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No.1917 ホラー・ファンタジー 『小説シライサン』 乙一著(角川文庫)
2020.07.20
19日、東京では新たに188人の新型コロナウイルス感染が確認。4日ぶりに200人を下回ったわけですが、日曜日は休みの検査機関が多く、PCR検査数が少ないので、新規の感染者数も少なくなります。まだまだ油断できません。
さて、「感染」するものといえば、「ウイルス」の他にも「呪い」がありますが、「呪い」をテーマにした『小説シライサン』乙一著(角川文庫)を読みました。著者4年ぶりの完全新作であり、著者が監督を務める映画の原作小説となっています。東日本大震災が発生した2011年の8月の後半に、わたしは一条真也の読書館『夏と花火と私の死体』で紹介した処女作をはじめ、『天帝妖狐』、『平面いぬ。』、『暗黒童話』、『死にぞこないの青』、『暗いところで待ち合わせ』、『GOTH』、『ZOO』、『失はれる物語』、『小生物語』、山白朝子名義で書いた『死者のための音楽』、中田永一名義で書いた『百瀬、こっちを向いて』、『吉祥寺の朝日奈くん』、そして最初に読んだ『箱庭図書館』などで紹介した本を一気に読みました。1978年生まれで、当時33歳だった著者は「現代日本のホラー小説界における若手ナンバーワン」などと呼ばれていましたが、著者の小説を読むのはそれ以来です。
本書の帯
本書の帯には「目ヲソラシタラ、死ヌ。」と書かれた映画のポスターで使われた画像とともに、映画「シライサン」の情報が記載され、「乙一4年ぶりの完全新作は、自身監督作品の原作小説!」と書かれています。この映画は2020年1月10日に公開され、わたしはDVDで鑑賞しました。
本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「親友の変死を目撃した山村瑞紀と、同じように弟が眼球を破裂させて亡くなった鈴木春男。それぞれ異様な死の真相を探る中、2人は事件の鍵を握る富田詠子から、ある怪談話を聞かされる。それは死んだ2人と詠子が旅行先で知った、異様に目の大きな女の話だった。女の名を頑なに告げなかった詠子だが、ひょんなことからその名を口に出してしまう。『お2人は……呪われました』―その日から瑞紀たちの周囲でも怪異が起き始め……」
わたしは原作よりも先に映画を観たのですが、ホラー映画が三度の飯よりも好きな人間として言わせてもらうと、「うーん……」でしたね。主演の飯豊まりえは結構好きな女優であり、彼女の演技はなかなか良かったと思うのですが、ストーリーがあまり怖くなかった。それから、シライサンをモンスターとして画面に映し過ぎだと感じました。本当に怖い対象は、ギリギリまで観客の想像力に委ねるべきであり、あまり堂々と何度も登場されると白けてしまいます。
シライサンはいわゆる悪霊ですが、彼女と遭遇した者はずっと彼女を見ていまければなりません。見ているあいだは大丈夫ですが、目を離すと両目の眼球を破裂させられて殺されます。まるで、彼女には「承認」欲求があるように思えます。それから、シライサンにまつわる怪談を耳にした者は呪われ、彼女の訪問を受けるのですが、怪談を知っている人間が多数いれば、その可能性は小さくなります。つまり、彼女に関する情報を「拡散」し続ければ、呪いを受けるリスクは減少していくのです。
「承認」と「拡散」という2つのキーワードから浮かび上がるのはSNSです。名作「リング」はビデオソフト、「着信アリ」は携帯電話についてのホラーでしたが、「シライサン」はSNSというメディアについてのホラーというよりも、SNSそのもののメタファーとなっているのです。もっとも、【シライサン怪談】のベースは日本民俗学であり、柳田國男が研究した「ベトベトさん」とか「ゴウキさん」といった、1人で歩いていると後ろからついてくる妖怪、「ダイダラボッチ」や「一つ目小僧」などの目が1つの妖怪の民間伝承などが登場人物によって紹介されます。また、怪談が生まれた舞台は「目隠村」という犬鳴村みたいな前近代的な謎の村落となっています。
【シライサン怪談】を語った人物として溝呂木弦という20年前に死亡した民俗学者が登場しますが、この人物が興味深かったです。なぜなら、彼は「地方の習俗、地域に根差した冠婚葬祭の儀式について研究していた人物」だったのです。彼には『結婚と葬儀』(!)と題された著書があり、「F県Y市の山間にかつてあったという村で行われていた葬儀のやり方についてページが割かれている。その村では、死者を火葬する際、両手を合掌の形にして、左右の手を貫くように紐を通し、鈴を取り付けたという。万が一、死者が起きた時に音が鳴って知らせるためらしい。全国的に見ても変わった風習であり、そうした葬儀のやり方から、その土地の死者に対する考えかたが窺える」と書かれています。
興味深い記述ですが、異様に目の大きな女「シライサン」は鈴の音と共に現れます。つまり、この奇妙な葬儀のやり方が「シライサン」という悪霊を生み出しているわけなのですが、これはおかしいと思いました。『唯葬論』(サンガ文庫)の「幽霊論」の中で、「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないとして、わたしは「葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式である。葬儀によって、故人は一人前の『死者』となるのである。幽霊は死者ではない。死者になり損ねた境界的存在である。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけである」と書きました。意図的に幽霊を生み出すことが目的なら、それは明らかに葬儀ではありません。禍々しい闇の儀式に過ぎません。わたしは、そう思いました。
葬儀に関するくだりでは非常に違和感を抱きましたが、グリーフケアに関連する印象深いくだりがありました。わたしには、『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)というグリーフケアの書があり、さまざまな考え方を紹介しましたが、『小説シライサン』に印象深い言葉を見つけました。シライサンの呪いによって眼球が破裂して亡くなった鈴木和人という大学生の部屋で遺品整理をしていたとき、彼の父親が死生学に関する本を見つけ、ページを開くと、そこには「メメント・モリ(死を想え)」と書かれていました。父親はさびしそうな表情で本のページをめくり、その様子を故人の兄である春男が眺めています。弟が死んでも、父はその理不尽さに激高もしなければ、嗚咽して泣くこともしませんでした。かといって父に悲しみという感情が欠落しているわけではなく、昔から淡々としている人でした。春男と和人の母親は彼らが幼少の頃に亡くなっているのですが、「おそらく、母が死んだときに涙が涸れたのだろう」と春男は考え、父に声をかけます。
「お袋が死んだときは、どうだった?」
「おまえは、憶えてないか。小さかったもんな」
父は本を閉じて春男を見る。
象や鯨を思わせる穏やかな目だ。
「大事な人が死ぬと、ひとつだけ、いいことがある。何かわかるか?」
「いいこと? あるわけないでしょ、そんなの」
愛する人の死は悲劇でしかない。それ以外の肯定的な要素なんてあるわけがない。
父は、少しだけ笑いながら言った。その表情からは、同時に悲しみも感じられた。
「あのな、死ぬのが、怖くなくなるんだ。あいつも、死の恐怖を乗り越えて、あの世にいるんだって思うとな、なんか、死を、受け入れられるんだよなあ」
そう言うと父は背中を向けた。和人の本を段ボール箱に詰める作業へ戻る。丁寧に一冊ずつ、表紙についた埃を拭ってから箱に詰めた。ゆっくりとしたその動作を見ていると、何故かわからないが和人の死を悼んでいるのが伝わってきて胸が締めつけられた。
(『小説 シライサン』P.98~99)
ここには、故人の死という冷酷な現実を父と兄が受容する様子が感動的に描かれています。それは、まさにグリーフケアの風景です。グリーフケアという営みの目的には、「死別の悲嘆」に対処することと、「死の不安」を克服することの両方がありますが、ここで父親が語った言葉にはその両方が含まれています。ちなみに、春男は「愛する人の死は悲劇でしかない。それ以外の肯定的な要素なんてあるわけがない」と断言しますが、肯定的な要素とまでは言えないにしても、愛する人の死には悲劇を超えた意味はあります。わたしは、そんな意味の数々を『愛する人を亡くした人へ』にまとめました。8月11日に発売される『死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)の最後には同書について詳しく紹介しています。よろしければ、ご一読下さい。