No.2192 冠婚葬祭 | 宗教・精神世界 | 神話・儀礼 『葬式不滅』 一条真也(オリーブの木)

2022.12.02

110冊目の一条本となる『葬式不滅』(オリーブの木)の見本が届きました。本書は、一条真也の読書感『葬式消滅』で紹介した島田裕巳氏の著書に対する反論の書です

葬式不滅』(オリーブの木)

版元のオリーブの木とは、現代書林の元社長である「出版界の真実一路」こと坂本桂一さんが新たに立ち上げられた出版社。本書は、オリーブの木から出る単行本の記念すべき第1号です。生まれたばかりの新しい出版社のイメージにもマッチして、本書のデザインは植物の芽吹きを思わせる若々しい躍動感に溢れています。書名の太いゴシック体から覗く色彩の豊かさは、人生の四季(葬式=冬)を愛でるセレモニーの奥深さを見事に表現しています。フォント横に飛び散るカラーにも、力強さや勢いを感じますね。

本書の帯

モスグリーンを基調とした本書の帯には、「故人のためか 遺族のためか 葬式の今を問う」「死生観は変わらない」と書かれています。オリーブの木のマークも、生命力に溢れた素晴らしいデザインだと思います。

本書の帯の裏

帯の裏には、「本書は島田裕巳著『葬式消滅』への反論である。」として、以下のように書かれています。
「当初、わたしは本書のタイトルを『葬式復活』にしようと考えていました。誤解のないように言うならば、葬式はけっして消滅していません。ゆえに復活させる必要はありません。では、なぜゆえ『復活』と考えたのか。それは、超高齢社会を迎えたわが国にとって、葬式も変わらなければいけないと思っているからです。ましてや、コロナ禍の今、ポストコロナ時代を見据えて、葬式は変わらなければいけません。要・不要論ではなく、どう変化していくかです。わたしはそれを『アップデート』と呼びたいと思います。その結果、わたしは『葬式復活』ではなく、『葬式不滅』であると思い至りました」

本書の「目次」は、以下のようになっています。
プロローグ「葬式は消滅しない」
第1章 『葬式消滅』への反論
~『葬式は、要らない』から
『0葬』、そして『消滅』へ

葬式は消滅しているのか
葬式はビジネスなのか
進化するセレモニーホール
葬式の歴史を語る
現代社会での葬式の在り方を問う
変貌する葬式
現代人の意識の変貌
オルタナティブな提案
簡略がキーワード
今、改善できるポイント
第2章 もう一度、
葬式について考える

これでいいのか、日本仏教!
現役僧侶の貴重な発言
お盆が意味するもの
日本人の「こころ」がお盆を必要としている
先祖崇拝は儒教?
葬儀を大切にしてきた儒教
儒教と冠婚葬祭
墓参りは必要!
お盆は休みのためにある?
日本人における「家」の役割
葬式仏教はグリーフケア仏教
家族葬の意味を考える
家族葬で本当にいいんですか
「迷惑」というキーワード
「迷惑」は建前、「面倒」が本音
面倒くさいことの中にこそ幸せがある
「終活」から「修活」へ
儀式とは何か
葬儀をあげる意味
葬儀の役割
葬式無用論を点検する
葬式仏教正当論?
ホモ・フューネラル
葬式とは「死者を弔う心」のあらわれ
儀式は永遠に不滅である
第3章 グリーフケアという役割
グリーフケアとの出合い
悲嘆を引き起こす七つの原因
死別の悲嘆のプロセス
わが社のグリーフケアへの取り組み
「月あかりの会」の具体的活動
「うさぎの会」という自助グループ
「悲縁」という結び付き
第4章 「永遠」というキーワード
時代の終焉を告げた葬儀
アントニオ猪木の葬儀
「あの人らしかったね」といわれるお別れ
元気がなけりゃあ、あの世にも旅立てない
安倍元首相の国葬
国葬をめぐる議論
エリザベス女王の国葬
王の儀礼、女王の国葬
第5章 葬式のイノベーション
「0」も「∞」も古代インド人が発明した
「0葬」は全体主義・根絶主義である
ブッダが考えたこと
ブッダが説いた「空」の思想
一度生まれたエネルギーは消滅しない
人は葬儀によって永遠に生きられる
月への送魂――人間の死は宇宙的事件である
「家族葬」のイノベーション
変化が起きる時差は50年
互助会が「無縁社会」を招いたのか
セレモニーホールの登場とその後
「コンパッション」の時代
「あとがき」

葬式消滅』VS『葬式不滅

新型コロナウイルスの収束が未だ見えない2022年6月、『葬式消滅』(G.B.)という本が出版されました。著者は宗教学者の島田裕巳氏。同書のアマゾン内容紹介には、「自然葬、海洋葬を実際に行ない、葬送の自由を進めてきた著者が、現在、そしてこれからの葬儀のカタチを紹介。直葬などの登場でお葬式はますます簡素で小さくなってきました。見送る遺族はお骨を持ち帰らないという葬儀もいよいよ出現。高額な戒名も不要、お墓も不要となってきた新しい時代のお見送りの作法や供養の方法などこれからの時代を見据えた情報を宗教学者が教えます」とあります。その『葬式消滅』のカウンターブックとして、『葬式不滅』は誕生しました。デザインが似ていることはもちろん、ページ数も価格もすべて同じです。おそらくは、島田氏も「ここまでやるか!」と思われたのではないでしょうか?

葬式は、要らない』VS『葬式は必要!

島田氏は、2010年に『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本を出版され、ベストセラーになりました。わたしは反論本という形で『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。同書を上梓した当時、盛んに『葬式は、要らない』とセットでマスコミに登場しました。それぞれ「葬式無用論」と「葬式必要論」の代表的論者として、島田さんとわたしは多くのメディアに揃って取り上げられ、ついに、ブログ「NHK収録」に書いたように、テレビの討論番組でも意見を激突させました。

0葬』VS『永遠葬

さらに島田氏が2015年、『0葬』(集英社)という本を書かれ、その折も反論という形で『永遠葬』(現代書林)を出版しました。同書は、意図的なカウンターブックであることを強調するため、判型・ページ数・定価など、『0葬』とまったく同じで、装丁も意識して作られています。 これは版元のアイデアですが、ここまで徹底しているのは見たことがありません。2冊を並べると、映画化もされた某ベストセラー小説のタイトルが浮かび上がってきます。もちろん偶然ですが……。

葬式に迷う日本人』(三五館)

そんな島田氏との因縁に終止符を打つつもりで、ご本人との対談本『葬式に迷う日本人』(三五館)を実現させました。本での論争ではなく、直接対決を試みたわけです。島田氏とわたしは、お互いに相手の話をきちんと聴き、自分の考えもしっかりと述べ合いました。当事者のわたしが言うのも何が、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっして馴れ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく…今後の日本人の葬送儀礼について、じつに意義深い対談となったように思います。なお、同書の担当編集者であった中野長武氏(三五館シンシャ社長)はプロレス好きで知られますが、「島田vs一条の対決は、もはや藤波vs長州の『名勝負数え唄』を彷彿とさせます」と言って下さいました。

しかしながら、三度、島田氏は『葬式消滅』というタイトルの本を出されたわけです。「三度目の正直」などと言いますが、「正直、島田さんも懲りない方だな」と思いつつも、無視できない気になるタイトルでもありました。なぜならそれまでの「葬式の要・不要論」は個人の選択の中にあったのですが、『葬式消滅』のタイトルや内容から感じた印象は「社会が葬式を必要としていない」――そんな印象を持ったからです。コロナ禍で社会が大きく変わろうとしていく中、葬式も含んだ儀式が大きな転換期を迎えているという実感がわたしにもありました。島田氏はそうした世の中の風潮を敏感に感じ取り、センセーショナルなタイトルの本を出されたのではないかと思いました。

島田裕巳氏と

当初、わたしは『葬式不滅』のタイトルを『葬式復活』にしようと考えていました。誤解のないように言うならば、葬式はけっして消滅していません。ゆえに復活させる必要はないはずです。ではなぜゆえ「復活」と考えたのか。それは超高齢化社会を迎えたわが国にとって、葬式も変わらなければいけないと思っているからです。ましてやコロナ禍の今、ポストコロナ時代を見据えて、葬式は変わらなければいけません。要・不要論ではなく、どう変化していくかです。わたしはそれを「アップデート」と呼びたいと思います。その結果、わたしは「葬式復活」ではなく、「葬式不滅」であると思い至りました。

島田氏との対談のようす

残ささなければいけないもの、変化させていいもの(場合によっては取りやめてもいいもの)と精査する時期だということです。あえていうのならチャンスです。それは葬式を営んできた寺、葬儀会社も変わらなければいけないでしょう。でも、葬式は必要です。葬式を消滅させる社会であってはなりません。わたしは『葬式は必要!』を20日間で書き上げて出版したときのことを今、思い出しています。「葬式は必要なのは当たり前。あえて、反論本など書かなくていい」「『葬式は、要らない』なんて本は無視すればいい」という声を数多く聞きました。正論かもしれませんが、しっかり必要性を説くことがわたしは重要だと思い、使命感をもって『葬式は必要!』を書きました。

今回も、あえて反論す!(日経電子版より)

ダムは小さな穴から決壊するといいます。小さな穴(『葬式は、要らない』)が生まれた理由があるのです。それはなんの前触れも、理由もなく生まれません。その時に、検証し、考えることが必要です。『葬式は、要らない』→『0葬』→『葬式消滅』という流れは、確実に「穴」が大きくなっている証拠です。個人の選択の問題から、死生観へ結び付き、さらには社会の風潮までもが、変わりつつあるということです。わたしは今回も無視することをやめました。あえて筆をとり、反論を挑みました。

青木新門氏の「お別れの会」に参加

「お別れの会」の入口での楽器演奏♪

2022年10月17日、わたしは福岡空港からANA1234便で北陸に飛びました。小松空港に到着したわたしは、迎えの車に乗って富山県富山市へと向かいました。JR富山駅前にあるオークスカナルパークホテル富山で開かれる作家の青木新門さんの「お別れの会」に参列するためです。富山はけっこう雨が激しく振っていました。午後3時頃に会場のホテルに到着しましたが、「お別れの会」の会場は2階でした。「お別れの会」の会場前ではピアノとチェロの楽器演奏が行われていました。わたしは、青木さんが書かれた名著『納棺夫日記』(文春文庫)を原案にした日本映画「おくりびと」を思い出しました。

本木雅弘さんが演じた主人公は、納棺師になる前はチェロ奏者でした。チェロ奏者とは音楽家であり、すなわち、芸術家です。そして、芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。絵画や彫刻などは間接芸術であり、音楽こそが直接芸術だと主張したのは、かのヴェートーベンでした。すなわち、芸術とは天国への送魂術なのです。拙著『唯葬論』の「芸術論」にも書きましたが、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものなのです。「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家です。そして、送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりえるのです。

「お別れの会」には大きな書棚が…

「お別れの会」の入口には大きな書棚があり、故人の書斎を再現した膨大な数の書籍が並べられていました。特に故人の机の最も近くに並べられていた本を集められたそうです。一見して、「死」や「哲学」や「仏教」に関わる本が多いことがわかりました。なぜなら、わたしの書斎に置かれている本と同じ気を放っていたからです。そして、その書棚を遠くから俯瞰して眺めていたとき、1冊の本がわたしの目に飛び込んできました。拙著『永遠葬』です。島田裕巳氏の『0葬』への反論本として書いたものですが、青木さんが気に入って下さり、青木さんのブログでも取り上げていただいたことを思い出しました。

書棚の中には『永遠葬』がありました

唯葬論』もありました

また、拙著『唯葬論』(三五館)もありました。しかも、梅原猛著『梅原猛の授業 仏教』(朝日新聞社)と五木寛之著『親鸞』(講談社)に挟まれています。生前の青木さんは仏教、それも浄土真宗に帰依されていたことは有名です。青木さんにとって親鸞聖人がどれほど大切な方であったかを良く存じていますので、拙著が並べられた場所に感動いたしました。その後、書棚の写真を拡大して見たところ、『死を乗り越える読書ガイド』、『死を乗り越える映画ガイド』(ともに現代書林)もあったことが確認できました。読書ガイドには『納棺夫日記』、映画ガイドには「おくりびと」が取り上げられています。それらについての拙文を青木さんが読んで下さったかもしれないと思うと、わたしの胸は熱くなりました。

青木新門氏の「お別れの会」会場で

ブログ「青木新門氏お別れの会」で紹介したように、「お別れの会」の会場は、ホテルのバンケットをフルに使って設営されていました。故人の人生や生前の活躍ぶりがよくわかる素晴らしいものでした。わたしは、すべてのパネルに目を通し、展示物を注意深く眺めました。青木新門さんの人となりが理解できたような気がいたします。会場内には、映画「おくりびと」コーナーや、その原案となった名著『納棺夫日記』のコーナーもありました。特に『納棺夫日記』は各種の出版社から刊行されたすべてのバージョンが揃っており、大変興味深かったです。

献花後、深々と一礼しました

大スクリーンには富山の立山連峰の雄大な写真とともに、青木さんの名言が映っていました。『納棺夫日記』の中にある「人が死を受け入れようとした瞬間に、何か不思議な変化が生じるのかもしれない。」という言葉も映し出されました。大スクリーンの右隣には、献花コーナーがありました。女性が持ったカーネーションが置かれたお盆から一輪受け取ると、わたしは「ありがとう」と書かれた祭壇に花を献じました。そのとき、青木さんに「大変お疲れ様でございました。そして、多くを学ばせていただき、ありがとうございました。青木さんが大切にされた葬儀という文化を、これからも守っていきます!」と心で語りかけました。そして、心を込めて一礼いたしました。

2022年8月6日、詩人で作家の青木新門さんが肺がんで亡くなられました。青木さんは、日本映画の名作である「おくりびと」の原案になった『納棺夫日記』の著者です。また、富山県富山市に本社を置く冠婚葬祭互助会であるオークス株式会社の顧問を務めておられました。わたしにとって、冠婚葬祭互助会業界の大先輩でした。青木さんは昭和12年、富山県下新川郡入善町のお生まれで、ながらく「納棺師」として葬儀の現場でご尽力しておられました。その尊いご体験が綴られているがゆえに、『納棺夫日記』は読み手の心を強く揺さぶります。そして、同書を原案とした映画「おくりびと」が公開されたことは葬祭業界においても非常に大きな出来事でした。

葬祭スタッフがお客様と話をする際に「おくりびと」という共通の話題と認識があることは、葬儀を担当する上でどれだけ助けられたことでしょうか。映画の中での美しい所作と儀式は、お客様が望むことを映画というメディアで表現してくれました。ご遺族が大切にしている方をこうもやさしく大事に扱ってくれるということはグリーフケアの上でも大切なことでした。『納棺夫日記』と「おくりびと」のおかげで葬祭スタッフに対する社会的地位も変わったのではないかと感じるところもあります。何よりも、自分の仕事へのプライドを彼らに与えてくれました。

生前の青木新門氏と

2016年6月6日、わたしは富山で青木新門さんにお会いしました。そのとき、島田裕巳氏が『葬式は、要らない』を出した時、青木さんは当時本願寺の教学研究所の所長をしておられた浅井成海師と対談形式で『葬式は要る』と題して出版する計画があったという話をお聴きしました。ところが企画したPHP研究所と打ち合わせていたら浅井氏が末期癌で急逝され、出版の話はたち切れとなってしまったそうです。そうこうするうちに、わたしの『葬式は必要!』が出版され、青木さんの想いも代弁されていると感じられたので、『葬式は要る』の出版は断念されたそうです。その他にも、青木さんから貴重なアドバイスもたくさん頂戴しました。わたしにとって、葬儀の意味を改めて学ぶことができた有意義な時間となりました。

青木さんとの会話はすべて楽しく有意義な内容でしたが、特に青木さんが「月への送魂」に興味を持っておられたことは意外でした。浄土真宗に代表される伝統的な葬儀しか認めておられないイメージがあったからです。青木さんが仏教に深い造詣を持ちながらも、非常に柔軟な発想をされる方であることがわかり、嬉しくなりました。青木さんと初めてお会いした夜に、わたしはブログを書きました。その最後に、わたしは「今度は、ぜひ、九州の夜空に上った満月を見上げながらお話したいです。青木新門先生、今日はお会いできて光栄でした。『一条さん、あなたに会いたかったんですよ』とのお言葉、嬉しかったです! 今後とも、御指導下さいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます」と書きました。

青木氏と葬儀について語り合う

その後、一度だけJR京都駅のホームで偶然お会いしましたが、ゆっくりと葬儀談義をする機会には恵まれませんでした。青木さんが訴えられた葬儀の意義と重要性は、日本の葬祭業界のみならず、日本人の死生観に広く影響を与えられました。青木さんは、島田氏の著書『葬式は、要らない』『0葬』に対する反論書を本当は自分でお書きになられたかったと思います。しかし、わたしが先に『葬式は必要!』と『永遠葬』を書いてしまいました。それでも、青木さんは「良い本を書いてくれました」と喜んで下さいました。まことに、感謝の気持ちに耐えません。

故人の想いを書名に込めました

今、三たび、島田裕巳さんは『葬式消滅』を発表されました。前の2冊と比較しても、今度の本が一番強力のように思いました。わたしは、その反論書を『葬式復活』と題して書くことを決意しました。実際、青木さんの訃報に接した8月7日から書き始めました。そして、青木さんの「お別れの会」が開かれた10月17日、『葬式復活』というタイトルを『葬式不滅』に変更することを決意しました。なぜなら、葬式はけっして消滅していないのですから「復活」というのはおかしいし、何よりも青木さんの言葉を思い出したからです。お会いした日の最後に、青木さんは「葬儀は絶対になくなりませんよ」と言われました。「『葬式は、要らない』じゃなくて、『葬式は、なくならない』ですよ」とも言われました。そのときの青木新門さんの言葉が、本書『葬式不滅』のタイトルには込められています。多くの死者に導かれて書き上げた本書を、謹んで故青木新門氏の霊前に捧げたいと思います。
なお、本書は12月7日に発売されます。どうか、御一読下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

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