつつある社会に心を痛めた著者は、「悪夢のような未来を避けられたら」と願って本書を執筆したそうです。
また、著者は「極端な形を取った、おぞましい物語を見せることで『そうはなりたくない』と読む人に思わせることを期待した。コロナという病がそれを現実化してしまうなど想像もしていませんでしたが、こうなってみると、意外というよりは『やはり、そうなってしまったか』という感覚の方が強い。この国はヘイトを許す土壌を、長い時間をかけてつくってきましたから」とも毎日新聞のインタビューで語っています。確かに『呪文』は救いのない嫌な結末の物語ではありますが、未来系の人々は自分たちが「クズ」と自覚していたことはまだ救いがあるという見方もできます。ネットで他人を誹謗中傷し続ける匿名の投稿者も、「死ね」「潰れろ」といった暴力的なメッセージを放つ自粛警察も、さらにはコロナの最前線で闘う医療従事者やその家族に対して理不尽な差別感情を抱く連中も、みんな自分の正体が「クズ」であることを自覚する必要があるでしょう。