No.2129 冠婚葬祭 | 幸福・ハートフル | 神話・儀礼 | 論語・儒教 『論語と冠婚葬祭』 加地伸行、一条真也著(現代書林)

2022.04.27

108冊目の「一条本」となる『論語と冠婚葬祭』(現代書林)の見本がついに出ました。本書は、わが国における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生との対談本です。「天下布礼」の書であります。

論語と冠婚葬祭』(現代書林)

わたしは長い間、「礼とは何か?」「なぜ、冠婚葬祭は必要か?」について考え続けてきましたが、加地先生との対談でついにその答えを得ることができました。本書は、冠婚葬祭互助会業界の同志たちをはじめ、冠婚葬祭に関わるすべての人々にとっての理論武装の書となるように思います。また、渋沢栄一の『論語と算盤』の副読本として読んでいただくのも良いかもしれません。『論語と冠婚葬祭』というタイトルはわたしが考えたのですが、加地先生から「素晴らしい!」と褒めていただきました。

本書の帯

本書のカバーには加地先生が前、わたしは後に立った写真(三歩下がって師の影を踏まず!)が使われ、「葬儀も結婚式も……冠婚葬祭の儀式の本質はすべて儒教である。」「儒教研究の第一人者と、礼の求道者による画期的な対談!」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「まえがき」一条真也
第1章 儒教と冠婚葬祭と
古い礼儀作法の教え?
「無縁社会」とは何なのか
儒教は宗教ではない!?
現代日本の葬儀を考える
終末から修末へ
お墓と仏壇とをどうする?
「礼」を示すのが、お辞儀
歩き方も重要
仏式葬儀の作法
否定された祖先祭祀
出生、そして結婚
冠婚葬祭と年中行事と
第2章 儒教と死生観と
儒教と生命科学と
「魂の救済」と「死の説明」と
儒教の死生観
宗教に弱い日本人
唯心論と唯物論と唯葬論と
子どもがいないと子孫がいない?
儒教は死の恐怖を解放する
東日本大震災と土葬と
「喪(葬)祭」となぜ書くのか
志は「死の不安」を超える
儒教における家族
第3章 『論語』を語る
誤解されている『論語』?
『論語』とドラッカーと
聖徳太子・徳川家康・渋沢栄一
DNAリーディングとは
令和の命名の問題
自分の幸せだけでいいのか
「礼」とは何か
「志」とは何か
為政者の条件
教育によって教養人をつくる
「徳」とは何か
「礼楽」とは何か
古典で己を磨く
「孔子」の人物像
君子と小人と 「仁」とは何か
第4章 儒教と他の宗教と
儒教は最も宗教らしい宗教
「家族主義」を見直す
仏教の死生観
生と死とを繋ぐ儀式
魂魄が帰ってくる場所
孔子による儒思想の創造
第5章 儒教と現代社会と
東日本大震災で見えたこと
「いじめ」をめぐって
児童虐待と個人主義
現代日本と個人主義
知識ならコンピューターで十分
グリーフケアの時代
鬼滅か、鬼誅か
「あとがき」加地伸行

三歩下がって師の影を踏まず!

ブログ「加地伸行先生と対談しました」に書いたように、わたしたちは、2021年7月7日に大阪で対談しました。加地先生に初めてお会いしたのは、2012年の7月13日に東京で開催された講演会の場でした。それ以前にもお手紙のやり取りや電話でお話させていただいたことはありましたが、直接お会いすることは初めてでした。それから10年近くが経過したわけですが、初対面以来、定期的にお電話で長時間お話しさせていただいていました。儒教研究の権威ということから、正直言って加地先生には厳格で近寄りがたいイメージがったのですが、先生は非常に優しく、ユーモアに満ち、人間的魅力に溢れておられました。そのイメージギャップは、そのまま儒教や孔子のそれと重なるように思えたのです。

儒教について語られる加地伸行先生

心して拝聴しました

加地先生は『論語』とともに儒教の重要教典である『孝経』を訳されたことで有名です。日本人の葬儀には儒教の影響が大きいことは明らかですが、その根底には「孝」の思想があります。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあります。

拱手の指導を受ける(本書より)

死の観念と結びついた「孝」は、死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになります。だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、皆と一緒に共に生きていることになります。

昨年の七夕に大阪で対談しました

わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということ。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。儒教では、死から殯(もがり)の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続きますが、そういう一連の儀式全体を「喪」といいます。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎません。

多くの学びを得ました

ですから儒教的に言えば、「葬式」ではなくて「喪式」です。また、婚礼は昏(くら)い間に行われたことから、日本語の「冠婚葬祭」は儒教では「冠昏喪祭」が正しい。仏式葬儀の中には、儒式葬儀の儀礼が取り込まれています。加地先生は、「日本仏教はもちろんすぐれた宗教として存在する。私は仏教信者でありつつ、儒教的感覚の中で生きている」と述べられました。これは、すべての日本人に知ってほしいことです。日本人の冠婚葬祭の本質は、儒教という光線を当てることによって浮かび上がってきます。

画期的な一冊が誕生しました!

「あとがき」で、加地先生は、「死は、人間各自にとって一回きりであるが、医療関係者は絶えず直面している。そして死者を送り出す。その死者を弔い、安置するのは家族であるが、実質的には葬儀関係者である。その厳粛にして心のこもった別れの儀式を行なうのが、人間である、まともな人間である。その粛然とした葬儀を指揮している一条真也氏は、誠実な人物であり、勉強家である。今回、始めて同氏と対談することとなったが、驚いた。その博識と見識とには、輝くものがあり、楽しく対談を終えた。その記録の本書は、必ず読者に死への覚悟の基盤を作ることになるであろう」と書いて下さいました。過分なお言葉に恐縮するばかりです。本書は、5月20日に全国の書店・コンビニおよびネット書店で発売されます。どうか1冊お求めの上、お読み下されば幸いです。

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