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No.0762 宗教・精神世界 『仏教は世界を救うか』 井上ウィマラ・藤田一照・西川隆範・鎌田東二著(地湧社)
2013.07.19
『仏教は世界を救うか』井上ウィマラ・藤田一照・西川隆範・鎌田東二著(地湧社)を読みました。
サブタイトルは「[仏・法・僧]の過去/現在/未来を問う」で、「東京自由大学特別企画《現代霊性学講座》連続シンポジウムより」と記されています。帯には「悩み多きこの現代社会のなかでこそ、仏教が生きてくる」と書かれていますが、その裏にも次のような内容説明があります。
「『仏とは誰か』『仏法は真理か』『仏教は社会に有用か』という3部構成で、4人のパネリストが、仏教に出逢うきっかけから、経典に基づく思想的な原点の解説、そして教徒の生活集団であるサンガ(僧伽)の意味とその意義の再確認まで、仏教の全容を現代的な視点から語り尽くす」
パネリストである井上ウィマラ氏は高野山大学准教授(現在は教授)、藤田一照氏は曹洞宗国際センター所長、西川隆範氏はシュタイナー研究家、そして司会を務めた鎌田東二氏は京都大学こころの未来研究センター教授です。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
「はじめに」(鎌田東二)
1.仏とは誰か
余はいかにして仏教徒となりしか―井上ウィマラ
辞典を抜け出た仏とは―藤田一照
神智学からブッダを見る―西川隆範
求道精神とブッダの教え―対話
[章括]仏教は「仏になる道」―西川隆範
2.仏法は真理か
仏教の「教え=法」をひもとく―井上ウィマラ
仏教が説く真理と私―西川隆範
主体的な人生のうえで真理を生きる―藤田一照
そこに立ち現れてくる真理―対話
[章括]「わたし」が理解する、仏法の真理性―藤田一照
3.仏教は社会に有用か
俗世間に対するサンガの意識―藤田一照
霊魂からみる仏教の役割―西川隆範
仏教瞑想とサンガはいかに役立つか―井上ウィマラ
ただならぬ現実を超えて提示するもの―対話
[章括]本当の自分に触れ、つながりあう基盤に―井上ウィマラ
「あとがき―仏教は世界を救う!」(鎌田東二)
本書は、NPO法人東京自由大学の特別企画シンポジウムとして行われた3回の連続シンポジウム《仏教は世界を救うか》をまとめた内容となっています。
「はじめに」で「仏教は人類史の一大文化遺産であり、探求者にとって、生きる指針となり、知恵と実践の源泉です」と喝破したシンポジウム司会者の鎌田東二氏は、最初に法螺貝を奉奏し、次のように述べています。
「法螺貝は、『法華経』『阿弥陀経』『修験道』の経典のなかで、真理の響きを世界に伝えていく大切な法器とされています。法の螺をもって鳴り響かせ、法鼓すなわち法の太鼓を叩いて仏法を世界に広宣する、ということが慣用表現として出てまいります」
わたしは何度も鎌田氏の吹く法螺貝の音を聞いていますが、このような意味があったとは初めて知りました。
鎌田氏は、パネリスト3人に共通していることとして、以下の4点をあげます。
1つは、全員が1950年代生まれだということ。
2つめは、3人ともに20代で出家求道していること。
3つめは、3人それぞれが海外遍歴体験、海外滞在体験があること。
4つめは、そういう海外の同時代の現象を垣間見ながらも、今この時代に自分が学んできた実践や思想がどのような意味と役割をもっているのかを、それぞれに鋭く深く追求してきたこと。
第一章の[章括]である「仏教は『仏になる道』」において、西川隆範氏が次のような提言を行っています。
「某紙の夕刊を見ていたら、『お坊さんも婚活』という記事が載っていた。会場は高層ホテルで、アルコールと食事つきとのこと。筋から言えば、還俗してから婚活すべきだし、仏教を棄教してからアルコールを口にすべきである。あるいは、結婚して子どもをもうけてから出家すればいい。また、天台宗某教区報を見ていたら、『祝ご結婚おめでとうございます』という写真が載っていて、某寺の住職の結婚式の様子が写っていた。なんとも異様な光景である。淫を欲するなら、比丘ではなく優婆塞として生きればいいのだし、飲酒したいなら、檀家としてではなく氏子として仏典を心の糧にしていればよい。清僧が思わぬ道に迷い込んで破滅する姿に、私たちは共感を覚える。零落するから美しいのであって、欲を満たしながら僧衣をまとっていては、ただ醜悪なだけだ」
西川氏といえばルドルフ・シュタイナー研究の第一人者で、かつては密教の真言律宗の修行も経験していますが、次のように現代日本における仏教に対して警鐘を鳴らします。
「日本仏教は『廃仏毀釈』でダメージを受けたのではなく、僧侶たちが『肉食妻帯勝手たるべし』と見放されたことによって霊威を失ったように思う。こうして僧侶を見限ることによって、個々人が法を探究し、仏を体験しようとすることが主流になった。世界各地の仏教徒がまじめに修行しているのに、善人で人間味のある日本の坊さまの大半は生臭いと言うと、正統仏教原理主義・世界仏教基準化のように聞こえるだろうか。だが、精神世界が新たな黎明を迎えているのに、日本の仏教界だけが末法に沈没しているのはどうしたことだろう(私は、これから日本にも再び真摯な仏教者が幾人も出てくるだろう、と予見している)。
日本仏教界が救われるかどうかは、どうでもよい。貴方が救われ、世界が救われることが何よりである」
この西川氏の意見には大いに賛成です。わたしは「世界平和パゴダ」の支援を通じてミャンマーの僧侶と接することが多いのですが、酒や女性とは無縁で厳しい修行に明け暮れる彼らの姿には宗教者としてのオーラを感じます。
ミャンマーの仏教は「上座部仏教」あるいは「テーラワーダ仏教」といいますが、井上ウィマラ氏はその実践者です。かつてはミャンマーにまで出向いて修行をし、日本では世界平和パゴダにおいて修行されています。その井上氏は、現代日本の仏教について次のように述べています。
「今の日本仏教のなかで一番欠けているのは、悟って解脱すると何がどう変わるかということの定義です。テーラワーダ仏教が伝えてきた、解脱に関するブッダの具体的な教えをほとんど説明できていないということです。その代わりに、師匠が弟子の悟りを認可するという制度ができています」
井上氏によれば、聖者の仲間入りをする解脱の第一段階に入るためには3つの条件をクリアしなければならないそうです。以下に紹介します。
「第1番目は、有身見(サッカーヤ・ディッティ)の超越です。『この身体は自分のものだ』という思い込みが越えられます。それまで自分の所有物だと思い込み、無意識的に『自分はいつまでも死なない』と思い込んでいた錯覚を超えてゆくのは大きな不安を伴う作業です。精神科医で『死ぬ瞬間』の著者として著名なキューブラー・ロスが死の受容の5段階のなかで説いたような、よき悲嘆による抑うつを通過しなくてはなりません」
「第2番目は戒禁取見(シーラッバタ・パラーマーサ)の超越です。これは、社会的、宗教的な儀式・儀礼や習慣からの解放をもたらします。冠婚葬祭や通過儀礼など、今、儀礼というものが持つ意味が見失われ、葬式仏教と揶揄されるように、葬儀も形式的なものになってしまっています。戒禁取見を越えることは、逆な見方をすると、儀礼の本質を理解できてそこから解放されるわけですから、必要ならば行うし、必要ないのであれば参加せずに落ち着いて見ることができるようになります。さらに一歩進めると、その場、その場で必要なものごとの本質を察知して、その場に合わせた儀礼を自発的に創造することができるようになります。そうなれば葬儀や法事に魂を込めなおすことも可能になります。そうした能力を得るためにも、知らないうちに条件付けられてただ繰り返してしまう儀礼や慣習に対して目を開いていく必要があるのです」
「第3番目は疑いの超越です。人生は試行錯誤して生きていかなければいけないものですから、さまざまな疑いが生じます。そのときに、外的な権威に頼るのではなくて、自分自身の感じていることや考えをよりどころとして判断することができる、そのような自己信頼が得られることを意味します。それによって四聖諦や縁起、仏法僧の三宝に関する疑いも晴れます。「私」というものが実体のない空なるものであることに深く気づけば、『私』という個的観念から派生する過去世や来世に関する疑問も氷解します」
第二章の[章括]である「『わたし』が理解する、仏法の真理性」において、禅僧である藤田一照氏は次のように述べています。
「ずいぶん昔、生まれて初めて漢訳大蔵経の全巻が並んでいる図書館の書棚の前に立ったとき、そのあまりの量の膨大さにわたしは愕然とした。その隣には、パーリ大蔵経、チベット大蔵経というまったく別系統の、同じように膨大な仏教経典群がさらに並んでいて、まさに開いた口がふさがらなかった。釈尊も自分自身の人生の悩みから出発して修行をされ、仏教という宗教(生きるための根本的な教え)を開かれたのだから、自分もそのあとを慕って仏道修行のなかに自分の人生の歩みを見出したいと願う人たち(わたしもその1人であったが)にとって『この自分が生きることについて、全体としてけっきょく仏教が何を教えてくれているのか』、これでは到底見定めがつかないだろうと暗鬱な思いがこみ上げてきたことを思い出す」
第三章の「俗世間に対するサンガの意識」でも、藤田氏は次のように述べます。
「仏教の基本の教えに『無常・無我・苦』というのがあります。三法印と言われているものですね。仏教と他の教えとを区別する特徴的な教義ということですが、これは一言でいうと、実存哲学で言う不条理というんでしょうか。一寸先は分からない、我々にはそれをどうすることもできない、そういう状況のなかに我々は否も応もなく投げ出されていて、そこで生きていかなければならない、ということなんです。そういう現実のなかで我々は生きているんだという、非常に醒めた教えです。ですから、納得するとか、しないとかという話どころではなくて、基本的には納得できないような、絶対に我々の納得をはみ出るような世界、現実、そのなかに我々衆生は生きている。そこでどうやって意味深い生を全うするかという、そういう問題の在り方を指し示しているのですね」
同じく第三章の「霊魂からみる仏教の役割」において、西川氏は現代日本の僧侶に対して以下のようなメッセージを送ります。
「今でも、多くの日本人はお坊さんたちにとても期待していると思います。自分たちとは違う清浄な生活をしている僧侶たちを尊敬したいと思っている。戒律を守って修行を積んでいる清僧がたくさんいることが、自分たちの生きる励みになる。そういう期待を持って、仏教を見ていると思うんです。
その期待が裏切られるのは、たとえば葬式や法事のあとに、お坊さんが遺族に付き合って一緒に飲食するときです。坊さんが世俗の話をなさると、みんながっかりします。まさかそのような席で肉食・飲酒なさるほど生臭い坊さんはいらっしゃらないでしょうけれど、そういう坊さんへの失望から、仏教をやめてキリスト教に変えたという人々もいるんですよ。だから、お坊さんはもっと立派な態度で、心に染みる説法をしてほしいのです」
この西川氏の発言には深く共感しました。西川氏の研究対象であるシュタイナーも現代仏教に対して不満を抱いていた人でした。『命には続きがある』(PHP研究所)において、わたしは以下のように東京大学医学部大学院教授で東大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹氏と語り合っています。
一条
わたしたちは、あまりにもこの世の現実にかかわりすぎているので、死者に意識を向ける余裕がほとんどないですよね。死者どこ ろか、この世に生きている者同士の間でも、他人のことを考える余裕がないくらいの生活をしています。けれども、そうかといって、自分自身とならしっかり向き合えているかというと、そうでもありません。ほとんどの人は、自分自身に対する態度も、他者に対する関係も中途半端なままに生活している状態でしょう。 どうしたら、この世の人間は死者との結びつきを持てるのか。シュタイナーによれば、そういうことを考える前に、死者=霊魂が現実に存在していると考えない限り、その問題は解決しないといいます。
矢作
死者=霊魂の存在を認めることが前提ですよね。
一条
ところが、仏教の僧侶でさえ、死者=霊魂というのは、わたしたちの心の中にしか存在していないという人が多いというのです。そういう僧侶は、人が亡くなって仏壇の前でお経をあげるのは、この世に残された人間の心のための供養だというのです。もし、そういう意味でお経をあげているのなら、死者と結びつきを持とうと思っても、当人が「死者などいない」と思っているわけですから、結びつきの持ちようがありません。死んでも、人間は死者として生きています。しかし、その死者と自分との間には、まだはっきりした関係ができていないと考えることが前提にならなければなりません。
矢作
わたしが『人は死なない』で言いたかったことは、まさに人間は死者(他界の人)として生きているということです。
また、わたしは『命には続きがある』でグリーフケアの重要性を訴えました。
本書でも井上ウィマラ氏がグリーフケアを取り上げており、特に「複雑性悲嘆」について次のように説明しています。
「複雑性悲嘆とは、悲しみが非常に大きく、今回の大震災のように突然やって来て、遺体も見つからなかったり、見つかっても損傷が激しかったりすると、大きな心の傷を負うことになります。あまりにトラウマがひどくなると、人は泣くこともできなくなります。泣けなくなった悲しみは身体化してゆきます。そうした複雑になって、こんがらがって、長期化して、医療的介入を必要とする悲しみのことだそうです」
自身がさまざまなグリーフケアの実践に取り組んでいるという井上氏は、次のように今後の抱負を語っています。
「最低10年ぐらい先を見込んで、どのようにグリーフケア(悲嘆ケア)をしていったらよいのか、長期的なビジョンのもとに取り組みたいと思っています。複雑性悲嘆という、こんがらがり過ぎて涙も出ない悲しみを、どういうふうにして癒していったらいいか。言葉のアプローチはあまり効きませんから、身体的なアプローチを含めていく必要があります」
また井上氏は、慰霊祭などの宗教的儀礼の重要性にも言及し、「グリーフケアのなかに、伝統芸能や祭りや宗教的儀礼をどのようにうまく組み込んでゆけるかという視点がとても大切だと思っています」と述べています。まったく同感です!
仏教では、人生には四苦八苦というものがあるとされます。生きること、老いること、病むこと、死んでいくこと、好きな人と別れること、嫌いな人と出会うこと、求めても得られないこと、それから心身を自分のものと思い込んで生きるために生じる苦しみです。これらを踏まえて、井上氏は「こうした四苦八苦を機縁として、一緒に学び合い、支え合っていくような新しいつながり方を学ぶ必要性がある。地縁や血縁による社会が崩壊してしまい、無縁社会と呼ばれる今こそ、新しい形での、目的縁による、さまざまな苦しみを乗り越える目的を共にする人と人のつながり方を作り上げてゆく必要があるのです」と述べています。
そこでは「サンガ」という修行共同体が大きな役割を果たすことができるとして、井上氏はさらに次のように述べます。
「より具体的なテーマとしては、慰霊の問題も含めて、共に悲しむための学びだと思います。葬式や法事を通して、喪の仕事、グリーフワークとかグリーフケアと言われますけれども、大切な人を失った悲しみをどうやって思いやりの心につなげてゆくか、という問題です。『泣くな、悲しむな。嘆き悲しんでいたら成仏できない』というようなことを言ってしまうと、もう現場では何も通用しなくなってしまう」
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、わたしは葬儀こそは最大のグリーフケアであると思っています。井上氏も葬儀の意義を深く理解されており、次のように述べます。
「葬式仏教と言われていますけれども、葬式仏教には本質的に優れた形式があるわけで、それに魂を取り戻す必要性もあります。戒名の問題も含めて。各宗教における葬儀の形式とその本質が公開されていくことが必要でしょう。たとえば戒名をつける意味。それは本来、お寺でお金を出してつけてもらわなければいけないものだったのでしょうか。思い切った言い方をすれば、お坊さんなしで葬式ができるような知恵をもつくらいの宗教消費者になってほしいと思います。その上で、お坊さんが信頼されているならば、仏教は残るでしょうし、元来仏教とはそういうものだったのではないかと思います」
葬式無用論者の多くは何かというと「ブッダは葬式を否定した」と言います。
しかし、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)において、ブッダはけっして葬儀を否定しなかったことを示しました。井上氏も次のように述べています。
「ブッダはご自身の葬儀に関して、出家者は関わらなくていいということをおっしゃいました。だから、仏教そのものは、葬式という儀礼には出家修行者は関わらなくてもいいのです。だから、葬儀社が全部やってくれても構わないと思うんですよ。大切なことは、その儀礼という時空のなかで、亡くなった人に関して善い想い出やつらい想い出を含めて、いろんな涙を一緒に流して、その人との出会いの意味を各自で見出せるような環境が提供できればよいのだと思います。それがグリーフケアの本質です。
儀式には1人ではできない集団的な意味があります。そうした空間演出のなかに、やっぱりみんなとは違う修行をされたお坊さんの存在感のありがたみがあるのではないかと思いますが、そのコーディネーターは葬儀会社でもいいかもしれません。葬式に行く前に、十分に信者さんからサポートしていただける、自信のある新しい世代が育ってくるのが一番と思います」
本書の「あとがき」で、鎌田氏は「仏教は世界を救うか」という問いに対して次のように述べています。
「ここに集った3人は、そして、司会者のわたしを入れた4名は、たぶん、本気で、『仏教は世界を救うことができる』と考えていると思う。ただし、その思いの強度と方法論(方便)は異なるだろうが。
少なくとも私は、『魔』というしかないモノを体験した30代の半ばに、『仏教は世界を救うことができる』と確信した。
そんなわたしの捉え方は、本シンポジウムのなかでも述べたように、『仏教は、世界の諸宗教の「サニワ」(審神者)になることができる』、『仏教は、心と関係の解毒剤となることができる』、『それによって、さまざまな関係修復や認識修復を行うことができる』というものであり、『仏教は、「心直し」と「世直し」に活用できる実践智であり、リソースである』、と要約できる」
拙著『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)にも書きましたが、わたしも、つねづね「仏教は世界を救う」と思っています。現在は、特に関わりの深いテーラワーダ仏教、つまり上座部仏教にその可能性を強く感じています。
わたしの義兄弟である鎌田氏によれば、仏教は、つねに、いつも、「苦」のあるところに立ち現われてきたといいます。そして、仏教はさまざまな仕方で寄り添い、人々を、いのちあるものを力づけ、気づかせ、導いてきたというのです。
本書は、グローバル社会において人類は生き残っていくための、また日本人が無縁社会を乗り越えるための必要なメッセージが詰まった1冊です。