No.2006 文芸研究 『探偵小説と日本近代』 吉田司雄編著(青弓社)

2021.02.19

『探偵小説と日本近代』吉田司雄編著(青弓社)を紹介します。わたしは幻想文学(ホラー・ファンタジー)、SF、ミステリーが人間の「こころ」に与える影響というものに深い関心を抱いています。本書もその関心から読んだのですが、論考集なので硬めの文章が多かったです。しかし、わたしの知らないことがたくさん書かれており、興味深い箇所も少なくありませんでした。

本書のカバーには宝珠光寿の銅版画が使われており、表紙には「科学的な言説と大衆的な不安とが交差するなかから誕生した探偵小説は、時代をどのように表象してきたのか。近代文学の探偵小説的なるものの系譜を追いながら、魔的で奇怪な物語空間を縦横無尽に論じ尽くす論考集」と書かれています。

本書の「目次」は、以下のようになっています。
序章
探偵小説という問題系
――江戸川乱歩『幻影城』再読(吉田司雄)
1 『幻影城』とうカノン
2 「変格」と「本格」
3 「発見」された「起源」
4 『幻影城』の外へ
第1章
前衛としての「探偵小説」
――あるいは太宰治と表現主義芸術(原仁司)
1 探偵小説と精神分析――佐藤春夫を例として
2 モンタージュ――太宰治と探偵小説(1)
3 モンタージュ――太宰治と探偵小説(2)
4 倫理的課題――探偵小説における「罪」の概念
第2章
近代日本文学の出発期と「探偵小説」
――坪内逍遥・黒岩涙香・内田魯庵(高橋修)
1 坪内逍遥の翻訳探偵小説
2 「自叙体小説」=「探偵小説」の試み
3 黒岩涙香『無惨』の探偵
4 内田魯庵の「探偵小説」批判
第3章
さまよえるドッペルゲンガー
――芥川龍之介「二つの手紙」と探偵小説
(一柳廣孝)
1 芥川と「探偵小説」
2 「二つの手紙」――ドッペルゲンガーと探偵小説
3 さまよえるドッペルゲンガー
第4章
探偵小説と変形する肉体
――谷崎潤一郎「白昼鬼語」と江戸川乱歩「鏡地獄」
(森岡卓司)
1 探偵小説は代行する――江戸川乱歩の探偵小説論
2 身体と他者の痕跡――谷崎潤一郎「白昼鬼語」
3 身体と他者の不在――江戸川乱歩「鏡地獄」
4 探偵の臨界
第5章
砕け散る暗い部屋(カメラ・オブスキュラ)
――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』と電気メディア時代
(永野宏志)
1 精神分析と探偵小説
2 電気仕掛けの語り手
3 情報の寓話(アレゴリー)
4 回転扉の建築
5 電気抵抗(レジスタンス)する読者
第6章
戦後文学としての本格推理
――横溝正史『本陣殺人事件』再考(小松史生子)
1 本陣――「家」をめぐる物語
2 定住への憧憬――戦後住宅事情と「密室」
3 戦後文学としての本格推理――プライベートへの渇仰
第7章
「五〇年問題」と探偵小説
――戦後文学におけるジャンルの交錯(紅野健介)
1 「五〇年問題」とは何か
2 新日本文学界の分裂
3 占領下の文学市場
4 大衆文学の戦後
5 読者と大衆
6 「人民文学」の作家たち
7 『真空地帯』と探偵小説
8 中園英助のスパイ小説
「あとがき」吉田司雄

序章「探偵小説という問題系――江戸川乱歩『幻影城』再読」の1「『幻影城』というカノン」では、工学院大学助教授(日本近代文学専攻)の吉田司雄氏が、「江戸川乱歩の『幻影城』は日本における探偵小説研究のカノン(正典)ともいえる重要な位置を占めている一冊である。江戸川乱歩によって真に探偵小説らしい探偵小説が日本でも誕生したことは周知の事実だろうが、乱歩はまた探偵小説の研究と資料収集の第一人者でもあった。このことは近代日本における探偵小説の歴史を振り返ろうとするとき、ある種の困難を予感させる。最も信頼・重視すべき歴史記述の1つが、その歴史上最も重要な位置を占めるべき人物によって書かれている。それゆえ、資料の自己言及的性格を斟酌しなければならなくなるからである」と述べています。

『幻影城』がカノン化される過程で、乱歩は名実ともに日本の探偵小説の中心人物としてのポジションを確固たるものにしたとして、吉田氏は、乱歩がかつて「不健全派」だの「変格」だのと侮蔑された作品まで「探偵小説」(戦後の木々高太郎の言い方では「推理小説」)とみなされることを嫌ったことを指摘します。乱歩は「探偵問答」において「科学小説は科学小説と呼び、怪奇小説は怪奇小説と呼べばいいので、無理に探偵小説にすることはない」といい、「『抜打座談会』を評す」において「私の過去の作品で云へば、『人間椅子』『鏡地獄』などは変格と云はないで、怪奇小説と名づけて貰ひたいし、『押絵と旅する男』『パノラマ島奇談』などは幻想小説、『虫』などは犯罪小説と呼んで貰ひたい」と注文をつけていましたが、そうはなりませんでした。著者は、「これらの作品は一般的には今日も『探偵小説』として受け取られているように思う。それは日本の誇る『探偵小説作家』江戸川乱歩の代表作だからである。そして『本格』探偵小説との埋めがたい差異を説明するために、かつての否定的ニュアンスを拭い取った、いってみれば安全な用語として、『変格』の一語はなお生きつづけている」と述べています。

第1章「前衛としての『探偵小説』――あるいは太宰治と表現主義芸術」の1「探偵小説と精神分析――佐藤春夫を例として」では、亜細亜大学助教授(日本近代文学専攻)の原仁司氏が、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクや精神分析学の父であるジグムンド・フロイトらの言説を借りながら、「探偵は、夢を分析するように、事件の現場を『さまざまな要素からなるブリコラージュとして』(ジジェク)捉える。ちょうど精神分析医が夢を合成されたものとして、すなわち『心の形成物の集塊として捉える』(フロイト)ように、探偵は、最初に出合った平板かつ有機的な事件の全体像を、懐疑のまなざしによって一度、解体させるのである。解体させるとはいっても、全体像を得る契機を否定するのではなく、事件の細部(部分)にこだわりそれを科学の目で凝視することによって、再び事件における「真の」全体像―核心をつかもうとするのである。したがって事件の細部(部分)は、解体された事件の全体像を再構成し、真相(真実)を引き出すための異化的な手段としてもちいられることになる」と述べています。

原氏は、かつてジョイス、プルーストらの「意識の流れ」を「モンタージュ」と呼びなしたのはエルンスト・ブロッホであると指摘し、「ブロッホは、大戦間に発生した『表現主義論争』において、表現主義のモンタージュを後期ブルジョア芸術から生まれた貴重な「遺産」として評価し、擁護したことでも知られている。彼に限らずドイツ・ワイマール期(1919~33年)に活躍した優れた思想家や批評家――例えばヴァルター・ベンヤミン、ジークフリート・クラカウアーなど――は、こぞって探偵小説を精神分析の理論やアヴァンギャルド芸術(特に表現主義のモンタージュ)との相関性において解釈しようと試みていた」と説明しています。

また、原氏は、「意識の流れ」の用語概念を発明したウィリアム・ジェイムズの「我々が、可笑しいと思うのは、可笑しいという心理があるからではない。可笑しい顔の表情をつくる筋肉の運動があるからだ」という言葉を紹介し、「この言葉は、20世紀の初頭において人間の心理――『内面』が、いかに唯物論的な尺度で理解されつつあったか、その変移をよく象徴している。『即ち心理を無限に遡ぼれば、心理以前に先づ形(外界の存在)があるといふ事に到着するのである。先づ初めに物質がある』と、形式主義文学論争(1928~30年)の掉尾を飾った中河與一もいう。心理を、徹底して合理的に、実証主義的に突きつめていくことと、モンタージュの技法をポストモダンの芸術表象の場に見いだしていくこととは、パラレルな関係だったのである」と述べています。

さらに、1「探偵小説と精神分析――佐藤春夫を例として」では、佐藤春夫は太宰治の作品に探偵小説のにおいを微妙に嗅ぎとっていることを指摘し、原氏は「佐藤の指摘する『読者が進んでこのわなに陥ちて行くように仕掛けられてある』『忌々しい』『トリック』とは、それを探偵小説の法則に置き換えれば、犯人(=作者)が画策するフィクショナルな状況設定――例えば自殺や事故に見せかけるなどの偽装行為――とほぼ同類である。もっとも、探偵小説の犯人のように自分の行為(犯罪)を隠しとおそうとするような目論見は太宰にはない。が、周囲の人間を自分と同じ泥水のなかに引き込むことによって、自分の正体をカムフラージュするような確信犯的な書き方を、彼はたしかにおこなっている。したがって、佐藤のいうように、そこに『書かれていること』(=状況設定)をそのまま真実(=事件の真相)と思い込んでしまえば、すなわちそれは読者(=探偵)の敗北を意味するだろう」と述べます。

その太宰治は、「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉の作品を、「詰め将棋」のように人間の心理を捉えて、その因果関係(心理と行動、行為と動機の関係)を説明しようとする「古くさい」「日記のような」小説だと批判しました。原氏は、「要するに志賀の心理描写、そして独特の『リアリズム』を、科学的な実証性に基づくだけの単純稚拙な小説技法にすぎぬと太宰は応酬したわけである。その志賀への批判の妥当性については、また別に稿を改め再説するとしても、たしかに太宰治という小説作者は、文壇に登場以来、人間の複雑な内面心理が自然主義的『リアリズム』によっては決して十全には描かれぬことを一貫して主張しつづけていた。そして、少なくとも太宰は、この応酬の時点において『探偵小説』を科学的な因果律に基づいて書かれる小説形式であると解釈し、また、人間の『内面』は『探偵小説』のごとき心理解剖によって描かれるべきではないという見方に立っていたことが確認される。彼にとって、客観的なカメラ・アイを駆使して登場人物の『内面』を精細にのぞき込もうとする手法――動機と行為の関係を解析するような心理描写――は、最も嫌厭すべき小説作法だったのである」と述べています。

第3章「さまよえるドッペルゲンガー――芥川龍之介『二つの手紙』と探偵小説」の1「芥川と『探偵小説』」では、横浜国立大学助教授(日本近代文学専攻)の一柳廣孝氏が、以下のように述べています。
「芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫と並べれば、大正文壇のトップランナーたちとまとめてみたくなるが、彼らは同時に探偵小説中興の祖でもあった。例えば江戸川乱歩は、谷崎の1917~20年に発表された諸作品をあげながら『私はこれらの作を憑かれたるが如く愛読した記憶がある。そして私の初期の怪奇小説はやはりその影響を受けているし、横溝君なども谷崎文学の心酔者』だったと述べ、『谷崎潤一郎についでこの種の作風に優れた作家は芥川龍之介と佐藤春夫であった』と指摘していた。さらに乱歩は、大正文壇における探偵小説への関心を象徴する企画として、『中央公論』1918年7月臨時増刊号の『秘密と開放』特集をあげる。その創作欄には『芸術的新探偵小説』という表題のもとに、谷崎潤一郎『二人の芸術家の話』、佐藤春夫『指紋』、芥川龍之介『開化の殺人』、里見弴『刑事の家』の4編が収録された。以後、探偵小説史の文脈において谷崎、佐藤、芥川の3人は特別な地位を与えられ、今日に至っている」

英米における detective story が探偵による謎の解明を主とした小説を意味していたのに対し、日本ではいわゆる怪奇・幻想小説、科学小説、犯罪小説なども「探偵小説」の範疇に収められたとして、一柳氏は「のちに甲賀三郎によって謎解き系が『本格』、怪奇・幻想系が『変格』と分類され、やがて後者の代表的作家として小酒井不木、海野十三、夢野久作らがあげられるようになるが、こうした分類が必要になるほど、戦前の探偵小説のフレームは広かった。したがって芥川を『変格』探偵小説の文脈に位置づけることも、なんら不自然ではない、ということになる」と述べています。

2「『二つの手』」――ドッペルゲンガーと探偵小説」では、明治後期に日本に移入された心霊学の文脈では、死を間近に控えた人間が別の場所に姿を現す例とドッペルゲンガーの関係が論じられているとして、一柳氏は「初期心霊学研究の成果とされるガーニー、マイヤーズ、ポドモア『生者の幻像』(1886年)を援用しながら、ここでは肉体から抜け出した霊魂の動きを、実体化したドッペルゲンガーとして把握する。当時、心霊学がアカデミズムから「新科学」として注目を集めていたことを考えれば、ここにも一定の説得的なコンテクストが生じてくる。心霊学の広範な影響範囲に関しては、19世紀末から欧米の怪奇小説に登場する、いわゆるゴーストハンターの存在が象徴的だろう」と述べます。

アルジャノン・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』(1908年)、ウィリアム・ホープ・ホジスン『幽霊狩人カーナッキ』(1914年)など、この時期には多くの心霊探偵小説が書かれています。一柳氏は、「『超自然』的な事件に対し、科学と心霊学に基づく論理的・実証的な解明をめざす彼らの活躍は、探偵小説の世界に心霊学という解釈コードを持ち込んだ。しかもそれは、科学と固く手を結んでいた。心霊学は科学と連動することで、あらたな「合理」の道を開いたとみなされたのだ。さらに近代日本においては催眠術による暗示療法が注目されていて、大正期にはその発展形ともいうべき霊術が広く受容されていたことも考慮する必要があるだろう」と述べるのですが、これは卓見であると思います。

第5章「砕け散る暗い部屋(カメラ・オブスキュラ)――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』と電気メディア時代」の3「情報の寓話(アレゴリー)」では、早稲田大学非常勤講師(日本近代文学専攻)の永野宏志氏が、江戸川乱歩の『陰獣』と小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を取り上げ、「表象の能力を一手に引き受ける19世紀的探偵のたどり着く先は、『陰獣』が示すように電気通信メディアのグローバルな普及による物語世界からの読者なる分身の離陸という新たな事態だ。このような2つの系が恣意的な関係にある比喩は、古来修辞学でアレゴリーと呼ばれる。『陰獣』と『黒死館殺人事件』はシンボリックというより、アレゴリカルな探偵小説と呼ぶべきだろう」と述べています。ということで、本書は日本近代文学を専攻する研究者たちが探偵小説を多角的な視点から考察した内容となっており、わたしの知的好奇心を満たしてくれました。

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