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No.2032 小説・詩歌 『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ著(中央公論新社)
2021.05.06
今年のゴールデンウィークも終わりです。例年はこの時期に公開される話題の映画をたくさん観るのですが、昨年に続いて今年もコロナ禍で多くの作品が公開延期されました。その代わりといっては何ですが、次回作『心ゆたかな読書』(現代書林)の校正をじっくり行いました。125万部発行の「サンデー新聞」に連載中の「ハートフル・ブックス」で取り上げた本のうち、珠玉の150冊を紹介するブックガイドです。それから、校正作業の合間に小説を読みました。『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ著(中央公論新社)、『自転しながら公転する』山本文緒著(新潮社)、『お探し物は図書室まで』青山美智子著(ポプラ社)の3冊ですが、いずれも女性によって書かれており、2021年本屋大賞にノミネートされています。
3冊とも人生の厳しさと人間の優しさをハートフルに描いた傑作でしたが、わたしが最も感動し、泣きながら読み終えた『52ヘルツのクジラたち』が本屋大賞を受賞しました。わたしは同書を次回の「ハートフル・ブックス」で取り上げ、7月刊行予定の『心ゆたかな読書』の最後の150冊目として紹介することに決めました。小倉が舞台になっていることも嬉しかったです。著者は、 1980年生まれで、福岡県京都郡在住。 「カルメーンの青い魚」で、第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。2017年に同作を含む『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。他に『ぎょらん』(新潮社)、『うつくしが丘の不幸の家』(東京創元社)があります。
本書の帯
本書のカバーには暗い深海を描いたような福田利之氏の装画が使われ、帯には「2021年本屋大賞ノミネート!」「全国書店員が選んだいちばん!うりたい本」「『王様のブランチ』TBS系毎週土曜あさ9時30分より生放送」BOOK大賞2020 受賞」「読書メーターOF THE YEAR 2020 第1位」「ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2020 第4位」「受賞多数で話題の感動作品!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「52ヘルツのクジラとは―他の鯨が聞き取れない高い周波数で鳴く、世界で一頭だけのクジラ。たくさんの仲間がいるはずなのに何も届かない、何も届けられない。そのため、世界で一番孤独だと言われている」「自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され『ムシ』と呼ばれていた少年。孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、新たな魂の物語が生まれるーー」と書かれています。
2021年本屋大賞ノミネートの3冊
最近の小説を読んでつくづく思うのは、みんな書き出しの一文が秀逸だということ。読み始めたとたん、いきなりは好奇心の胸ぐらをつかまれて相手の陣地へ引きずりこまれるような感覚をおぼえます。たとえば、『お探し物は図書室まで』の書き出しは、「彼氏ができた、と沙耶からラインがきたので『どんな人?』と訊いたら、『医者』とだけ返ってきた」ですし、『自転しながら公転する』は「今日私は結婚する。書類上ではまだ煩雑な手続きが残っているが、今日これから結婚式を挙げ、今夜から彼の部屋で暮らすことになる」です。そして、本書『52ヘルツのクジラたち』の書き出しは、「明日の天気を訊くような軽い感じで、風俗やってたの? と言われた。フウゾク。一瞬だけ言葉の意味が分からなくてきょとんとし、それからはっと気付いて、反射的に男の鼻っ柱めがけて平手打ちした。ぱちんと小気味よい音がする」でした。
まどろっこしい前置きはなしで、冒頭にキャッチーな言葉を置いて、「つかみはOK!」といった感じです。読者は「え?」と思い、そのまま一気に物語の流れに呑み込まれてゆきます。しかし、本書の内容は「風俗」という刺激的な単語のイメージとはかけ離れて、非常に重いテーマを扱っています。それも、児童虐待、ネグレクト、モラハラ、DV、LGBT、介護……さまざまな現代社会の課題がいくつも扱われています。「ちょっと詰め込み過ぎでは?」と心配してしまうほどですが、サスペンスフルな物語の中にそれらは無理なく溶け込んでいきます。
今年4月14日、東京・神保町で「2021年本屋大賞」の発表会と授賞式が行われました。大賞を受賞した町田そのこ氏は、クジラのブローチをつけて登壇。自作について、「自分の中でわだかまりとして残っていた問題。これを書くことで虐待問題に対する自分の姿勢を再確認して整理し直した」と振り返り、さらに「(この本が出た)昨年の4月は新型コロナで世の中が今よりもっと混乱していた。その中で無名に近い私の本が、果たしてどこまでがんばれるんだろうと不安でした。ただ、この本はどんどん存在感を増していった。この本を売らなきゃとがんばっていただいた出版社、書店の皆さん、たくさんの人の思いが詰まった本を受け取ってくださった読者の皆さんのおかげです」と涙ながらにスピーチしました。
本書は、親から長年にわたって虐待を受け、心に深い傷を負った女性・貴瑚が主人公の長編小説です。貴瑚は、かつて祖母が住んでいた大分県の田舎の家に引っ越してきます。そこで、彼女は、言葉を発することができない少年に出会います。少年もまた、親から虐待されているのでした。貴瑚が少年を初めて自分の家に上げたときの彼女の心中が以下のように描かれています。
この子からは、自分と同じ匂いがする。親から愛情を注がれていない、孤独の匂い。この匂いが、彼から言葉を奪っているのではないかと思う。
この匂いはとても厄介だ。どれだけ丁寧に洗っても、消えない。孤独の匂いは肌でも肉でもなく、心に滲みつくものなのだ。この匂いを消せたと言うひとがいたら、そのひとは豊かになったのだと思う。海にインクを垂らせば薄まって見えなくなってしまうように、心の中にある水が広く豊かに、海のようになれば、滲みついた孤独は薄まって匂わなくなる。そんなひとはとてもしあわせだと思う。だけど、いつまでも鼻腔をくすぐる匂いに倦みながら、濁った水を抱えて生きているひともいる。わたしのように。(『52ヘルツのクジラたち』P.51~52)
書名となっている「52ヘルツのクジラ」とは、普通のクジラと声の周波数が全く違うクジラのことです。クジラにもいろいろな種類がいますが、どれもだいたい10~39ヘルツの周波数で歌います。しかし、52ヘルツの歌声のクジラがいて、あまりに高音ゆえに他のクジラたちには聞こえません。この「52ヘルツのクジラ」について、貴瑚は少年に説明するのでした。
52ヘルツのクジラ。世界で一番孤独だと言われているクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない。誰にも届かない歌声をあげ続けているクジラは存在こそ発見されているけれど、実際の姿は今も確認されていないという。
「他の仲間と周波数が違うから、仲間と出会うこともできないんだって。例えば群がものすごく近くにいたとして、すぐに触れあえる位置にいても、気付かないまますれ違うってことなんだろうね」
本当はたくさんの仲間がいるのに、何も届かない。何も届けられない。それはどれだけ、孤独だろう。
「今もどこかの海で、届かない声を待ちながら自分の声を届けようと歌っているんだろうなあ」
(『52ヘルツのクジラたち』P.71~72)
「52ヘルツのクジラの声」とは、誰も聞けない周波数の音でした。本書には、虐待をはじめ、さまざまな辛い体験のさ中にある人々の「声が届かない悲しみ」「声を聞いてもらえない絶望感」が満ち溢れています。今も、多くの人々が「叫んでも届かない悩み」「聞いてほしくても言えない悩み」を抱えて、52ヘルツの声を上げながら生きているのです。心に重い石を抱えてひっそりと生きるとは残酷なことですが、死なずに生きていれば、その石をどかしてくれ、52ヘルツの声を聞き取ってくれる人が現れる可能性があります。そういう人とは、自身も「叫んでも届かない、聞いてほしくても言えない」体験をした人です。52ヘルツの声を上げつづけた人が、他人の52ヘルツの声をキャッチするのです。そして、孤独の中にあった人の絶望を希望に変えるのです。
『隣人の時代』(三五館)
しかしながら、世の中には、自身が52ヘルツの声を上げた経験がなくとも、他人の52ヘルツの声を聞き取ることのできる稀有な人もいます。それは、一般に「お節介」と称される人々です。拙著『隣人の時代』(三五館)で、わたしは、高齢者の孤独死や児童の虐待死といった悲惨な出来事を防ぐには、挨拶とともに、日本社会に「お節介」という行為を復活させる必要があると訴えました。昔は、お節介な人が町内に必ず1人はいました。そういう人は、孤独死しそうな独居老人のことも、児童虐待が行なわれているような家庭のことも確実に把握していました。はっきり言って、「親切」と「お節介」は紙一重です。でも、ディープな人間関係がわずらわしいからといって「お節介」な人々をどんどん排除していった結果、日本は「無縁社会」などと呼ばれるようになってしまいました。
わたしは、地域社会には「お節介」というものも、ある程度は必要であると思います。無縁社会を乗り越えるためには、「お節介」の復活が求められると言えるでしょう。「無縁社会」などと呼ばれるようになるまで日本人の人間関係が希薄化しました。その原因のひとつには個人化の行過ぎがあり、また「プライバシー」というものを重視しすぎたことがあります。そのため、善なる心を持った親切な人の行為を「お節介」のひと言で切り捨て、一種の迷惑行為扱いしてきたのです。しかし、「お節介」を排除した結果、日本の社会は良くなるどころか、悪くなりました。わたしは、「お節介」の復活を訴えたいと思います。
『隣人の時代』(三五館)では、「隣人祭り」というものを提唱しました。「隣人祭り」とは、地域の隣人たちが食べ物や飲み物を持ち寄って集い、食事をしながら語り合うことです。都会に暮らす隣人ったいが年に数回、顔を合わせます。だれもが気軽に開催し参加できる活動なのです。『52ヘルツのクジラたち』の最後には、バーベキュー・パーティーの描写が登場します。幸福感に溢れた描写ですが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、このような食事会を開けなくなっている現状がまことに残念です。
お酒を飲み、お肉を食べ、笑い合う。ひとが増えて宴は一層盛り上がる。日が沈み、空には星が瞬き、遠くからは波の音がする。わたしはビールを飲む手を止め、空を仰いだ。温かな笑い声。大事なひとの声。しあわせの匂い。死んでいたわたしが、ここにこうしているのが、ただただ不思議だ。(『52ヘルツのクジラたち』P.248)
北九州市で開催された「隣人祭り」
「隣人祭り」といえば、20世紀末にパリで生まれましたが、2003年にはヨーロッパ全域に広がり、2008年には日本にも上陸しました。同年10月、北九州市で開かれた九州初の「隣人祭り」をわが社はサポートさせていただきました。日本で最も高齢化が進行し、孤独死も増えている北九州市での「隣人祭り」開催とあって、マスコミの取材もたくさん受け、大きな話題となりました。冠婚葬祭互助会であり、高齢者の会員さんが多いわが社はNPO法人と連動しながら、「隣人祭り」を中心とした隣人交流イベントのお手伝いを各地で行ってきました。
コロナ禍前の2019年(令和元)まで、毎年750回以上の開催をサポートしましたが、最も多い開催地は北九州市の小倉でした。『52ヘルツのクジラたち』には、貴瑚が救った「52」と呼ばれる少年が以前、小倉の馬借に住んでいたことから、貴瑚とその友人の美晴と52は、3人で小倉を訪れます。小倉駅の周辺のホテルに宿泊しますが、砂津のチャチャタウン小倉の観覧車が「幸せのシンボル」として登場するのもサプライズでした。
小倉駅は、駅舎からモノレールの線路が飛び出して真っ直ぐに伸びている変わった作りをしている。その線路に沿うようにして歩き始めた。拓けた町並みに、美晴が「はじめて来たけどけっこう都会じゃん」と言う。
「ねえ、52。あんた、こういうところに住んでたの? だったらあんな田舎に移り住んで、不便だったでしょ」
(『52ヘルツのクジラたち』P.128)
この小説は、「愛する人を亡くした人」のための物語、すなわち、グリーフケア小説でした。主人公の貴瑚は、自分が発した52ヘルツの声を聞き取ってくれたかけがえのない人を亡くし、その悲しみを忘れるために東京から九州の田舎町に移住するのですが、その田舎で隣人たちからさまざまなケアを受け、再生していきます。彼女は、自宅近くの海に迷い込んだクジラをその「いまは亡き愛する人」の生まれ変わりだと思い、彼女の心は救われるのでした。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
グリーフケアといえば、最近わたしは、どんな小説を読んでも、どんな映画を観ても、テーマがグリーフケアであることに気づきます。この理由には3つの可能性があると思います。1つは、わたしの思い込み。2つめは、神話をはじめ、物語というものはすべてグリーフケアの役割を果たしていること。3つめは、本当にグリーフケアを題材とした作品が増えていること。わたしは3つとも当たっているような気がします。
『グリーフケアの時代』(弘文堂)
わたしには、『グリーフケアの時代』(弘文堂)という共著がありますが、その共著者の1人である上智大学グリーフケア研究所の特任教授で宗教哲学者の鎌田東二先生が、「シンとトニーとムーンサルトレター第193信」で、わたしが何でもグリーフケアの物語に思えるという問題について以下のコメントを寄せて下さいました。「それは単なる思い込みや思い違いではなく、どんな映画や物語にも『グリーフケア』の『要素』があるのだと言えます。そのようなスペクトラムが物語要素として含まれているということではないでしょうか? 美学理論として、アリストテレスの『カタルシス』論はとても有名ですが、アリストテレスは『詩学』第6章で『悲劇』を『悲劇の機能は観客に憐憫と恐怖とを引き起こして、この種の感情のカタルシスを達成することにある』と規定していますね。この『カタルシス』機能は『グリーフケア』の機能でもあるとおもいます」と述べておられます。
また、鎌田先生は「カタルシスの語源は、古代ギリシャ語の”κάθαρ (kathar)”で、不浄を取り除く浄化儀礼の意味を持っています。つまり、お祓い効果があると考えられてきたわけです。身心霊を浄化するはたらきが『カタルシス』で、それは『排泄』の意味も持っていました。排便や排尿ばかりでなく、落涙すること、すなわち涙を流すことも1つの排泄行為ですね。泣くことによる排泄浄化作用は確かに日々実感するところです。もちろん、あまりに悲しみが深いような場合、涙も出ない、泣くことさえできないという、一種の機能不全や機能停止状態が起こることもありますが、しかし、泣ける段階や状態を経て、次の状態や段階に進むことができるようになります。わたしは、アリストテレスが言う『悲劇』だけでなく、『喜劇』も『音楽』もみな『カタルシス』効果を持っているので、すべてが『グリーフケア』となり得るということだと考えます。笑いのカタルシス効果も絶大でしょう?」と述べます。
さらに、鎌田先生は「大笑いをしている時に涙が出ることがしばしばありますよね。泣き笑いと繋げて言うことがありますが、泣くことと笑うことは感情の爆発であり開放であり、心の排泄であるために、心の浄化につながるわけです。このカタルシス機能は、日常の中にうまく取り込むことで、ストレスの解除にもなり、免疫力のアップにもなります」と述べるのでした。なるほど、「カタルシス」が「グリーフケア」に通じることはよく理解できます。わたしは『52ヘルツのクジラたち』を読み終えたとき、途中で登場人物たちの苦悩や悲嘆に共感して涙が止まらない場面もありましたが、読後感は非常に爽やかでした。考えてみれば、本書にはいくつもの苦悩や悲嘆が描かれていますから、それらを乗り越えた(と感じる)体験は非常に濃いカタルシスをわたしに与えてくれたのでしょう。