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No.2201 芸術・芸能・映画 『映画の構造分析』 内田樹著(文春文庫)
2022.12.28
『映画の構造分析』内田樹著(文春文庫)を読みました。「ハリウッド映画で学べる現代思想」というサブタイトルがついています。本書は2003年に単行本が刊行され、2011年に文庫版が刊行されています。著者は、1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院博士課程中退。2011年3月、神戸女学院大学大学院文学研究科教授を退職。現在は同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、映画記号論、武道論。2007年『私家版・ユダヤ文化論』で第6回小林秀雄賞を受賞。『日本辺境論』で新書大賞2010を受賞。
本書の帯には、「『エイリアン』に『大脱走』、『ゴーストバスターズ』に『北北西に進路を取れ』……etc.」「映画を通じてラカン、フーコーらの難解な術語を分かりやすく説明する、画期的な1冊!」「大人なら映画はこう読むべし?!」と書かれています。また、カバー裏表紙には、「〈この本の目的は、(中略)『みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること』にあります。〉『エイリアン』と「フェミニズム」、『大脱走』と「父殺し」、「ヒッチコック」と「ラカン」etc. ハリウッド娯楽大作に隠されたメッセージを読み解き、現代思想のエッセンスを伝える、極上の知的エンターテイメント。内田樹の初期代表作!(解説・鈴木晶)」との内容紹介があります。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
第1章 映画の構造分析
0 物語と構造
1 テクストとしての映画
2 欠性的徴候
3 抑圧と分析的知性
4 「トラウマ」の物語
第2章 「四人目の会席者」
と「第四の壁」
第3章 アメリカン・ミソジニー
――女性嫌悪の映画史
「あとがき」 「文庫版のためのあとがき」
「解説」鈴木晶
第1章「映画の構造分析」の0「物語と構造」の冒頭を、著者は「あらゆる物語には『構造』があります。これはほんとうです。すべての小説は『人が歩いてきて穴に落ちる。落ちて死ぬ』か『穴から這い上がる』か、どちらかの話である、という説があります。なるほど。そんなものかも知れません。まあ、これは極端なたとえですけれど、物語が物語として成立するためには、どうしてもそれだけは書き込まないといけないいくつかの『仕掛け』というものは間違いなく存在します」と書きだしています。
著者いわく、メディアから提供されるすべての情報は「物語」です。国際政治も経済も社会問題も、どのトピックについても、わたしたちは物語を通じてしか、それについて知ることも、論評することも、態度決定することも、メッセージを発信することもできません。著者は、『物語を排し、真実のみを語れ』というような無謀なことを言う人がいますが、これは世の中の仕組みの分かっていない人の寝言です。物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。そんなことできるはずがありません」と述べています。
あらゆる科学的理論は「仮説」です。「仮説」というのは「とりあえず作ってみたお話」のことだとして、著者は「ですから、アインシュタインは、科学者の栄光とは『彼の立てた仮説が、そのあとに出されたさらに包括的な仮説の中に、限定的事例に妥当する理論として引き続き居残れること』にある、と語ったのですし、カール・ポパーは科学的精神とは、自説を傍証する事例ではなく、自説を反証する事例を優先的に探索するような知性のあり方のことである、と書いたのです」と述べています。
アインシュタインもポパーも言っていることは同じであり、科学的理論とは「とりあえず作ってみたお話」であるという著者は、「その節度を知るものが科学者であり、『あらゆる事例に汎通的に妥当する真理』を自分は知っていると思い込んでいるものは科学者ではない、ということです。私たちは日常的に遭遇するややこしい事態を説明しようとするとき、必ず物語を通じてそれを語ります」と述べ、さらに「『知る』とは『物語る』ことです。物語抜きの知は存在しません。これはとてもたいせつな、この本の全体を貫く縦糸になる知見です」と述べるのでした。
わたしたちは思考するとき知るとき、お話を作ります。お話を作るときには、「それを利用することなしにはお話が作れない枠組み」というものが存在します。この枠組みのことを、クロード・レヴィ=ストロースは「構造」と名づけたと紹介し、著者は「物語が物語として成立するために経由せざるを得ない構造は、さいわいそれほど多くはありません。ウラジーミル・プロップという学者は『昔話の形態学』という研究で、ロシアの民話を収集して、そのすべてについて構造分析を施したことがあります。その結果、登場人物のキャラクターは最大で7種類、物語の構成要素は最大で31という結論を得ました」と述べます。
ウラジーミル・プロップが発見したこととは、「家族の誰かが行方不明になる」「主人公はその探索を命じられる」「贈与者が呪具を与える」「呪具を利用して移動する」「悪者と戦う」「主人公の偽物が現れる」……などなどです。著者は、「これはロシアの民話の構造分析ですが、いまどきの子どもたちがやっているダンジョンズ&ドラゴンズ系のRPG(お城の地下室でドラゴンを退治してお姫さまを奪還する)の物語設定は今でもプロップが採集した民話とほとんど同一の構造を保っています」と述べるのでした。
1「テクストとしての映画」では、情報処理の用語で言うと、どこからでも好きなようにデータ・ソースに入り込むことができる仕方を「ランダム・アクセス」、頭から順番に検索して求めるデータにたどりつく仕方を「シーケンシャル・アクセス」と言うことを紹介し、著者は「CⅮやDVDは『ランダム・アクセス』ができるツールであり、カセットテープやヴィデオテープは『シーケンシャル・アクセス』のツールです。書物というのは実によく出来たメディアで、ランダムにもシーケンシャルにも読むことができます。映画もリモコンを手にDVDやLDで見ているときは書物と同じように2つのアクセス方法に開かれています」と述べています。
では、映画と書物はどんどん接近していると言い切ってよいのでしょうか。著者は、「やはり決定的な違いはあると思います。それは文学作品の製作にはほとんどコストがかからないが、映画作品の製作には莫大なコストがかかる、という点です。SF作家は原稿用紙とペンだけで(いまならパソコン1台で)、サイバースペースを疾走するヴァーチャル・ヒーローの冒険も、水没した地球を覆う熱帯雨林も、平安京上空で咆吼する悪霊も『原価ゼロ』で描写することができます。しかし、これと同じものを映像と音響で再現するのは膨大な資金と人材を要する仕事です。『作るのにお金がかかる』、それがほかのあらゆる芸術表現と映画を隔てる特徴です」と述べます。
著者によれば、ある映画が観客に支持されたという事実は、興行収益や観客動員数だけで計測できるものとも言えないといいます。というのは、メディアの「煽り」の効果で、上映時点では大量の観客を動員しながら、観客の心にまったく残らない映画があるからです。1年経って、その映画の話題になったときに、見たはずなのだが、何一つ思い出せないし、コメントもできないという映画はいくらもあります。著者は、「興行的には限定的な観客しか動員できなかったけれど、多くの人々がその映画について繰り返し語り、その映画を参照枠として、文化や社会についての説明がなされた場合、自分が『見ていない映画』なのに『見たような気分になる』ということがあります」と述べます。例えば、ジャン=リュック・ゴダールの映画は興行的には成功したとは言えませんが、ゴダール「について語った」膨大な映画論的言説は、映画批評という枠をはみ出して、文化論や社会論のレヴェルにも流通しました。
その結果、私たちはゴダールの映画そのものを見ないでも、ゴダールの映画を見た時代の空気を吸引し、その結果、見たことのない「ゴダール映画」に影響されて、考えたり、しゃべったり、何かを創造したりする、ということが起こります。小津安二郎の映画も同じであるとして、著者は「日常の立ち居振る舞いや、言葉遣いのはしばしに小津安二郎の映画の身ぶりや台詞やイントネーションが染み込んでしまった人は少なくありません。そして、その人たちの「小津風」の語り方や世界の眺め方は、彼らを『ケルン(核)』にして、その周辺の人々に間接的に浸透しているはずです。ですから、私は『観客の参与』ということを単純に興行利益や観客動員だけでは計測できないだろうと考えています。ゴダールや小津安二郎の場合のように、映画の『二次的利用』ということがありうるからです」と述べるのでした。
著者いわく、映画には「作者」はいません。これは考えればすぐ分かることだとして、著者は「例えば、『七人の侍』(1954)を『太宰治の作品』というような意味で『黒澤明の作品』と呼ぶことはできません。そこには監督の外に脚本家やカメラマンや多くのスタッフと俳優がかかわっており、それらの無数の人々の主体的な参与の結果として作品が成立しているからです。志村喬や三船敏郎のいない『七人の侍』を私たちは想像することができません。仮に他の条件がすべて同一で撮影がなされたとしても、その2人の俳優が違う俳優であれば(志村喬の役を笠智衆が、三船敏郎の役を石原裕次郎が演じていた場合を想像してみて下さい)、それはまったく別の作品となっており、それが映画史に残した影響や意味も一変していたでしょう」と述べています。まさに、その通りですね。
ハリソン・フォードはあるインタビューで、『ハリソン・フォード 逃亡者』(The Fugitive,by Andrew Davis,1993)では「監督、主演、製作」を兼務して映画をコントロールしていたそうですね、と問われて、「それは違う。ぼくは監督でもプロデューサーでもない、ぼくはフィルムメーカー(filmmaker)だ。それはチームの一員である、ということだ」と答えたそうです。著者は、「これは映画作りに携わる人間の言葉として、たいへん適切な表現だと思います。『フィルムメーカー』はプロデューサーや監督だけを意味するのでなく、映画の製作にかかわったすべてのスタッフ、キャストの一人一人の自称であると同時に、彼ら全部を含む集合名詞である、とハリソン・フォードは考えているようです。私はこの考え方に賛成です。とりわけそのような無数の人々のネットワークだけが生み出す総合的な「効果」を『フィルムメーカー』という語で擬人化して表現することは本書の以下の分析ではとても有用だろうと思います」と述べるのでした。
2「欠性的徴候」では、『ティファニーで朝食を』に登場する奇妙な日本人を取り上げ、著者は「日本人『のようなもの』を代理表象として置くという仕方で、『ティファニーで朝食を』は日本人を『処理』しました。何かを『そのもの』ではなく、その『記号』に置き換えること、これは精神分析の用語では『原抑圧』と呼ばれる機制です。『ティファニーで朝食を』が作られた1961年というのは、太平洋戦争が終わってまだ16年目のことです。自分自身が、あるいは身近な人々が、日本人と戦い、殺し合い、傷つけ合ったアメリカ人をこの映画の観客は含んでいました。彼らのまだ癒合していない傷口に触れないためにも、おそらくフィルムメーカーは、この映画の中には、『記号』以外の仕方で日本人が存在することを望まなかったのです」と述べています。
「『大脱走』を読む」では、1963年のジョン・スタージェス監督の映画を取り上げます。第2次世界大戦下のドイツ。北部の捕虜収容所に、連合軍兵士の脱走常習犯たちが集められる。脱出不能と言われるその場所でも、逃げ出すことを諦めない男たち。やがて、総勢250名にも及ぶ集団脱走の計画が動き始めました。この映画『大脱走』にはどのような映像記号が乱舞しているのでしょうか。著者は、「友情とかチームワークとか勇気とか知謀とか、そういうものは映画のストーリーライン『そのもの』ですから、『それとは気づかれないような仕方で』という定義に反します。先に答えから言ってしまいましょう。『大脱走』から私たちが読み出すのは、ラカンが『盗まれた手紙』から読み出したのと似たものです。それは、『抑圧とそれを逃れる代理表象の物語』です」と述べます。
3「抑圧と分析的知性」では、「マクガフィン」という言葉が登場します。それが存在すること、それが「何であるか」という同定を忌避することで、物語の中枢を占め、人々を支配している装置のことをヒッチコックは「マクガフィン」と名づけました。著者は、「マクガフィンとは『機能する無意味』あるいは『無意味であるがゆえに機能するもの』と言い換えることができます。ヒッチコックの場合、マクガフィンはしばしばスパイ映画において、『人々が命がけで奪い合うもの』のかたちを取ります。密書、マイクロフィルム、暗号、鞄、メッセージなどです。観客も主人公も、映画の最後までそれが何であるかを知りません(場合によっては、それが何か分からないまま映画は終わります)」と述べています。
4「『トラウマ』の物語」では、アメリカの文化史的文脈ではトラウマを語る物語は(それこそが「物語の王道」なのですが)「恐怖譚」のかたちをとることになったことが紹介されます。「モンスター」あるいは「ゴースト」をめぐる無数の説話群がそれです。著者は、「抑圧されたものが症候として回帰するとき、それは必ず『不気味なもの』という形姿をまとう、というのがフロイトの洞見でした。これはハリウッド・ホラー映画にそのままあてはまります。なぜ、アメリカ映画があれほど大量のホラー映画を生産し続けているのか、その理由は簡単です。ホラー映画は「抑圧されたものの回帰」(revenant=回帰するもの/不気味なもの)についてのアメリカ的な決着のつけ方なのです。ですから、『13日の金曜日』(Friday the 13th,by Sean J.Cunningham,1980)も『エルム街の悪夢』(Nightmare on Elm Street,by Wes Craven,1984)も、本質的にはエンドレスなのです」と述べます。
第3章「アメリカン・ミソジニー――女性嫌悪の映画史」では、その冒頭を著者は「アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。珍しいことに、この点については、多くのフェミニストが私と同意見である」と書きだしています。ほとんどの点で著者とは意見を異にするという『抵抗する読者』を書いたジュディス・フェッタリーも、この点については著者と同意見で、「アメリカ文学は男の文学である。古典的アメリカ文学と今日考えられている作品群を読むことは、おそらく自分が男であると認識することでもあろう。(・・・)アメリカ文学は男の文学なのである。わたしたちの文学は、女をほうっておきもしないし、かといって参加させるわけでもない。わたしたちの文学は、その普遍性を主張するときですら、男のことばでそれを定義するのだ。(・・・)アメリカは女であり、アメリカ人であることは男であること意味する。そしてもっとも重要なアメリカ的経験は、女を裏切られることである」と述べます。フェッタリーによれば、アメリカ文学はその発生の瞬間からすでに女性嫌悪的だったとか。
1980-90年代に限って言えば、日本ではあからさまに女性嫌悪的な映画で興行的に成功したものは存在しないと指摘し、著者は「誰でも知るとおり、この時期に日本映画で圧倒的なポピュラリティを獲得したのは、自然と文明を媒介する魅力的な少女たちを主人公に据えた宮崎駿の映画群である。宮崎の映画には、ハリウッドが量産している種類の定型的な『嫌悪される女性』は1人も登場しない(かろうじて『ルパン三世・カリオストロの城』の峰不二子がいるが、彼女は最初から最後まで、どんな男にも権威にも服しないスタンドアローンの「不死身」の女賊であり、その点ではハリウッド映画的ではない。『風の谷のナウシカ』のクシャナも、『もののけ姫』のエボシ御前も、「悪女」系のキャラクターではあるが、彼女たちは男に屈服しないし、最後に死ぬわけでもない。これではアメリカ的基準からする「いい女」には入らない)」と述べます。
さまざまな女性嫌悪ストーリーをチェックしているうちに、著者はそれがどのような説話原型を好むのかということがだんだんと分かってきたそうです。もっとも頻繁に反復される話型は次のようなものであるといいます。
(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威(地位、富、情報、そして一番多いのが「父親の権力」)ゆえに、参入を許される。
(3)男(たち)はこのテリトリー侵犯を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる(しばしばこの女性は複数の男性にとっての欲望の対象となり、その競合の中で男たちの団結が破壊される)
(5)男(たち)は団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。
そして、この説話のもっとも典型的な1つがMGMミュージカル『私を野球につれてって』(Take Me out to the Ball Game,1949)だといいます。著者は、「これは表層的にはまったくそのような底意があるように見えない脳天気な恋愛ミュージカルであるが、私見によれば、『ハリウッド映画史上最悪の女性嫌悪映画』である」といいます。野球チームの新オーナーに就任した女性(エスター・ウィリアムス)がとりあえずレイプを免れているのは、男たちが自分の都合で(恋敵への遠慮やペナントレース終盤の緊張感から)「ちょっとだけ」我慢しているからなのであるという著者は、「男がその気になったらあっという間にレイプされてしまうだろうという彼女の無防備さが映画では執拗なまでに暗示される。ずいぶんいやな感じの映画だな、と見終わった私は思った」と述べています。フランク・シナトラとジーン・ケリーの2人も「ゲイのカップル」に見えるそうです。
そして、『私を野球につれてって』と同年に公開された、これと酷似した状況設定を持つ映画があったことを思い出したという著者は、「私が思い出したのはジョン・フォードの『黄色いリボン』(She Wore a Yellow Ribbon,1949)である。ここではスターク砦という『男だけのテリトリー』に少佐の姪というやはり『アンタッチャブル』な女性がやってくる。彼女を欲望する若い将校たちのあいだの無用の鞘当てに、ジョン・ウェインの老大尉は不安を抱く。このエピソードは映画の中では点景にすぎず、物語の流れに深くは関与しない。しかし、『私を野球につれてって』と『黄色いリボン』が共有する状況に気づいたとき、私はそれが『歴史的事実』であることに気づいたのである。男だけの世界に女がやってきて、男たちの世界の秩序が崩壊する……それは西部開拓のフロンティアに頻繁に見られた風景だったからである」と述べます。
アメリカ開拓の最前線には、当然のことながら、女性の数が少なかったです。場所によっては数百の男に対して女性が1人というような比率の集団も存在したと指摘し、著者は「それがアメリカにおける『レディ・ファースト』という女性尊重のマナーの起源であるということを私はこれまでに何度か聞かされたことがある。女性尊重のマナーは男女比率の圧倒的な差から説明される。それと同じく、女性嫌悪もこの統計的事実から証明されるのではないかと私は考えるのである」と述べます。また、「フロンティアの男たちのほとんどは生涯に娼婦以外の女を知らずに死んだ。例えば、ワイアット・アープは19世紀終わりから20世紀にかけてを西部で過ごした。彼の時代にはすでにフロンティアは消滅していたし、アープ兄弟は世俗的な基準からすれば成功者であったが、それでもアープ兄弟は3人とも娼婦を妻にするしかなかった」とも述べています。
今から100年ほど前まで、アメリカ西部においては、「1人の女性の性的リソースを1人の男性が永続的かつ独占的に使用する」ということは非常に実現が困難なことだったのです。それは実に貴重な「財」だったのです。著者は、「女性が希少な『財』であったからこそ、開拓時代の夫婦関係は、ずいぶんと非情緒的なものであった。別にこれはアメリカに限ったことではない。ヨーロッパでも、ごく最近まで、夫婦関係は特別に情緒的な結びつきを要さなかった。エリザベート・バダンテールによれば、19世紀フランスにおいても『家の中にまだ生あたたかい遺骸があるうちから、妻を失った夫も、夫を失った妻も、すでに再婚のことを考えていた』のである。その点では『シルバラード』のロザンナ・アークエットの若妻が、『生あたたかい』夫の遺骸の横で、さっそく再婚相手の物色を始めるのは、ナチュラルな対応だったのである」と述べます。
100年前のアメリカ西部で「女に選ばれなかった」ということは、重大なことでした。「選択に洩れる」ということは、それまでの開拓者として孜孜としてその獲得につとめてきた人間的価値に疑問符が付されたということを意味するからです。著者は、「これは深い傷を開拓者たちに与えたはずである。このトラウマを癒さなければ、西部開拓をドライブしているエートスそのものが破綻する危険がある。そこで人々はある物語を創り出す必要に迫られたのである。物語はそれほど複雑な作りものである必要はない。それは次のような物語である。『女は必ず男の選択を誤って「間違った男」を選ぶ』『それゆえ女は必ず不幸になる』『女のために仲間を裏切るべきではない』『男は男同士でいるのがいちばん幸福だ』」と述べています。
このような定型的な説話原型をストーリーボードに書くと、「男たちの集団に1人の女が現れる。彼女は男を『選ぶ』権利を与えられている。男たちは彼女をめぐって競合する。最終的に1人の男が彼女を獲得する。だが、その男は、彼女を棄てて、男たちのもとに戻ってくる。女は不幸になり、男たちの共同体は原初の秩序を回復する。終わり」という映画が出来上がります。これが「アメリカン・ミソジニー物語」の定型であり、この定型をハリウッド映画は実に執拗に、強迫的に反復し続けてきたというのです。これを読んで、わたしは一条真也の映画館「パワー・オブ・ザ・ドッグ」で紹介した2022年のネットフリックス映画を連想しました。第94回アカデミー賞で最多最多11部門12ノミネートを果たした最新作にまで「アメリカン・ミソジニー物語」の定型が生き続けているとは!
さらに、著者は「この『女性を獲得する、間違った男』の肖像はこうしてアメリカ男性にとってアンビバレントな『理想我』、あるいは『自我のダークサイド』として人格の中に構造的にビルトインされてゆく。そして、その結果『女を首尾良く手に入れた男』は、自分の設定したルールに縛られて、やがて『女を棄てること』は自分の不可避の義務であると感じるようになるのである。ハリウッド映画は、こうしてまったく定型的な物語を、『カサブランカ』(Casablanca,1943)から『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid,1969)を経て『バンディッツ』(Bandits,2001)に至るまで、飽きることなく語り続けている」と述べています。
「選ばれなかった男たち」の精神外傷は誰かが癒さなければなりません。1人ひとりにとっては苦笑とともに回想されるようなエピソードであっても、それが数万、数十万と蓄積されれば、ある種の「怨霊」となるとして、著者は「『最後まで女に選ばれなかった男たち』の怨念を『鎮魂』するという『喪の儀礼』は誰かが執り行わなければならない。人類学が教えるように、死者を安らかに眠らせるというのは生者の重大な仕事である。死者が『それを聞くと心安らぐような弔いのための物語』を語り継ぐことは、死者が蘇って、生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的コストなのである。別に私は鎮魂の儀礼をしないと幽霊が出てくるというオカルト話をしているのではない。そうではなくて、『憾みを残して死んだ者』を弔うことを怠ると生者に災いが降りかかるということについては、旧石器時代以来、世界中のすべての社会集団が合意に達しているという人類学的事実を述べているにすぎない。私は『幽霊が化けて出る』と言っているのではない。『幽霊が化けて出る』という信憑を持たない社会集団は存在しないという事実を申し上げているのである。このあたりは、拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)のメッセージに通じるものがあります。
「憾みを残して死んだ者」を弔うことを怠ると生者に災いが降りかかるという人類の普遍的信仰は、もちろん現代アメリカ社会もその例外ではありません。著者は、「フロンティアの死者たちはアメリカにとって建国の礎を築いた人々であり、そのエートスを『フロンティア・スピリット』として聖別することに、アメリカは共同体神話のかなりの賭金を置いてきた。であれば、彼らにはいかなる代価を払っても、安らかに眠ってもらわなければならない」と述べます。「Rest in peace」というわけですが、その祈りの1つがアメリカ文化に横溢する「女性嫌悪の物語」なのだと考える著者は、「女なんてろくなものじゃない」という言葉こそ、生涯ついに女に選ばれることなく死んだ無数の開拓者の墓に向かって、アメリカ人たちがその身を切り裂くようにして語り続けている「弔辞」なのであるといいます。このくだりは非常にスリリングで、この上なく面白かったです。
「あとがき」で、著者は、本書を書いたきっかけの1つは、大学のAVライブラリーから無声映画のLDをまとめて借り出したことだと述べています。そこでハリウッド以前のアメリカ映画では「女性活劇シリーズ」が大ヒットしていたことを知ったそうです。フロンティア消滅と同時に職を失ったカウボーイたちがハリウッド西部劇に大量にエキストラとして参入するようになったことも知りました。著者は、「同じ頃、ジュディス・フェッタリーの『抵抗する読者』という本を読み、『私を野球につれてって』がDVD化したので見て、白川静の詩歌呪鎮論を読んで……というふうにいくつかのことが重なって、どうしてアメリカ男性はアメリカ女性をあれほど嫌うのか、その理由がふと腑に落ちたのである」と述べます。
「文庫版のためのあとがき」の最後に、著者は「映画に限らず、あらゆる批評の要諦は、『批評を読み終わったあとに、猛然と実物が見たく(読みたく)なる』ということだと僕は信じています。この本を読んだみなさんが、本書の中に言及されている『まだ見てない映画』が見たくてたまらなくなり、TSUTAYAに走り、あるいはamazonでの『大人買い』衝動に駆られるといった事態になることを心より祈念しております」と書いていますが、わたしもまったく同じ気持ちで拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)を書いたことを告白しておきます。本書『映画の構造分析』が世に出てからかなりの時間が経過していますが、その内容はまったく古くなっていませんし、アメリカの文化の根底に「女性嫌悪」の思想があるという事実には、心の底から戦慄をおぼえました。