- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
2021.09.22
9月21日は満月、それも十五夜、中秋の名月でした。
小倉の夜空は雲が懸っており、名月を愛でることができずに残念でした。その日の夜、わたしは、「シンとトニーのムーンサルトレター」第198信を投稿しました。
『ヒト夜の永い夢』柴田勝家著(ハヤカワ文庫)を紹介します。文庫本で573ページのボリュームですが、一気に読了。こんなに面白い長編小説を読んだのは久々ですね。著者は気鋭のSF作家ですが、もちろんペンネームです。1987年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。在学中の2014年、『ニルヤの島』で第2回ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞し、デビュー。2018年、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」で第49回星雲賞日本短編部門受賞。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「昭和2年。稀代の博物学者である南方熊楠のもとへ、超心理学者の福来友吉が訪れる。福来の誘いで学者たちの秘密団体『昭和考幽学会』へと加わった熊楠は、そこで新天皇即位の記念行事のため思考する自動人形を作ることに。粘菌コンピュータにより完成したその少女は天皇機関と名付けられるが――時代を築いた名士たちの知と因果が二・二六の帝都大混乱へと導かれていく、夢と現実の交わる日本を描いた一大昭和伝奇ロマン」
この小説を読んだ人は、誰でも荒俣宏氏の『帝都物語』を連想するでしょう。『帝都物語』とは、平将門の怨霊により帝都破壊を目論む魔人・加藤保憲とその野望を阻止すべく立ち向う人々との攻防を描いた作品です。明治末期から昭和73年まで約100年に亘る壮大な物語であり、史実や実在の人物が物語に絡んでいるのが特徴です。著者の荒俣氏が精通している博物学や神秘学の知識を総動員しており、陰陽道、風水、奇門遁甲などの用語を定着させた作品でもあります。この『ヒト夜の永い夢』は明らかに『帝都物語』の影響の下に書かれています。『帝都物語』へのオマージュ的作品といってもいいでしょう。
映画化もされた『帝都物語』には、渋沢栄一、幸田露伴、森鷗外、泉鏡花、大谷光瑞、森田正馬、甘粕正彦、大川周明、三島由紀夫、角川源義、角川春樹といった実在の人物たちが登場します。一方、主人公の帝都東京破壊を目論む魔人・加藤保憲など架空の人物も多く登場し、虚構と現実が入り混じった「虚実皮膜」の物語でした。『ヒト夜の永い夢』もまさに虚実皮膜小説であり、主人公の南方熊楠をはじめとして、福来友吉、江戸川乱歩、佐藤春夫、宮沢賢治、植芝盛平、孫文といった実在の人物たちが活躍。注目すべきは『帝都物語』『ヒト夜の永い夢』に共通して、西村真琴、北一輝、石原莞爾といった人々が登場することでしょう。特に、革命家である北一輝は主人公・南方熊楠の敵役として非常に重要な役割を果たしています。
また、西村真琴の存在感も大きいです。彼は1883年(明治16年)に生まれ、1956年(昭和31年)に没した生物学者で、北海道帝国大学教授を務めました。人間型ロボット「學天則」の制作などで知られています。次男は二代目水戸黄門で知られる俳優の西村晃。彼は映画版「帝都物語」で実父である西村真琴を演じました。『帝都物語』では地下鉄工事現場に巣食う鬼を學天則で退治しますが、『ヒト夜の永い夢』にも學天則二号が「天皇機関」という少女の姿をしたロボットと闘うシーンが登場。わたしを含む『帝都物語』ファンにはたまらないシーンで、『ヒト夜の永い夢』もぜひ映画化していただきたい!
人間型ロボット、すなわち人造人間をつくるなどというと、『フランケンシュタイン』のようなマッドサイエンティストものを連想しますが、この『ヒト夜の永い夢』には確かにその要素があります。なにしろ、思考する粘菌を結晶化し、計算機のCPUに用い、AIロボットを作るわけですから。その中心にいる南方熊楠は粘菌学者にして民俗学者でもあるという「知」のスーパースターで、破天荒なキャラクターとあいまって。とにかく魅力的です。それにしても、南方熊楠が主人公の小説なんて初めて読みました。折口信夫が主人公の小説なら井沢元彦氏の『猿丸幻視行』がありますし、柳田國男が主人公の小説なら大塚英志氏の『くもはち』などがありますが、いずれ柳田國男・折口信夫・南方熊楠の日本民俗学ビッグ3が総登場する伝奇小説が読みたいです。
南方熊楠は粘菌や民俗学だけでなく、仏教にも精通していました。それらの関心の延長線上には心霊学もありました。一条真也の読書館『熊楠と幽霊』で紹介した本には、熊楠が心霊現象の体験者だったことが詳しく書かれています。熊野の山中での幽体離脱や、夢で父親に珍種のキノコが生えている場所を教わるなど、奇妙な体験をくりかえしては日記に綴っています。また、彼の論考や雑誌記事には、世界各地の妖怪の比較、幽霊について、魂の入れ替わりなどの文章が多数あります。若い頃の熊楠は、むしろオカルト的なものに否定的な態度をとっており、ロンドン遊学時代には「オッカルチズムごとき腐ったもの」と罵倒していますし、降霊術や行者の秘術といったものも信じていませんでした。ところが、帰国後に採集・研究活動にうちこむなかで神秘体験をくりかえした熊楠は、態度を一変させ、「魂の入れ替わり」や「幽霊の足跡」についての論考を量産していくのでした。
そんな熊楠のもとを、福来友吉が訪ねてくるところから物語は始まります。福来については、一条真也の読書館『透視も念写も事実である』で紹介した本が彼の生涯を詳しく描いています。千里眼と呼ばれた御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らに超能力(透視と念写)の実験を行い、その科学的解明に一生を捧げた心理学者・福来博士の数奇な運命をたどった本です。実験をインチキよばわりされた福来は教授を務めていた東京帝国大学を追われますが、56歳のとき、高野山大学の教授に迎えられました。そして、これまでの考察を総合的にまとめた『心霊と神秘世界』を昭和7年(1932年)に上梓します。彼は、明治43(1910年)以来の心霊的現象の研究実験によって、「神通力」の存在を実験的に証明できたと考えました。高野山には真言宗の管長を務めた高僧・土宜法龍がいました。彼は南方の友人であり、そこから福来が南方を訪ねる流れになるわけです。
南方熊楠や福来友吉は「夢」と「心霊」の関係に注目しましたが、夢で故人に会うというのは誰にでも経験があることです。『ヒト夜の永い夢』の冒頭には、熊楠の考えとして、「夢の世界で死者に会うというのは、向こうの世界では彼らが生きているだけなのではないか。こっちでは何気ない歴史の流れ、ちょっとした不運で命を落とした者も、別の世界では平然として生きているのかもしれない。奇妙奇天烈に折り重なる世界があって、夢はその中の一場面を覗き見ているだけなのではないか」と書かれています。
「夢」について深い関心を寄せる人物は他にもいました。江戸川乱歩です。彼は、「色砂の入った瓶を一振りするごとに、世界は別の形になります。一秒ごと、一瞬ごとと言ってもいいでしょう。それが時として、全く同じではないけれど、いつかと似た色が現れるのです。色砂の並びは完全に無作為なものではなく、結びつきやすい物や現れやすい色などに偏りがあるのです」「この完全に同じではないが、いつかと似た世界というのは、つまり僕の言う夢の世界なのです。以前、僕が初めて南方先生にお会いした時にも話したでしょう。現実とは異なる空想の世界は、この宇宙のどこかに存在しているのではないか、と。この話は空想を夢と言い換えたものです」などと語るのでした。
この小説には、宮沢賢治も登場します。人工宝石を作る賢治は、南方に向かって「先生、法華経にこんな話があります。ある貧乏な人が親友の家を訪ねる。そこで彼は寝ている間に、裕福な親友の善意によって着物の裏に宝石を縫い込まれます。その後も彼は苦労の多い人生を重ねますが、数年後に親友と再会して初めて、自分の着物の裏に宝石があることに気づくという話です」と言います。それを聞いた南方が「衣裏繋珠の喩えだな。親友とは仏陀の象徴であり、貧乏な人とは我々衆生だ。誰もが仏になれる仏性を持っているが、それは仏陀の教えと出会わなければ気づけないという」と言えば、賢治は穏やかな笑みを浮かべながら「僕の宝石は、その喩えのように、目に見えない着物の裏に縫い付けられた魂の輝きです。僕はそれを、誰もが手に取れるようにしたい」と言うのでした。同時代を生きた2人のK・Mの魂の対話に、わたしは一条真也の読書館『南方熊楠と宮沢賢治』の濃厚な内容を思い出しました。
さらに、若き昭和天皇と熊楠の対話が興味深いです。生物学者でもあった昭和天皇が「ぜひ、粘菌の秘密を聞かせて欲しい。命とは何か、精神とは何か」と熊楠に問えば、熊楠は必死に思考をまとめながら、「粘菌は、いわば皮膚のない人間です。剥き出しの脳の塊です。その中には、人間の脳に似た働きをすることもあるでしょう。脳神経の束に電気が流れることで我々は思考をしますが、もし粘菌も同じような働きをすれば、思考をすることでしょう。しかし、我々は粘菌の言語を読み取れませんから、真に思考しているかどうかは把握できぬのです」と答えます。それ聞いた昭和天皇は、自らの興味が満たされたことで一笑し、「粘菌の声が聞こえたのなら、それは楽しいでしょうね」とおっしゃるのでした。こんな会話が実際に交わされていたとしたら、なんと愉快なことでしょうか!
この物語の根底には、「この世界は己が見ている、意識しているところだけの存在なのか?」「それとも、この世は他者との因果で成り立っているのか?」「あるいは、夢の中での出来事なのか?」という問題意識がありますが、終盤で福来が「人は、この因縁から離れれば、別の世界を見ることができるのでしょうか」と南方に質問します。南方は福来に笑顔を向けながら、「人が夢で別の世界を見るというのは、寝ているときは因縁から離れているからだ。そして、永遠に因縁から離れることができるのは、つまり死んだ時だけだ。僕のこの胡乱な考えは、死んで初めて正解かどうか解るぞ」と言うのでした。
さらに、乱歩が「この世というのは、南方さんの言うところの”心”の見方一つな訳で、言い換えれば脳の中で結びついたニューロンの順番だけがあるのです」と言うと、南方は「その通りだな。世界認識は”物”と”心”の交わりによって生まれる”事”の結果だ。人間の”心”が違う限り、我々が見ている世界は常に別物なのだ」と言います。現実などというものは、人々が共有している夢の重なり合った部分なのです。そして、西村真琴が「ここには死者も生者もないんだ」「別の世界で死者は生きているし、生者は他の世界では死んでいる。生も死もない。ここは死者の楽園、エリゼの園(シャンゼリゼ)なんですよ」と言い放つくだりになって、やっとわたしは、この永い夢のような長編小説がグリーフケアの物語であることに気づいたのでした。