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2022.08.28
『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』三島由紀夫・石原慎太郎著(中公文庫)をご紹介します。ブログ「石原慎太郎、逝く!」に書いたように、石原氏逝去の報に触れたとき、わたしはこの本を北九州市内の歯科医院の待合室で読んでいました。まことに不思議な体験でした。
本書の帯
本書の表紙には、ビルの屋上から街を見る三島由紀夫・石原慎太郎の2人の写真が使われ、「スタア作家、かく語りき」と大書され、「『石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた』――三島由紀夫」「戦後日本を象徴する二人により九つの対話」「――初収録『士道をめぐる論争』」「文庫オリジナル」と書かれています。カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「一九五六年の『新人の季節』から六九年の『守るべきものの価値』まで、単行本・全集未収録の三編を含む全対話九編を初集成。戦後日本の二大スタア作家による競演。七〇年の『士道について』の公開状、石原のロングインタビューを併録する。文庫オリジナル」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
【Ⅰ】
新人の季節
七年後の対話
天皇と現代日本の風土
守るべきものの価値――われわれは何を選択するか
【Ⅱ】
モテルということ
新劇界を皮肉る
作家の女性観と結婚観
「教養」は遠くなりにけり
あゝ結婚
【Ⅲ】
士道について――石原慎太郎氏への公開状
(三島由紀夫)
政治と美について――三島由紀夫氏への返答
(石原慎太郎)
あとがきにかえて「三島さん、懐かしい人」
(石原慎太郎)
【Ⅰ】では、昭和31年4月に行われた対談「新人の季節」で、「如何に表現するか」として、両者は以下のような興味深い対話を繰り広げています。
石原 スポーツならスポーツの感動というかそういうものはどうも言葉ではどんなに苦心しても伝わらないような気がするのですがね。結局そういう経験をもっている者が、あるものを読んだ場合には、非常に足りない言葉を通して、つまりそれが媒介となって、共感として出てくるかわしれないけれども、それはそれで呼び覚まされた自分の陶酔がもう一度よみがえってくるだけで、必ずしもその小説から伝わってくるのではない。
三島 似たような経験をもっている人だけが共感する……。
石原 そういう意味で小説なら小説にたいして非常に懐疑的というか、そこまで小説というものは完全ですばらしいものだとはおもわないのですがね。
三島 しかし、足りない材料でやっているのが小説家ではないか。言葉は足りない材料だよ。映画ではもっと雄弁な材料があるでしょう。映画でジョン・ウェインが馬のうえでパンパンと人を倒す。そのときにシネマスコープを見ているものは、ジョン・ウェインとおなじような快感を味わう。それは芸術ではない? 言葉という足りない材料でいかに表現するかということが芸術ではない?
石原 小説には読む者のイマジネーションが働く余地があるわけですね。
この「新人の季節」の最後には、「道徳紊乱者の光栄」として、三島は石原に向かって 「あなたは作家だろう。ゲーテのロマン派体験の場合にはゲーテのウェルテルは自殺しちゃうのだ。そしてゲーテ自身は生き返る。あなたの『処刑の部屋』でも、主人公は恐らく助からんだろう。そういうものであれは生きているのだよ。そこで作品がどうしても出てこなければならないのだね。だから太宰を僕がきらいなのは、一つの時代といっしょに死んじゃったということがいちばんきらいなんだよ。もっと人間というものは、永続するものだという確信を持つことね。それが文学だとおもうね。平凡な議論だが」と述べるのでした。
昭和39年1月に行われた対談「七年後の対話」では、石原が「僕は1つの小説の効用、社会的方法としての小説を信じますね。でも三島さんはそう信じない作家だと思うし、三島さんは自分でいつもそうじゃないとおっしゃっている。だからいつも言うんです。三島さんがどんないい仕事をしてもちっとも気にしない、あんなものこわくないって」と言えば、三島は「でも石原さんの作品を見て解るのは、結局人間同士の連帯感というものへのあなたの最後の夢があるんだよね。そういう夢は、それこそ政治でもできることかもしれないし、実業でもできることかもしれないし、文学でもできることかもしれない。だけど文学だけという連帯感というのは特殊なものだと思いますね。ほかのもので絶対できない連帯感だ。それは何だというと、言葉しかないんだよ。そこに『窮鼠かえって猫を嚙む』ような文学者のやり方があるんだよ。あなたの夢は美しいと思うけど、その夢をどこで捨てるかだな」と語っています。
また、石原が「僕は小説を書いていて、いつも感じている焦躁感、絶望感みたいなものがある。それは『太陽の季節』はたまたま実際あった風俗というものをとらえていたので、その媒体で読者というか、社会から遊離したところでとまらずに、つながってくっついたでしょう。だけどもその他の作品では自分が感じている一つのクライメートみたいなもの、志向している風土とか感情とかいうものが日本人とか日本の社会に永久に合わないんじゃないかというような感じがするんですがね」と言えば、三島は「僕は日本の作家はみんなそうだと思いますね。自分は日本に合わない、そして日本人に合わない・・・・・・僕だってそれは感じます。だけど日本人なんです」と返します。
ここで、編集者は「石原さんの文学は、三島さんだってそうだけど、たとえばだれと似ているという人はいませんね。全然違うような気がしますよ。つまり小説を書くということはほんの何分の一かじゃないかという気がする。生きていくことの上で・・・・・・」と言います。すると、すかさず石原は「それは違うな」と否定し、三島も「そんなことない。一所懸命ですよ。それは非常によく感じますね」と述べます。石原は、「ただ僕はほかのこともしながら小説を一所懸命書こうと思っているだけで。でも小説だけ書いたら自分がダメになっちゃうというのかしら。僕は28歳まで背が伸びていたんですよ。だから50になり60になるための自分の栄養とかそういうものを今でも蓄えてないとね。三島さんみたいな卑小な肉体じゃないからね」と言い放ちます。
すると、三島は「裸になって比べよう。いつでも比べますよ。洋服着てちゃわからない」と言うのですが、石原は「つまり三島さんは自分というものをそういうふうに武装したり整えたりするのにボディビルですんじゃうけど・・・・・・三島さんって生まれる前から自意識をもった人だから。僕はそうじゃない。ヨットレースへ行ったりよけいなことをするのは、小説を書くために、文学に利用するためにという決してそういう意識じゃない。もっと文学以前の生理生活の欲求です」と言います。三島は、「あなたが一所懸命だということは、僕はあなたに対して終始一貫感じていることだよ。だけど世間は必ずしもそうは思わないね。それは日本の社会というものだよ。ほんとにそう思う。日本の社会というものは、一つ事をやればいくらルーズにやっても一所懸命だと思っている。そして幾つものことをやれば一所懸命と思わない」と言うのでした。
さらに三島は、以下の興味深い日本人論を述べます。
「日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式的完成に対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。それはみんな文芸批評家や文学史家がある意味で見逃していることであって、内容的なものは日本人には本質的なものじゃない。自然主義運動と一口に言うけれども、自然主義運動は何だ、私小説運動は何だというと、小説という新しい形式をいかに咀噛し、いかにこれを形式的に完成するかという努力なんだ。それは、小林秀雄氏がフォルム、フォルムとしきりに言うけど、日本人の直感的なものだね。どうしてもそういうものがないと日本人は満足しないんだから」
昭和43年2月に行われた対談「天皇と現代日本の風土」では、前年に自殺した円谷幸吉(東京オリンピックのマラソン銅メダリスト)に言及し、「『円谷の死』と自尊心」として、三島が「ぼくはやっぱり、ああいうふうに自尊心の根拠が危なくなったら死ぬっていうの、とっても好きなんだよ。われわれ文士は自尊心の根拠が危なくなったかどうかわからないだろう。それで苦しむわけだ。例えば、ある人はぼくのことをね、三島が自尊心の根拠と思ってるものはありゃあしない、と言うかも知れない。君を目してもそら言うかも知れない。生きてるだろう。今生きてるってことは、何かの言訳にすぎないだろう。だけど円谷の自尊心の根拠は、走ることと誰の目にも見えるでしょう。走ることは大したことかどうかわからない。オリンピックはつまらぬものかも知れない。彼の自尊心の根拠は誰の目にも見えて、それが危くなったということも誰の目にも見えて、彼はそれをよく知ってて、それを守るには、死ぬことしかないということを知ってて、死んだんだからね。本当にりっぱだよ」と言います。すると、石原は「三島さんもノーベル賞をもらえないと自殺するかも知れないんじゃあないんですか?」と言うのでした。なかなか辛辣ですね。
また、「天皇制の自己認識」として、両者は以下のような対話を繰り広げます。
三島 君は天皇制というのに興味ないんだろう。
石原 ぼくはないなあ。
三島 今に痛い目に合うよ。(笑)
石原 しかし一つの念願する国家的、社会的状況を作るカタリストとしては、有効性があると思いますがね。その前にもう少し天皇制というものを手作りし直さなければいけないね。
三島 手作りとは、何の?
石原 いろいろとありますよ。
三島 それは宮内官僚を変えるということの?
石原 それに、やっぱり天皇としての自覚を持って頂きたい。
三島 それはぼくも賛成だよ。だけどそれは、全然有効性という問題じゃあないよ。ほとんど無効性の極致だ。天皇制というのは、昔から。
石原 いや、そうではないと思うな。やっぱり維新を見てみても、天皇は非常に有効に使われているじゃあないですか。意識・無意識に明治の天皇はあの役割を見事に果たしてますよ。明治天皇はごくスタンダードな君主だったと思います。しかし結果として名君になりえたというのは、側の人間が手作りしたところもあるでしょうし、自分が意識的に受け入れたところもあるでしょう。この間、三島さんがおっしゃった、日本の今上天皇は、立憲君主というものを、ある意味でまともに信じられたということ。ぼくは本当にそう思いますね。そうでない賢しさというものを次の天皇に持ってもらいたい。
さらに、天皇について三島は「つまり日本をね、日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマールとして、天皇しかないんだよ。はっきりしていることだ。ぼくはね、それ以外にはあまり日本的なものというものを信じないね。そういう意味では天皇しかないんだ。というのは、この間インドに行ってみて、つくづく思ったことだけれども、インドのヒンズー教というのは、インターナショナルな宗教じゃあないですね。それからキリスト教に対するユダヤ教というのも、インターナショナルな宗教じゃあないね。日本の天皇制もそうでしょうね。日本の国から外へ、天皇を信じさせようとするのは、ぼくは無理だと思うし、大東亜共栄圏なんていう考えは持たないね。日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。いろいろ考えてみたんだが」と語っています。すると、石原は「それはよく解る。ただね、天皇的存在というのは、おっしゃるように、非常に日本的なものだ。しかし、天皇的存在と、現実の天皇は重ならない。これが一番具合いが悪い」と言い、それを受けて三島は「だから結局は、イメージということの意味を、天皇自身が認識されることしかないね。つまり、自分はイメージなんだ、ということを本当に認識されるほかない。それは『天皇制の自己認識』という問題になると思うんだけど」と述べるのでした。
この対談の最後では、祭主としての天皇について、両者が語り合います。石原が「やはり祭主というものは、お祭りの時、奥の殿から目を見張るような白い衣装を着て出てこなくちゃならない。しかしなお期待され、すでに知られていないとね」と言えば、三島は「そうなんだよ。祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかない、それが天皇だという考え。そのために時間的伝達と空間的伝達とはクロスしない。はなれているんだ。そこで一人必ず時間的伝達をやってる人がいる。祭主なんです。祭主が神前で日本の伝統と連続性とに向い合ってるということだよ。だから天皇も国民とは接触した皇太子がそれだけの孤立感にたえうる覚悟があるかという問題だね」と語るのでした。
昭和44年11月に行われた対談「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」では、三島が以下のように語っています。 「ぼくは日本文化というものを守るということを考える場合に、何を守ったらいいのかといつも考えてきたですよ。歌舞伎やお能というのは、共産社会になったって絶対だいじょうぶですよ。レニングラード・バレーと同じで、いつまでもだれかが大事にしてくれますよ。それからお茶だって、お花だって、こんなものは共産社会になっても生き延びますね。それなら日本文化が生き延びれば、おまえいいじゃないか、と。法隆寺だろうが、京都のお寺だろうが、いまあんなものをこわす馬鹿な共産社会はないですよ。皆いい観光資源になっていますから……。古典文化というものは大体生き長らえるでしょうね。最後に生き長らえないものは何かというと、共産社会では天皇制はまず絶対に生き長らえないでしょう。それからわれわれが毎日書いているという行為は生き長らえないでしょう。というのは、これから先に手が伸びょうとするとき、その手をチェックするでしょうね、いま生きている手はね。従って、いまわれわれがこうして書いている手と、天皇制とは、どこか禁断のものという点で共通点があるはずなんです」
この対談では三島はおそろしいほど饒舌であり、「ぼくにとって最終的な理念というのは、文化の全体性を保証するような原理。そのためなら命を捨ててもよろしいということをぼくはいつも言っているんです。保証する原理というのは、この世の地上の政治形態の上にはないですよ。ですから三派が直接民主主義なんてことを言うと、どうして日本に天皇があるのに直接民主主義なんてことを言うんだ、ああいうものがあるんだから、君らの求めるそういう地上にないような政治形態を天皇に求めればいいじゃないかって言うんですよ。ぼくは天皇を決して政治体制とは思っていませんけれども、ぼくは文士ですから、文士というものはいつも全体性の欠如に対して闘う、という観念を持っている」とも述べています。それに対して石原は、「男の原理を守る」として、「天皇だって、三種の神器だって、他与的なもので、日本の伝統をつくった精神的なものを含めての風土というものは、台風が非常に発生しやすくて、太平洋のなかで日本列島だけが非常に男性的な気象を持っていて、こんなふうに山があり、河があるということじゃないですか。ぼくはそれしかないと思うな。そこに人間がいるということだ」と述べます。それを聞いた三島は「君は風土性しか信じないんだね」と言い、石原は「結局そういうところへ戻ってきちゃうんですよ。それしかない」と答えるのでした。
石原は、「風土も伝統もけっこうだけど、それを受け継ぐ者がいる。それがなけりゃ、そんなものあったって仕方ない。ぼくがとても好きなマルロオの言葉に『死などない、おれだけが死んでいく』、ぼくの存在がなくなったときに何もかもが終焉していい。自分の書いてきたものもその時点でなくたっていい。結局、自分が示して守るものというのは、自分の全存在つまり時間的な存在、精神的な存在、空間的な存在、生理的な存在、それしかない。それを守るということは、それを発揚するということです」と述べます。また、三島が率いる「盾の会」について、「『楯の会』では、まだクーデターはできない。そこに悩みがある」と言います。それに対して、三島は「しかしまだ自民党代議士、石原慎太郎も大したことはないし、まだまだおれも先があると思っている。(笑)」と言いますが、石原は「いまの反論はちょっと弱々しかった(笑)。しかしほんとにぼくは思うな。三島さんのテンペラメントというのは、最初から肉体を持っていたら……。(笑)」と言い、三島は「別のほうに行ってたんだよ」と言い、さらに石原が「行っていたね」、三島が「だけど、いまさらどっちもね。困っちゃったんだ」、石原が「そして自分で効率よく自分を文豪に仕立てた責任もあるしね。ああいう政治能力をほかに発揮したらどうですか」といった具合に、まるで真剣で斬り合うような緊張感に満ちた言葉の格闘技を展開するのでした。
また、三島は「男というのは動物ではない、原理ですよ。普通男というと動物だと思っているんだ。女から言うと、男ってペニスですからね。あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、いまの世間は大体男だと思っているんだろうがね。ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を守らなくちゃならないでしょう」と言います。一方、石原は「われわれは左翼に対してごちそうを出し過ぎていますよ。みんな食べられてしまう。われわれが一所懸命つくった料理を出すと、みんな食べられちゃうんです。カラスが窓からはいってきてみんな食っちゃう。左翼に食べられちゃったものは、第一がナショナリズム、第二が反資本主義、第三が反体制的行動だと思うんだ。この三つを取られてしまうと困っちゃうんだ。四つ目のごちそうはまだ取られていない。天皇制ですね。ここにおいてどうするんです」と言うのでした。
緊張感に満ちた【Ⅰ】に比べ、一転して【Ⅱ】に収録された対談は非常にくだけた内容で、楽しく読むことができます。昭和35年2月に行われた対談「モテルということ」では、「俳優心得のいろは」として、以下のような対話が展開されています。
三島 作家としてはおれの方が先輩だけれども、映画俳優としてはおれより先輩のあなたに、いろいろと俳優心得といったものを教えてもらおうと思ってきたんだから歯に衣きせずにいってくれないか。
石原 そうね。第一には、自意識過剰にならんことじゃないかな。
三島 どういう意味? そりゃ……。
石原 三島さんは舞台へ出てもドキドキしないでしょう?
三島 ぜんぜん、しないね。あがってるのに……。
石原 ところが、本職の役者は案外ドキドキしてるんですよ。
三島 すると、ドキドキしない方が自意識過剰なのかな。
石原 どうもそうらしい。とにかく、本職の俳優にはファンダメンタルなところではかなわないんだから、買われた地をもっと淡々に見せればいいと思うね。
この対談、昭和を代表する両作家としては信じられないほど下衆な内容なのですが(笑)、「お色気論」として、三島は「僕は、もてるということは、異性が性的に肉感をもって近づいてくることだと思う」と述べ、さらに「女だって、男が性欲をもって性的に興奮して近よってくる瞬間はありがたい気がすると思うね。100人の男にサインを求められるよりも一人の男が性的にひかれて近づいてくる方がもてたという気がするだろう。相手が好きな男だったらだがね。つまり、男だって女だって相手の性的興奮をぬきにして、ただ、もてるとかもてないとか、いっているのは、まったくおかしなことで、僕は、そういうもて方をしないからひがんでいうんじゃないが――もし、まちがってでも、もてるのなら、ひとりの女に裸で飛びこんできてもらいたいね」と言います。石原は「僕なんか女の人を精神的にも肉体的にもいろんな形で虐めることができて、それでも、まだついてきてくれるんでなくちゃ、もてたという気がしない」と言っています。じつに面白いですね!
昭和33年4月に行われた対談「作家の女性観と結婚観」では、「才女時代の文学者」として、三島は「この世の中には、意識と存在の二つしかないというんだね。女はもともと存在なんですよ。男は意識だから芸術を創るんです。そうして自分の存在証明をしなければならないんだ。たまたまそういう考えが強められたのは、あるとき円地文子さんに会って――円地さんは『美徳のよろめき』を批評して、『あれはやっぱり男の書いた小説であり、男の描いた女だ。というのは女には絶対他人にもらさない秘密がある。そうした女だけの知ってる感覚は、男には絶対想像のできるものじゃない。それは結局、女の作家が表現してすら、嘘になっちゃうかもしれないという、おそろしいものがある』と言ってたけども、それは女が存在に根を下しているからなんでね、男にはそういう存在性がないんだよ。だから男は仕方なく、自分の芸術を創って、それを証明してるにすぎないんだよ。たしかに僕ら女に対しては、いくら考えたって分らないよ。分らないからそれを一心に追究しようとするよ」と語っています。
昭和41年4月に行われた対談「あゝ、結婚」では、両作家が結婚について語り合います。「自分で自分を縛るということ」として、石原は「僕は結婚してハネムーンにいったでしょ。東京に用事があって帰ってきたその日の午後、家内つれて歩いていたら、靴下がずれたから待ってください、というから待ったんですよ。20メートルくらい離れて。側には誰もいなかつた。靴下を直して女房がトコトコとかけて追っかけてきた時、僕は立ちすくんだな。ゾっとして……。俺はこの女と――それは好き嫌いとか、他にいい女がいるということでなく――つまり一生この女と結びつけられたのか、そういう自縛感、こわさがあったなァ」と述べます。
それを聞いた三島は、「自分で自分を縛るということ、それ以外男が結婚する理由ないよ。どんな恐妻家でも、奥さんがその男を縛ってるなんて信じないね。どんな女だって男を縛るなんてできるはずがないからね。自分の中で自分を縛りたいという欲望があるからこそ、そこに女房とか子供がいるんだ。やっぱり人間本来の、巣をつくりたいとか、孤独から救われたいとか、どっかに根拠地がなければ困るとか、そういう思惑から始まったことでしょうね。もし別れてみれば、どうしてあんな女と一緒にいて我慢していられたのだろうと思い、半年くらいたって会えばきっとまたいい女だと思うに違いないよ」と語るのでした。
両者は父親についても語り合い、「父親は夭折せよ」として、三島は「失礼だが、君のお父さんが早くなくなられたことは、君の中で父と子の関係を、かなり美しくみせているんだよ。生きてるとまたうるさいことになるんだよ(笑)。君のお父さんがご存命だとすると、君とてもあんなきれいな小説かけませんよ(笑)。男というのは、生物学的な役割をはたし、息子に対する技術的な伝授を終わったら死ぬべきなんだよ。男盛りで死ぬべきだ」と言います。すると、石原は「三島さんのお父さんみたいに、ご健在で視力があって、お前の週刊誌は面白くないとか、お前週刊誌に書きすぎるぞ(笑)、なんていってくれる人がいた方が僕はいいけどね。僕は親父のやらなくちゃならぬことを、今やってるんだもの」と語るのでした。
この対談の最後は、「穴の中の動物たち」として、石原が「たとえばおしどりでも、それから逆にメスが美しい夫婦でも、つまり生物の形象というのは、やっぱりひとつの絶対的な表示ですよ。ある意味で。だから、よく外国の雑誌なんかに出ているけれど、似たもの夫婦といって、年とって70か80くらいになって、ほんとうによく似た夫婦の写真って見ることあるでしょう。あれは、内面はいろいろ問題があるかもしれないけれど、あそこまでゆきつけばいいんじゃないですかね」と言えば、三島は「そうだね。結論が出たね」と言うのでした。
あとがきにかえて「三島さん、懐かしい人」では、石原が三島との対談で一番覚えているのは最後の「守るべきものの価値」(1969年)であると告白し、「真剣持参の最後の対談」として、「もともとのテーマは『男は何のために死ねるか』だった。それで、男の最高の美徳とは何かっていう話から始めようとしたら、彼が『ちょっと待て、入れ札しよう。君も紙に書いて出せ。俺も紙に書いて出すから』といって、札を出したら、その答えがまったく同じだった。『自己犠牲』だったんだよ。そういうところは、ぴちっと合ったんだな。三島さんは、このときいろいろ気負っていたし、この対談を自分の対談集『尚武のこころ』に入れたとき、後記に『旧知の仲といふことにもよるが、相手の懐ろに飛び込みながら、匕首をひらめかせて、とことんまでお互ひの本質を露呈したこのやうな対談は、私の体験上もきはめて稀である』と書いている。それを読んだとき、奇異な感じがしたけど、その後、結局ああいう格好で亡くなったから、とても大事な対談だったと思います」と書いています。
また、「衰弱ぶりに涙が出た」として、石原は三島の最後の大作『豊饒の海』(1965~70年)に言及し、「誰も批判しないけど、冗漫で、文体がだらけていて、退屈な小説ですよ。野坂昭如が『あの大作について誰も何もいわない。「いいとか悪いとかいう前に、退屈で読めなかった」といったのは石原ぐらいで、ほかの人は読んだか読まないか知らないけど、誰も本気で論評しない』といっていた」と書いています。石原は、「読み終わったときに、あの人がかわいそうで泣いたんですよ。第4巻『天人五衰』の最後に『数珠を繰るような蝉の声がここを領している』ってあるけど、僕はあの箇所は気の毒で泣いたな。彼がたどりついた虚無の世界の表象でした。こんなに衰弱しちゃったのかなと思ったよ」、さらには「三島さんには実質的な兵役拒否に対する原罪感があったんじゃないかと思う。自分は頭がよくても、肉体的には決定的に見劣りしているという意識があったから、ボディビルを始めた。それによって、逆にあの人の生きている社会が本当に虚構になっちゃった」と述べています。「先輩作家について、ここまで言うか!」とは思いますが、先輩を愛するがゆえの心情吐露なのでしょう。
さらに、石原は「俺には何も残されていない」として、以下のように述べています。「僕は68年7月の参院選の全国区に出馬したんだけど、そのとき今東光も一緒に出た。実は、その同じ選挙に三島さんも出るつもりでいたらしいんだ。三島さんのお母さんと佐藤栄作首相の寛子夫人は仲がよかったんです。お母さんが寛子さんに「息子がつまらん、つまらんっていうので、困るのよ。それで、どうしてって訊いたら、川端(康成)さんがノーベル賞を取るし、石原は政治家になっちゃうし、もう俺には何も残されていないといっている」と話していたらしい。信じられなかったので、後で調べたら、一期前に全国区で当選していた八田一朗に、選挙資金がどれぐらいかかるか相談もしていた。自民党から出るつもりだったのか、自前で出ようと思ったのかわからないけど、出馬の相談をしているんですよ。結局、僕と今東光に先を越された形になって、その後、おもちゃを取られた子どもみたいに変にすねてしまって、僕の悪口をいい出したりしてね」
「事件の日と川端康成」として、石原は「あの日、70年11月25日は、ホテルニューオータニで仕事をしていた。そうしたら、秘書から『大変です。大事が起こっています』と電話が入って、市谷の現場に駆けつけた。すると、川端さんがどこか近くの宿屋か何かで仕事していたのか、先に来ていた。僕が着いたら、バリケードが張られていて、警察が『石原さんですか。まだ検証は済んでいませんが、現場をご覧になりますか』と訊かれたけど、先に川端さんが現場に入ったと知らされて、僕は断ったんだよ。なぜかそのときに遠慮して、現場に入らなかった。入らなくてよかった。その日の夕刊で三島さんが割腹しただけじゃなくて、首をはねさせていたことを知ったんだ。僕はやっぱり、転がっている彼の首を見たら、何かを感じたと思う。見ておけばよかったという気もするけど、やはりあのとき見なくてよかった。あれを見た川端さんは、あれから変になっちゃったからね」と書いています。
石原は、「川端さんは明らかに、胴体から離れた三島さんの首を見て何かを感じとったんだろう。川端さんも、ある意味では怖いものを書いてもいたけど。あんな耽美的な人が、自分の美的な世界とは異なる、まったく異形なものを見たわけでしょう。もともと睡眠不足でノイローゼ気味の人だったけど、事件の後、人と話しているときに『あ、三島君が来た』とかいったりして、おかしかった。川端さんもそれからまもなく死んじゃったからね。結局、三島さんは強がっていても、ある意味では弱い人だった。だから、ああいう虚構を張って、ああいう死に方をしないと、自分で書いた芝居の幕を下ろせなかったんだろうな」とも述べています。霊視ができるという美輪明宏氏によれば、三島由紀夫には「2・26事件」の磯部浅一の霊が憑いていたそうです。ならば、川端康成には三島由紀夫の霊が憑いたのでしょうか?
さらに、石原氏は「すべてがバーチャルだった」として、「以前、僕は『三島氏の死はあきらかにこの日本の社会に退屈をもたらした』と書いた。三島さんの死から40年だけれども、三島さんは予見性のある人だった。三島さんには分析力、洞察力があったし、鋭い人だった。それで独特のレトリシアンだったし。とにかく知的な刺激を受けましたね。そういうキラキラした人がいなくなっちゃったじゃない? 三島さんが死んで日本は退屈になった。これで僕も死んだら、日本はもっと退屈になるだろう。(笑)」と述べています。ちなみに、この石原氏の発言は2010年10月刊「中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後」のインタビューにおけるものです。
「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」と言われた三島の家に、石原は一度だけ行ったことがあるそうで、「ちょうどそのときに岡本太郎も来ていて、シンクで酒を飲んでいた。太郎さんに『どう、この家』と訊いたんだよ。そうしたら『俺はこんな贅沢趣味は嫌いだ』というから、『これは贅沢趣味っていうんじゃない、悪趣味っていうんですよ』といった。太郎さんが『そうだよな』とうなずいた。そのままいると、三島さんに「どうだい、石原さん」って訊かれるから、すぐに帰っちゃった。もしあの家が何エーカーかある丘の上に聳え立っていたらいいけど、同じ小さな敷地のなかには両親のための和風の家もあるし、庭にあったアポロ像にしてもレプリカのレプリカでだんだん形も崩れてきている。三島さんは自分の家のことを『インチキを本物らしく見せる』なんて書いていたらしいけど、あの家が三島さんだった、そんな感じがするね。あの人の肉体も同じだった」と述べます。
そして、石原は「結局、あの人は全部バーチャル、虚構だったね。最後の自殺劇だって、政治行動じゃないしバーチャルだよ。『豊饒の海』は、自分の人生がすべて虚構だったということを明かしている。最後に自分でそう書いているんだから、つらかったと思うし、気の毒だったな。三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。彼の虚構の世界の一つの大事な飾り物だったと思う」と述べるのでした。最後まで三島由紀夫に対して辛辣な石原慎太郎でしたが、その彼も今年2月1日にこの世を去りました。「完璧に死んでみせる」と言いながら死の恐怖と闘った石原でしたが、半世紀前にあのような死に方をした三島についての考え方を少しは変えたのでしょうか? わたしの「こころ」に多大な影響を与えた三島由紀夫、石原慎太郎両氏の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。